ロシアのウクライナ侵攻によって、殺害の他に、強姦、暴行の事実も報道されるが、戦場において洋の東西を問わず、生虐待が頻発することは知られている。ただ、被害者が公害するのは滅多になかったため、日本から満蒙開拓団としてついて行った女性たちはソ連兵からの性虐待が横行、しかし、公には知られないで来ていたのだった。
日ソ不可侵条約が結ばれていたが、戦後の混乱期に乗じて、ソ連軍によって強制連行された日本の将兵らは、約60万人。強制労働を課され、1割近い6万人以上が栄養失調や重労働により、極寒の地で死亡した。その他に、満蒙開拓団の総数は約27万人おり、多くがソ満国境に近い辺地にいた上、情報伝達も遅れたためソ連軍や匪賊に襲われた。伝染病や集団自決などを含め約8万人が亡くなった。
ソ連侵攻後、把握されているだけでも満州では48開拓団が集団自決している。ソ連兵からの強姦などは各地で行われていた。『検証:シベリア抑留』第47頁は第47頁では(時事通信社 1991)次の記述がある。一方で、団員数650名中450名が日本に帰還しており、驚くべき生還率であった。戦後70年も経過して、黒川開拓団「乙女の碑」の碑のような性被害の実態が、ようやく追記されるケースがあったが、性接待のために女性を差し出す事例は極めてまれであった。黒川開拓団においても接待に出された4人が性病で命を落とした。告発する女性がいるのが例外で、性虐待にあっても女性が声を上げることはなかった。
https://ameblo.jp/yutaka-aiten/image-11915242183-13046599948.html
下記は、Wikipedia に『ソ連兵へ差し出された娘たち』『告白』などから、黒川開拓団の概略されていた。
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「乙女の碑」は、岐阜県白川町の佐久良太神社境内にある満州国における黒川開拓団の慰霊碑の一つ。1982年に建立された。当初乙女に関する説明文は無く、戦後70年以上詳細は秘密にされていたが、2013年ごろから当時ソ連兵からの性暴力を受けていた女性たちが性接待に関して証言し、碑の事実が明るみに出た[1]。2018年(平成30年)には説明文が追加された[2]。
長期にわたって証言しなかった被害者らが、2010年代になって証言を公にし出したのは、自らの死を意識し始めたため教訓としておきたいと考えたことが一因である、とする説が公表されている[4]。被害者の1人は「こういった歴史があったことを、生きている者が伝えないといけない。碑文ができて、後悔することはない」と発言している。
被害者の一人が2013年に満蒙開拓平和記念館で証言した。2016年にノンフィクション作家の平井美帆が、生存者3名の証言を含むルポを発表して全国に知られることとなった。(「忘れたいあの陵辱の日々 忘れさせない乙女たちの哀咽」(光文社『女性自身』、 2016年10月4日、pp.62 〜 68)。翌年から徐々にテレビなども取り上げるようになり、2017年8月にはNHKの「満蒙開拓団の女たち」(第54回シカゴ国際テレビ賞)、山口放送「記憶の澱」(第13回日本放送文化大賞 テレビ・グランプリ作品)などが作成された[4]。2018年8月15日には朝日新聞が証言を報じた[7]。NHKの「満蒙開拓団の女たち」は、かもがわ出版から「告白~岐阜・黒川 満蒙開拓団73年の記録」として出版された。黒川開拓団の悲劇を掘り起こした平井美帆による『ソ連兵へ差し出された娘たち』(集英社、2022)は、第19回開高健ノンフィクション賞を受賞した(選考時副題:証言・満州黒川開拓団)。
何も知らされないまま接待所に連れていかれた当時17歳女性は、接待と聞いて、酒宴などの接待だと思っていた。しかし部屋には布団が並べられており、女性たちは全裸になり並んで寝かされ強姦された。銃口で女性を動かし、銃を背負ったまま強姦されたと証言した。17歳や18歳の少女は「お母さんお母さん」と泣くだけで手をつなぎながら耐えていたと証言した。一時期は中国兵を相手にすることもあった[7]。
ところが彼女たちの犠牲があって、黒川開拓団が日本へ帰還できたにもかかわらず、戦後身内の団員の男性たちから受けた中傷にも女性たちは苦しめられた。接待に出てくれと頼んだ男性から「いいことしたでいいじゃないか」「(性交したところで)減るもんじゃない」「(嫁の)もらい手は無い」「傷者」と中傷されたと証言している[1][3]。遺族会の間でも性接待に関する話題は避けられていたが、事実を知る男性団員などから、団員を守ったはずの女性たちが帰国後噂を立てられ中傷を受けるなどし、女性たちは事実を隠し口を固く閉ざすようになっていった[3]。胸の内を吐露できず、あの痛ましい気持ちをノートに書き込んだ被害者、また中傷を受けた女性のうちの一人は村を離れ結婚し、荒野だったひるがの高原の開拓を手伝うこととなった[1][4]。
黒川開拓団
満蒙開拓団として旧黒川村(現在の白川町)の29人の住民は1941年(昭和16年)4月吉林省陶頼昭に入植した。その翌年4月から毎年3回入植が行われ、129世帯以上600人以上が入植した[3]。陶頼昭駅にほど近い場所に本部を置いた[3]。
開拓団の引揚
1945年(昭和20年)8月15日の太平洋戦争敗戦と共に暴徒化した中国人が押し寄せており、中国人やソ連兵からの虐殺や略奪・強姦の危険が迫っていた[3]。黒川開拓団に隣接していた来民開拓団(熊本県)と高田開拓団(広島県)は、襲撃に耐えかねて既に集団自決し全滅していた。黒川開拓団でも服毒する自決の選択に迫られていた[4]。
ここで団の幹部は、駅に駐留していたザバイカル軍第36軍のソ連兵に開拓団を守ってもらうという奇策を用い、生きて日本に帰還することを選んだ。その際に代償として、数えで18歳以上の[5]12〜15名の未婚女性がソ連軍の性接待係として差し出された(証言を参照)[3]。女性らに拒否権はなく、団幹部に強制された性暴力であったと認識されている[4]。
接待所は開拓団内と吉林省の陶頼昭駅の2か所にあり、接待は満州国での極寒期を経て約9か月間続いた[4]。しかし、当然避妊せず毎日複数人から強姦されていたため性病や発疹チフスで4名が現地で死亡しているほか、帰国後長期入院を余儀なくされた女性もいた[1]。博多港に引き上げた後、満州で強姦された女性が多く診察を受けた二日市保養所などで、中絶などの処置を受けた女性もいるとされている[4]。
接待所に設けられたベニヤ板張りの部屋に毎日数名の女性が呼ばれ、女性1人当たり4人の将校を相手に性交させられていた[1]。部屋の外には医務室が置かれ、洗浄係(接待を受けた女性の妹など)がソ連将校所持のうがい薬をホースで性器から子宮に入れて性病を防いでいた[1]。また、女性たちのために風呂を用意していた[1]。
碑の建立
1982年に遺族会は佐久良太神社内に碑を建立したが、『性接待』のことには触れず、乙女の碑の内容は伏せられていた[4]。
記念誌には下書き段階で性接待の内容を記していたが、最終的に「満洲国で亡くなった女性たちの碑」程度に留められていた。なお乙女の碑そのものに対し、否定的なコメントを残した被害女性もおり、必ずしも全員の意思によって建立されたものではなかった[6]。
2012年に黒川開拓団遺族会の会長となった男性(父はソ連兵に女性を案内する役割であった)は、初めて『性接待』の事実を知り、タブーとなっていた事実を碑文に残すために尽力した[1]。遺族会が被害女性らの理解を得て、2018年11月18日に新たな碑文が完成し、除幕式が行われた[2]。
証言
戦後70年近く『性接待』は実の子供にも秘密にされていたが、2013年に初めて接待を強いられた女性(当時89歳)が証言し公になった[1]。戦後70年が経ち、被害女性も80代や90代になっており、最初に証言した女性も2年後に死去した[1]。その後、他の被害女性たちも体験を証言するようになった。
関連書籍
『告白』 川 恵実、NHK ETV特集取材班、田中佳奈、かもがわ出版 2020年3月、ISBN 978-4780310474
『ソ連兵へ差し出された娘たち』 平井美帆、集英社 2022年1月、ISBN 978-4087890150