2022年度の最低賃金の目安が、全国平均で時給961円に決まったという。上げ幅は過去最大の31円(伸び率は3.3%)だったということもあって、毎年恒例の「アンチ賃上げ」の声はいつにも増して激しくなっている。
「物価高騰でたださえ苦しいところを強制的に賃上げするようにしたら倒産や失業が増えて経済が悪化する」
「最低賃金を引き上げても恩恵があるのは一部の人なので、それよりも消費税をゼロにすべき」
ただ、これは世界の経済の常識と照らし合わせると、かなりぶっ飛んだ主張だと言わざるをえない。
世界では国や自治体が「経済政策」として最低賃金を引き上げていくのが一般的だ。物価が上がっているのに賃金据え置きでは、消費は冷え込んで経済も成長しない。今、韓国に名目GDPが抜かれるのは27年という予測だが、この勢いならばもしかしたら、もうちょっと前倒しになるかもしれない。
このように「賃上げこそが最強の経済政策」という考え方がメジャーなので、日本よりもはるかに高い消費税の国であっても、継続的な賃上げを実現することで経済が成長しているのだ。
もちろん、国にはその国ならではの事情もあるので、なんでもかんでも世界に合わせなくてはいけないというものでもない。「成長を目指して格差が広がるより、みんなで等しく貧しくなっていく方がいい」ということならば、ひとつの道だ。ただ、そういう道を選ぶのならば、「周囲の国からどんどん追い抜かされて貧しくなる」ということも受け入れなくてはいけない。「他の国のように最低賃金は引き上げないが、他の国と同じように経済成長はしたい」なんてムシのいい話は通用しないからだ。
韓国は最低賃金を継続的に引き上げている国のひとつだ。この30年、日本の賃金はほぼ横ばいだというのは有名な話だが、韓国の労働者の賃金は約2倍になっている。この取り組みは今も続いていて、今年6月30日に「韓国の2023年の最低賃金が22年比5.0%増の9620ウォン(約1010円、時給ベース)に決まった。伸び率は前年水準を維持し、10年前と比べて98%増となった。韓国の最低賃金は全国一律で、円換算では東京都(1041円)や大阪府(992円)など日本の大都市圏水準となる」(日本経済新聞6月30日)
その時点の為替で異なるため、一時的ではあるが、日本政府が掲げる「最低賃金1000円」を先に韓国が達成してしまっていたのだ。ちなみに現在(8月3日)のレートでも9620ウォンは981円で日本の全国平均目安の961円よりも高くなっている。
日本では「31円なんて上げすぎだ!」「961円なんて払えるわけがない!」と大騒ぎなっているが、韓国では毎年5%程度という日本を上回る勢いで、最低賃金の引き上げという「経済政策」を粛々と進めていたというわけだ。やるべきことをやっているので当然、「やるべきことをやっていない国」を追い抜かしていく。
ちょっと前も日本の「1人当たりのGDP(国内総生産)」と「労働生産性」が韓国に追い抜かれてしまったということが大きな話題になった。野口悠紀雄一橋大学名誉教授も『韓国に1人当たりGDPや労働生産性で追い抜かれた日本の行く末』の中で詳しく解説している。
この勢いは今後も続くものとみられており、日本経済研究センターの予測では、日本の個人の豊さを示す「1人あたり名目GDP 」は、27年に韓国に抜かれて、28年には台湾にも抜かれる見込みだ。
これはデジタル化が進んでいるとか、生産性が向上しているからだとか「ふわっ」とした話で説明されているが、実は最低賃金の引き上げという「経済政策」を続けていることも大きい。
かなり以前から「先進国の中で日本の労働生産性が低い」という国際比較データが問題視されている。しかし、そのたびに「こんなデータは信用できない」「日本の生産性の高さは数値化できない」という声が大きくなる。「客観的なデータ」から頑なに耳をふさいで最終的には、「日本には日本のやり方がある」と世界の常識とかけ離れたぶっ飛んだ主張を押し通す人が、政治や経済の世界にたくさんいらっしゃる。つまり、韓国や台湾など他国の「経済政策」を素直に評価できない。厳しい言い方をすれば、ナショナリズムが目を曇らせているのだ。
実際、先ほどの韓国が最低賃金の継続的な引き上げで「結果」を出しているというデータに関しても、「フェイク」であると言わんばかりのネガティブな反応をする。それをまとめると、こんな感じだ。
・韓国では最低賃金を引き上げて若年層の失業者が大量に出て社会が大混乱に陥っている
・1人あたりGDPや労働生産性という数字は追い抜かれたが、生活水準や社会の豊かさでは日本の方がマシ
・日韓通貨スワップ(円とウォンの一定額を、あらかじめ決定した為替レートで通貨交換する協定)の再開を求めているのがその証拠で、韓国経済は日本が助けないとボロボロだ
このあたりの言説は、今回の最低賃金の引き上げ議論の中でもちょこちょこ出てきているので、ご覧になった方も多いだろう。ただ、これはかなり「盛った話」である。
確かに文在寅前政権が最低賃金を引き上げたことで、人件費アップを嫌った中小企業が人を解雇し、瞬間風速的に失業者が増えたのは事実。だが、失業した人は死ぬまで仕事がないわけではなく、すぐに新しい仕事を見つける。途上国ならいざ知らず、日本や韓国のようにある程度の規模まで成熟した社会ならばなおさらだ。実際、OECD(経済協力開発機構)のデータでは、2020年の韓国の失業率は3.9%で、OECD加盟38カ国中6番目に低い。日本の失業率は2.8%で2番目に低いので、確かに日本社会を基準にしたら「阿鼻叫喚の失業地獄」と言ってもいいかもしれないが、世界では韓国以上に若者が職につけない国など山ほどある。
経済にとって大切なのは、「失業ゼロ」ではなく、失業をしてもすぐに新しい仕事を見つけて働けるという「新陳代謝」なのだ。最低賃金引き上げでどうなった?
また、「韓国は最低賃金を急激に引き上げたせいで、若者が就職できずにワーキングプアのようになっている」という話もよく言われるが、これもマユツバだ。確かに、そういう若者がたくさんいるのも事実だが、最低賃金引き上げはあまり関係ない。これは日本と同じく「雇用のミスマッチ」という構造的な問題も大きいからだ。
ジェトロ(日本貿易振興機構)の「韓国の雇用問題、文在寅政権での改善は限定的」(22年4月28日)の中には、若者の就職がなぜ難しいのかということを以下のように説明している。
<その大きな理由は、求人する企業側と求職する学生側のニーズにギャップが生じる「雇用のミスマッチ」だ。韓国では、大企業や公的機関のホワイトカラーに求人需要を上回る求職希望者が殺到する半面、中小・零細企業や「3K」職種は求職希望者が集まらず、慢性的な人手不足になっている>
これは日本にもあてはまる。
多くの学生が「就職先がない、もう生きていても仕方がない」と希望を失う一方で、「働き手が全く集まらない、外国人に頼るしかない」という業界が山ほどある。それなりに豊かな国になると、どうしても若者は自分の意志で職業を選ぶので雇用市場にミスマッチが生まれる。それが韓国の場合、極端な学歴社会や財閥支配などで、日本以上にゆがんだ状態になっている。
こういう構造的な話を、「韓国は最低賃金を引き上げたら失業者が大量にあふれ返りました」と主張する人々はスルーする。そして、大卒の若者が就職できていないとか、首にされて貧しい人々など「極端な事例」だけをピックアップして、「最低賃金引き上げって怖いでしょ」と日本人を脅す材料に使っている。
この問題をさらにややこしくしているのは、いわゆる「積極財政派」の方たちもこのストーリーに便乗していることだ。最低賃金の引き上げなどという「非常識なこと」をしたことで、韓国が貧しくなっているということになれば、日本としてはその逆をすべきだというストーリーが補強される。
つまり、最低賃金は触らずに、とにかく政府がバラマキをすれば、景気もよくなって、企業の業績も上がって、自発的に賃上げをしてめでたし、めでたし…というストーリーに信憑性が増すのだ。ただ、残念ながら歴史を振り返っても、労働組合や株主などの外圧を受けない中小企業が自分から進んで賃上げをした例などほとんどない。しかも、日本政府はこの30年、1000兆円の負債を増やしているが、景気も賃金も反応していない。今回の最低賃金も「31円アップ」ということだが、おそらく中小企業の賃上げ分を税金で支えてやれという話になるだろう。生活保護のようにただ「存続」していくためだけに税金が大量に使われる。ということは、中小企業の成長はまったく促されないことなので、「経済政策」として機能しない。つまり、日本経済的には何も変わらず現状維持ということだ。
(ノンフィクションライター 窪田順生)つづき