防災の日の今日、岸田首相は南海トラフ地震を想定した訓練を行った。また、このところの記者会見では、自民党議員の旧統一教会との癒着があった点などの反省、及び故安倍首相の国葬準備への理解を得るように進めると話した。
30日に91歳で死去したミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領は、帝政ロシア、ソ連の最高指導者につきまとう冷酷なイメージを覆す笑顔と柔軟性を武器に、硬直化したソ連の内外政策を転換した。 ゴルバチョフ氏の政敵で新生ロシアのエリツィン初代大統領が2007年に死去した際には国葬が営まれた。タス通信によると、ロシアの大統領報道官は8月31日、ゴルバチョフ氏の国葬を執り行うかどうかについては「まだ決まっていない」と述べた。国葬が行われた場合のプーチン大統領の参列についても未定という。
第2次大戦後、半世紀近くに及んだ東西冷戦を終結に導いた。
ゴルバチョフ氏は国際的に称賛を浴びる一方、1991年に超大国だったソ連を崩壊させた張本人として、後継国家ロシアでの評価は低い。
ゴルバチョフ氏は85年3月、54歳でソ連の最高指導者ポストだった共産党書記長に就任した。ソ連は当時、アフガニスタンへ侵攻中で、ソ連を「悪の帝国」と非難した米国と軍拡競争を繰り広げていた。ゴルバチョフ氏の書記長就任時、国家予算の約40%を軍事費に充てていたとの指摘もある。内外政策の転換に踏み切った背景には、ソ連の経済と社会の疲弊が深刻で改革が急務だったことがある。
米欧との和解にかじを切った「新思考外交」では、85年にレーガン米大統領(当時)とスイス・ジュネーブで初会談に臨み、核軍縮に道筋をつけた。89年11月に「ベルリンの壁」が崩壊し、翌12月には米ソ首脳による冷戦の終結宣言、90年の東西ドイツ統一の実現にも貢献した。この年、ノーベル平和賞を受賞した。
国外では「ゴルビー」との愛称が定着し、政界引退後の2000年代にはフランスの高級ブランドの広告に登場したこともある。
ソ連構成国だったウクライナで86年に発生したチョルノービリ(チェルノブイリ)原子力発電所の爆発事故では、事故を隠して被害が拡大したことを批判され、「グラスノスチ(情報公開)」を加速させた。言論の自由拡大や民主化の推進は、ソ連崩壊後のロシアで民主化や人権運動の機運が醸成される種をまいた。ゴルバチョフ氏が共産党の再建を目指し、86年に掲げた「ペレストロイカ(改革)」は日本でも流行語になった。「グラスノスチ(情報公開)」政策でソ連の政治、経済の改革を断行した。共産党の一党独裁を放棄し、90年に大統領制も導入した。米国と軍縮合意を結んだほか、第2次世界大戦後に欧州を分断していた「鉄のカーテン」を開いて東西ドイツ統合を実現するため、西側とのパートナーシップを構築。
ゴルバチョフ氏自身は91年12月のソ連崩壊と同時に失脚し、政治的影響力が回復することはなかった。露国営テレビは8月31日、経済学者の見方として、「(ゴルバチョフ氏が)何もしなくてもソ連は10〜15年は存続できた」と報じた。プーチン大統領もソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」と評している。
出典:読売新聞(9/1)つづき