我孫子の隣町・茨城県利根町に伝わる江戸の昔話には、「延宝の鶴殺し事件」に由来する念仏院という寺があった場所に建つ泪塚(墓)に因縁がある。塚は布川城主・豊島氏の家臣・香取源右門が同僚の鈴木一族との縁で千日供養に建てたもので、戦国期からの縁の深さがうかがえる。源右門の銘の周りには時期に彼岸花が咲き、無念の死者の魂を慰めている。
事件は、延宝5年(1677、徳川家綱の時代)、布川地区の隣の押付村の鈴木太郎左衛門をはじめ一族3家族10人が幕府の鳥見役人(大名の鷹狩りのために住民の鳥捕獲を見回る)に捕らえられ処刑された事件だった。郷土史に詳しい芦原修二さんによれば、発端は二つだとされる。
一つは太郎左衛門の娘・ゆきに結婚を迫った役人が、断られた腹いせに幕府により禁止されていた鶴捕獲の濡れ衣を着せた冤罪事件であったこと。もう一つは処刑された鈴木佐左衛門の妻・いとが労咳(肺結核)にかかり、鶴を食べさせれば回復すると村の住民が協力して食した事で同罪の死刑になったというもの。
さらに、与力や同心が鈴木忠兵衛宅に夜中踏み込んだため、ゆきの祖母が慌てて小豆を抱えたまま逃げて、追っ手に捕まり絶命した、その後、同地ではいくら煮ても硬い石小豆しか取れなくなったという話も残っている事。村人は、何も言えずに泪を溜めて見守るしかなかった。
現代は、犬が嚙みついた、クマが襲ってきたと人身を守る法だが、幕府の法律とは治世者を第一義に重んじ、庶民の命が裁かれたという事だ。それより以前の幕府も成立していない律令制の平安の世、将門の生きた時代は、関東の村人は東戎(アズマエビス)と蔑称されて命も土地も認めらえていなかった、そういう下々に代わって闘いを挑んで、落命したことを主を憐れんで拝み、語り継いでいたことが、鎮守社に残っているのだ。
資料提供:利根町民俗資料館