これは、触れずにはおけない、日本人でなくても、野球ファンでなくても、来月5日に28歳の二刀流挑戦の快進撃は一目に値する。
・・・・・・・・・・・・・・・・
米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平投手は29日(日本時間30日)、本拠地ホワイトソックス戦に「3番・投手兼DH」で先発出場。6回途中5安打無失点、11奪三振の力投で7勝目をマークした。6月はこれで4勝目。抑えられた相手の名将、トニー・ラルーサ監督は「彼は本物だよ」と試合後に大谷を称えている。
気合の108球でホワイトソックス打線から11の三振を奪い、今季7勝目を記録した大谷。4回には今季最速タイの101マイル(約162.5キロ)をマークしたほか、スライダーやスプリットも投げ分けた。球数を要して6回途中で降板したものの、これで今シーズン100奪三振に到達した。
試合後、AP通信のグレッグ・ビーチャム記者は、MLB最年長監督のホワイトソックス、ラルーサ監督のコメントをツイッターで伝えている。両リーグで通算4度の最優秀監督に選出されている77歳は「彼は複数の武器を持っている。彼は本物だよ」と語ったという。
ビーチャム記者は投稿文で続けて「ラルーサはチームが、特に4回のチャンスを生かせなかったことに落胆したものの、オオタニの窮地を脱する力を称賛した」としており、4回満塁のピンチを凌いだことにも注目していたようだ。
THE ANSWER編集部
・・・・・・・・・・・・・
昨年オールスター戦出場では、大谷がDH部門のファン投票と投手部門の選手間投票で選出され、史上初めて投打同時に球宴メンバー入り。ホームラン競争に出場した他、「1番・投手兼DH」で出場して勝利投手となった。日本野手ではイチロー(10回)、松井秀喜(2回)が複数回選出された。大谷が選出されれば、昨年に続いて2年連続となる。決選投票は8日(同9日)まで行われ、両軍のスタメンが決まる。投手と控え野手は選手間投票などで選ばれ、全出場選手は10日(同11日)に出そろう。
2022年06月30日
2022年06月29日
絶賛「彼らのようには誰もできない !」
東北は、雪深い田舎だったから、ばあちゃん、じいちゃんは冬の野良に出られない期間に、囲炉裏端で昔語りをしたという、そして黙って聞いて、物悲しくも人と自然との条理、不条理を受け入れて、黙って頑張ってきたし、高度成長期には金の卵と呼ばれて集団就職してくる義務教育をえたばかりの15才になった若者が多数上野駅に到着して、郷里に仕送りする為に真面目に働いた、という。大物政治家、文化人も多く輩出したし、しかし、このところは冬、夏のスポーツで世界に大注目されている「誰もできない」でいたことを適えている東北出身者が二人もいる。
一人は、エンゼルス大谷翔平選手でメジャー5年目のMLBの試合はNHK-BSで生中継されるようになって、世界同時に感激が度重なる。今季、投手として12登板で6勝4敗、防御率2.90。68回1/3を投げて90三振を奪っている。打者としては打率.298、6本塁打、17打点。二塁打6本、三塁打1本でOPSは.972に達する。こちらも9日(同10日)以降に限定すれば打率.355、OPSは1.189となる。
○6月9日(同10日)、本拠地レッドソックス戦「14連敗ストップ」
大型連敗を止めたヒーローになった。「2番・投手兼DH」で先発出場した試合、大谷は打っては1点を追う5回1死一塁に逆転12号2ラン。投げても101マイル(約162.5キロ)を計測するなど剛速球を連発し、7回4安打1失点4勝目を挙げた。ジョー・マドン監督の解任につながった連敗を14でストップ。ついにエンゼルスに光をもたらす、リアル二刀流の活躍となった。9日(同10日)のレッドソックス戦から21イニング無失点を続けており、今季5度目の2桁奪三振で今季100奪三振にも到着した。ファンからは「彼は別世界にいる」「球界で最高の投手と球界最高の打者が同一人物だなんてことが起こり得るのか」「オオタニは世界最高のアスリート」という称賛の声があがった。
○6月16日(同17日)、敵地マリナーズ戦「敵地にまで増殖した二刀流ファン」
二刀流のファンは敵地にまで増殖している。この日も「3番・投手兼DH」のリアル二刀流で出場した大谷。6回5安打無失点の好投で今季5勝目を挙げたが、同地区ライバルの本拠地にもかかわらず、試合前に意外なシーンがあった。ブルペンでウォーミングアップする背番号17。すぐ近くの観客席には、大谷を一目見ようとファンが詰めかけ、スマートフォンを構えて、すし詰め状態に。「大谷」と漢字で書かれた垂れ幕、マリナーズグッズを身に着けたファンの姿もあった。エンゼルスの地元地元局「バリー・スポーツ・ウェスト」で解説を務めるボビー・バレンタイン氏も、試合前の番組で「彼は準備万端ですね」と注目。同局は公式ツイッターで「敵地でなかなかのショーだ」と紹介しており、日本人ファンからも「人口密度が 見てるだけなのにこっちが緊張しちゃう(笑)」との反響が寄せられていた。現代野球で投手・野手の両方で活躍する日本人の注目度はうなぎのぼりのようだ。
投打二刀流の活躍で6月の月間MVP有力候補に挙がっている大谷。7月には19日(同20日)にオールスターゲームが行われ、先発出場野手を決める第1次ファン投票のア・リーグ指名打者2位(166万4012票)で最終投票進出を決めた。今月もさらなる活躍に期待が集まる。
〇エンジェルス球団は29日(日本時間30日)のホワイトソックス戦の試合中、公式ツイッターで9日(同10日)のレッドソックス戦以降の驚愕の数字を紹介。
その投球について、大谷を“溺愛する”アナリストとして知られるベン・バーランダー氏と、「ピッチング・ニンジャ」の愛称で知られる投球分析家ロブ・フリードマン氏がポッドキャスト番組で考察。フリードマン氏は、投手に専念すれば「サイ・ヤング賞を複数回受賞する」などと改めて絶賛している。2人はバーランダー氏が司会を務めるポッドキャスト番組「フリッピン・バッツ・ポッドキャスト」でオンライン対談。フリードマン氏は、NPBでプレーしていた頃から大谷を追い続けているといい、「打者オオタニよりも投手オオタニの方が良いと思います」と語った。その理由として100マイル(約160.9キロ)以上を計測する速球に加え、「打つのが不可能」なスプリットや、「球界最大級」の曲がり幅を誇るスライダーなどを持っていることを挙げ、「彼はほとんど何でもできる。ファンタスティック」と賛辞を並べた。
その他にも、球界最高の投手の一人としてよく名前が挙がるのが2018&19年にサイ・ヤング賞を受賞したメッツのジェイコブ・デグロム。MLB通算213勝&154セーブをマークして殿堂入りを果てしているジョン・スモルツ氏は最近、大谷が投手に専念すれば「デグロムになるだろう」と語り、話題を呼んだ。フリードマン氏は「オオタニは、デグロムとは違うタイプだと思います」とした上で、投手に専念した場合は「ものすごく支配的になるでしょう。サイ・ヤング賞に複数回輝くのは間違いないと思っています」と述べた。
“投手・大谷賛歌”はまだ続いた。フリードマン氏は「彼はメジャーのほぼ全ての投手が嫉妬する武器を持っています。彼のように投げることは誰もできません」とも。投手としての能力も“別格”であることを強調していた。
(参照:THE ANSWER編集部、Full-Count編集部)
つづき
一人は、エンゼルス大谷翔平選手でメジャー5年目のMLBの試合はNHK-BSで生中継されるようになって、世界同時に感激が度重なる。今季、投手として12登板で6勝4敗、防御率2.90。68回1/3を投げて90三振を奪っている。打者としては打率.298、6本塁打、17打点。二塁打6本、三塁打1本でOPSは.972に達する。こちらも9日(同10日)以降に限定すれば打率.355、OPSは1.189となる。
○6月9日(同10日)、本拠地レッドソックス戦「14連敗ストップ」
大型連敗を止めたヒーローになった。「2番・投手兼DH」で先発出場した試合、大谷は打っては1点を追う5回1死一塁に逆転12号2ラン。投げても101マイル(約162.5キロ)を計測するなど剛速球を連発し、7回4安打1失点4勝目を挙げた。ジョー・マドン監督の解任につながった連敗を14でストップ。ついにエンゼルスに光をもたらす、リアル二刀流の活躍となった。9日(同10日)のレッドソックス戦から21イニング無失点を続けており、今季5度目の2桁奪三振で今季100奪三振にも到着した。ファンからは「彼は別世界にいる」「球界で最高の投手と球界最高の打者が同一人物だなんてことが起こり得るのか」「オオタニは世界最高のアスリート」という称賛の声があがった。
○6月16日(同17日)、敵地マリナーズ戦「敵地にまで増殖した二刀流ファン」
二刀流のファンは敵地にまで増殖している。この日も「3番・投手兼DH」のリアル二刀流で出場した大谷。6回5安打無失点の好投で今季5勝目を挙げたが、同地区ライバルの本拠地にもかかわらず、試合前に意外なシーンがあった。ブルペンでウォーミングアップする背番号17。すぐ近くの観客席には、大谷を一目見ようとファンが詰めかけ、スマートフォンを構えて、すし詰め状態に。「大谷」と漢字で書かれた垂れ幕、マリナーズグッズを身に着けたファンの姿もあった。エンゼルスの地元地元局「バリー・スポーツ・ウェスト」で解説を務めるボビー・バレンタイン氏も、試合前の番組で「彼は準備万端ですね」と注目。同局は公式ツイッターで「敵地でなかなかのショーだ」と紹介しており、日本人ファンからも「人口密度が 見てるだけなのにこっちが緊張しちゃう(笑)」との反響が寄せられていた。現代野球で投手・野手の両方で活躍する日本人の注目度はうなぎのぼりのようだ。
投打二刀流の活躍で6月の月間MVP有力候補に挙がっている大谷。7月には19日(同20日)にオールスターゲームが行われ、先発出場野手を決める第1次ファン投票のア・リーグ指名打者2位(166万4012票)で最終投票進出を決めた。今月もさらなる活躍に期待が集まる。
〇エンジェルス球団は29日(日本時間30日)のホワイトソックス戦の試合中、公式ツイッターで9日(同10日)のレッドソックス戦以降の驚愕の数字を紹介。
その投球について、大谷を“溺愛する”アナリストとして知られるベン・バーランダー氏と、「ピッチング・ニンジャ」の愛称で知られる投球分析家ロブ・フリードマン氏がポッドキャスト番組で考察。フリードマン氏は、投手に専念すれば「サイ・ヤング賞を複数回受賞する」などと改めて絶賛している。2人はバーランダー氏が司会を務めるポッドキャスト番組「フリッピン・バッツ・ポッドキャスト」でオンライン対談。フリードマン氏は、NPBでプレーしていた頃から大谷を追い続けているといい、「打者オオタニよりも投手オオタニの方が良いと思います」と語った。その理由として100マイル(約160.9キロ)以上を計測する速球に加え、「打つのが不可能」なスプリットや、「球界最大級」の曲がり幅を誇るスライダーなどを持っていることを挙げ、「彼はほとんど何でもできる。ファンタスティック」と賛辞を並べた。
その他にも、球界最高の投手の一人としてよく名前が挙がるのが2018&19年にサイ・ヤング賞を受賞したメッツのジェイコブ・デグロム。MLB通算213勝&154セーブをマークして殿堂入りを果てしているジョン・スモルツ氏は最近、大谷が投手に専念すれば「デグロムになるだろう」と語り、話題を呼んだ。フリードマン氏は「オオタニは、デグロムとは違うタイプだと思います」とした上で、投手に専念した場合は「ものすごく支配的になるでしょう。サイ・ヤング賞に複数回輝くのは間違いないと思っています」と述べた。
“投手・大谷賛歌”はまだ続いた。フリードマン氏は「彼はメジャーのほぼ全ての投手が嫉妬する武器を持っています。彼のように投げることは誰もできません」とも。投手としての能力も“別格”であることを強調していた。
(参照:THE ANSWER編集部、Full-Count編集部)
つづき
2022年06月28日
2022年06月27日
マスクの義務化の韓国、マスクお願いの日本
韓国では、5月後半になってから、地下鉄、バス、タクシーなどの交通機関を利用する際にもマスクの着用が義務化された。マスクをしていなければ、もちろん乗車拒否です。
梨泰院でのクラスターの事件以来、6月26日現在でもマスクの着用を義務化して徹底化しようという動きが強まっている。
薬局などを中心としてマスクを着用しないと、入店禁止というお店をみかけた。
だから、マスクがないと、普段通りの生活が出来ないというのが韓国の現状というわけです。
GW中の欧州などの外遊先で。岸田首相はずっとノーマスクだったので、報道をみた視聴者から「子どもだけでも外させてあげたい」などの指摘や「あなたが全国民に向けて『外そう』と言えばすぐにでも出来ることを、今、マスクを外そうというのは現実的ではないとは、どういうこと!?」「そもそもマスクは任意だし、着用はお願いだから、緩和ってどういうこと?」皮肉が相次いでいた。
梨泰院でのクラスターの事件以来、6月26日現在でもマスクの着用を義務化して徹底化しようという動きが強まっている。
薬局などを中心としてマスクを着用しないと、入店禁止というお店をみかけた。
だから、マスクがないと、普段通りの生活が出来ないというのが韓国の現状というわけです。
GW中の欧州などの外遊先で。岸田首相はずっとノーマスクだったので、報道をみた視聴者から「子どもだけでも外させてあげたい」などの指摘や「あなたが全国民に向けて『外そう』と言えばすぐにでも出来ることを、今、マスクを外そうというのは現実的ではないとは、どういうこと!?」「そもそもマスクは任意だし、着用はお願いだから、緩和ってどういうこと?」皮肉が相次いでいた。
2022年06月26日
「我孫子の将門さま」と「鎌倉殿への道」
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、26日に馬より落ちて落命して、今さらに鎌倉との縁を辿るまでの房総への逃避行が、鎌倉幕府を開く命運を分かつキッカケになっていたのに気づかされました。武家政権を確立するのは鎌倉であっても、房総へ命からがら落ち延びて、豪族たちに支援されて万の味方を得て、起死回生を図った場所だったと改めて、千葉の重要性を思いました。このところは、頼朝役の飄々とした演技が「大泉が悪い」とのワードがトレンド入りもして、憎めない奴と注目されてきたのも、面白い所です。
重要だと気づかなかっただけで、我孫子も「鎌倉殿」にも関係していた下総国の一角でした。古代、中世の房総半島の区分は、安房国、上総国を通って、下総国(国府は市川)に入るという、鎌倉殿が通った「かまくら道」だったとの感慨を持って、改めて見直して歩いてきました。
まず、我孫子市南新木4-23には、「遺跡の公園」と銘した場所があります。https://kodomo-to.net/area/spot.php?name=17348
この周辺の住宅開発で大規模な遺跡が見つかったことから、宅地開発の一環で公園が作られました。
しかし、説明板がありましたが、消え入りそうになっていて、この場所の重要性が伝わりません。
↑ 我孫子市史 古代編 クリックで拡大
我孫子のこの辺りには、将門が手を合せたとされる日秀観音、将門神社、首洗い井戸(通称・将門の井戸)などにも近く、サムライの始まりともいうべき坂東武者の地であり、この辺り一帯の小高い場所から手賀沼を仰いで王城の地を定めようとしていたらしき痕跡が感じられます。
昨年は、湖北公民館ホールで「将門さま」をテーマにフライデー教授に講演をして頂き、多くの将門ファンがいると分かりました。そこで、「我孫子の将門さま」に詳しい戸田七支(かずゆき)さんの談話会を予定します。長年にわたる、調査で分かってきた将門さまの伝承や鎌倉への道について、謎の多い我孫子と将門さまの歴史を解き明かします。新木近隣セ(7/16)、つくし野近隣セ(9/24)、久寺家近隣セ(10/9)お出でください。戸田さんが注目している将門関連の史跡を歩いて、布佐に頼朝も立ち寄った、寿には寄進した松があった等との伝承も耳にしましたので、それら、これらを語り合う、談話会です。下記のPDFチラシをご参照いただき、どうぞいらしてください。
講談会@あらき .pdf
我孫子物語は、鎌倉物語に繋がりそうです!? 他では聞けない、歴史秘話、暑さも吹き飛ばすこと請け合いです。
お申込み、問い合わせ Tel:04-7184-9828 (^_-)-☆
つづき
重要だと気づかなかっただけで、我孫子も「鎌倉殿」にも関係していた下総国の一角でした。古代、中世の房総半島の区分は、安房国、上総国を通って、下総国(国府は市川)に入るという、鎌倉殿が通った「かまくら道」だったとの感慨を持って、改めて見直して歩いてきました。
まず、我孫子市南新木4-23には、「遺跡の公園」と銘した場所があります。https://kodomo-to.net/area/spot.php?name=17348
この周辺の住宅開発で大規模な遺跡が見つかったことから、宅地開発の一環で公園が作られました。
しかし、説明板がありましたが、消え入りそうになっていて、この場所の重要性が伝わりません。
↑ 我孫子市史 古代編 クリックで拡大
我孫子のこの辺りには、将門が手を合せたとされる日秀観音、将門神社、首洗い井戸(通称・将門の井戸)などにも近く、サムライの始まりともいうべき坂東武者の地であり、この辺り一帯の小高い場所から手賀沼を仰いで王城の地を定めようとしていたらしき痕跡が感じられます。
昨年は、湖北公民館ホールで「将門さま」をテーマにフライデー教授に講演をして頂き、多くの将門ファンがいると分かりました。そこで、「我孫子の将門さま」に詳しい戸田七支(かずゆき)さんの談話会を予定します。長年にわたる、調査で分かってきた将門さまの伝承や鎌倉への道について、謎の多い我孫子と将門さまの歴史を解き明かします。新木近隣セ(7/16)、つくし野近隣セ(9/24)、久寺家近隣セ(10/9)お出でください。戸田さんが注目している将門関連の史跡を歩いて、布佐に頼朝も立ち寄った、寿には寄進した松があった等との伝承も耳にしましたので、それら、これらを語り合う、談話会です。下記のPDFチラシをご参照いただき、どうぞいらしてください。
講談会@あらき .pdf
我孫子物語は、鎌倉物語に繋がりそうです!? 他では聞けない、歴史秘話、暑さも吹き飛ばすこと請け合いです。
お申込み、問い合わせ Tel:04-7184-9828 (^_-)-☆
つづき
2022年06月25日
Lend hands! Giant Moa Project @ Abiko
◎Background of the Project
During Covit-19, a plan was born to install a giant moa (Dinornis maximus,an extinct species) as a symbolic monument of the Abiko City Museum of Birds opposite the entrance of the museum.
The plan was born out of a desire to make the existence of " Abiko bird museum" more known both in Japan and abroad, and to encourage more people to visit Abiko City and learn about the charms of this town by learning scientifically what kind of creatures birds are, and thinking about the coexistence of people and birds, local nature conservation, and global environmental issues.
With this in mind, the "Abiko Art Walking" planning committee, which holds an "walk museum" in Abiko decided to create a symbolic monument, inheriting the spirit of Shirakaba school which was the power of art to enrich people's minds.
◎Past Activities
Abiko City, Chiba Prefecture, is easily access from Abiko Station on the JR or Chiyoda Line.
"Abiko Art Walking" started as a place to enjoy a peaceful and healing landscape (Healing Landscape Abiko Art Walking), and by 2022, it will have been held 21 times and has become a stage for artists in and outside of Abiko to promote Abiko's qualities. On the other hand, citizens can walk around the city and appreciate the artworks exhibited outdoors and indoors, experience and interact with creative activities, and together create a culture with new meaning and value. For the citizens, they can experience the trial of creating "art " in Abiko while strolling around. At the same time, this three-week event is rich in variety, with presentations and sales events that make the most of local assets.
The walking destination is Teganuma Park, the "Hake-no-michi" (path of bamboo) where major activities of the Shirakaba School were developed, and the library, promenade, and water pavilion across from it, creating a place for citizen exchange through the creative sites of the artists and artisans.
In addition, the shopping center in front of Abiko Station, A, Bishirube (information center), has hosted exhibitions and sales events of handmade crafts, art works (ceramics, sculptures, paintings), agricultural products, dance, music, and more. Extensive art tours can be enjoyed to nearby Keyaki Plaza, Chiba Bank, Sugimura-Sojinkan Residence Garden, Jigoro Kano Villa Site Park adjacent to the site of Muneyoshi Yanagi's villa, Teganuma Park promenade, Shirakaba Museum, Kofun Park, and the former Murakawa Villa.
Abiko Art Walking is characterized not only by the opportunity to see and enjoy art, but also by the time and space to meet and interact with artists and enjoy the Shirakaba spirit, which stimulates the senses and nurtures rich ideas in everyone of all ages.
◎Request for your cooperation
The Giant Moor to be installed in the future is a large sculpture (3.6 meters high), and the artist and his assistant are preparing for its creation while keeping production and material costs to a minimum. It will be installed directly across from the Museum of Birds. The giant bird monument will be made of silvery stainless steel, a unique and innovative statue combining several layers of molds, and will become a new art scene in Abiko. We hope you will extend your understanding and support to these citizens' community development activities.
振込先口座:千葉銀行 我孫子支店 口座番号 3590735
アビコテヅクリサンポイチ
一口 3,000 円から
*A skeletal replica of a giant moa, now extinct, is on permanent display at the Museum of Birds, so please come and see it.
<Translated with www.DeepL.com/Translator>つづき
During Covit-19, a plan was born to install a giant moa (Dinornis maximus,an extinct species) as a symbolic monument of the Abiko City Museum of Birds opposite the entrance of the museum.
The plan was born out of a desire to make the existence of " Abiko bird museum" more known both in Japan and abroad, and to encourage more people to visit Abiko City and learn about the charms of this town by learning scientifically what kind of creatures birds are, and thinking about the coexistence of people and birds, local nature conservation, and global environmental issues.
With this in mind, the "Abiko Art Walking" planning committee, which holds an "walk museum" in Abiko decided to create a symbolic monument, inheriting the spirit of Shirakaba school which was the power of art to enrich people's minds.
◎Past Activities
Abiko City, Chiba Prefecture, is easily access from Abiko Station on the JR or Chiyoda Line.
"Abiko Art Walking" started as a place to enjoy a peaceful and healing landscape (Healing Landscape Abiko Art Walking), and by 2022, it will have been held 21 times and has become a stage for artists in and outside of Abiko to promote Abiko's qualities. On the other hand, citizens can walk around the city and appreciate the artworks exhibited outdoors and indoors, experience and interact with creative activities, and together create a culture with new meaning and value. For the citizens, they can experience the trial of creating "art " in Abiko while strolling around. At the same time, this three-week event is rich in variety, with presentations and sales events that make the most of local assets.
The walking destination is Teganuma Park, the "Hake-no-michi" (path of bamboo) where major activities of the Shirakaba School were developed, and the library, promenade, and water pavilion across from it, creating a place for citizen exchange through the creative sites of the artists and artisans.
In addition, the shopping center in front of Abiko Station, A, Bishirube (information center), has hosted exhibitions and sales events of handmade crafts, art works (ceramics, sculptures, paintings), agricultural products, dance, music, and more. Extensive art tours can be enjoyed to nearby Keyaki Plaza, Chiba Bank, Sugimura-Sojinkan Residence Garden, Jigoro Kano Villa Site Park adjacent to the site of Muneyoshi Yanagi's villa, Teganuma Park promenade, Shirakaba Museum, Kofun Park, and the former Murakawa Villa.
Abiko Art Walking is characterized not only by the opportunity to see and enjoy art, but also by the time and space to meet and interact with artists and enjoy the Shirakaba spirit, which stimulates the senses and nurtures rich ideas in everyone of all ages.
◎Request for your cooperation
The Giant Moor to be installed in the future is a large sculpture (3.6 meters high), and the artist and his assistant are preparing for its creation while keeping production and material costs to a minimum. It will be installed directly across from the Museum of Birds. The giant bird monument will be made of silvery stainless steel, a unique and innovative statue combining several layers of molds, and will become a new art scene in Abiko. We hope you will extend your understanding and support to these citizens' community development activities.
振込先口座:千葉銀行 我孫子支店 口座番号 3590735
アビコテヅクリサンポイチ
一口 3,000 円から
*A skeletal replica of a giant moa, now extinct, is on permanent display at the Museum of Birds, so please come and see it.
<Translated with www.DeepL.com/Translator>つづき
2022年06月24日
千葉県マスク緩和策、文科省通達も、遅々と進まず
新型コロナ下でのマスク着用について、千葉県の熊谷俊人知事は5月19日の定例記者会見で「保育所等では屋外で『マスクなし活動』を検討してほしい」と述べ、行動指針となる“千葉県独自ルール”を提案した。続いて、文科省は5月24日に未就学児、児童、生徒のマスク緩和のリーフレットを作成して関係各所に通達したが、学校現場の実態は今まで通りになっているケースが多いとの不安の声もでている。
千葉県では、園児の健やかな成長、発達を促すのが最大の狙いで、併せて保護者や地域住民向けに「園児らが屋外でマスクなしで活動することに理解を」と呼びかけ。一般県民向けにも具体的な実践例を示した。保育所等約2千カ所へ近く通知。
熊谷知事は、着用で懸念される発育への影響や熱中症等を念頭に「感染対策により別のリスクが顕在化する恐れがある。全体のバランスをみて、『マスクをしない』と積極的に選択できる場面がある」と強調。これまでに政府が示したマスク外しの検討状況に沿った形で提案した。
県独自ルールを適用する対象は(1)保育園児ら(2)散歩など一人で行動する県民ら(3)熱中症などのリスクがある屋外活動する作業員ら。
保育所等では、園庭や公園などで屋外活動する際には「保護者の理解を得るよう努めながら」と前置きして、マスクなしでの活動を検討するよう提示した。対象の約2千カ所に対して県や市町村が近く通知する。
また、一般県民向けには一人で行動する散歩や徒歩・自転車での移動についてはマスク不要と例示。熱中症リスク等のある場面には「運動」「農作業」「工事現場での作業」を挙げた。
保育所等での県独自ルールの根拠については、4〜5月に県内の保育所等を調査し、着用の有無と感染状況に明確な因果関係が確認されなかったためと説明。熱中症や落ち着きつつある感染状況なども考慮した。会話する時や人が密集している時、屋内では引き続き着用するよう求めていく。
県独自ルールの意義について熊谷知事は、園児が保育所の園庭でマスクを外しながら、外の公園で着用する事例に触れ「社会の目を気にせず外せるよう県としてメッセージを整理した。具体的な実践例も示すことで今後の行動の目安になれば」と強調。一方、「(着脱について)県ごとに考えが違うのは良いことではない。政府に統一的な見解を示してほしい」と求めた。
千葉県では、園児の健やかな成長、発達を促すのが最大の狙いで、併せて保護者や地域住民向けに「園児らが屋外でマスクなしで活動することに理解を」と呼びかけ。一般県民向けにも具体的な実践例を示した。保育所等約2千カ所へ近く通知。
熊谷知事は、着用で懸念される発育への影響や熱中症等を念頭に「感染対策により別のリスクが顕在化する恐れがある。全体のバランスをみて、『マスクをしない』と積極的に選択できる場面がある」と強調。これまでに政府が示したマスク外しの検討状況に沿った形で提案した。
県独自ルールを適用する対象は(1)保育園児ら(2)散歩など一人で行動する県民ら(3)熱中症などのリスクがある屋外活動する作業員ら。
保育所等では、園庭や公園などで屋外活動する際には「保護者の理解を得るよう努めながら」と前置きして、マスクなしでの活動を検討するよう提示した。対象の約2千カ所に対して県や市町村が近く通知する。
また、一般県民向けには一人で行動する散歩や徒歩・自転車での移動についてはマスク不要と例示。熱中症リスク等のある場面には「運動」「農作業」「工事現場での作業」を挙げた。
保育所等での県独自ルールの根拠については、4〜5月に県内の保育所等を調査し、着用の有無と感染状況に明確な因果関係が確認されなかったためと説明。熱中症や落ち着きつつある感染状況なども考慮した。会話する時や人が密集している時、屋内では引き続き着用するよう求めていく。
県独自ルールの意義について熊谷知事は、園児が保育所の園庭でマスクを外しながら、外の公園で着用する事例に触れ「社会の目を気にせず外せるよう県としてメッセージを整理した。具体的な実践例も示すことで今後の行動の目安になれば」と強調。一方、「(着脱について)県ごとに考えが違うのは良いことではない。政府に統一的な見解を示してほしい」と求めた。
2022年06月23日
ミャンマーの事情は悪化
【AFP=時事】ミャンマーの民主化指導者アウンサンスーチー氏(77)は、昨年2月のクーデター以来、ミャンマー国軍に軟禁されていたが、22日首都ネピドーにある刑務所の独房に移送された。軍事政権のゾーミントゥン報道官が23日、明らかにした。
国軍は昨年2月のクーデター時にネピドーの自宅でスーチー氏を拘束した。スーチー氏は昨年5月下旬にネピドー周辺の施設に身柄を移され、12月に初の有罪判決が出た後も刑務所には収監されず、身の回りの世話をする使用人とともに生活していたとみられている。移送理由は明らかになっていないが、監視体制を一層強化するためではないかとの見方がある。
スーチー氏はクーデター後、約20件で起訴され、このうち社会不安をあおったとする刑法違反など6件で計11年の禁錮刑が言い渡された。訴追された全てで有罪となった場合、刑期は計150年を超える可能性がある。審理は非公開で、弁護団は審理内容を話すことを禁じられている。
国軍は昨年2月のクーデター時にネピドーの自宅でスーチー氏を拘束した。スーチー氏は昨年5月下旬にネピドー周辺の施設に身柄を移され、12月に初の有罪判決が出た後も刑務所には収監されず、身の回りの世話をする使用人とともに生活していたとみられている。移送理由は明らかになっていないが、監視体制を一層強化するためではないかとの見方がある。
スーチー氏はクーデター後、約20件で起訴され、このうち社会不安をあおったとする刑法違反など6件で計11年の禁錮刑が言い渡された。訴追された全てで有罪となった場合、刑期は計150年を超える可能性がある。審理は非公開で、弁護団は審理内容を話すことを禁じられている。
2022年06月22日
2022年06月20日
”相馬小次郎”、坂東の英雄
平将門については、各地に伝承が残された。当時に京の朝廷から「坂東」に派遣された各国の国司を追放し、「坂東八カ国」の独立を宣言した勇者がいた。国司の圧政に耐えかねていた弱きを助け強きを挫く「英雄」として見られるようになった。
「坂東」は関東地方の古称で、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野を合わせて「坂東八カ国」といった。平安時代のなかば、華やかな王朝文化が花開こうとしていた時代、天慶2年(939)12月、将門は下野・上野以下「坂東八カ国」の国府を制圧し、新たに諸国の国司を任命して東国独立国家を開府した。日本史上唯一、自ら「新皇」を名乗った武将の始まりが平将門だ。京から遠く離れた「坂東」の地で起こった「平将門の乱」によって、朝廷や貴族たちを震撼させた。
農繁期に兵を帰す時期には戦をしない不文律を衝いて攻勢をかけられ、朝廷からは謀反人の汚名がつけられたという、坂東の民人は亡くなるまでの事情を察して残念に思い、話は付け加えられ語り継がれ、各地の守り神にして参るようになったようだ。将門の生涯を叙述した記録としては、『将門記』がある。その叙述には王城(皇居)を下総国の亭南に定め、下総に「王城」を立てると宣言する。我孫子市史においても、我孫子の将門神社(日秀)あたりから眺めて王城を計画したのではとの論もある。つまり、『将門記』は更に続けて、京を手本に「うき橋をもって京の山崎になぞらえ、相馬郡大井の津をもって京の大津とする。」とも記述があり、沼南地区の大井とも大津とも言われる地区がそれにあたるのではないかとみられる由だ。我孫子、および周辺地に将門と深い関係にあったと見られる逸話が下記の地図のように多くあり、柏には将門通りのプレートが設置されている、のにも驚く。
将門の夢ははかなく消えてしまったが、「湖北音頭」にもその一節が次のよういに歌われていた。
♪湖北日秀にゃ 桔梗は咲かぬ
桔梗仇花 うその花
将門様のよ いのち取り
将門が坂東で力をつけているとの報告をうけた朝廷は大慌てとなると見越して、将門はかつて世話になった官吏・藤原忠平を通じて、けしてそのような事はないのだと弁明の書簡をしたためていた。忠平への書状.pptx
しかし、平貞盛(父・国香は将門に奇襲をかけ没する)は朝廷に手を回して、将門に戦いを挑みことごとく敗走させられた恨みを増大させ、将門が坂東で王国を打ち立てようとしているとの密書を送っていた。そのため、朝廷は追討使を立てる命をだし、首尾よく討ちとった者には官位を約束するとした。貞盛の叔父である藤原秀郷など等、多くの兵を集め手を貸すことにした。農繁期に農兵を里に返すという、将門の義理堅さをしっていた戦略家の藤原秀郷は、天慶3年2月14日、手勢が少なくなった時を狙って、大軍勢をしかけた。その頃、足を負傷していた将門は、運悪く強風の中の一矢にあたり、結果、斬首されてしまう。将門に「朝敵」「反逆者」として、京の市場にて見せしめの晒し首にされた。一方、秀郷は京都で仕えた事も無いにもかかわらず、討伐の手柄で、従四位下に叙され下野守に任ぜられた上、武蔵守、鎮守府将軍も兼任する破格の出世で名門武家として武名を残した。
下総での追討軍との戦いに敗れたあと、将門が城峯山で再起を図ろうとしたものの、愛妾・桔梗の裏切りによって儚い最期を遂げたため、城峯山中では現在でも桔梗の花は咲かないという伝説が残り、『秩父小唄』の歌にしている。それには「秋の七草うす紫の花の桔梗がなぜ足らぬ、城峯(じょうねん)昔の物語・・・♪」 城峯山周辺に伝わる“将門伝説”が、歌詞に表れていた。城峯山(1,038m)の麓・神川町の 矢納地区には、将門が城峯山に籠もっているとき、矢納の民家で揚げた鯉のぼりが敗因となったため、同地区では現在でも鯉のぼりを揚げることはないというものもあるが、もっとも鯉のぼりは江戸時代に武家の間で始まった風習で、平安時代にはなかったのだが、そのように将門さまを偲んでいたということで。
現在は、長14.3kmのハイキングコースもあり、山頂からは、奥秩父・八ヶ岳・浅間山・赤城山・日光連山まで見わたせるが、健脚向けのコースのようだ。http://www.chichibu-omotenashi.com/pdf/walk_map/jyouminesan.pdf
平将門の出自は、桓武天皇の子孫・高望王の孫にあたる。高望王は臣籍降下して「平」姓を得、上総の国司として下向したまま土着した人物で、その3男・良将(良持とも)の子が将門だ。将門の父・良将は下総を本拠に未墾地を開発して勢力を拡大し、兄2人を飛び越えて朝廷から鎮守府将軍に任命されるなど、一族のなかでも一目置かれる存在だった。父に似て、早く父を亡くしてからも労を惜しまぬ将門は武器(蕨手刀・直刀からヒントを得て騎乗で戦いやすい反刀を考案)の制作したり、馬の鐙、農作物の器具制作などで、土地を耕し、民を護る軍備も備えて力をつけた。将門の名が坂東一円に轟いたのは、良将の死後、その遺領などを巡る伯父たちとの争いを制したことによる。
「坂東」の民の苦渋を知る将門は、しばしば調停のために兵を動かしたが、農繁期には兵の多くをそれぞれの村に帰していたという。また、将門は戦の最中でも敵の婦女子を手荒な事をしないように返したとも――そんな彼の習性を知っていた秀郷・貞盛率いる連合軍3000を集めていたのに対し、最終戦に及ぶ将門軍は400の手勢になっていたという。
平将門のもとに駆け参じることができなかったこともあってか、関東各地に残る“将門伝説”が残るのは、生きていてほしい、蘇って民の前に表れて欲しいとの願いだったのだろう。将門を慕う人々が大勢いたからこそ、坂東の強者(ヒーロー)として忘れられずにいるのだろう。
つづき
「坂東」は関東地方の古称で、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野を合わせて「坂東八カ国」といった。平安時代のなかば、華やかな王朝文化が花開こうとしていた時代、天慶2年(939)12月、将門は下野・上野以下「坂東八カ国」の国府を制圧し、新たに諸国の国司を任命して東国独立国家を開府した。日本史上唯一、自ら「新皇」を名乗った武将の始まりが平将門だ。京から遠く離れた「坂東」の地で起こった「平将門の乱」によって、朝廷や貴族たちを震撼させた。
農繁期に兵を帰す時期には戦をしない不文律を衝いて攻勢をかけられ、朝廷からは謀反人の汚名がつけられたという、坂東の民人は亡くなるまでの事情を察して残念に思い、話は付け加えられ語り継がれ、各地の守り神にして参るようになったようだ。将門の生涯を叙述した記録としては、『将門記』がある。その叙述には王城(皇居)を下総国の亭南に定め、下総に「王城」を立てると宣言する。我孫子市史においても、我孫子の将門神社(日秀)あたりから眺めて王城を計画したのではとの論もある。つまり、『将門記』は更に続けて、京を手本に「うき橋をもって京の山崎になぞらえ、相馬郡大井の津をもって京の大津とする。」とも記述があり、沼南地区の大井とも大津とも言われる地区がそれにあたるのではないかとみられる由だ。我孫子、および周辺地に将門と深い関係にあったと見られる逸話が下記の地図のように多くあり、柏には将門通りのプレートが設置されている、のにも驚く。
将門の夢ははかなく消えてしまったが、「湖北音頭」にもその一節が次のよういに歌われていた。
♪湖北日秀にゃ 桔梗は咲かぬ
桔梗仇花 うその花
将門様のよ いのち取り
将門が坂東で力をつけているとの報告をうけた朝廷は大慌てとなると見越して、将門はかつて世話になった官吏・藤原忠平を通じて、けしてそのような事はないのだと弁明の書簡をしたためていた。忠平への書状.pptx
しかし、平貞盛(父・国香は将門に奇襲をかけ没する)は朝廷に手を回して、将門に戦いを挑みことごとく敗走させられた恨みを増大させ、将門が坂東で王国を打ち立てようとしているとの密書を送っていた。そのため、朝廷は追討使を立てる命をだし、首尾よく討ちとった者には官位を約束するとした。貞盛の叔父である藤原秀郷など等、多くの兵を集め手を貸すことにした。農繁期に農兵を里に返すという、将門の義理堅さをしっていた戦略家の藤原秀郷は、天慶3年2月14日、手勢が少なくなった時を狙って、大軍勢をしかけた。その頃、足を負傷していた将門は、運悪く強風の中の一矢にあたり、結果、斬首されてしまう。将門に「朝敵」「反逆者」として、京の市場にて見せしめの晒し首にされた。一方、秀郷は京都で仕えた事も無いにもかかわらず、討伐の手柄で、従四位下に叙され下野守に任ぜられた上、武蔵守、鎮守府将軍も兼任する破格の出世で名門武家として武名を残した。
下総での追討軍との戦いに敗れたあと、将門が城峯山で再起を図ろうとしたものの、愛妾・桔梗の裏切りによって儚い最期を遂げたため、城峯山中では現在でも桔梗の花は咲かないという伝説が残り、『秩父小唄』の歌にしている。それには「秋の七草うす紫の花の桔梗がなぜ足らぬ、城峯(じょうねん)昔の物語・・・♪」 城峯山周辺に伝わる“将門伝説”が、歌詞に表れていた。城峯山(1,038m)の麓・神川町の 矢納地区には、将門が城峯山に籠もっているとき、矢納の民家で揚げた鯉のぼりが敗因となったため、同地区では現在でも鯉のぼりを揚げることはないというものもあるが、もっとも鯉のぼりは江戸時代に武家の間で始まった風習で、平安時代にはなかったのだが、そのように将門さまを偲んでいたということで。
現在は、長14.3kmのハイキングコースもあり、山頂からは、奥秩父・八ヶ岳・浅間山・赤城山・日光連山まで見わたせるが、健脚向けのコースのようだ。http://www.chichibu-omotenashi.com/pdf/walk_map/jyouminesan.pdf
平将門の出自は、桓武天皇の子孫・高望王の孫にあたる。高望王は臣籍降下して「平」姓を得、上総の国司として下向したまま土着した人物で、その3男・良将(良持とも)の子が将門だ。将門の父・良将は下総を本拠に未墾地を開発して勢力を拡大し、兄2人を飛び越えて朝廷から鎮守府将軍に任命されるなど、一族のなかでも一目置かれる存在だった。父に似て、早く父を亡くしてからも労を惜しまぬ将門は武器(蕨手刀・直刀からヒントを得て騎乗で戦いやすい反刀を考案)の制作したり、馬の鐙、農作物の器具制作などで、土地を耕し、民を護る軍備も備えて力をつけた。将門の名が坂東一円に轟いたのは、良将の死後、その遺領などを巡る伯父たちとの争いを制したことによる。
「坂東」の民の苦渋を知る将門は、しばしば調停のために兵を動かしたが、農繁期には兵の多くをそれぞれの村に帰していたという。また、将門は戦の最中でも敵の婦女子を手荒な事をしないように返したとも――そんな彼の習性を知っていた秀郷・貞盛率いる連合軍3000を集めていたのに対し、最終戦に及ぶ将門軍は400の手勢になっていたという。
平将門のもとに駆け参じることができなかったこともあってか、関東各地に残る“将門伝説”が残るのは、生きていてほしい、蘇って民の前に表れて欲しいとの願いだったのだろう。将門を慕う人々が大勢いたからこそ、坂東の強者(ヒーロー)として忘れられずにいるのだろう。
つづき
2022年06月19日
千葉の鎌倉殿
この写真(我孫子市教育委員会蔵)は、市の西側地区・布佐にあった「頼朝公 手植の松松」です。頼朝が伊豆を逃れて安房から下総に入った時、布佐の明媚な風景を見て旅情を慰めた処と言う。
元文化を守る会・副会長もされ、地元の歴史に詳しい越岡禮子氏は、「昭和56年には見て確認しています、大変見事な松であったことから、東葛郡誌には「蛮竜の松」と紹介され、昔は4本あり、地元では笠松と呼ばれていたそうです。」と教えて下さった。
我孫子市史研究センター・品田制子氏(センター会報、平成20年1月29日発行)によれば「この名木は、20m四方に枝を広げた見事な「四方枝葉」であったが、昭和50年末頃松喰虫で枯死した」という。現在の松は3,4代目が育成中だと市HPにある。大作谷津と浅間谷津の間の台地、布佐幼稚園の近くにあって、地元では「千歳の松」とも呼ばれたそう。残された写真(市教育委員会)から、当時の立派な松の枝ぶりがわかる。
ところで、なぜ、将門が我孫子の地を通ったのだろうか。NHK『鎌倉殿の13人』が放映中なので、興味が募る。
社会科などで、治承4年(1180年)、「石橋山の合戦」があって、平家との戦に敗れた頼朝が、逃げ出した、その後に巻き返して諮っていったのは、思い出せるけれど、鎌倉に幕府を開くのに関係していたのは、せいぜい伊豆半島の辺りであったろうと思っていた。
ところが、助けをもとめて行ったのが房総半島の先である安房まで行っていたのであった。近代の調査から、上陸した地点は、碧南町。その海岸には、源頼朝上陸の碑と説明板が建てられている。平家との戦に敗れた源頼朝は安房国から下総国へと入り、市川では葛飾八幡宮に参拝。
その後、分っている所だけでも、富津、千葉、市川を通っていった。市川の葛飾八幡宮に参拝。源頼朝ゆかりの駒どめ石の説明板があって、戦勝と武運長久を祈願した。戦勝と武運長久を祈願していたようだ。日本史上大きな変わり目となる鎌倉時代が誕生するなかで、房総の果たした役割は非常に大きなものがあったと再認識できる。
もちろん、我孫子でも、源頼朝の伝説が残る。
子の神神社では、頼朝の足の病で困っていた際に、子の神権現様を訪ね、するとお告げで良くなったこともあったそうで、鎌倉幕府開闢後、感謝の意を込めて社殿を寄進し、1本の松を植えられてあったたという。子の神権現の起源( 964年・康保元年)は 行基が下総国分寺 で制作した薬師十二神将が火災などで焼失するのを逃れて我孫子の地に納められることになったことだそう。 この「頼朝公手植えの松」は1970年(昭和45年)の火災で本堂と共に焼失し、前述の越岡氏は、近所であったため火事も目撃した、とのこと。
また、我孫子市内の「遺跡の公園」(新木)から近い所に、「かまくら道入り口」と銘板があり、この道から布佐へも通じ、畑道を通れば日秀の将門社へも近い。源頼朝が将門を武神と崇めて、加護を願って参拝したかもしれないのだが、どうなのだろう。兎も角、一行は軍勢を集めながら鎌倉へ向かっていったのだ。いざ鎌倉との合言葉は、こうした物語の布石だった。
元文化を守る会・副会長もされ、地元の歴史に詳しい越岡禮子氏は、「昭和56年には見て確認しています、大変見事な松であったことから、東葛郡誌には「蛮竜の松」と紹介され、昔は4本あり、地元では笠松と呼ばれていたそうです。」と教えて下さった。
我孫子市史研究センター・品田制子氏(センター会報、平成20年1月29日発行)によれば「この名木は、20m四方に枝を広げた見事な「四方枝葉」であったが、昭和50年末頃松喰虫で枯死した」という。現在の松は3,4代目が育成中だと市HPにある。大作谷津と浅間谷津の間の台地、布佐幼稚園の近くにあって、地元では「千歳の松」とも呼ばれたそう。残された写真(市教育委員会)から、当時の立派な松の枝ぶりがわかる。
ところで、なぜ、将門が我孫子の地を通ったのだろうか。NHK『鎌倉殿の13人』が放映中なので、興味が募る。
社会科などで、治承4年(1180年)、「石橋山の合戦」があって、平家との戦に敗れた頼朝が、逃げ出した、その後に巻き返して諮っていったのは、思い出せるけれど、鎌倉に幕府を開くのに関係していたのは、せいぜい伊豆半島の辺りであったろうと思っていた。
ところが、助けをもとめて行ったのが房総半島の先である安房まで行っていたのであった。近代の調査から、上陸した地点は、碧南町。その海岸には、源頼朝上陸の碑と説明板が建てられている。平家との戦に敗れた源頼朝は安房国から下総国へと入り、市川では葛飾八幡宮に参拝。
その後、分っている所だけでも、富津、千葉、市川を通っていった。市川の葛飾八幡宮に参拝。源頼朝ゆかりの駒どめ石の説明板があって、戦勝と武運長久を祈願した。戦勝と武運長久を祈願していたようだ。日本史上大きな変わり目となる鎌倉時代が誕生するなかで、房総の果たした役割は非常に大きなものがあったと再認識できる。
もちろん、我孫子でも、源頼朝の伝説が残る。
子の神神社では、頼朝の足の病で困っていた際に、子の神権現様を訪ね、するとお告げで良くなったこともあったそうで、鎌倉幕府開闢後、感謝の意を込めて社殿を寄進し、1本の松を植えられてあったたという。子の神権現の起源( 964年・康保元年)は 行基が下総国分寺 で制作した薬師十二神将が火災などで焼失するのを逃れて我孫子の地に納められることになったことだそう。 この「頼朝公手植えの松」は1970年(昭和45年)の火災で本堂と共に焼失し、前述の越岡氏は、近所であったため火事も目撃した、とのこと。
また、我孫子市内の「遺跡の公園」(新木)から近い所に、「かまくら道入り口」と銘板があり、この道から布佐へも通じ、畑道を通れば日秀の将門社へも近い。源頼朝が将門を武神と崇めて、加護を願って参拝したかもしれないのだが、どうなのだろう。兎も角、一行は軍勢を集めながら鎌倉へ向かっていったのだ。いざ鎌倉との合言葉は、こうした物語の布石だった。
2022年06月18日
ポールが80才、ウクライナに平和を
2022年6月18日に80歳の誕生日を迎えたポール・マッカートニーに、リンゴ・スター、オノ・ヨーコ、ショーン・オノ・レノンなど、有名な友人やスーパースター・ミュージシャン仲間からSNS上で数々のお祝いの言葉が送られた。
リンゴはTwitterに、ピース・サインを掲げているセルフィー写真に、「誕生日だそうだね(They say it’s your birthday)土曜日が、ハッピー・バースデー ポール、愛してるぜ、素晴らしい一日を、ピース&ラブ、リンゴ&バーバラ、ラブ、ラブ、ピース&ラブ」と添えて投稿した。
オノ・ヨーコもポールとのツーショット写真に、「親愛なるポール、80歳の誕生日おめでとう、そしてこれから何度も何度も迎えられますように!あなたの平和仲間より……ラブ、ヨーコ」と添えて投稿した。一方、ヨーコの息子のショーンは、ザ・ビートルズの1966年の名曲「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」をアコースティック・ギターで弾き語りしている動画をインスタグラムで公開し、ポールの誕生日を祝った。この動画に彼は、「これがあなたのお気に入りのビートルズ曲の一つだと風の便りで聞きました。なので、ハッピー・バースデー!全ての美しい音楽をありがとうございます。私と全世界の永遠の愛と尊敬をあなたへ。(あまりにきれいな曲なので、何度も胸が詰まってしまってやり直したため、このバージョンは少し荒いです!)」と添えている。
ポールはTwitterで、「私の誕生日に素敵な挨拶や温かい気持ちを送ってくれてありがとう」と、多くのメッセージに対する感謝の気持ちを表した。彼は誕生日の2日前、6月16日に米ニュージャージー州で【ゴット・バック・ツアー】の最終日を迎え、ツアーファイナルには、これにあわせて、『ザ・ビートルズ:Get Back』より、ポールが熱唱する映像の一部が公開された。
さらに来週のフェスティバルのステージ上で彼の元ビートルズの故ジョン・レノンと「バーチャル・デュエット」を披露する予定だとも、メディアから楽しいリークがされている。
ポールは、ロシアによるウクライナ侵攻を受け、自身のSNSで「2008年にウクライナの独立広場で友人のために演奏したことを思い出し、この困難な時期に彼らのことを思いました。私たちは愛と支援を送ります」と投稿していたことでも、多くのファンに感銘を与えた。2008年にウクライナのキエフにある独立広場で行ったコンサートで、ジョン・レノン(John Lennon)がプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)名義で発表した「Give Peace a Chance(邦題:平和を我等に)」を披露していたからだ。その映像はビートルズの名曲「A Day in the Life」のパフォーマンスの中で、ジョンの曲の一部を演奏(3:30~)していた。こうした点が、ビートルズの精神の襞にあって私たちを感動させてきたのだと思う、ハピーバースデー、64才を越えても、みんなが忘れない❣
つづき
リンゴはTwitterに、ピース・サインを掲げているセルフィー写真に、「誕生日だそうだね(They say it’s your birthday)土曜日が、ハッピー・バースデー ポール、愛してるぜ、素晴らしい一日を、ピース&ラブ、リンゴ&バーバラ、ラブ、ラブ、ピース&ラブ」と添えて投稿した。
オノ・ヨーコもポールとのツーショット写真に、「親愛なるポール、80歳の誕生日おめでとう、そしてこれから何度も何度も迎えられますように!あなたの平和仲間より……ラブ、ヨーコ」と添えて投稿した。一方、ヨーコの息子のショーンは、ザ・ビートルズの1966年の名曲「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」をアコースティック・ギターで弾き語りしている動画をインスタグラムで公開し、ポールの誕生日を祝った。この動画に彼は、「これがあなたのお気に入りのビートルズ曲の一つだと風の便りで聞きました。なので、ハッピー・バースデー!全ての美しい音楽をありがとうございます。私と全世界の永遠の愛と尊敬をあなたへ。(あまりにきれいな曲なので、何度も胸が詰まってしまってやり直したため、このバージョンは少し荒いです!)」と添えている。
ポールはTwitterで、「私の誕生日に素敵な挨拶や温かい気持ちを送ってくれてありがとう」と、多くのメッセージに対する感謝の気持ちを表した。彼は誕生日の2日前、6月16日に米ニュージャージー州で【ゴット・バック・ツアー】の最終日を迎え、ツアーファイナルには、これにあわせて、『ザ・ビートルズ:Get Back』より、ポールが熱唱する映像の一部が公開された。
さらに来週のフェスティバルのステージ上で彼の元ビートルズの故ジョン・レノンと「バーチャル・デュエット」を披露する予定だとも、メディアから楽しいリークがされている。
ポールは、ロシアによるウクライナ侵攻を受け、自身のSNSで「2008年にウクライナの独立広場で友人のために演奏したことを思い出し、この困難な時期に彼らのことを思いました。私たちは愛と支援を送ります」と投稿していたことでも、多くのファンに感銘を与えた。2008年にウクライナのキエフにある独立広場で行ったコンサートで、ジョン・レノン(John Lennon)がプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)名義で発表した「Give Peace a Chance(邦題:平和を我等に)」を披露していたからだ。その映像はビートルズの名曲「A Day in the Life」のパフォーマンスの中で、ジョンの曲の一部を演奏(3:30~)していた。こうした点が、ビートルズの精神の襞にあって私たちを感動させてきたのだと思う、ハピーバースデー、64才を越えても、みんなが忘れない❣
つづき
2022年06月17日
伝説と歴史、比定された諸説
市議会・教育福祉常任委員会に向けて、歴史教育について考えておきたいと勉強中だが、前後関係を把握できるようになるまでに膨大な作業がいるので、大変な作業になっている。
それも千年以上も前の戦となると、伝説は粉飾されていることも見極めなくてはならないし、市史を纏める作業をした方々のご苦労は並大抵ではなかったと思い、頭が下がる。諸説は借用されて、芝居に音曲になったりもするが、歴史モノの中でダントツの有名勇者は平将門だろう。なんど、我孫子の周辺各地にも将門ゆかりの地が残っている。そして、それらの中でも、近年は相馬郡衙を有する日秀(我孫子)あたりを本拠地にしていたのではとの主張もでてきたが、まずは、ググってみた。極悪人と朝廷から汚名を浴びせられたが、今さらではあるが、各地の歴史好きの報告を結集してみると、見えてくるものがある。そして、市内の郷土史研究家・戸田七支氏が主張されるように、我孫子の館にきて王城の地を大井の津に決めようとしていたというのは、これまでの幾多の候補地を消去法で見直すと、あながち違っていないかもしれないと思うようになってきた。
◆「将門記」、将門の乱の前後
当時、当地を含む現・桜川市大国玉には平真樹の館があり、式内社「大國玉神社」と、真壁・新治・筑波の広い範囲を領地として支配していたとされる。真樹は、高望王流桓武平氏の一族かは明確ではないとされるが、その娘が将門の正室(「君の御前」)として嫁いだ(つまり、将門の義父に当たる)といわれている。真樹はもともと、その領地をめぐって常陸大掾・源護と対立していて、将門は真樹側につくことになる。加えて、君の御前が源護の3人の息子から横恋慕されたというような話もあって、これが「平将門の乱」の原因、相続、領地がらみの女論と言われる原因とされる。
承平5年(935年)2月、源護は将門との戦いで子の扶・隆、繁は敗死、護の本拠はすっかり焼き払われ、その際平国香は焼死したとされる。護は常々息子達の死を嘆いていたが、娘婿の平良正が将門を討つ為に兵を集め戦の準備を始めると、その勝敗の帰趨もわからないうちから非常に喜んだ。しかし良正は敗れ、後に良兼と国香の子・貞盛も加わり再び戦うがここでも敗れてしまう。
承平6年(936年)、護は朝廷に将門と真樹についての告状を提出し、朝廷はこれにもとづいて将門らに召喚の官符を発したが、同年6月、良正・貞盛の両軍と下野国境にて将門と合戦になる。将門が「川曲村」(現・茨城県結城郡八千代町内の旧・川西村とみられる)で貞盛に戦って勝ち、「本郷(本拠地)」に帰ったという記述や、同年に数では圧倒的に勝る良兼軍を下野国府(現・栃木県栃木市)にに退却。将門はあえて囲みを解いて逃走させた後、「本堵(本拠地の居館)」に帰ったという記述があるが、将門がどのあたりに居していたかの詳細は示されておらず、現在の地名と必ずしも一致するものでもない。
同年8月6日、良兼は将門の父「良将」や「高望王」など父祖の霊像を掲げて将門の常羽御厩を攻め、今度は将門を敗走させて常羽御厩を焼き討ちした。すぐさま兵を再編した将門に反撃されるも再びそれを退け、その際、密告のもと将門の妻子(正室ではないが、良兼の娘)を捕らえ、上総に連れ帰る。だが、息子の公雅や公連が手助けして9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまう。
「将門記」によれば、平良兼軍の「豊田郡栗栖院常羽御厩」を焼き討後、将門は「(豊田郡)下大方郷堀越渡」に陣を固めて待機したものの、そこで足の病(脚気?)になって敗走する記述がある。この「堀越渡」が八千代町仁江戸付近とされ、後に「堀戸(ほっと)の渡し」と呼ばれるようになったというものの、それも詳細不明。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ります。良兼軍は、将門と正室と子たちの所在を追い求めるが見つけられず、戦勝した良兼は、帰還の途につきました。
「将門記」によれば、承平7年(937年)、妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで君の御前と子を殺害された(「将門記」は平安時代中〜後期成立ともいわれるが、軍記物語であって伝記ではなく、記事に重複や矛盾する箇所もあるとされる。)妻子受難の場所には、諸説がある。しかし「将門記」には、『幸島郡芦津ノ江ノ辺』とあります。芦津は「和名類聚抄」にも石井と共に記された郷名であるので、現在の坂東市逆井・山、沓掛に至る一帯を指すものと思われる。君の御前は死後、将門により「后」として祀られたのが「后神社」であるとされる。
その御神体は、平安時代の「五衣垂髪」(「五衣」、いわゆる「十二単」の着物に、背に長く垂らした髪型である「垂髪」の女人木像で、これは現・茨城県坂東市の「國王神社」の御神体である将門公の木像と対のものであるという。この辺りは桜川の右岸で、平真樹の城館があったところともいう。「御門御墓」と「后神社」を直線でつなぐと、ちょうど中間に「大國玉神社」が鎮座する。
承平8年(938年)貞盛は愁訴の為に密かに上洛を企てるも、これを察知した将門に2月29日信濃国小県郡の信濃国分寺付近で追いつかれ、旧知の滋野恒成(善淵)、小県郡司の他田真樹(他田氏)らと共闘するも敗れるが、何とか脱出して京の都に辿り着いた。そして良兼は12月14日(938年1月17日)将門の駈使である丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探り夜襲をかけるも察知され逆襲を受け敗走、これ以降良兼の勢力は衰退し、天慶2年(939年)6月に病死。一族の後ろ盾を失ってしまう。同年(939年)10月、陸奥守平維扶が赴任途中に下野国に入ると、これに従って陸奥に入らんとしたが、再び将門の追撃を受けた為に逃亡し、維扶は貞盛らを見捨ててしまった。11月には常陸国での紛争を利用して将門を討たんとするが失敗、従兄弟(叔母の子)の藤原為憲と共に再び身を隠した。12月には将門が「新皇」を宣言する。
天慶3年(940年)、将門軍は常陸国北部にて5000の兵を率いて貞盛、為憲らの捜索が行なわれるも当人らは発見出来ず、代わりに貞盛と源扶の妻が捕らえられたのみで、将門は彼女らを放免して捜索を中断し兵を各地に帰した。それを聞いた藤原秀郷らが、2月⒕日に将門に追い打ちをかけ、風向きが変わった一瞬に、将門に矢が当たる。絶命の地は、「将門記」によれば「辛島郡北山」とされるが、その場所は特定されていない。「辛島郡」というのは「幸島郡」の誤りで、「猿島郡」であるということについては異論がないが、「北山」がどこかには諸説ある。終焉の地に創建されたという現・茨城県坂東市の「國王神社」付近が最有力だが、同地から直線距離で約13kmの埼玉県幸手市に将門首塚がある。当時は下総国領内で、浄土真宗東本願寺派「通光山 平親院 浄誓寺」境内の本堂裏に高さ約3mの塚があり、その上にかなり風化した五輪塔が建てられ、市指定文化財「将門首塚」となっている。当地の伝承では、将門が討たれたとき、家臣が首だけを運んできた、あるいは愛馬が首を咥えて運んできた、とされる。将門の首は、京都に運ばれて晒し首になったということが史実で、その後、首が飛んで関東に向かったというのが伝説だが、全国に大手町を含め10数ヵ所はあるらしいが・・・。
御門御墓(みかどおはか)。別名:将門塚。
場所:茨城県桜川市大国玉3803付近。
現地の説明板によれば、鎌倉時代初期のものとされる平将門の供養塔とされる4基の五輪塔である。伝承では、非業の死を遂げた将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために建てられたという。
「将門記」についても諸説、時代のなかで主張が繰り広げられ、幕末、水戸藩士・青山延光が「后神社考」で、「后神社」の祭神は、式内社「大國玉神社」の祭神・大国主命の后である須勢理毘売命(スセリビメ)だという説を提唱した。 村人たちはこれを信じ、明治に入ると「大國玉神社」に合祀してしまった。すると、村に疫病が流行したため、「将門様の祟りだ」と恐れて「后神社」を元に戻したところ、疫病は治まったという。というようなことがあってか、現在の祭神は、須勢理毘売命と君の御前。
◆将門記から読み解く、我孫子(日秀)と将門
「将門記」は、その古写本が「北野山 真福寺 寶生院」(現・愛知県名古屋市中区)で発見され、書かれたのは天慶6年(946年。将門の死からわずか6年後。根拠不明。なお、「将門記」巻末近くに「天慶三年六月中記之」)とあるが、通説では否定的で、実際には10世紀末〜11世紀末頃とする説が多い。
要するに著者も、書かれた時期も不明の写本だ。そこで、山崎謙という人の説では「将門記を記した人は、将門にゆかりのあった大木の僧侶で、この人が守谷の大木山連乗院に入山して、そこで書いたものであろう。本来ならば、将門が開山したといわれる筒戸の禅福寺で書きたかったであろうが、そこでは書けない事情があった。」というのを「守谷町史」が紹介している。これに対して、現・茨城県つくばみらい市の「普門山 禅福寺」は、元は「真福寺」と称していたというのだが「傍証する資料はあまり残されていない」ともしているのだが、一般に「真福寺本」と呼ばれているところから、2つの「真福寺」には「何等かの関連性があったものと考えられる」とも書いている。かなり、根拠薄弱な気もするが、どうだろうか。
「将門記」は軍記物語で、古写本は11世紀頃とされていることから、まずはこれに従って時代を読み解くとすると、将門に敗北後、国香は本拠地とされる現・茨城県筑西市東石田の居館は、将門に火を放たれて国香は焼死したとみられる(因みに、同地には「国香の墓」とされる場所が数ヵ所ある)。大河ドラマ「風と雲と虹と」放映中は観光バスが国香所縁のこの地を訪れるほど賑わった。一方、「前太平記」にも将門を描いているが、最初から将門を逆賊とし、本拠地とした現・茨城県守谷市〜取手市から常陸国府(現・石岡市)に進攻したのを乱の始まりとしているので、このような事実誤認があるため、「前太平記」は信頼性が非常に低いと考えられる。
「将門記」では単に「下総国の亭南」としか書かれていない。「亭」は「国庁」(国司が執務する施設)の意味とされるが、下総国国府は現・千葉県市川市にあったので、ここでは国庁の支庁(出先機関)を指すという説があるが、通説では、「亭」は将門の本拠地を指し、「亭南」はその南側のことだろうとする。「将門記」には「相馬郡大井津を以って、号して京の大津と為さん」という記述もあるので、「王城」は相馬郡内だろう(現・坂東市は旧・猿島郡)という反論があるが、そもそも「大津」は京都からかなり距離があるとか、「王城」とは別の場所だから敢えて「相馬郡」と記したとかという再反論があって、何とも言えないところ。
◆守谷と将門
守谷城址、別名:平将門城址、相馬城址。「守谷城址」は、中世〜近世の城郭跡だが、平将門が「新皇」を宣言したとき、ここに王城を築き、今日に準えた「偽都」の中心としたとの伝説がある。しかし、将門の叔父・平良文の後裔、千葉氏の中興・千葉常胤が6人の子(「千葉六党」)に所領を分け与えたとき、「相馬御厨」(「伊勢神宮」に寄進された下総国相馬郡の荘園)を受け継いだのが次男・師常で、相馬(小)次郎師常を名乗るようになったのが始まり(13世紀初頭)とされる。この時点で守谷城の城館があったどうか不明だ。史料では、師常の曾孫・胤継、またはその子・胤親の頃には存在したらしい。
中世の守谷城は、現在「守谷城址公園」になっている部分(「城山地区」という。)のみであるが、北東に伸びた舌状の台地(通称「平台山」)を加工した連郭式の城で、三方が小貝川からの水を湛えた沼沢地に囲まれていたという。戦国時代には、相馬氏は古河公方の配下となり、守谷城を古河公方・足利義氏の御座所とするとして、いったん城を明け渡したが、結局、その話は流れた。天正18年(1590年)、北条氏側についていた相馬氏は、豊臣秀吉の小田原城攻めのときに敗れ、没落する。相馬氏の後、徳川家康の家臣・菅沼(土岐)定政が入城し、以後、現・「守谷小学校」周辺まで拡張した。その後、幕府直轄領になった後、寛永19年(1642年)に堀田正盛が佐倉城主となったときに、佐倉藩領になった(佐倉藩は現・千葉県佐倉市で、守谷城主は不在)。寛文9年(1669年)には酒井忠挙が城主となるが、天和元年(1681年)に厩橋城(現・群馬県前橋市)へ移ってからは空き城となり、城下町も衰退したとされる。場所:南側の高台に「守谷小学校」があるが、その敷地が江戸時代の「守谷城」本丸跡とされる場所で、グラウンドの西端の先に「茨城百景 守谷城址」という石碑と説明板がある。なお、この石碑は、地元の大地主で衆議院議員や茨城農工銀行頭取も務めた斎藤 斐氏らが明治34年に建てたもので、守谷城を将門の城と強く印象付ける契機の1つとなったといわれている。
その後の軍記物語(「太平記」(14世紀頃?)など)において「将門が相馬郡に都を立てた」というような記述が一般的になるのだが、それでも、守谷城が将門の「王城」の地であるとする古史料は殆ど存在しない。家名に箔を付けたい相馬氏の宣伝によるところが大きかったとみられる。将門は相馬郡の生まれとされて相馬小次郎と名乗ったという説がある(将門は三男であったが、長男が早世したため、次郎と称したとされる。因みに、四男・将頼は御厨三郎、五男・将平は大葦原四郎という。)が、上記の通り相馬氏の始祖・千葉師常が相馬(小)次郎と称したことと重ね合わされているようにも思われる。
茨城県守谷市本町942ほか。国道294号線と茨城県道46号線(野田牛久線)の「北園」交差点から、県道を東へ約900mの交差点(角にコンビニ「ローソン守谷松並庚塚店」がある。)で右折(北へ)、約1kmの信号機のある交差点の1つ先の狭い道路に左折して(東へ)入り、約90mのところに駐車場が有る。
将門をテーマにした大河ドラマは、中でもっとも時代が古く、時代考証が難しい状況で、海音寺潮五郎の原作「平将門」をもとにストーリーが展開して、将門最期の地が現在の茨城県にあることから、各地の伝承を集めてドラマ地を選定したようで、我孫子にも久寺家あたりに聞き取りがされたようではあるが、いずれにしても矮小な丘陵地が多いため、ロケ体が入る余地がなかったことが、ドラマでは一切取り上げられなかった原因ではないだろうか。
参照HP:https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/c/b47195208cd6e743a2a2c375968e861c
https://ameblo.jp/sisinmitinoku/image-12647176023-14874446563.html
つづき
それも千年以上も前の戦となると、伝説は粉飾されていることも見極めなくてはならないし、市史を纏める作業をした方々のご苦労は並大抵ではなかったと思い、頭が下がる。諸説は借用されて、芝居に音曲になったりもするが、歴史モノの中でダントツの有名勇者は平将門だろう。なんど、我孫子の周辺各地にも将門ゆかりの地が残っている。そして、それらの中でも、近年は相馬郡衙を有する日秀(我孫子)あたりを本拠地にしていたのではとの主張もでてきたが、まずは、ググってみた。極悪人と朝廷から汚名を浴びせられたが、今さらではあるが、各地の歴史好きの報告を結集してみると、見えてくるものがある。そして、市内の郷土史研究家・戸田七支氏が主張されるように、我孫子の館にきて王城の地を大井の津に決めようとしていたというのは、これまでの幾多の候補地を消去法で見直すと、あながち違っていないかもしれないと思うようになってきた。
◆「将門記」、将門の乱の前後
当時、当地を含む現・桜川市大国玉には平真樹の館があり、式内社「大國玉神社」と、真壁・新治・筑波の広い範囲を領地として支配していたとされる。真樹は、高望王流桓武平氏の一族かは明確ではないとされるが、その娘が将門の正室(「君の御前」)として嫁いだ(つまり、将門の義父に当たる)といわれている。真樹はもともと、その領地をめぐって常陸大掾・源護と対立していて、将門は真樹側につくことになる。加えて、君の御前が源護の3人の息子から横恋慕されたというような話もあって、これが「平将門の乱」の原因、相続、領地がらみの女論と言われる原因とされる。
承平5年(935年)2月、源護は将門との戦いで子の扶・隆、繁は敗死、護の本拠はすっかり焼き払われ、その際平国香は焼死したとされる。護は常々息子達の死を嘆いていたが、娘婿の平良正が将門を討つ為に兵を集め戦の準備を始めると、その勝敗の帰趨もわからないうちから非常に喜んだ。しかし良正は敗れ、後に良兼と国香の子・貞盛も加わり再び戦うがここでも敗れてしまう。
承平6年(936年)、護は朝廷に将門と真樹についての告状を提出し、朝廷はこれにもとづいて将門らに召喚の官符を発したが、同年6月、良正・貞盛の両軍と下野国境にて将門と合戦になる。将門が「川曲村」(現・茨城県結城郡八千代町内の旧・川西村とみられる)で貞盛に戦って勝ち、「本郷(本拠地)」に帰ったという記述や、同年に数では圧倒的に勝る良兼軍を下野国府(現・栃木県栃木市)にに退却。将門はあえて囲みを解いて逃走させた後、「本堵(本拠地の居館)」に帰ったという記述があるが、将門がどのあたりに居していたかの詳細は示されておらず、現在の地名と必ずしも一致するものでもない。
同年8月6日、良兼は将門の父「良将」や「高望王」など父祖の霊像を掲げて将門の常羽御厩を攻め、今度は将門を敗走させて常羽御厩を焼き討ちした。すぐさま兵を再編した将門に反撃されるも再びそれを退け、その際、密告のもと将門の妻子(正室ではないが、良兼の娘)を捕らえ、上総に連れ帰る。だが、息子の公雅や公連が手助けして9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまう。
「将門記」によれば、平良兼軍の「豊田郡栗栖院常羽御厩」を焼き討後、将門は「(豊田郡)下大方郷堀越渡」に陣を固めて待機したものの、そこで足の病(脚気?)になって敗走する記述がある。この「堀越渡」が八千代町仁江戸付近とされ、後に「堀戸(ほっと)の渡し」と呼ばれるようになったというものの、それも詳細不明。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ります。良兼軍は、将門と正室と子たちの所在を追い求めるが見つけられず、戦勝した良兼は、帰還の途につきました。
「将門記」によれば、承平7年(937年)、妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで君の御前と子を殺害された(「将門記」は平安時代中〜後期成立ともいわれるが、軍記物語であって伝記ではなく、記事に重複や矛盾する箇所もあるとされる。)妻子受難の場所には、諸説がある。しかし「将門記」には、『幸島郡芦津ノ江ノ辺』とあります。芦津は「和名類聚抄」にも石井と共に記された郷名であるので、現在の坂東市逆井・山、沓掛に至る一帯を指すものと思われる。君の御前は死後、将門により「后」として祀られたのが「后神社」であるとされる。
その御神体は、平安時代の「五衣垂髪」(「五衣」、いわゆる「十二単」の着物に、背に長く垂らした髪型である「垂髪」の女人木像で、これは現・茨城県坂東市の「國王神社」の御神体である将門公の木像と対のものであるという。この辺りは桜川の右岸で、平真樹の城館があったところともいう。「御門御墓」と「后神社」を直線でつなぐと、ちょうど中間に「大國玉神社」が鎮座する。
承平8年(938年)貞盛は愁訴の為に密かに上洛を企てるも、これを察知した将門に2月29日信濃国小県郡の信濃国分寺付近で追いつかれ、旧知の滋野恒成(善淵)、小県郡司の他田真樹(他田氏)らと共闘するも敗れるが、何とか脱出して京の都に辿り着いた。そして良兼は12月14日(938年1月17日)将門の駈使である丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探り夜襲をかけるも察知され逆襲を受け敗走、これ以降良兼の勢力は衰退し、天慶2年(939年)6月に病死。一族の後ろ盾を失ってしまう。同年(939年)10月、陸奥守平維扶が赴任途中に下野国に入ると、これに従って陸奥に入らんとしたが、再び将門の追撃を受けた為に逃亡し、維扶は貞盛らを見捨ててしまった。11月には常陸国での紛争を利用して将門を討たんとするが失敗、従兄弟(叔母の子)の藤原為憲と共に再び身を隠した。12月には将門が「新皇」を宣言する。
天慶3年(940年)、将門軍は常陸国北部にて5000の兵を率いて貞盛、為憲らの捜索が行なわれるも当人らは発見出来ず、代わりに貞盛と源扶の妻が捕らえられたのみで、将門は彼女らを放免して捜索を中断し兵を各地に帰した。それを聞いた藤原秀郷らが、2月⒕日に将門に追い打ちをかけ、風向きが変わった一瞬に、将門に矢が当たる。絶命の地は、「将門記」によれば「辛島郡北山」とされるが、その場所は特定されていない。「辛島郡」というのは「幸島郡」の誤りで、「猿島郡」であるということについては異論がないが、「北山」がどこかには諸説ある。終焉の地に創建されたという現・茨城県坂東市の「國王神社」付近が最有力だが、同地から直線距離で約13kmの埼玉県幸手市に将門首塚がある。当時は下総国領内で、浄土真宗東本願寺派「通光山 平親院 浄誓寺」境内の本堂裏に高さ約3mの塚があり、その上にかなり風化した五輪塔が建てられ、市指定文化財「将門首塚」となっている。当地の伝承では、将門が討たれたとき、家臣が首だけを運んできた、あるいは愛馬が首を咥えて運んできた、とされる。将門の首は、京都に運ばれて晒し首になったということが史実で、その後、首が飛んで関東に向かったというのが伝説だが、全国に大手町を含め10数ヵ所はあるらしいが・・・。
御門御墓(みかどおはか)。別名:将門塚。
場所:茨城県桜川市大国玉3803付近。
現地の説明板によれば、鎌倉時代初期のものとされる平将門の供養塔とされる4基の五輪塔である。伝承では、非業の死を遂げた将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために建てられたという。
「将門記」についても諸説、時代のなかで主張が繰り広げられ、幕末、水戸藩士・青山延光が「后神社考」で、「后神社」の祭神は、式内社「大國玉神社」の祭神・大国主命の后である須勢理毘売命(スセリビメ)だという説を提唱した。 村人たちはこれを信じ、明治に入ると「大國玉神社」に合祀してしまった。すると、村に疫病が流行したため、「将門様の祟りだ」と恐れて「后神社」を元に戻したところ、疫病は治まったという。というようなことがあってか、現在の祭神は、須勢理毘売命と君の御前。
◆将門記から読み解く、我孫子(日秀)と将門
「将門記」は、その古写本が「北野山 真福寺 寶生院」(現・愛知県名古屋市中区)で発見され、書かれたのは天慶6年(946年。将門の死からわずか6年後。根拠不明。なお、「将門記」巻末近くに「天慶三年六月中記之」)とあるが、通説では否定的で、実際には10世紀末〜11世紀末頃とする説が多い。
要するに著者も、書かれた時期も不明の写本だ。そこで、山崎謙という人の説では「将門記を記した人は、将門にゆかりのあった大木の僧侶で、この人が守谷の大木山連乗院に入山して、そこで書いたものであろう。本来ならば、将門が開山したといわれる筒戸の禅福寺で書きたかったであろうが、そこでは書けない事情があった。」というのを「守谷町史」が紹介している。これに対して、現・茨城県つくばみらい市の「普門山 禅福寺」は、元は「真福寺」と称していたというのだが「傍証する資料はあまり残されていない」ともしているのだが、一般に「真福寺本」と呼ばれているところから、2つの「真福寺」には「何等かの関連性があったものと考えられる」とも書いている。かなり、根拠薄弱な気もするが、どうだろうか。
「将門記」は軍記物語で、古写本は11世紀頃とされていることから、まずはこれに従って時代を読み解くとすると、将門に敗北後、国香は本拠地とされる現・茨城県筑西市東石田の居館は、将門に火を放たれて国香は焼死したとみられる(因みに、同地には「国香の墓」とされる場所が数ヵ所ある)。大河ドラマ「風と雲と虹と」放映中は観光バスが国香所縁のこの地を訪れるほど賑わった。一方、「前太平記」にも将門を描いているが、最初から将門を逆賊とし、本拠地とした現・茨城県守谷市〜取手市から常陸国府(現・石岡市)に進攻したのを乱の始まりとしているので、このような事実誤認があるため、「前太平記」は信頼性が非常に低いと考えられる。
「将門記」では単に「下総国の亭南」としか書かれていない。「亭」は「国庁」(国司が執務する施設)の意味とされるが、下総国国府は現・千葉県市川市にあったので、ここでは国庁の支庁(出先機関)を指すという説があるが、通説では、「亭」は将門の本拠地を指し、「亭南」はその南側のことだろうとする。「将門記」には「相馬郡大井津を以って、号して京の大津と為さん」という記述もあるので、「王城」は相馬郡内だろう(現・坂東市は旧・猿島郡)という反論があるが、そもそも「大津」は京都からかなり距離があるとか、「王城」とは別の場所だから敢えて「相馬郡」と記したとかという再反論があって、何とも言えないところ。
◆守谷と将門
守谷城址、別名:平将門城址、相馬城址。「守谷城址」は、中世〜近世の城郭跡だが、平将門が「新皇」を宣言したとき、ここに王城を築き、今日に準えた「偽都」の中心としたとの伝説がある。しかし、将門の叔父・平良文の後裔、千葉氏の中興・千葉常胤が6人の子(「千葉六党」)に所領を分け与えたとき、「相馬御厨」(「伊勢神宮」に寄進された下総国相馬郡の荘園)を受け継いだのが次男・師常で、相馬(小)次郎師常を名乗るようになったのが始まり(13世紀初頭)とされる。この時点で守谷城の城館があったどうか不明だ。史料では、師常の曾孫・胤継、またはその子・胤親の頃には存在したらしい。
中世の守谷城は、現在「守谷城址公園」になっている部分(「城山地区」という。)のみであるが、北東に伸びた舌状の台地(通称「平台山」)を加工した連郭式の城で、三方が小貝川からの水を湛えた沼沢地に囲まれていたという。戦国時代には、相馬氏は古河公方の配下となり、守谷城を古河公方・足利義氏の御座所とするとして、いったん城を明け渡したが、結局、その話は流れた。天正18年(1590年)、北条氏側についていた相馬氏は、豊臣秀吉の小田原城攻めのときに敗れ、没落する。相馬氏の後、徳川家康の家臣・菅沼(土岐)定政が入城し、以後、現・「守谷小学校」周辺まで拡張した。その後、幕府直轄領になった後、寛永19年(1642年)に堀田正盛が佐倉城主となったときに、佐倉藩領になった(佐倉藩は現・千葉県佐倉市で、守谷城主は不在)。寛文9年(1669年)には酒井忠挙が城主となるが、天和元年(1681年)に厩橋城(現・群馬県前橋市)へ移ってからは空き城となり、城下町も衰退したとされる。場所:南側の高台に「守谷小学校」があるが、その敷地が江戸時代の「守谷城」本丸跡とされる場所で、グラウンドの西端の先に「茨城百景 守谷城址」という石碑と説明板がある。なお、この石碑は、地元の大地主で衆議院議員や茨城農工銀行頭取も務めた斎藤 斐氏らが明治34年に建てたもので、守谷城を将門の城と強く印象付ける契機の1つとなったといわれている。
その後の軍記物語(「太平記」(14世紀頃?)など)において「将門が相馬郡に都を立てた」というような記述が一般的になるのだが、それでも、守谷城が将門の「王城」の地であるとする古史料は殆ど存在しない。家名に箔を付けたい相馬氏の宣伝によるところが大きかったとみられる。将門は相馬郡の生まれとされて相馬小次郎と名乗ったという説がある(将門は三男であったが、長男が早世したため、次郎と称したとされる。因みに、四男・将頼は御厨三郎、五男・将平は大葦原四郎という。)が、上記の通り相馬氏の始祖・千葉師常が相馬(小)次郎と称したことと重ね合わされているようにも思われる。
茨城県守谷市本町942ほか。国道294号線と茨城県道46号線(野田牛久線)の「北園」交差点から、県道を東へ約900mの交差点(角にコンビニ「ローソン守谷松並庚塚店」がある。)で右折(北へ)、約1kmの信号機のある交差点の1つ先の狭い道路に左折して(東へ)入り、約90mのところに駐車場が有る。
将門をテーマにした大河ドラマは、中でもっとも時代が古く、時代考証が難しい状況で、海音寺潮五郎の原作「平将門」をもとにストーリーが展開して、将門最期の地が現在の茨城県にあることから、各地の伝承を集めてドラマ地を選定したようで、我孫子にも久寺家あたりに聞き取りがされたようではあるが、いずれにしても矮小な丘陵地が多いため、ロケ体が入る余地がなかったことが、ドラマでは一切取り上げられなかった原因ではないだろうか。
参照HP:https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/c/b47195208cd6e743a2a2c375968e861c
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つづき
2022年06月16日
鶴にまつわる、江戸の冤罪事件
我孫子の隣町・茨城県利根町に伝わる江戸の昔話には、「延宝の鶴殺し事件」に由来する念仏院という寺があった場所に建つ泪塚(墓)に因縁がある。塚は布川城主・豊島氏の家臣・香取源右門が同僚の鈴木一族との縁で千日供養に建てたもので、戦国期からの縁の深さがうかがえる。源右門の銘の周りには時期に彼岸花が咲き、無念の死者の魂を慰めている。
事件は、延宝5年(1677、徳川家綱の時代)、布川地区の隣の押付村の鈴木太郎左衛門をはじめ一族3家族10人が幕府の鳥見役人(大名の鷹狩りのために住民の鳥捕獲を見回る)に捕らえられ処刑された事件だった。郷土史に詳しい芦原修二さんによれば、発端は二つだとされる。
一つは太郎左衛門の娘・ゆきに結婚を迫った役人が、断られた腹いせに幕府により禁止されていた鶴捕獲の濡れ衣を着せた冤罪事件であったこと。もう一つは処刑された鈴木佐左衛門の妻・いとが労咳(肺結核)にかかり、鶴を食べさせれば回復すると村の住民が協力して食した事で同罪の死刑になったというもの。
さらに、与力や同心が鈴木忠兵衛宅に夜中踏み込んだため、ゆきの祖母が慌てて小豆を抱えたまま逃げて、追っ手に捕まり絶命した、その後、同地ではいくら煮ても硬い石小豆しか取れなくなったという話も残っている事。村人は、何も言えずに泪を溜めて見守るしかなかった。
現代は、犬が嚙みついた、クマが襲ってきたと人身を守る法だが、幕府の法律とは治世者を第一義に重んじ、庶民の命が裁かれたという事だ。それより以前の幕府も成立していない律令制の平安の世、将門の生きた時代は、関東の村人は東戎(アズマエビス)と蔑称されて命も土地も認めらえていなかった、そういう下々に代わって闘いを挑んで、落命したことを主を憐れんで拝み、語り継いでいたことが、鎮守社に残っているのだ。
資料提供:利根町民俗資料館
事件は、延宝5年(1677、徳川家綱の時代)、布川地区の隣の押付村の鈴木太郎左衛門をはじめ一族3家族10人が幕府の鳥見役人(大名の鷹狩りのために住民の鳥捕獲を見回る)に捕らえられ処刑された事件だった。郷土史に詳しい芦原修二さんによれば、発端は二つだとされる。
一つは太郎左衛門の娘・ゆきに結婚を迫った役人が、断られた腹いせに幕府により禁止されていた鶴捕獲の濡れ衣を着せた冤罪事件であったこと。もう一つは処刑された鈴木佐左衛門の妻・いとが労咳(肺結核)にかかり、鶴を食べさせれば回復すると村の住民が協力して食した事で同罪の死刑になったというもの。
さらに、与力や同心が鈴木忠兵衛宅に夜中踏み込んだため、ゆきの祖母が慌てて小豆を抱えたまま逃げて、追っ手に捕まり絶命した、その後、同地ではいくら煮ても硬い石小豆しか取れなくなったという話も残っている事。村人は、何も言えずに泪を溜めて見守るしかなかった。
現代は、犬が嚙みついた、クマが襲ってきたと人身を守る法だが、幕府の法律とは治世者を第一義に重んじ、庶民の命が裁かれたという事だ。それより以前の幕府も成立していない律令制の平安の世、将門の生きた時代は、関東の村人は東戎(アズマエビス)と蔑称されて命も土地も認めらえていなかった、そういう下々に代わって闘いを挑んで、落命したことを主を憐れんで拝み、語り継いでいたことが、鎮守社に残っているのだ。
資料提供:利根町民俗資料館
2022年06月15日
2022年06月14日
親となる権利と子の権利と
第三者から精子や卵子の提供を受けて生まれた子どもの「出自を知る権利」をめぐる議論が本格化している。精子提供で生まれた人や研究者らが5月30日、国会で開かれた集会(主催:日本弁護士連合会)に登壇。子どもが遺伝上の親を知る「出自を知る権利」を保障する制度創設を求めた。超党派の議員連盟は3月、提供者(ドナー)情報の保管や開示などについて定める新たな法律の骨子案を了承した。
ドナーの個人情報の管理を担う公的機関の設置や、情報の保存期間を100年とすることなどが柱だが、ドナーの承諾が開示の条件となっており「子どもの出自を知る権利が認められているとは言えない」などと指摘する声もある。
第三者から精子提供を受ける非配偶者間人工授精(AID)で生まれた人の自助グループ(DOG)メンバーの石塚幸子さんは、23歳の時、精子提供で生まれたことを知った。遺伝性疾患のある父親からの遺伝を心配していた石塚さんに対し、母は大学病院で他人から精子の提供を受けて石塚さんを産んだこと、提供者が誰か分からないことを告げたという。
「最初は遺伝していないことにほっとしたんですけど、こんなにも長い間親が嘘をついていたことがショックでした。今までの自分が崩れるような感覚で、自分が一体何者なのか分からなくなってしまいました」石塚さんは、「精子というモノと母親から生まれたという感覚がとても嫌だと感じています」と明かす。
その上で、提供者を知りたい理由について「モノではなく、きちんと実在する人がいたから今自分がいると実感したい。そのためにも一度でいいので提供者と会わせてほしい」と語った。精子や卵子の提供を受ける「提供型生殖医療」で生まれた人にとって、どのような苦悩や葛藤があるのか。
石塚さんは自身の体験から、告知の時期やされ方、された後の対応が適切でないことで親子の信頼関係が崩れたり、子どもが自分を肯定することが難しくなったりする問題があると強調する。さらに、提供者が分からないことで家族の既往歴を把握できなかったり、一人の精子から多くの子どもが誕生することで生じる近親婚のリスクがあったりといった懸念もあるという。
議連の法案の骨子案では、精子や卵子の提供者については厚労省が認定する「供給医療機関」が、夫婦と生まれた子どもについては「実施医療機関」が、それぞれ氏名や住所、生年月日などの情報を公的機関(独立行政法人)に提出。公的機関はそれらの情報を100年間保存する。子どもは成人すると、ドナー情報の開示を求めることができる。ただ、開示するか否かはドナーの判断に委ねられる。そのためドナーが拒んだ場合、子どもはドナーの情報にアクセスできなくなる。
石塚さんは「出自を知る権利は生まれた子どもの権利であり、提供者の意思によって開示される情報が変わったり、知ることができる子とそうでない子が出てきたりしてしまうのはおかしい」と疑問を呈する。
なぜ開示の可否をドナーの判断に委ねるのか?背景には「ドナー保護」の考え方がある。生まれた子に対してドナーの意思に反して個人情報が伝えられた場合、ドナーに不利益が生じるとの見方だ。
これに対し、石塚さんは「今後は、情報の開示に了承した人のみが提供者になるべきです」と訴える。提供精子で生まれた当事者として石塚さんが求めるのは、「子どもと提供者の両者を支える開示システム」だ。「これまで提供者の情報が秘密や匿名にされてきたのは、家族に知られることが脅威だと捉えられてきたから。ですが脅威なのは、むしろ秘密にすることのリスクです。子どものためになることは、ひいては親のためになること。自分の誕生の物語を子どもが知った上で、安心して成長できる環境を作ってほしい」という。お茶の水女子大ジェンダー研究所の研究協力員・仙波由加里さんによると、海外では提供型生殖医療で生まれた子の出自を知る権利を法律で保障する動きが広がっているという。
▼出自を知る権利を保障する国・地域
スウェーデン、オーストリア、オーストラリア(豪)・ヴィクトリア州、スイス、オランダ、豪・西オーストラリア州、ノルウェー、ニュージーランド 、イギリス、フィンランド、豪・ニューサウスウェールズ州、アメリカ・ワシントン州、クロアチア、アイルランド、アルゼンチン、ドイツ、豪・南オーストラリア州、フランス(2021年成立、今後施行の見通し)※仙波さんの発表資料より
法律ができた背景は様々だが、国連の「子どもの権利条約」の条文や養子の出自を知る権利との兼ね合い、ドナー情報を求める出生者による訴訟といったケースがあるという。
「いずれの国や地域においても、法が検討されている段階では賛否の意見が見られました。しかし法律が成立することで、情報開示が可能な人のみが精子や卵子を提供するようになり、既婚でパートナーの了承を得ているなどドナーになる人の特徴にも変化が生じています」(仙波さん)
生まれてくる子の権利を尊重する世界の動向や、親との血縁関係を容易に調べられるDNA検査の普及といった現状を踏まえ、仙波さんは「ドナーの匿名性は早期に廃止するべきです」と主張する。
日本も批准する子どもの権利条約は「児童は、できる限り、その父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する」と定めている。条文の観点からも、提供型生殖医療で生まれる子の出自を知る権利を、重要な人権として認識する必要があります」(仙波さん)
集会では、精子提供を受ける親の立場からの発表もあった。無精子症と診断された夫婦らの自助グループ「すまいる親の会」は、精子提供を検討するカップルを対象に情報提供をしたり、当事者同士の交流の場を設けたりしている。事務局の清水清美さんによると、会の設立当初、参加者たちは精子提供で出生したという真実告知を子どもにするという認識がほとんどなかった。精子提供で生まれた人の思いを聞く勉強会などを通じて告知の大切さを知り、「事実を伝えても親子関係を壊すことにはならない」「嘘の上塗りではなく、正直な親子関係に力を注ぐ方が良い」といった意識が広がっていったという。
一方で、国内での精子提供が原則匿名で実施されてきたことから「ドナー情報が分からないなら、親が告知してもかえって苦しめてしまう」と感じたり、「年をとった親や田舎では理解されない」と不安を抱えたりするケースもある。清水さんは、「親が告知できるように親と子をサポートする体制や、子どもが望んだ時にドナー情報を得られる仕組みが必要です」と述べた。
議連は今国会に法案を提出する予定だったが、自民党内で意見がまとまらず、参院選後に先送りされる見通し。
(取材・文=國崎万智@machiruda0702/ハフポスト日本版)
ドナーの個人情報の管理を担う公的機関の設置や、情報の保存期間を100年とすることなどが柱だが、ドナーの承諾が開示の条件となっており「子どもの出自を知る権利が認められているとは言えない」などと指摘する声もある。
第三者から精子提供を受ける非配偶者間人工授精(AID)で生まれた人の自助グループ(DOG)メンバーの石塚幸子さんは、23歳の時、精子提供で生まれたことを知った。遺伝性疾患のある父親からの遺伝を心配していた石塚さんに対し、母は大学病院で他人から精子の提供を受けて石塚さんを産んだこと、提供者が誰か分からないことを告げたという。
「最初は遺伝していないことにほっとしたんですけど、こんなにも長い間親が嘘をついていたことがショックでした。今までの自分が崩れるような感覚で、自分が一体何者なのか分からなくなってしまいました」石塚さんは、「精子というモノと母親から生まれたという感覚がとても嫌だと感じています」と明かす。
その上で、提供者を知りたい理由について「モノではなく、きちんと実在する人がいたから今自分がいると実感したい。そのためにも一度でいいので提供者と会わせてほしい」と語った。精子や卵子の提供を受ける「提供型生殖医療」で生まれた人にとって、どのような苦悩や葛藤があるのか。
石塚さんは自身の体験から、告知の時期やされ方、された後の対応が適切でないことで親子の信頼関係が崩れたり、子どもが自分を肯定することが難しくなったりする問題があると強調する。さらに、提供者が分からないことで家族の既往歴を把握できなかったり、一人の精子から多くの子どもが誕生することで生じる近親婚のリスクがあったりといった懸念もあるという。
議連の法案の骨子案では、精子や卵子の提供者については厚労省が認定する「供給医療機関」が、夫婦と生まれた子どもについては「実施医療機関」が、それぞれ氏名や住所、生年月日などの情報を公的機関(独立行政法人)に提出。公的機関はそれらの情報を100年間保存する。子どもは成人すると、ドナー情報の開示を求めることができる。ただ、開示するか否かはドナーの判断に委ねられる。そのためドナーが拒んだ場合、子どもはドナーの情報にアクセスできなくなる。
石塚さんは「出自を知る権利は生まれた子どもの権利であり、提供者の意思によって開示される情報が変わったり、知ることができる子とそうでない子が出てきたりしてしまうのはおかしい」と疑問を呈する。
なぜ開示の可否をドナーの判断に委ねるのか?背景には「ドナー保護」の考え方がある。生まれた子に対してドナーの意思に反して個人情報が伝えられた場合、ドナーに不利益が生じるとの見方だ。
これに対し、石塚さんは「今後は、情報の開示に了承した人のみが提供者になるべきです」と訴える。提供精子で生まれた当事者として石塚さんが求めるのは、「子どもと提供者の両者を支える開示システム」だ。「これまで提供者の情報が秘密や匿名にされてきたのは、家族に知られることが脅威だと捉えられてきたから。ですが脅威なのは、むしろ秘密にすることのリスクです。子どものためになることは、ひいては親のためになること。自分の誕生の物語を子どもが知った上で、安心して成長できる環境を作ってほしい」という。お茶の水女子大ジェンダー研究所の研究協力員・仙波由加里さんによると、海外では提供型生殖医療で生まれた子の出自を知る権利を法律で保障する動きが広がっているという。
▼出自を知る権利を保障する国・地域
スウェーデン、オーストリア、オーストラリア(豪)・ヴィクトリア州、スイス、オランダ、豪・西オーストラリア州、ノルウェー、ニュージーランド 、イギリス、フィンランド、豪・ニューサウスウェールズ州、アメリカ・ワシントン州、クロアチア、アイルランド、アルゼンチン、ドイツ、豪・南オーストラリア州、フランス(2021年成立、今後施行の見通し)※仙波さんの発表資料より
法律ができた背景は様々だが、国連の「子どもの権利条約」の条文や養子の出自を知る権利との兼ね合い、ドナー情報を求める出生者による訴訟といったケースがあるという。
「いずれの国や地域においても、法が検討されている段階では賛否の意見が見られました。しかし法律が成立することで、情報開示が可能な人のみが精子や卵子を提供するようになり、既婚でパートナーの了承を得ているなどドナーになる人の特徴にも変化が生じています」(仙波さん)
生まれてくる子の権利を尊重する世界の動向や、親との血縁関係を容易に調べられるDNA検査の普及といった現状を踏まえ、仙波さんは「ドナーの匿名性は早期に廃止するべきです」と主張する。
日本も批准する子どもの権利条約は「児童は、できる限り、その父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する」と定めている。条文の観点からも、提供型生殖医療で生まれる子の出自を知る権利を、重要な人権として認識する必要があります」(仙波さん)
集会では、精子提供を受ける親の立場からの発表もあった。無精子症と診断された夫婦らの自助グループ「すまいる親の会」は、精子提供を検討するカップルを対象に情報提供をしたり、当事者同士の交流の場を設けたりしている。事務局の清水清美さんによると、会の設立当初、参加者たちは精子提供で出生したという真実告知を子どもにするという認識がほとんどなかった。精子提供で生まれた人の思いを聞く勉強会などを通じて告知の大切さを知り、「事実を伝えても親子関係を壊すことにはならない」「嘘の上塗りではなく、正直な親子関係に力を注ぐ方が良い」といった意識が広がっていったという。
一方で、国内での精子提供が原則匿名で実施されてきたことから「ドナー情報が分からないなら、親が告知してもかえって苦しめてしまう」と感じたり、「年をとった親や田舎では理解されない」と不安を抱えたりするケースもある。清水さんは、「親が告知できるように親と子をサポートする体制や、子どもが望んだ時にドナー情報を得られる仕組みが必要です」と述べた。
議連は今国会に法案を提出する予定だったが、自民党内で意見がまとまらず、参院選後に先送りされる見通し。
(取材・文=國崎万智@machiruda0702/ハフポスト日本版)
2022年06月13日
米、搭乗前の陰性証明撤廃へ
米メディアは10日、空路で米国に入国する際に必要となっている搭乗前の新型コロナウイルス検査での陰性証明について、米政府が不要とする方針だと報じた。12日から撤廃されるという。
現在は搭乗日の1日前までに検査を受けなければならないが、ワクチンや治療の普及によって不要だと判断したという。航空業界からは撤廃の要望が出ていた。
米疾病対策センター(CDC)は今後約3か月間、感染状況を評価し、新しい変異株の出現などがあれば、再び陰性証明を求める可能性もあるという。
出典:読売新聞(6/11)
現在は搭乗日の1日前までに検査を受けなければならないが、ワクチンや治療の普及によって不要だと判断したという。航空業界からは撤廃の要望が出ていた。
米疾病対策センター(CDC)は今後約3か月間、感染状況を評価し、新しい変異株の出現などがあれば、再び陰性証明を求める可能性もあるという。
出典:読売新聞(6/11)
2022年06月12日
自由に活動、発信の若き王室メンバーたち
ノルウェー王室のマッタ・ルイーセ王女が、かねてより交際中のアメリカ人男性で、シャーマンとして知られるデュレク・ベレットと婚約したことを発表した。婚約に際し、2人はインスタグラムで喜びをシェア。王女は「シャーマン・デュレクと婚約を発表することをうれしく思います。彼はわたしの心を明るくさせ、可能性を引き出してくれて、笑わせてくれると同時に、脆い部分も見せられる人です。愛はすべてを超越し、日々強くなっています。この美しい男性とともに成長していくことをうれしく思います」とコメントしている。
マッタ・ルイーセ王女は、ノルウェー国王ハーラル5世とソニア王妃の長女で、王位継承順位は、弟のホーコン王太子とその子ども2人に次ぐ第4位。王女の婚約相手は、米カリフォルニア州在住のシャーマン・デュレクとして知られるデュレク・ベレット。ロサンゼルスを拠点に「スピリチャルガイド&ヒーラー」として活動し、グウィネス・パルトロウやニーナ・ドブレフ、ジェームズ・ヴァン・ダー・ビークらセレブの支持者を持つ人物。オスカー女優から実業家に転身してライフスタイルブランド「グープ」を立ち上げたパルトローさんらを指導し、有名人御用達のシャーマンとして知られるようになった。
王女は「代替療法」の熱心な支持者であるほか、自分には天使と会話する能力があると主張し、かつては天使と交信するための学校を設立したこともあるなど、北欧では風変わりな人物とのイメージが持たれている。
2人は2019年に交際を発表し、当時もノルウェーをはじめ世界を騒然とさせた。王女とベレット氏との交際はノルウェーメディアから批判的に取り上げられることも多く、「王女とシャーマン」という講演ツアーを王女が宣伝した際には、王族としての立場をビジネスと結び付けているとして非難された。2021年には、コロナ禍のためノルウェーとアメリカを行き来することが難しく、アメリカ移住も視野に入れていると、王女が発言していたという。
マッタ・ルイーセ王女には、2002年に結婚したノルウェー人作家の元夫アリ・ベン氏との間に3人の娘がいる。2016年に離婚し、ベン氏は19年12月に自死。王女は同年、ベレット氏との交際を公表していた。
ハーラル5世とソニア王妃、そしてホーコン王太子とメッテ=マリット王太子妃は、2人の婚約を祝福すると声明した。
参照:AFP=時事(6/8)、「マッタ・ルイーセ王女」インスタグラム(iam_marthalouise)
つづき
マッタ・ルイーセ王女は、ノルウェー国王ハーラル5世とソニア王妃の長女で、王位継承順位は、弟のホーコン王太子とその子ども2人に次ぐ第4位。王女の婚約相手は、米カリフォルニア州在住のシャーマン・デュレクとして知られるデュレク・ベレット。ロサンゼルスを拠点に「スピリチャルガイド&ヒーラー」として活動し、グウィネス・パルトロウやニーナ・ドブレフ、ジェームズ・ヴァン・ダー・ビークらセレブの支持者を持つ人物。オスカー女優から実業家に転身してライフスタイルブランド「グープ」を立ち上げたパルトローさんらを指導し、有名人御用達のシャーマンとして知られるようになった。
王女は「代替療法」の熱心な支持者であるほか、自分には天使と会話する能力があると主張し、かつては天使と交信するための学校を設立したこともあるなど、北欧では風変わりな人物とのイメージが持たれている。
2人は2019年に交際を発表し、当時もノルウェーをはじめ世界を騒然とさせた。王女とベレット氏との交際はノルウェーメディアから批判的に取り上げられることも多く、「王女とシャーマン」という講演ツアーを王女が宣伝した際には、王族としての立場をビジネスと結び付けているとして非難された。2021年には、コロナ禍のためノルウェーとアメリカを行き来することが難しく、アメリカ移住も視野に入れていると、王女が発言していたという。
マッタ・ルイーセ王女には、2002年に結婚したノルウェー人作家の元夫アリ・ベン氏との間に3人の娘がいる。2016年に離婚し、ベン氏は19年12月に自死。王女は同年、ベレット氏との交際を公表していた。
ハーラル5世とソニア王妃、そしてホーコン王太子とメッテ=マリット王太子妃は、2人の婚約を祝福すると声明した。
参照:AFP=時事(6/8)、「マッタ・ルイーセ王女」インスタグラム(iam_marthalouise)
つづき
2022年06月11日
大谷が投打で大活躍! 今季最速101マイル&豪快な12号2ランをチェック 圧巻の二刀流パフォーマンスに敵将も賛辞
現地時間6月9日、ロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平は、本拠地で行なわれたボストン・レッドソックス戦に「2番・DH兼投手」で先発。投げては7回4安打1失点、打っては12号2ランを含む4打数2安打2打点の大活躍で、5対2のチーム勝利に貢献し、連敗を「14」でストップさせた。
一方、レッドソックスの連勝は「7」で止まったが、MLB公式サイトによると、レッドソックスを率いるアレックス・コーラ監督は試合後、大谷の投球内容について「今日もよかった」と始めたうえで、「7回を投げ抜いてホームランも打つなんて本当に素晴らしいよ」と話したという。
その後も、「だから、私は彼のことを世界一のアスリートだと言い続けているんだ」と続けた46歳の“若き名将”は、「マウンドでも打席でも、このレベルで戦えるというのは、驚くべきことだ。非現実的だよ」と大谷への賛辞が止まらない。圧巻の二刀流パフォーマンスを前に驚きを隠せなかったようだ。
光の見えないトンネルをようやく抜けたエンジェルスは現在、アメリカン・リーグ西地区2位につけている。首位のヒューストン・アストロズとは9ゲーム差、ワイルドカード圏内まで2.5ゲーム差だが、ここから巻き返しとなるだろうか――。
構成●THE DIGEST編集部
一方、レッドソックスの連勝は「7」で止まったが、MLB公式サイトによると、レッドソックスを率いるアレックス・コーラ監督は試合後、大谷の投球内容について「今日もよかった」と始めたうえで、「7回を投げ抜いてホームランも打つなんて本当に素晴らしいよ」と話したという。
その後も、「だから、私は彼のことを世界一のアスリートだと言い続けているんだ」と続けた46歳の“若き名将”は、「マウンドでも打席でも、このレベルで戦えるというのは、驚くべきことだ。非現実的だよ」と大谷への賛辞が止まらない。圧巻の二刀流パフォーマンスを前に驚きを隠せなかったようだ。
光の見えないトンネルをようやく抜けたエンジェルスは現在、アメリカン・リーグ西地区2位につけている。首位のヒューストン・アストロズとは9ゲーム差、ワイルドカード圏内まで2.5ゲーム差だが、ここから巻き返しとなるだろうか――。
構成●THE DIGEST編集部
2022年06月10日
デニー知事、Goto 沖縄!へ舵を切る
沖縄県の玉城デニー知事は、海外からの旅行者受け入れが開始となった10日午前の定例記者会見で、新型コロナウイルス感染症の影響を受けて落ち込む沖縄観光の回復に向け、県と観光業界が一体となった施策展開の方向性や、2022年度の観光収入などの目標値を発表した。入域観光客数の目標値を前年度比86・5%増の610万人、観光収入は20年度比2・15倍の5364億円、宿泊人数と泊数を掛けた「人泊数」は同2・13倍の1751万人泊と掲げた。
玉城知事は「観光は沖縄のリーディング産業として、県民の雇用や暮らしを支え、沖縄経済の重要な推進力として振興発展に大きく寄与している。沖縄観光の回復復興なくして、沖縄経済の再生はありえない」と強調し、観光事業者への経営支援、戦略的なマーケティングを展開する考えを示した。
入域観光客数の目標値となる610万人の内訳について、航空会社の予約率などから国内客を580万人とした。外国人客は日本国内への入国上限数や今後の見通しなどを勘案し、30万人と設定した。
出典: 琉球新報社(6/10)
玉城知事は「観光は沖縄のリーディング産業として、県民の雇用や暮らしを支え、沖縄経済の重要な推進力として振興発展に大きく寄与している。沖縄観光の回復復興なくして、沖縄経済の再生はありえない」と強調し、観光事業者への経営支援、戦略的なマーケティングを展開する考えを示した。
入域観光客数の目標値となる610万人の内訳について、航空会社の予約率などから国内客を580万人とした。外国人客は日本国内への入国上限数や今後の見通しなどを勘案し、30万人と設定した。
出典: 琉球新報社(6/10)
2022年06月09日
我孫子市庁舎の老朽化
2022年06月08日
援農ボランティア
農家さんのお手伝いをするボランティア研修を受けた10期生として、ほんの時々ですが、ボランティアに行きます。土いじりが好きなこともあって、農家の庭先に伺うのはなんだか気持ちが大らかになります。しかし農家さんは生業としてこなさなければならないので、そんな悠長な気分だけでは続いていけないのだなあと行くたびに思います。
今回は炎天下で、ナス畑に敷き藁を広げました。
今回は炎天下で、ナス畑に敷き藁を広げました。
2022年06月07日
あびこ アートな散歩市 (⒓日まで)
我孫子市には手賀沼に面した水辺の公園として「親水公園」と「手賀沼公園」の二か所がある。手賀沼公園は「アビスタ」という文化施設が入口部分にあって、水辺に向かって、子どもの遊び場や運動場、原っぱと続き、水辺の近くは起伏があり樹木も豊富な自然庭園風である。休日はピクニックの家族連れで賑わう。そんな広場に、21回目の野外アート展が展開されて、寛ぎと鑑賞の場を提供してくれている、期間も残りわずか、さあと誰かを誘って、またはお一人ででも行って観よう!
展示場所は、我孫子駅前から手賀沼公園に至るA〜Pまでの16か所に点在するオリエンテーリングさながらに、地図を頼りに歩きながら観ることが出来る楽しい仕掛けになっていて、ヨーカドー内の会場では物品販売もある。全部を歩いてみると、軽く一万歩を超える、いい運動にもなりますよ。
地図などは、下記をクリック
https://abikoartwalk.wixsite.com/sanpoichi
2022年06月06日
政府、10日からインバウンド(外国人観光受入れ)再開
日本政府は22年4月10日から1日あたりの新規入国者数の上限を1万人に引き上げたが、この中に観光客は含まれていない。岸田文雄首相は4月8日の記者会見で、観光客の受け入れ再開時期時期について「確定はしていない」と述べるにとどめている。
新型コロナウイルスの水際対策で停止していた訪日観光客の受け入れ再開を前に、政府は米国、オーストラリア、タイ、シンガポールから少人数のツアー客を受け入れる実証実験を実施。その際に、受け入れた外国人ツアー客1人のコロナ感染が判明し、関係者の間に「どんなに対策をしても感染は防げない」と衝撃が広がっている。
◆肝いりの観光実証実験、来日後の感染か
観光庁によると、感染したのは福岡市の繁華街や大分県の温泉地を巡っていたタイの旅行会社員4人のうちの1人だった。5月27日から4泊5日の予定で来日し、同30日朝、喉の痛みがあったため抗原検査したところ、陽性だったという。他の3人は陰性だったが、濃厚接触者として宿泊療養施設での待機が必要になり、旅程は中止になった。政府は「訪日客の感染は予測内」としており、10日からのインバウンド受け入れ再開方針に変わりはないが、医療関係者からは海外から国内への変異株流入を懸念する声が上がる。
一行は3回目のワクチン接種を受け、タイ出国時のPCR検査と日本入国の際の抗原検査で陰性を確認していた。宿泊先ではそれぞれ別の部屋に泊まり、食事は間仕切りした上で黙食。旅行中はマスクを着け、手指の消毒もこまめにしていたという。一行が福岡空港から入国した5月27日の時点で、福岡県内の1日当たりの新規感染者数は1600人を超えていた。感染者は減少傾向とはいえ、人出が多い繁華街や観光地を巡れば感染のリスクは高まる。日本に入国して感染した可能性もある。
観光庁の担当者は「万全の対策を取っても感染者が出るのは予測の範囲内だ」としながら、タイ人のケースについて「感染経路が全く分からない」と驚きを隠せない。
◆感染症検査のすり抜け
感染者が出た原因の一つとして考えられるのは、PCR検査と抗原検査で見つけられなかった陽性患者がすり抜けて入国した可能性だ。感染症対策に詳しい北九州市立八幡病院の伊藤重彦名誉院長は「PCR検査も抗原検査も確実というわけではない」と話す。PCR検査は検体に含まれるウイルスが少なかったりして一定程度、陽性患者を確認できないことがある。抗原検査もPCR検査より感度が低いとされている。
国内の新規感染者が減少傾向で旅行需要も回復しつつあることから、伊藤名誉院長は「訪日客の旅行が直ちに危険とはいえない」とするが、政府に対しては警戒を呼びかける。「重要なのは(訪日客とともに)海外から新たな変異株が流入するのを防ぐことだ。国は海外の変異株情報に注意し、変異株の発生が確認されれば、当該国からの受け入れを停止するなど柔軟に対応する必要がある」
◆感染リスクはゼロにはならない
旅行会社の担当者は「ある意味、国の威信をかけた実証実験で、対策には万全を期していたはず。それでも感染をゼロにはできないということだ」と話し、感染の早期発見や感染判明後、立ち寄り先などにすぐ連絡して拡大を防ぐ必要性を指摘した。今回のケースでもそうだったように、訪日客が感染した際の対応はツアーを主催する旅行業者が負う部分が大きい。観光庁は7日、旅行業者などに向けた感染対策ガイドラインを公表する予定で、担当者は「今回の事例も反映させたい」としている。別の福岡県内の旅行会社社員は「訪日客にマスクの着用を徹底してもらうなど、できる対策を続けるしかない」とも話していた。パンデミックの死亡者が急増していた当初は、治療薬も、検査の方法、ワクチンもなかったが、3年後の現在はリスクを抱えながらも乗り切っていかなくてはならない。
参照:毎日新聞(6/4)つづき
新型コロナウイルスの水際対策で停止していた訪日観光客の受け入れ再開を前に、政府は米国、オーストラリア、タイ、シンガポールから少人数のツアー客を受け入れる実証実験を実施。その際に、受け入れた外国人ツアー客1人のコロナ感染が判明し、関係者の間に「どんなに対策をしても感染は防げない」と衝撃が広がっている。
◆肝いりの観光実証実験、来日後の感染か
観光庁によると、感染したのは福岡市の繁華街や大分県の温泉地を巡っていたタイの旅行会社員4人のうちの1人だった。5月27日から4泊5日の予定で来日し、同30日朝、喉の痛みがあったため抗原検査したところ、陽性だったという。他の3人は陰性だったが、濃厚接触者として宿泊療養施設での待機が必要になり、旅程は中止になった。政府は「訪日客の感染は予測内」としており、10日からのインバウンド受け入れ再開方針に変わりはないが、医療関係者からは海外から国内への変異株流入を懸念する声が上がる。
一行は3回目のワクチン接種を受け、タイ出国時のPCR検査と日本入国の際の抗原検査で陰性を確認していた。宿泊先ではそれぞれ別の部屋に泊まり、食事は間仕切りした上で黙食。旅行中はマスクを着け、手指の消毒もこまめにしていたという。一行が福岡空港から入国した5月27日の時点で、福岡県内の1日当たりの新規感染者数は1600人を超えていた。感染者は減少傾向とはいえ、人出が多い繁華街や観光地を巡れば感染のリスクは高まる。日本に入国して感染した可能性もある。
観光庁の担当者は「万全の対策を取っても感染者が出るのは予測の範囲内だ」としながら、タイ人のケースについて「感染経路が全く分からない」と驚きを隠せない。
◆感染症検査のすり抜け
感染者が出た原因の一つとして考えられるのは、PCR検査と抗原検査で見つけられなかった陽性患者がすり抜けて入国した可能性だ。感染症対策に詳しい北九州市立八幡病院の伊藤重彦名誉院長は「PCR検査も抗原検査も確実というわけではない」と話す。PCR検査は検体に含まれるウイルスが少なかったりして一定程度、陽性患者を確認できないことがある。抗原検査もPCR検査より感度が低いとされている。
国内の新規感染者が減少傾向で旅行需要も回復しつつあることから、伊藤名誉院長は「訪日客の旅行が直ちに危険とはいえない」とするが、政府に対しては警戒を呼びかける。「重要なのは(訪日客とともに)海外から新たな変異株が流入するのを防ぐことだ。国は海外の変異株情報に注意し、変異株の発生が確認されれば、当該国からの受け入れを停止するなど柔軟に対応する必要がある」
◆感染リスクはゼロにはならない
旅行会社の担当者は「ある意味、国の威信をかけた実証実験で、対策には万全を期していたはず。それでも感染をゼロにはできないということだ」と話し、感染の早期発見や感染判明後、立ち寄り先などにすぐ連絡して拡大を防ぐ必要性を指摘した。今回のケースでもそうだったように、訪日客が感染した際の対応はツアーを主催する旅行業者が負う部分が大きい。観光庁は7日、旅行業者などに向けた感染対策ガイドラインを公表する予定で、担当者は「今回の事例も反映させたい」としている。別の福岡県内の旅行会社社員は「訪日客にマスクの着用を徹底してもらうなど、できる対策を続けるしかない」とも話していた。パンデミックの死亡者が急増していた当初は、治療薬も、検査の方法、ワクチンもなかったが、3年後の現在はリスクを抱えながらも乗り切っていかなくてはならない。
参照:毎日新聞(6/4)つづき
2022年06月05日
ナポレオン家と千葉氏の家系の比較
千葉県の名前の始まりと思われる千葉氏を辿って、今まで誰も試みなかった比べてみるのはナポレオン家という奇想天外な、海津にいなによる無理くり東西比較です。そもそも、ナポレオンの父母はイタリアに属する貴族でしたが、イタリア半島の先端にあるフランス領のコルシカ島に暮らすことになり、ナポレオン・ボナパルトは立身出世を目指してフランス軍に志願して、めきめき頭角を現し、寡婦ジョセフィーヌと結婚して、上流社会に幅をきかせて、革命後に押し寄せて周辺国からの幾多の攻撃に勝利したことから、国会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位につくと「フランス人民の皇帝」として戴冠式を行い、さらに婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置くことになりました。しかし、対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、流刑先である南大西洋の英領セントヘレナにて没しました。
その後のナポレオンの子孫が、7世として現存する後継がいます。しかしながら、フランス皇帝位を請求しているという状況ではあっても、事実上の皇帝であろうはずなく、自称7世です。欧州の王室では、その称号の継承を請求して、関係者に認められる事情であると示すようです。日本の皇室は、そのような正式な継承が宮内庁の中で正規に行われており、それを国家としてそれを認めているということなのでしょう。貴族、華族を認めるルールが国家的に確立させていない国の場合に独自に財産を保有して、自立できた名家で存続するかどうか、何代目とはいっても、その財を増やす、継承するだけの永続性を担保できないと家系は傾いていくのは致し方ありません。
結果、ナポレオン=ボナパルトと血のつながりは、直系は2世までです。
ナポレオンはジョセフィーヌとの間に子が出来なかったため離婚、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によりオーストリア皇女を妻に迎え、そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けることにしました。病弱であった為。21歳で没しました。
直系は絶えたけど、遺伝的には血統は引き継がれています。「フランス帝国皇帝ナポレオン1世」がナポレオン・ボナパルト、3世が1世の甥のルイ・ナポレオンで、1848年のフランス2月革命の後に大統領になると、1851年にクーデターを起こして大統領任期を10年に延長、翌1852年に人民投票により帝位につきました。よって、ナポレオンの甥が「フランス帝国(第2帝政)皇帝ナポレオン3世」です。その次が、ナポレオン3世の子供ナポレオン=ウジェーヌ=ルイ=ジャン=ジョゼフ・ボナパルトは、皇太子でしたが、普仏戦争の大敗北で父親が捕虜になって帝政が崩壊したため、即位する間もありませんでした。
ナポレオン4世はその子供ですが、それからが自称の始まりで、自称ナポレオン4世はイギリス軍の将校として参加したズールー戦争で若くして戦死。そのため、継げる人がいなかったはずすが、ナポレオン1世の末弟ジェロームの孫で、ナポレオン公ヴィクロールがナポレオン5世を称する事になりましたが、これはボナパルト家の当主という程度です。5世以降はナポレオンの3世とは別の甥の子孫です。つまり、ジェローム家はボナパルト家で唯一、男系が残る家で、血のつながりは一応ありますが、ウェストファリア王ジェローム・ボナパルトが、不謹慎であったため、尊重される意味合いも周囲が感じないでいたわけのようです。
ボナパルト家は存続してますが、ナポレオンの帝国は終焉し、当然、何世という形での継続はありません。(神聖ローマ皇帝のフランツ2世が、国を新しくてオーストリア皇帝になるとフランツ1世となった道理で考えると、別の継承があるのかどうかという理屈)
現在、ジェローム家が相続を主張してますが、ナポレオン公(公はプリンスの意味)としての認知がされていますが、関係各所の誰にも認められてないので”自称”と相続者いうことになります。
*法定推定相続人、君主位や爵位の継承において将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がない継承権第一位の人物をいう。典型的な例として、長男相続制および男子優先長子相続制における長男や、長子相続制における第一子がある。継承権第一位が確定しているという点では、一般にいう皇太子(王太子)と共通する。しかし法定推定相続人という単語は称号ではなく一般名詞であるため、本人への呼びかけなどとしては用いられない。
これに対し、現在は継承権第一位であるが将来第一位ではなくなる可能性がある人物(兄の子の誕生により第一順位を喪失する弟や、男子の誕生により第一順位を喪失する男子優先長子相続制における女子など。)は推定相続人という。
ところが、ナポレオンの最初の妻、ジョセフィーヌはナポレオンが皇帝となると皇后の称号を与えられた。その連れ子である娘は、ナポレオンの威光もあって、ナポレオンとの血族ではないが婚姻関係を結び、むしろジョセフィーヌの血筋が欧州王室に残った。
まずは、通称「ルビー・パルア・ティアラ」と呼びならわされたルビーとダイヤモンドをあしらった宝冠が受け継がれていることが一つの証である。起源は1804年にノートルダム大聖堂で行われたナポレオン・ボナパルトの皇帝戴冠式に出席する際に、ナポレオンとはライバルとして頭角を現したフランス軍人のジャン=バティスト・ベルナドット(のちのスウェーデン王カール14世)の妻となったデジレ・クラリーが着用したのが始まりである。
1810年8月、夫のベルナドットがスウェーデン議会によって同国の王位継承者に選ばれる。夫がカール・ヨハンとしてスウェーデン王太子となるに伴い、デジレも王太子妃になった。デジレは、一時はナポレオンと婚約者となっていたが、ジョセフィーヌの出現で反故になった。
ティアラはデジレの息子の妻、つまり義理の娘にあたるジョセフィーヌ(のちのスウェーデン王妃)の手に渡る。
スェ―デン王室に嫁いだジョセフィーヌ妃は孫娘ロヴィーサ王女がデンマークのフレゼリク皇太子(のちのデンマーク国王)と結婚するときにこのティアラをプレゼント、それ以降デンマーク王室が代々受け継いできた由緒なのだ。
ジョセフィーヌ(ナポレオンの戴冠式に描かれた女性)の所有していたカメオで作られたパリュール(ティアラとネックレス、イヤリングのセット)は1809年にナポレオンによってジョゼフィーヌ皇后に贈られたもので、7つの繊細なカメオが小粒のパールで縁取られているゴールドの王冠だ。
https://www.vogue.co.jp/celebrity/stylewatch/2018-05-16
ジョセフィーヌとナポレオンの間に子供が生まれなかったため、離婚することになる。彼女の孫であるユセフィナ・アヴ・レウクテンベリがこのティアラを引き継ぎ、スウェーデンおよびノルウェー国王オスカル1世と結婚した際に持参したため、現在はスウェーデン王室が所有している。フランス皇帝妃であったジョセフィーヌが身に付けていた貴重な品々は、その後はスウェーデン王妃となる女性が継承しのだった。つづき
その後のナポレオンの子孫が、7世として現存する後継がいます。しかしながら、フランス皇帝位を請求しているという状況ではあっても、事実上の皇帝であろうはずなく、自称7世です。欧州の王室では、その称号の継承を請求して、関係者に認められる事情であると示すようです。日本の皇室は、そのような正式な継承が宮内庁の中で正規に行われており、それを国家としてそれを認めているということなのでしょう。貴族、華族を認めるルールが国家的に確立させていない国の場合に独自に財産を保有して、自立できた名家で存続するかどうか、何代目とはいっても、その財を増やす、継承するだけの永続性を担保できないと家系は傾いていくのは致し方ありません。
結果、ナポレオン=ボナパルトと血のつながりは、直系は2世までです。
ナポレオンはジョセフィーヌとの間に子が出来なかったため離婚、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によりオーストリア皇女を妻に迎え、そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けることにしました。病弱であった為。21歳で没しました。
直系は絶えたけど、遺伝的には血統は引き継がれています。「フランス帝国皇帝ナポレオン1世」がナポレオン・ボナパルト、3世が1世の甥のルイ・ナポレオンで、1848年のフランス2月革命の後に大統領になると、1851年にクーデターを起こして大統領任期を10年に延長、翌1852年に人民投票により帝位につきました。よって、ナポレオンの甥が「フランス帝国(第2帝政)皇帝ナポレオン3世」です。その次が、ナポレオン3世の子供ナポレオン=ウジェーヌ=ルイ=ジャン=ジョゼフ・ボナパルトは、皇太子でしたが、普仏戦争の大敗北で父親が捕虜になって帝政が崩壊したため、即位する間もありませんでした。
ナポレオン4世はその子供ですが、それからが自称の始まりで、自称ナポレオン4世はイギリス軍の将校として参加したズールー戦争で若くして戦死。そのため、継げる人がいなかったはずすが、ナポレオン1世の末弟ジェロームの孫で、ナポレオン公ヴィクロールがナポレオン5世を称する事になりましたが、これはボナパルト家の当主という程度です。5世以降はナポレオンの3世とは別の甥の子孫です。つまり、ジェローム家はボナパルト家で唯一、男系が残る家で、血のつながりは一応ありますが、ウェストファリア王ジェローム・ボナパルトが、不謹慎であったため、尊重される意味合いも周囲が感じないでいたわけのようです。
ボナパルト家は存続してますが、ナポレオンの帝国は終焉し、当然、何世という形での継続はありません。(神聖ローマ皇帝のフランツ2世が、国を新しくてオーストリア皇帝になるとフランツ1世となった道理で考えると、別の継承があるのかどうかという理屈)
現在、ジェローム家が相続を主張してますが、ナポレオン公(公はプリンスの意味)としての認知がされていますが、関係各所の誰にも認められてないので”自称”と相続者いうことになります。
*法定推定相続人、君主位や爵位の継承において将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がない継承権第一位の人物をいう。典型的な例として、長男相続制および男子優先長子相続制における長男や、長子相続制における第一子がある。継承権第一位が確定しているという点では、一般にいう皇太子(王太子)と共通する。しかし法定推定相続人という単語は称号ではなく一般名詞であるため、本人への呼びかけなどとしては用いられない。
これに対し、現在は継承権第一位であるが将来第一位ではなくなる可能性がある人物(兄の子の誕生により第一順位を喪失する弟や、男子の誕生により第一順位を喪失する男子優先長子相続制における女子など。)は推定相続人という。
ところが、ナポレオンの最初の妻、ジョセフィーヌはナポレオンが皇帝となると皇后の称号を与えられた。その連れ子である娘は、ナポレオンの威光もあって、ナポレオンとの血族ではないが婚姻関係を結び、むしろジョセフィーヌの血筋が欧州王室に残った。
まずは、通称「ルビー・パルア・ティアラ」と呼びならわされたルビーとダイヤモンドをあしらった宝冠が受け継がれていることが一つの証である。起源は1804年にノートルダム大聖堂で行われたナポレオン・ボナパルトの皇帝戴冠式に出席する際に、ナポレオンとはライバルとして頭角を現したフランス軍人のジャン=バティスト・ベルナドット(のちのスウェーデン王カール14世)の妻となったデジレ・クラリーが着用したのが始まりである。
1810年8月、夫のベルナドットがスウェーデン議会によって同国の王位継承者に選ばれる。夫がカール・ヨハンとしてスウェーデン王太子となるに伴い、デジレも王太子妃になった。デジレは、一時はナポレオンと婚約者となっていたが、ジョセフィーヌの出現で反故になった。
ティアラはデジレの息子の妻、つまり義理の娘にあたるジョセフィーヌ(のちのスウェーデン王妃)の手に渡る。
スェ―デン王室に嫁いだジョセフィーヌ妃は孫娘ロヴィーサ王女がデンマークのフレゼリク皇太子(のちのデンマーク国王)と結婚するときにこのティアラをプレゼント、それ以降デンマーク王室が代々受け継いできた由緒なのだ。
ジョセフィーヌ(ナポレオンの戴冠式に描かれた女性)の所有していたカメオで作られたパリュール(ティアラとネックレス、イヤリングのセット)は1809年にナポレオンによってジョゼフィーヌ皇后に贈られたもので、7つの繊細なカメオが小粒のパールで縁取られているゴールドの王冠だ。
https://www.vogue.co.jp/celebrity/stylewatch/2018-05-16
ジョセフィーヌとナポレオンの間に子供が生まれなかったため、離婚することになる。彼女の孫であるユセフィナ・アヴ・レウクテンベリがこのティアラを引き継ぎ、スウェーデンおよびノルウェー国王オスカル1世と結婚した際に持参したため、現在はスウェーデン王室が所有している。フランス皇帝妃であったジョセフィーヌが身に付けていた貴重な品々は、その後はスウェーデン王妃となる女性が継承しのだった。つづき
2022年06月04日
らちくん、マスク洗濯ネット
100円ショップ「ダイソー」で「マスクの洗濯ネット」があるとの噂、早速試して、このネットなら、不織紙マスクも型崩れもせず、何回洗って問題なしです。
夏にドライブの行き帰りで交換、宅配業者との受取で交換、ちょっとでもすぐ交換できて、夏場も爽やかで、しかも、経済的、使い捨てせずにSDGsにも適います。
洗うのは買に行くより、暑くなくらくちんでなので、ストレスが減ります。
夏にドライブの行き帰りで交換、宅配業者との受取で交換、ちょっとでもすぐ交換できて、夏場も爽やかで、しかも、経済的、使い捨てせずにSDGsにも適います。
洗うのは買に行くより、暑くなくらくちんでなので、ストレスが減ります。
2022年06月03日
ロシア侵攻の経済損失を「石橋湛山の視点」で考える
ロシアによるウクライナ侵攻が激しさを増す中、石橋湛山の主張を考えることに意味があると、第一生命経済研究所の熊野英生さんが解説します。「毎日新聞経済プレミア」に紹介された記事は、何でも経済利得で考えることは正しくないかもしれないものの、経済利得の基盤は平和であるから、安全保障を根本から考え直そうとするときには役に立つ考え方だ。改めて、なぜウクライナ侵攻は起こり、それがロシアにとって何をもたらすのかを石橋湛山の視点で問い直したいとして、現ロシアへの警鐘としている。
戦前の日本で、植民地であった満州と朝鮮半島の権益を捨てろと言った言論人がいた。戦後に首相を務めた石橋湛山である。戦前の日本は言論統制のさなかで、植民地であった満州と朝鮮半島の権益を捨てろと言った言論人は数えるほどでしかなかった。
石橋湛山の「満韓放棄論」は、植民地主義にこだわって日本が米英と対立しても何の利得もなく、むしろ自由貿易で経済利得を追求する方が、アジアにおいて日本に大きな経済メリットをもたらすという主張した。プーチン露大統領に石橋湛山の言葉を聞かせたい。ウクライナなど旧ソ連だった地域を自国に取り戻そうとしても、何の利得もなく、ロシア自身には巨大な経済損失しかもたらさない。
◇植民地主義vs自由貿易主義
石橋湛山の反植民地主義は、経済的発展を座標軸にして考えるという発想から出発した、植民地主義の反対側にあるのは自由貿易主義だ。極めてエコノミスト的な考え方である。戦前の日本の、まだ自由な言論が許されていたころに、石橋湛山はこの議論を展開した。
かつて植民地を獲得しようとした軍国主義の日本がそうだったように、現在のロシアもまた国際社会から巨大な経済制裁を受け、経済成長率が劇的に下がっている。侵略のコストと言ってよい。ウクライナ侵攻は、ウクライナに多大な損害を負わせただけではなく、ロシア自身も経済制裁を通じて大きな打撃を被ることになる。
◇戦争による経済損失を試算
国際通貨基金(IMF)の経済予測を基に、ウクライナ侵攻前(2021年10月時点)と侵攻後(22年4月時点)でどのくらい実質国内総生産(GDP)を下振れさせたのかを計算してみた。IMFは5年先まで経済予測を出している。
ウクライナの場合、22年の成長率は38.6ポイントも下方修正されていた。実額では770億ドル(約10.0兆円<1ドル=130円で換算>)の損失に当たる。
同様の計算をロシアについて行うと、22年の成長率は11.5ポイントの下方修正だった。ロシアの場合、仮にウクライナとの停戦が早期に行われたとしても、その後も経済制裁は継続すると予想されるため、さらなる下方修正が必要だろう。
ロシアの22〜26年の5年間について、毎年の下振れ幅を累積すると下方修正幅は17.6ポイントに膨らむ。実額では3100億ドル(約40.3兆円)となる。これにウクライナの770億ドルを加えると3900億ドル(約50.7兆円)に達するのだ。
これだけの経済損失が生じることを考えると、ロシアは何という戦争を仕掛けてしまったのかと思う。
◇「小日本主義」の思想
満韓放棄論を唱えた石橋湛山の考え方は「小日本主義」とも言われる。軍事力を用いて大国意識を振りかざすことは、国民にとって何の利得もないことだと喝破する。
ロシアがウクライナ侵攻を行った大きな理由は、ウクライナが北大西洋条約機構(NATO)加盟を試みようとしたことにある。自らの安全保障が脅かされることへの危機感だ。しかし、ロシア自身の軍事力増大がウクライナに危機感を抱かせ、対抗措置として加盟を急いだ面もある。
過去、ウクライナでは親ロシア政権と反ロシア政権が入れ替わってきた。反ロシア政権は欧州連合(EU)と接近して政権基盤を強化しようとする。こうした背景を考えれば、ロシアが変わればウクライナやEUの外交姿勢も変化するはずだ。
参照:毎日新聞(5/28)
<付言>
戦前の言論統制の日本の中で、わずかに征韓論に反対の主張ができた3人ほどのなかに、20代の青年、柳宗悦がいた。結婚とほぼ同時に、我孫子に移住、引っ越しした9月に朝鮮半島で美術教師をしていた青年(浅川伯教、後に朝鮮古陶器、手工芸の世界的知見となる)の来訪を受け、手土産の朝鮮白磁に感銘、その後に独自の民芸論を展開することになるのだが、「文化歴史のある一国を支配、攻撃しようとすることは後々に悔やまれることになる」と警鐘を鳴らし、朝鮮統治へ翻意するようを促した。民藝の原点には朝鮮の手工芸品や仏教文化への敬愛の念が育まれるのは、浅川巧(伯教の弟、民藝運動に重要な役割を果たす。朝鮮にて死没)の影響が大きくあった。論文『我孫子における芸術家共同体』(海津、2021)
戦前の日本で、植民地であった満州と朝鮮半島の権益を捨てろと言った言論人がいた。戦後に首相を務めた石橋湛山である。戦前の日本は言論統制のさなかで、植民地であった満州と朝鮮半島の権益を捨てろと言った言論人は数えるほどでしかなかった。
石橋湛山の「満韓放棄論」は、植民地主義にこだわって日本が米英と対立しても何の利得もなく、むしろ自由貿易で経済利得を追求する方が、アジアにおいて日本に大きな経済メリットをもたらすという主張した。プーチン露大統領に石橋湛山の言葉を聞かせたい。ウクライナなど旧ソ連だった地域を自国に取り戻そうとしても、何の利得もなく、ロシア自身には巨大な経済損失しかもたらさない。
◇植民地主義vs自由貿易主義
石橋湛山の反植民地主義は、経済的発展を座標軸にして考えるという発想から出発した、植民地主義の反対側にあるのは自由貿易主義だ。極めてエコノミスト的な考え方である。戦前の日本の、まだ自由な言論が許されていたころに、石橋湛山はこの議論を展開した。
かつて植民地を獲得しようとした軍国主義の日本がそうだったように、現在のロシアもまた国際社会から巨大な経済制裁を受け、経済成長率が劇的に下がっている。侵略のコストと言ってよい。ウクライナ侵攻は、ウクライナに多大な損害を負わせただけではなく、ロシア自身も経済制裁を通じて大きな打撃を被ることになる。
◇戦争による経済損失を試算
国際通貨基金(IMF)の経済予測を基に、ウクライナ侵攻前(2021年10月時点)と侵攻後(22年4月時点)でどのくらい実質国内総生産(GDP)を下振れさせたのかを計算してみた。IMFは5年先まで経済予測を出している。
ウクライナの場合、22年の成長率は38.6ポイントも下方修正されていた。実額では770億ドル(約10.0兆円<1ドル=130円で換算>)の損失に当たる。
同様の計算をロシアについて行うと、22年の成長率は11.5ポイントの下方修正だった。ロシアの場合、仮にウクライナとの停戦が早期に行われたとしても、その後も経済制裁は継続すると予想されるため、さらなる下方修正が必要だろう。
ロシアの22〜26年の5年間について、毎年の下振れ幅を累積すると下方修正幅は17.6ポイントに膨らむ。実額では3100億ドル(約40.3兆円)となる。これにウクライナの770億ドルを加えると3900億ドル(約50.7兆円)に達するのだ。
これだけの経済損失が生じることを考えると、ロシアは何という戦争を仕掛けてしまったのかと思う。
◇「小日本主義」の思想
満韓放棄論を唱えた石橋湛山の考え方は「小日本主義」とも言われる。軍事力を用いて大国意識を振りかざすことは、国民にとって何の利得もないことだと喝破する。
ロシアがウクライナ侵攻を行った大きな理由は、ウクライナが北大西洋条約機構(NATO)加盟を試みようとしたことにある。自らの安全保障が脅かされることへの危機感だ。しかし、ロシア自身の軍事力増大がウクライナに危機感を抱かせ、対抗措置として加盟を急いだ面もある。
過去、ウクライナでは親ロシア政権と反ロシア政権が入れ替わってきた。反ロシア政権は欧州連合(EU)と接近して政権基盤を強化しようとする。こうした背景を考えれば、ロシアが変わればウクライナやEUの外交姿勢も変化するはずだ。
参照:毎日新聞(5/28)
<付言>
戦前の言論統制の日本の中で、わずかに征韓論に反対の主張ができた3人ほどのなかに、20代の青年、柳宗悦がいた。結婚とほぼ同時に、我孫子に移住、引っ越しした9月に朝鮮半島で美術教師をしていた青年(浅川伯教、後に朝鮮古陶器、手工芸の世界的知見となる)の来訪を受け、手土産の朝鮮白磁に感銘、その後に独自の民芸論を展開することになるのだが、「文化歴史のある一国を支配、攻撃しようとすることは後々に悔やまれることになる」と警鐘を鳴らし、朝鮮統治へ翻意するようを促した。民藝の原点には朝鮮の手工芸品や仏教文化への敬愛の念が育まれるのは、浅川巧(伯教の弟、民藝運動に重要な役割を果たす。朝鮮にて死没)の影響が大きくあった。論文『我孫子における芸術家共同体』(海津、2021)
2022年06月02日
フランスの水曜日休業
フランスでは約20年前に、国全体のワーク・ライフ・バランスを向上させる目的で労働時間の短縮(週35時間制)を実施した。この策についてはいまだ多くの議論がある。
元々はキリスト教学校修士会(別名ラ・サール会)が木曜を休みに定め、代わりに土曜に授業を行っていたところを(現在は土曜日に授業を行う学校は少数)、1972年に当時の教育大臣が水曜にずらして公立の学校にも適用させたという歴史があります。その後、2008年にサルコジ政権は、学校の週4日制を採用。月曜日、火曜日、木曜日、金曜日の4日間、各6時間ということで、週24時間就学。2013年にオランド政権が採用したのは、週4日半制。月曜日、火曜日、木曜日、金曜日の4日間は各5時間15分、そして水曜日は3時間ということで、就学時間の合計は同じく24時間に。マクロン政権が提案したのは、2018年度から各自治体に選択をゆだねるという方針となった。
フランスでは、水曜日に公立の幼稚園や小・中学校が半日授業、私立においては1日休校になるため、週4日または4日半制になっています。半世紀近くにわたり、学校の水曜休み、または水曜半日休みが定着しました。特に子どもが小さいうちは子どもの休みに合わせ、水曜出勤をしない週4日勤務の社員が一定数いるフランス。全社員が出勤しない水曜には、重要な会議が組み込まれることもなく、社内には若干の余裕が生まれて、個々の仕事に集中できます。
フランスでは幼稚園〜高校1年生までが義務教育です。フランスでは、義務教育が始まる前の未就学児(日本でいう小学校入学前の児童)は、エコール・マテルネルと呼ばれる幼稚園で、幼児教育を受けるのが一般的です。小学校から大学まで授業料は無料です。
その後、6歳に入学してから10歳までの5年間は、エコール・プリメールと呼ばれる小学校で、初等教育を受けます。フランスでは、小学校で飛び級制度があったり、授業についていけないと留年することもあります。小学校卒業後は、11歳〜15歳までの4年間を、コレージュと呼ばれる中学校で中等教育を受けます。そして、中学校卒業後、16歳〜18歳までの3年間を、リセと呼ばれる高等学校に通います。
フランスだけでなく、ヨーロッパでは、学費は社会が税金で負担するのが当然であるという考え方が根付いています。大学は約2万円程度の学籍登録料などを負担するだけで通う事ができます。日本から見ると、数百万という4年間の学費やらを払って大学に通わせている親には大変うらやましい懐事情です。ある程度の収入がある家庭は、子どもを私立学校に通わせたいと思うようです。私立学校、インターナショナルスクールは有料です。
フランスには、フランスの公立大学に入学試験はなく、全国共通の大学入学資格を取得するためのバカロレアという試験があります。バカロレアの成績が入学の条件になる為、生徒達にとっては将来を決めるとても大事なテストです。リセ(Lysée)を卒業する時に受けるテストです。フランス全土で、6月に7日間もかけてテストをするのです!
フランスの学校は夕方4時〜6時に終わる為、放課後に遊ぶ時間がありません。また、放課後に校庭で遊んだり部活動をする日本とは違い、フランスの学校には、校庭がありません。体育館もない為、体育の授業は市営のスポーツ施設まで移動して行います。フランスでは体育や音楽、図工などは重要視されていないのです。習い事もあまり盛んではなく、帰宅後から就寝までの時間が短い為、宿題や夕食、お風呂などで、子ども達は忙しい毎日を過ごしています。
週の半ばにワンブレイク挟んだり、職場内がフル回転になっていないことで気持ちにメリハリがつき、自分の仕事を見直す、作業ペースを整える、などの余裕が持てる点は大きいと言えるでしょう。そして切り替えができたところで後半に向け、気合を入れ直し、仕事に邁進できるのです。OECD(経済協力開発機構)の最新調査によれば、2015年のフランスの生産性はG7(主要7か国)おいて第2位の高さ(日本は最下位)。水曜日休みと生産性は相関関係があるのかもしれません。
元々はキリスト教学校修士会(別名ラ・サール会)が木曜を休みに定め、代わりに土曜に授業を行っていたところを(現在は土曜日に授業を行う学校は少数)、1972年に当時の教育大臣が水曜にずらして公立の学校にも適用させたという歴史があります。その後、2008年にサルコジ政権は、学校の週4日制を採用。月曜日、火曜日、木曜日、金曜日の4日間、各6時間ということで、週24時間就学。2013年にオランド政権が採用したのは、週4日半制。月曜日、火曜日、木曜日、金曜日の4日間は各5時間15分、そして水曜日は3時間ということで、就学時間の合計は同じく24時間に。マクロン政権が提案したのは、2018年度から各自治体に選択をゆだねるという方針となった。
フランスでは、水曜日に公立の幼稚園や小・中学校が半日授業、私立においては1日休校になるため、週4日または4日半制になっています。半世紀近くにわたり、学校の水曜休み、または水曜半日休みが定着しました。特に子どもが小さいうちは子どもの休みに合わせ、水曜出勤をしない週4日勤務の社員が一定数いるフランス。全社員が出勤しない水曜には、重要な会議が組み込まれることもなく、社内には若干の余裕が生まれて、個々の仕事に集中できます。
フランスでは幼稚園〜高校1年生までが義務教育です。フランスでは、義務教育が始まる前の未就学児(日本でいう小学校入学前の児童)は、エコール・マテルネルと呼ばれる幼稚園で、幼児教育を受けるのが一般的です。小学校から大学まで授業料は無料です。
その後、6歳に入学してから10歳までの5年間は、エコール・プリメールと呼ばれる小学校で、初等教育を受けます。フランスでは、小学校で飛び級制度があったり、授業についていけないと留年することもあります。小学校卒業後は、11歳〜15歳までの4年間を、コレージュと呼ばれる中学校で中等教育を受けます。そして、中学校卒業後、16歳〜18歳までの3年間を、リセと呼ばれる高等学校に通います。
フランスだけでなく、ヨーロッパでは、学費は社会が税金で負担するのが当然であるという考え方が根付いています。大学は約2万円程度の学籍登録料などを負担するだけで通う事ができます。日本から見ると、数百万という4年間の学費やらを払って大学に通わせている親には大変うらやましい懐事情です。ある程度の収入がある家庭は、子どもを私立学校に通わせたいと思うようです。私立学校、インターナショナルスクールは有料です。
フランスには、フランスの公立大学に入学試験はなく、全国共通の大学入学資格を取得するためのバカロレアという試験があります。バカロレアの成績が入学の条件になる為、生徒達にとっては将来を決めるとても大事なテストです。リセ(Lysée)を卒業する時に受けるテストです。フランス全土で、6月に7日間もかけてテストをするのです!
フランスの学校は夕方4時〜6時に終わる為、放課後に遊ぶ時間がありません。また、放課後に校庭で遊んだり部活動をする日本とは違い、フランスの学校には、校庭がありません。体育館もない為、体育の授業は市営のスポーツ施設まで移動して行います。フランスでは体育や音楽、図工などは重要視されていないのです。習い事もあまり盛んではなく、帰宅後から就寝までの時間が短い為、宿題や夕食、お風呂などで、子ども達は忙しい毎日を過ごしています。
週の半ばにワンブレイク挟んだり、職場内がフル回転になっていないことで気持ちにメリハリがつき、自分の仕事を見直す、作業ペースを整える、などの余裕が持てる点は大きいと言えるでしょう。そして切り替えができたところで後半に向け、気合を入れ直し、仕事に邁進できるのです。OECD(経済協力開発機構)の最新調査によれば、2015年のフランスの生産性はG7(主要7か国)おいて第2位の高さ(日本は最下位)。水曜日休みと生産性は相関関係があるのかもしれません。
2022年06月01日
女性国会議員が半数の国
世界で初めて首相として産休・育休を取得したニュージーランドのアーダーン首相が、有働由美子キャスターのインタビューに応じました。
2017年、首相就任の直後に妊娠を公表したことについて「正直に言ってとても心配だった。ニュージーランドで前例がないことだった」と述べ、葛藤があったこと心中を覗かせました。現職の首相として初めて6週間の産休を取ることになり、一部で否定的な意見もあったものの、多くは肯定的だったいう。2018年はアーダーン首相や女性閣僚が相次いで産休を取得し、復職後は仕事と子育てを両立させていて、女性の社会進出をさらに後押しするものと受け入れられた。首相は復職後、国連総会に子連れで出席するなど、仕事と子育てを両立させている姿をみせて、社会進出を目指す女性のロールモデルとして益々注目されています。
一方、ニュージーランドは人口の4分の1以上が海外で生まれている、移民国家としても知られています。2018年には1年間で、およそ4万8300人の移民を受け入れていて、ヨーロッパ系の人たちを中心に先住民のマオリの人たちや、アジアからの移民、中東からの難民などが互いの文化や宗教を尊重しながら社会を形成してきました。
こうした多様な社会を形成しているニュージーランドは、女性の政治参加や地位の向上に積極的に取り組んでいて、1893年に世界で初めて女性が国政選挙権を獲得した国としても知られています。1933年に初めて女性議員が誕生して以降、子育てとの両立を目指す議員が増えてきたことから、1990年代には議会の敷地内に保育所が設けられたほか、議場での授乳も可能になりました。赤ちゃんを連れて登院した議員の赤ちゃんを議長みずから議場であやす姿もみられ、政界を中心に子育てしながら働くことへの理解が進んでいます。
アーダーン首相は子育て環境の充実を図るためには「働きながらの子育てなど、自分で選択することができ、その選択が批判されないようにするべきだ」と述べ、男女が最善の選択ができるような環境作りが必要だと指摘しました。アーダーン首相は「母親たちに選択肢を与えるような政策を作りたい」などと、“理想のシナリオ”を語りました。
参照:5月31日放送『news zero』つづき
2017年、首相就任の直後に妊娠を公表したことについて「正直に言ってとても心配だった。ニュージーランドで前例がないことだった」と述べ、葛藤があったこと心中を覗かせました。現職の首相として初めて6週間の産休を取ることになり、一部で否定的な意見もあったものの、多くは肯定的だったいう。2018年はアーダーン首相や女性閣僚が相次いで産休を取得し、復職後は仕事と子育てを両立させていて、女性の社会進出をさらに後押しするものと受け入れられた。首相は復職後、国連総会に子連れで出席するなど、仕事と子育てを両立させている姿をみせて、社会進出を目指す女性のロールモデルとして益々注目されています。
一方、ニュージーランドは人口の4分の1以上が海外で生まれている、移民国家としても知られています。2018年には1年間で、およそ4万8300人の移民を受け入れていて、ヨーロッパ系の人たちを中心に先住民のマオリの人たちや、アジアからの移民、中東からの難民などが互いの文化や宗教を尊重しながら社会を形成してきました。
こうした多様な社会を形成しているニュージーランドは、女性の政治参加や地位の向上に積極的に取り組んでいて、1893年に世界で初めて女性が国政選挙権を獲得した国としても知られています。1933年に初めて女性議員が誕生して以降、子育てとの両立を目指す議員が増えてきたことから、1990年代には議会の敷地内に保育所が設けられたほか、議場での授乳も可能になりました。赤ちゃんを連れて登院した議員の赤ちゃんを議長みずから議場であやす姿もみられ、政界を中心に子育てしながら働くことへの理解が進んでいます。
アーダーン首相は子育て環境の充実を図るためには「働きながらの子育てなど、自分で選択することができ、その選択が批判されないようにするべきだ」と述べ、男女が最善の選択ができるような環境作りが必要だと指摘しました。アーダーン首相は「母親たちに選択肢を与えるような政策を作りたい」などと、“理想のシナリオ”を語りました。
参照:5月31日放送『news zero』つづき