ロシア国民の8割が、プーチン政権下のウクライナ侵攻を支持しているのだとの報道がされた。戦前の日本も自国の軍拡が本命だった時期があったのだから、桜の美しい時期なのに寒々しい世情だ。
NHKはグアム島に終戦から27年間潜伏し続けた残留日本兵・横井庄一さんについて、1500分の音声テープなど未公開の膨大な記録の一部を再放送した。「グアムの戦後のことは日本政府に訴えなあかん。戦争の後始末をつけるために」という遺志をついで、記録を手がかりに関係者や資料取材で世に問うた。グアムでの現地住民に日本軍が惨殺した経緯から、終戦を迎えて司令官は恥をさらすなと教えたはずが、人知れず米軍に投降していたとは潜伏中は知らないまま、軍の規律を守って終戦指令も届かずに生存をかけて息を潜め、サバイバルを続けた。軍国主義のなれの果て、兵士を戦場に送った後に、この国は終戦とどう向き合ってきたのかその内実が浮かび上がってきた。
更に、次のような取材記事も目にした。
「咲いた花なら散るのは覚悟、みごと散りましょ国のため」。15歳で志願して軍人となり特攻要員として訓練を受けた長野市の武井敏雄(たけい・としお)さん(90)がよく歌った「同期の桜」の一節だ。勇ましい歌詞とは裏腹に、悪化する戦況下、若すぎる軍人の脳裏に芽生えたのは「死にたくない」という特攻志願への後悔だった。「もう誰にも自分と同じ経験はさせたくない」。75年前の惨状を語った。(共同通信=櫛部紗永)
▽12歳で経験した軍事訓練
1930年、東京の日本橋や浅草に店を構える衣料問屋の次男として生まれた。生まれつき体が丈夫で、走るのが速く、体育が得意だった。千葉県の八幡尋常高等小学校に入学。小学6年生では全校生徒の代表として体育部長を務め、体操では号令をかけた。太平洋戦争が始まったのはそんな育ち盛りの頃。41年12月、担任の教諭から「本日、日本はアメリカ、イギリスを相手に戦争を始めました」と聞かされた。物心ついた時から戦争は身近だった。
翌年、旧制江戸川中学校に入学。兵器庫がある学校で、軍事訓練を12歳で初めて経験した。毎朝30分間の朝礼は校庭で歩行訓練、陸軍士官学校出身の将校による「教練」の授業では竹やりで敵を倒す練習をした。毎週日曜日は学外訓練として、約30キロの道のりを夜通し歩くこともあった。深夜の線路を戦車が走り抜ける姿や騎馬隊の見学―。「いま考えればあり得ない景色ばかりだった」
14歳の頃には、勤労動員で魚雷製造工場へ。作り出す爆弾も多かったが、落とされる焼夷弾も多く、空襲は増える一方だった。東京大空襲直後の惨状はいまも、まぶたの裏に焼き付いたままだ。
▽焼け焦げた遺体
45年3月9日午後10時ごろ、東京都に隣接する千葉県市川市の自宅で家族だんらんしている時だった。突然、警戒警報もなしに空襲警報が鳴り響いた。遠くの空には爆撃機。急いで庭の防空壕に逃げ込んだ。警報が解除され外に出ると、西の空が真っ赤だった。
翌朝、中学へ自転車で向かった。黒く焼け焦げた遺体であふれかえった通り、水ぶくれした遺体でびっしりと埋まった防火用水。いつもの通学路は変わり果てていた。空襲が激しかった両国では、国技館が骨組みだけに。たまらず家に引き返すと、遺体を無造作にトラックに投げ込む兵隊に遭遇した。錦糸町の菓子屋前では、道に流れ出した水あめを舐める人たちもいた。「幼心に日本は完全に負けたと思った」
▽真っ先に教えられた切腹の仕方
父の希望で「食べ物に困らない」職業軍人を目指し、陸軍特別幹部候補生に合格。浜松市にある航空技術の教育部隊に入隊した。45年4月、大勢に見送られて東京駅を出発した。中学の同級生から胴上げされ、送別会で渡された日の丸には、親友がナイフで自分の指を切り、血で「タケイガンバレ」と書いてくれた。
入隊して真っ先に教わったのは切腹で、上官は刀を腹に刺す手本を示した。「敵に殺されるくらいなら、自決くらいしっかりやれ」。銃を抱えてほふく前進、剣で相手を突き殺す練習―。基礎訓練は朝から晩まで続いた。「同期の桜」は骨休めに何度も歌わされた。
その後、特攻要員になることを承知で操縦士を志願。華々しさに憧れたが、日に日に悪化する戦況を感じ取るにつれ、「命を懸けて特攻隊員になりたかったわけじゃない」と悔いた。仲間からは、爆弾を持って戦車に体当たりする自爆訓練を繰り返していると聞いた。「生きて帰れない」。初めて特攻が怖くなった。
45年7月、部隊は滋賀県日野町に疎開。飛行訓練にたどり着く前に玉音放送を聴いた。部隊長からは「自分の意思で帰れ」と告げられた。長野県中野市に疎開し中島飛行機の関連工場で戦闘機を製造していた家族の元へ。母親は涙を浮かべ抱きしめてくれた。
▽戦争を若い世代に語り残す
46年に長野県の旧制須坂中学校を卒業。その後、父が新たに創業した食品会社の商売を手伝い始め、現在は会長を務める。「子どもに食べる楽しさを知ってほしい」と、駄菓子を多く扱う。いまでは地元の人にテレビ広告で馴染みの店だ。
戦争で得ることは何もなかった。「命を捨てても戦争に勝て、という教育に従い、大勢の若者が無駄死にした。こんな恐ろしい教育は二度と繰り返してはいけない」。いまは戦争のむごさを若い世代に語り残す責任を強く感じている。
過去には、長野市の中学校が行う平和学習に招かれ、自身の人生を語った。「人の命以上に大切なものはない」。うなずく中学生の姿に確かな手応えと、わずかな希望を感じた。憲法改正、特に9条については「軍事大国化を助長しかねない」と懸念を持ち、世界的に社会の分断が進んでいることには不安を感じる。
8月15日正午、長野市の自宅で、全国戦没者追悼式のテレビ中継を見た。75年前を思い返し、窓の外に目をやると「力強く復興した日本」が見えた。「平和な世の中が続きますように」と強く願いながら手を合わせた。