藤原和博『55歳の教科書』ちくま文庫
失敗が、精神的にタフにするでしょうし、その無謀さを支援してくれる仲間を得ることにもなるでしょう。
そうやって経験を積んだ彼らなら、 世界の若者たちとの競争にも立ち向かっていける気がします。
若者たちのことはあまり心配していません。むしろ、古いルールに縛りつけられ、何をするにもつい隣を見てしまう大人たちが心配です。
それでは、ちっとも前に進めないからです。「坂の上の坂」だって、上れないでしょう。
ただ、一歩前へ、踏み出すこと。失敗したら、修正すればいい。
それこそが、「納得解」に近づく最短距離なのです。
東京大学教養学部で講演をさせてもらったとき、私はこんな話をしました。
正解を見つける力(=私は「情報処理力」と呼んでいます)で君たちは東大に入った。
しかし、これから求められるのは、正解のない問題にアプローチする力(=こちらは「情報編集力」と呼んでいます)である。
だから、これからは気をつけたほうがいい、と。
正解のない時代には、何が求められてくるのか。
私にはひとつの答え、があります。それは、正解を最初から求めようとしない、ということ。
もっといえば、正解が自分の中で出るまで動かないのではなく、まずは一歩、踏み出してみることです。
多少無謀でも、踏み出してしまう。
これからの人生は、昔のようにはっきりと未来がイメージできるものではありません。
それこそ、見上げても坂の上にはすっかり霧がかかってしまっている。
ただ、ここからの行動で人生は大きく変わります。
私はよくこれをゴルフに喩えます。350ヤードのミドルホールがあるとします。
成長社会というのは、ホールがすっかり晴れていた。とりあえず、グリーンもピン もはっきり見えます。
風向きもわかります。それでキャディさんに相談して、ドライバーで行くかアイアンにするか、といった判断をします。
しかし、成熟社会ではそうはいきません。霧でホールがまるで見えないのです。
しかも、いつまで経っても霧は晴れてはくれない。晴れないとすれば、とにかく打ってみるしかありません。
霧が出ていても、コース案内図はありますから、少なくとも方向だけはわかります。クラブも何でもいい。
とにかく打ってみる。よく見えないから精度は低いけれど、 なんとなくぼんやり、こっちじゃないかな、という方向はわかる。
打っていくとだんだん、やっぱりそうだった、いや違ったということもわかる。やがてグリーンが見えてきます。
まだピンは見えないけど、再び打ってみると、いまピンの横を通り過ぎた、と、とうとう見えてくる。
なるほど、ここにあったのか、とカップに向かっていよいよパットしてボールを入れる......。
もう正解がない時代なのだ、ということを認識できていないとどうなるか。
じっと待ってしまうことになるわけです。そのうち霧も晴れるだろう、と打ち出すことをしない。
キャディさんに、あれやこれやと相談したりするけれど、自分では何も決められない。
「グリーンの方向(ゴール)が見えないんじゃ、選べないよ」とクラブの選択すらもできない。
風向きがどうだ、雲の動きはどうだ、といろんなことが気になって、結局、打ち出せない。
こういう人が、日本には少なからずいるのではないでしょうか。
ゴルフでは、次のホールも待ち構えています。さっさと打ってしまわないと、次の ホールに行けません。
正確を期して待つという方法も晴れる見込みがあるならいいのですが、そういった保証はないのです。
しかも、成熟社会では、そもそも戦い方のルールが違ってしまっている。何打打ってもいいから、とにかく早くゴールに辿り着く、というルールに変わっているという事です。これがまさに、成長社会から成熟社会への変化だと私は考えています。
霧が晴れるのを信じていつまでも待ち続けている人より、ショット数は多くてもさっさとホールをこなしていく人のほうが勝つのが成熟社会です。なぜなら、長寿社会の人生ははるか長く連なる山々のごとく、昔のように短くないのですから。
ショットを試行錯誤でこなしているうちに、どれくらい打てばいいかの勘所も掴めるし、霧への対処法もマスターできるでしょう。
正解、にこだわることなく、“修正”を繰り返していくことで、経験を積み上げ腕を上げていけばいいのです。
昔のルールに呪縛されている事に気づかない人は、ルール変更が大きな足枷になります。
むしろ成熟社会では、経験の浅い子どもたちのほうが、うまく生き抜く術を手に入れるかもしれません。
実際、霧に怖じ気づいて待ってしまう大人は多い。
保守的な大学生たちの就職動向がある反面、さっさと独立し、危なげな起業をしたり、NPOなどの社会活動に身を投じる若者たちも増えてきてい ます。