サマセット・モームは、「老年の最大の報酬は、精神の自由だ」と言ったが、男はこうあらねばならぬという刷り込みが強く、「モーレツにがんばって成功を手に入れる」という根性論が男女役割世代の中で男性の意識を支配していた。そして、女は控えめでいて男をたてる役割だとと教えられてきた、そういう世代感覚が蔓延していた。そうした世代が退職し、子育ても終わった。今、「老い」を感じ始めた世代は、そんな社会や自分自身が作った縛りから、解放された。モームの言葉のように、世間や仕事に縛られずにやりたいことがやれる時が来たのである。
ところが、いくつになっても一人では生きていけないし、老若男女に関わらず人間関係は単純ではない。隣近所、親戚など等、相手があることなのでなかなかすっきりとは解決しないものだ。落ち込んで、深く心を痛めてしまう事もよくありがちだ。そんな時、指針になる言葉によって、心持ちはふっと軽くする。人生の達人とも言える曽野綾子の言葉を集めた『自分の価値』は、彼女の言葉を集めた新書。
文化の日の祝日、なので参考になりそうな部分を以下に抜粋。( )内は初出
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このごろ年をとったよさをしみじみ思う。まるで短篇小説のような人生の片々がたくさん記憶にあって、そのどれもが、いぶし銀のように輝いているのである。 若い時には、いい人か悪い人か、好きか嫌いか、であった。しかし今では、どんな変わった人も、おもしろい、会えてよかったと思う。退屈な人は一つのグループだけで、「権力欲の強い人」と「有名人に近づきたがる人」だけである。他の人はどんな癖も楽しく思える。(『「群れない」生き方』)
友達に誤解されることも、身内の誰かと意思が通じないことも、最初から諦めてしまえば、どうということはない。(『人間関係』)
関係のない人やものに対しては、怒ることも、ののしることも必要でなく、どうしても関心や同感がもてなかったら、ただ静かに遠ざかればいい。しかし考えてみると、優しさもまた、要求したら得られないものの典型である。世の中には、追い求めたら逃げていき、求めない時だけ与えられるという皮肉なものが、意外と多い。だから、優しくしてほしかったら、自分が優しくする他はない。あるいは、周囲の状況や他人の優しさに敏感に気づき、感謝のできる人間になる他はない。 (『人生の醍醐味』)
人は他人に思い出してもらえる時に幸福なのだ。たとえば、大鍋の汁を作り過ぎたから、「あいつを呼ぼう」でもいい。そこに一人で三杯汁どころか五杯汁だって平気という豪傑がニコニコ笑いながらやって来て、おつゆを何杯もお代わりして平らげてくれれば、食卓全体が明るくなる。誰でも「呼ばれている」という感覚は嬉しい。だから呼んで頼むこともいい。どんな小さなことでもいい。頼まれた人も、いそいそとそのグループに加わって自分のできることをするのだ。(略) 誰かに呼ばれている、必要とされている、ということは、どんな些細なことでも、神が呼んでいる、神がその人をその時必要としている、ということでもある。そう思えば自分の現在が楽しくなる面も見いだせるはずだ。(『死生論』)