外山滋比古『本物のおとな論』(海竜社)
日本語全体としてみると、ヨーロッパ語に比べて、いちじるしく明晰さに欠けて、アイマイである。明治以来、日本人は、それを論理性の欠如のように考えて、ひそかに恥じてきた。日本語は論理的でない、したがって、劣っていると、本気に考えた知識人はすくなくなかったはずで、後発文化のせいである。
ありのままではなく、あえて、美しい、おもしろいことばで表現するのは、洗練された文化にしかおこらない。
頼まれたことをはっきり「ダメです」というのは、正直かもしれないが、バカ正直である。
いくらかでも社会性を身につけていれば、そこはボカして「考えておきましょう」とするのは、ひとつの知恵である。
アイマイであるのは、百も承知である。
むしろ、そういうアイマイさこそのぞましいと考える。
ヨーロッパでは、ギリシャの昔から、アイマイを悪魔の模様として嫌った。
それが二千年もつづいた。二十世紀に入って、イギリス人のウイリアム・エンプソンが、「曖昧の七型」という本を出すまで、西欧でアイマイが認められたことはなかった。
日本では中世に、アイマイの美学が存在したことを、日本ははっきり評価することがなかった。
エンプソンのアイマイの論に喜びはしたものの、なお、論理性に欠けるとして日本語を恥じる風潮は消えてはいない。
ハダカで平気なのは、むかしの田舎のこどもであった。
ものごころがつけば、着物が気になる。
大人になれば、ときに分不相応の衣装を身にまとう。
ことばにおいても、それに似たことがおこっている。
幼いものは、ハダカのことばを使って平気である。
しかし、すこしものごごろがつくと、ことばを選ぶようになる。
大人になれば、さらに洗練されたことばのおしゃれをする。
このことばの洗練という点において、日本は断然、先進国である。
変な劣等感はすてなくてはならない。
アイマイは平和なことばである。論理は攻撃的である。
洗練された言葉は必然的に婉曲で多義的になる。
また、外山氏は「やさしい気持ちがアイマイを生む」という。
『日本人は明治以降、欧米文化の模倣をありがたがり、伝統的な文化を見捨て顧(かえり)みることがなく、それを進歩と錯覚(さっかく)した。戦後、日本語が大きく変わった。それが改良だと考えている人がすくなくないが、幼稚である。
こどもはひとのことに構わない。天真爛漫である。
いくらか苦労し、経験をつむと、自分勝手では見苦しいと思うようになる。
ことばの使い方も、相手の思惑を考えるようになる。
想像力がはたらく、思いやりの心がうごくことになる。
わざとわかりにくい、不明瞭なことばを使うのは、相手へのやさしい気持であるからで決して、ことばがおくれているわけではない。
アイマイの美学は一日では生まれない。洗練という伝統の中でみがかれてはじめて輝くようになる。』