ブルーストッキング協会は、18世紀半ばにイギリスで非公式の女性の社会と教育運動の先駆けだった。このグループに関わる女性は、当時のほとんどの女性よりも多くの教育を受けており、子供の数が少なかった。当時、英国女性は男性だけが大学に通い、女性は針仕事や編みなどのスキルを習得することが期待され、ギリシャ語やラテン語を知っている人にとっては「生意気」だと考えられた。教育を受けた男性を招待しながら文学について話し合うために集まる教育に関心を持つ特権的な女性の緩やかな集まりをもった。
当時のロンドンではシルクのフォーマルな黒い靴下はくのがそれなりの男性の身なりだったのが、この女性たちの主宰するあつまりには深い青い色の毛糸の靴下を身につけてくる事が教養が高く知性を表すとの流行になり、婦人達のグループのシンボルとして採用された。
この話を知った生田長江が、"Bluestocking"の和訳で、『青鞜』の名をつけた。1911年(明治44年)9月、婦人月刊誌『青鞜』は創刊された。『青鞜』は小林清親が編集委員を務めており、1千部が全国で発行された。
創刊号の表紙は、長沼智恵子[2]が描き、巻頭を与謝野の詩が飾った。そして平塚が、高名な「元始女性は太陽であった」に始まる創刊の辞を載せここに初めて「らいてう」の筆名を使った。
1912年(明治45年)の新年号は、前年の『人形の家』上演に関連して、『附録ノラ』上に社員らの評論を特集した(雑誌上で文芸を、附録で婦人問題を扱った)。
社員には集散があり、尾竹紅吉(一枝。19歳)が1912年(明治45年)1月に、神近市子(24歳)が7月に、伊藤野枝(17歳)が10月に入社した。紅吉が五色の酒を飲んだことや叔父の日本画家・尾竹竹坡に連れられ吉原に登楼したこと、相愛の平塚に男友達ができたことなどを誌上で奔放に書き綴ったことで、市中の記者に批判の槍玉に上げられ退社に追い込まれると、ノラのような「目覚めた女性」を指していた「新しい女」のという見方から「ふしだらな女性」という見方が『青鞜』に向けられるようになった。
1912年(明治45年)5月ごろから翌年にかけて、多くの新聞・雑誌が、からかいを込めた「新しい女」特集を載せ、順調だった『青鞜』に影が差した。女子英学塾の津田梅子は塾生が青鞜に関わることを禁じ、日本女子大学校の成瀬仁蔵も「新しい女」を批判した。1915年(大正4年)6月号は、原田の堕胎論で発禁処分を受け、以後発禁期間が終了した後発行されていない。
青鞜側も、1913年(大正2年)の1月号と2月号の附録「新しい女、其他婦人問題に就て」で反撃し、岩野泡鳴、阿部次郎、馬場孤蝶、杉村楚人冠らは青鞜に対し賛意を表明がその2月号は、附録中の福田英の所論が社会主義的であるとして発禁処置とされた。
つづき