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韓国原爆被害者協会の推計によると、このうち韓国人死亡者は広島3万5000人超、長崎1万5000人超で5万人〜7万人で、広島・長崎の犠牲者全体の20%に近い。うち約4万人が死亡し、帰国したのは約2万3千人という。うち慶尚南道陜川が約550人と最も多い。陜川出身の強制徴用者の大半が広島に連れて行かれたからだ。このため、陜川は「韓国の広島」と呼ばれるようになり、原爆記念館が2017年にオープンした。
日帝時代時当時、朝鮮人にとって親日が表向きのスタンスだった。そうした中で、朝鮮王族は日本軍大佐として広島で服務中に原子爆弾で即死。当初、日本にきた朝鮮人の多くは親日家で自主的に渡航して行った人達である。こうした人々は日韓両国から差別もあり、日本にいた際に被爆したとの証明そすることの難しさがあった。
その間、日本の敗戦、朝鮮戦争の混乱期で原爆被害を受けたにも関わらず、彼らへの救済は遅れに遅れた。日本に残った在日朝鮮人を除き、韓国に帰ったという理由で、日本政府が支給する医療手当を韓国帰還者には支給していなかった。
故・ソンジンヅ(1927〜2014)氏は、1970年に被曝治療を受けるために日本に密航した。彼は長期の法廷闘争の末、1978年に「不法入国者も「被爆者健康手帳」を与えなければならない」という最高裁判決を引き出した。
「被爆者健康手帳」とは、日本政府の医療費支援を受けるために基本となる書類だ。以降、日本に渡って治療を受けて帰ってきたグァクグィフン(92)氏が「韓国に行っても「被爆者健康手帳」が効力を失わないようにしてくれ」と訴訟を起こした。日本政府は、2002年2審で敗れた後、さらに上告しなかった。
これに伴い、韓国人被爆者たちも一応日本に行って「被爆者健康手帳」を作ってくれば、韓国に戻ってきても、日本政府が提供する健康上の福祉を得ることができるようになった。ただし、上限があって、日本人は日本でも海外でも無制限医療費をサポート受けられるが、韓国人は「年間300万ウォン」が全てだった。
イホンヒョン氏は、まさにこの最後の障壁を訴訟理由した。彼は幼い頃からいろいろな種類の病気を患った。18歳の時、母親が「実はあなたが私の胎内にいるとき、私は広島にいた」と打ち明けた。以後白い斑点も生じて、高血圧や慢性心不全にも病んだ。彼は「体が痛く職場も早く辞め、自営業して食べ住んでいた」とし「2008年に治療受け広島に行った時に「被爆者援護法」を読んで、差別を正さなければならないと心に決めた」と考えた。裁判によって訴えが起こされ、韓国人被爆者も手当を受けることができる被爆者手帳が与えられた。日本政府から1人当たり120万円(約1130万円)を支給されることになった。
先の手帳を持っている人は60%程度 であると推算している。2008年8月10日には、日本の厚生労働省は、日本外に居住する在外(在外)被爆者について慰謝料と裁判費用で、このような金額を支払うとなった。こうしたことから、日本の被爆者援護法に基づく被爆者健康手帳を持つ韓国在住者は2119人(2008年8月10日)、先の手帳を持っている人は60%程度 であると推算している。
参照HP:http://japan.hani.co.kr/arti/politics/28106.html つづき