事件当時に父親の滋さんは日本銀行新潟支店勤務であった、母親の早紀江と共に幼い娘を守ってやれなかった事に苦渋の日々を過ごし、全国行脚となる講演会や署名運動を行うなどして、国民に実態を訴え、日本政府として海を越えた交渉を行うよう訴えた。米国大統領との会見に赴き、国際社会も注視していくよう、様々に働きかけ、救出されるまで心休まらぬ、恵さんが帰ってくるまで終わりのない要請を続ける時を過ごしてこられた。海津にいなも、講演会に行ってお話を伺ったことがあった。映像での紹介と実際にお二人が懸命に話される姿を目にして、13歳という年齢で突如連れ去られた娘の奪還を訴え続けるご両親の苦悩をわが身に置き換え、まして同名の娘がいるので、ご両親の深い悲しみ、親としての居たたまれない強い思いが強く伝わってきて、涙を禁じえなかった。政治体制の違う国に連れ去られた娘を片時も忘れず、心休まらない日々を送られた滋さんの悲願が必ずや叶うよう、ご冥福を祈り申し上げます。
ポスターは、アビスタの野外掲示板に貼られていたもの。
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《20年前、13歳少女拉致 北朝鮮亡命工作員証言 新潟の失踪事件と酷似》(97年2月3日付朝刊1面)
少女Aではなく、横田めぐみ、と実名で報じた。名前公表による影響を危惧した家族の中で滋さんだけが実名派だった。危険なことはあるかもしれないが、本名を公開して世論に訴えるほうがいい−後に聞いた言葉に救われた。
程なく被害者家族会の代表に就いた滋さんを間近に見てきた。街頭署名活動、全国1400カ所への講演行脚、被害者家族の結束を図りながらのメディア対応…。めぐみさんの「死亡」宣告、孫の出現、被害者5人の帰国と続いた激変の中、人前で父親の心情を吐露することの少なかった滋さんがもらした一言が忘れられない。
「なんで助けてくれないの、といつもめぐみに責められているような気がしましてね」
小泉訪朝の2002(平成14)年9月17日、北朝鮮側の説明をうのみにした政府から「死亡」を告げられた滋さんは記者会見の席で言葉を詰まらせた。代わった早紀江さんは「めぐみは濃厚な足跡を残した」と気丈に話したが、滋さんの足跡もまた、濃く、厚かった。
最後の入院直前の一昨年春、ご自宅で久しぶりにお会いした。2時間余、早紀江さんの傍らで一語も発しなかったが、目には力が宿り、すがすがしい笑みさえ見せた。満足いく結果が得られなかった無念さはあるが、親にできることは全てやり尽くした、そんな充足感ゆえではないだろうか。重い荷を負って妻と実直に歩んだ過酷な、そして見事な生涯だった。天国に召された今、改めてそう思う。
めぐみさんに伝えたい。お父さんは、あなたと拉致被害者全員を助けようと身を削り精魂尽くしました。双子の弟の拓也さん、哲也さんが遺志を継いでくれますよ。 合掌。
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出典:阿部雅美(産経新聞 6/6)