良いとか悪いとかではなく、日本の歴史上千年以上も続いてきた天皇家の存在と歴史的役割。天皇とは、日本人にとって何なのだろうか。
4月30日に今上天皇が退位、平成が終わり、新しい時代が始まった。新たな元号や、退位・即位に伴う儀式など、皇室への関心が高まっていた。そこで、天皇の仕事を解説する『皇室番 黒革の手帖』(2018)が皇室記者の回想録として出版された。
著者・大木賢一は宮内記者当時、天皇、皇后両陛下や皇太子ご一家のお出まし≠待つ時 間が長いのと、皇室の番記者はカメラを使ってはいけないという規則があって、取材のかたわら、黒革の手帳にはスケッチが描きためていた。この本は、宮内庁がどう動いているか、「宮内庁記者」の立ち位置で宮中祭祀から国事行為、園遊会、欧州訪問、国内の地方訪問を天皇の仕事の舞台裏を解説する。一方で「世界一気の毒な登山家」などと、至近距離で取材した秘蔵エピソードも交えて、皇室への肯定ばかりでなく、批判も加える。
駅頭や沿道で「一般奉迎者」といわれる手をふる市民にも目を向け、著者がそれまでに実感することのなかった礼讃する「国民」の出現にも言及する。「世間一般にそうしたムードが続いています。私はこの世に批判してはならないものなど、一つでもあってはいけないと思っています。」と、ジャーナリスト精神が込められているのもミソだ。「いい人がいいことをしているんだから、悪く言う人などいるはずがない」、そんな前提で皇室記事が書かれ、読まれるようになってきたことへの危惧をしている。
確かに、BBCなど女王陛下であろうが他の王族に対しであろうが、批判が出ているようなことがあるときには、言葉は選びつつもチクリと批判は付け加えているし、それが正常だ。それによって、他の王族に対する一方的なバッシングを避ける防波堤にもなっていく。翻って、日本のメディアは常にそのときの両陛下への批判は書かないし、書いたとしても非常に婉曲である。昨今、一方的に過ぎる皇嗣家に対するバッシングは、批判がされるべきだろうがその声は聞こえてこない。大木氏の著作は、皇室の催事を分かり易く解説しつつ、平成の両陛下のなさりようが全て正しいような、他に選択などがないような風潮に、一石を投じた点でも際立っている。
著者の記事もインターネットに掲載されていたので、次に抜粋した。
* * *
2008年7月、現役の担当記者として「象徴の軌跡 東宮家の憂い」と題した連載記事を書いていました。その4回目は「助走必要な『日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)』 皇太子像、時代で変遷」というタイトルで書いていました。
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陛下の宮中祭祀の熱心さは歴代でも群を抜き、皇后さまと二人で国民に歩み寄るスタイルも自らつくり上げた。しかしその形にこだわり過ぎれば、皇室自身を苦しめることになる。
病に苦しむ雅子さまと、ひたすらそれを支える皇太子さま。その姿に励まされ、救われる国民はたくさんいる。すでに立派な公務≠フひとつを果たしているのではないか。良き伝統と新しい役割のはざまで、日嗣の皇子は将来の皇位を嗣ぐ。
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当時、この記事のこの部分が、インターネットで反響がとても大きくなっていました。
「『すでに公務のひとつを果たしている』。何度読んでも素晴らしい文だわ」「共同通信の記者がこれを書くには相当な勇気がいったはず」「共同通信GJ(グッドジョブ)」など、そういうネットの反響に慣れていない通信社の記者としては、驚くほどの数でした。新聞の読者が、共同通信の配信記事に関心を持ったとしても、その声が新聞社を介して筆者の耳にまで届くとは極めて稀なのです。その時の記事は、ネットで拡散されて何万人、何十万人もの目に触れたことによって、結果的に1000人以上もの人びとが直接の感想を書き込んでくれた、それは記者として初めての経験であり、喜びでした。
その後、2016年8月8日に平成天皇のビデオメッセージがされました。それには「退位」「譲位」の言葉は一つもありませんが、国民のほとんどが「お気持ちはよく分かりました」という反応を示しました。事前に関連報道されていなければ、こういう反応は起きえない現象です。当時の宮内庁幹部は記者に囲まれ「報道のような事実はない」「陛下のそのよう なお気持ちは聞いたことがない」と完全否定する立場を取っていました。
「退位」の意向だとマスコミが大騒ぎになった当日、私が所属する共同通信編集局の幹部がこんなことを言いました。「天皇の次の定例会見はいつなんだ!」。天皇本人の真意がそこで明らかになると考えたのでしょうが、閣僚ではないのですから、天皇に定例会見などというものはありません。会見は、毎年の誕生日前と、海外公式訪問の前だけです。その際の言葉はいまだに修正されたわけではありませんが、結局。前天皇は退位してしまいました。
初めて「(生前)退位の意向」が報じられた時は、驚き以上の激しい感情がありました。「政治的発言に当たらないのか」という憲法上の疑義とともに、メディアを利用して自ら世論の醸成を図っているとしか思えなかったからです。その気持ちは今も変わりません。8月8日の「解説」で、共同通信の記者として、「天皇は国政に関する権能を有しない」とする憲法との兼ね合いについての「断り書き」を入れて、しかも、メッセージの中で2度にわたっていることを指摘しました。そして「天皇という立場上、制度に具体的に触れることは控える」などとも述べており、その違和感を皮肉的に書きたかったのです。そこで、この記事を配信する際、社内で確認がされました。「これは、憲法に触れるかもしれない危ない橋を渡ってまで、(天皇が)ありがたいお言葉を発してくださった、ということでいいんだよね」と。
全然違います。むしろ真逆です。言うなれば「これは確信犯だ」と書きたかったのですから。こうした「誤読」をさせてしまった責任はもちろん私の書き方がはっきりしなかった点にあるのですが、皇室報道の常識では、これ以上はっきりと書くことは、正直言ってできませんでした。意図的に敬語を排し、普段の新聞の基準とは異なる表記をしました。文章の内容が批判であることを明確にしたかったからです。今度ばかりは絶対にはっきりと伝えたい。過剰な敬語を使いながら批判を含む言説を展開するのはほとんど不可能です。そう思い、あえて尊称と敬語を全て外しました。一般の方に読んでもらうと、「何これ? 不愉快だから読みたくない」と突き返されました。読んでもらえない記事を書いても何の意味もないので、仕方なく棘を抜いた原稿に直しました。今、当時に書いた「解説」を読み返してみると、自分でも「これじゃあ伝わる訳がないな」と感じます。この「誤読事件」以降、「陛下」とか「さま」とかいう人間離れした尊称や、「なさった」などの敬語を使うばかりでは、批判や皮肉が伝わらない一因になるのではないかと思うようになりました。
共同通信は株式会社ではなく、一般社団法人です。全国の地方新聞やNHK、産経、毎日、日本経済新聞、東京新聞などが加盟しています。敬語の扱いは社によって様々で、共同通信では「天皇や皇族を主語とした最初の一文の最後の動詞」のみを敬語にしています。産経新聞はひとつの文に必ず一度は敬語を使い、反対に朝日新聞は一切敬語を使いません。 2016年のビデオメッセージ「解説」において、尊称と敬語を排して、皇室にまつわる記事を書いたのは、文章の内容が批判であることを明確にし、その確たる思いがあって、あえて尊称と敬語を全て外しました。そのため、皇室の方々に対して尊称や敬語を一切使わなかったことを「敬語も知らずに皇室記者とは呆れたものだ」と評する方々が多くいました。もちろん、記者として会社の仕事をしているときは、尊称と敬語を使います。天皇は「天皇陛下」、皇后は「皇后さま」、天皇と皇后は「天皇、皇后両陛下」、それ以外の皇族は全て「さま」です。ほとんどのメディアが同じ基準だと思います。
前天皇は平成元年、即位に際した記者会見で、記者の質問に答えてこう述べています。
「(天皇制の是非を論じることも含め)言論の自由が保たれるということは、民主主義の基礎であり、大変大切なことと思っております」
「不敬」などという名の下に、天皇や皇室に関する批判的言説を許さない風潮に逆戻りがあるのなら、それこそ「陛下のありがたい御心(みこころ)」に反することにならないでしょうか。いいことはいい。悪いことは悪い。天皇の地位は国民の総意に基づくのですから、国民も、メディアも、そして側近の方々も宮内庁の職員も、おかしいと思うことがあれば指摘すべきだと思います。
大木賢一:
共同通信記者として2006年から2008年まで宮内庁担当。
1967年、東京都生まれ。1990年、早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。共同通信社入社。鳥取支局、秋田支局、大阪府警と警視庁で捜査1課担当。大阪支社社会部、東京支社編集部でデスク、仙台支社編集部で担当部長。2016年11月から本社社会部編集委員。
参照:https://gendai.ismedia.jp/list/author/kenichiooki
つづき
2019年11月30日
2019年11月29日
焼き場に立つ少年
「焼き場に建つ少年」教皇はこの写真を印刷したカードに「戦争が生うみ出したもの」とする言葉をそえ、世界に広めてきました。 撮影したジョー・オダネルさんについては、ホームページなどが詳しく紹介しています。それによると、1945年、占領軍カメラマンとして来し、被爆した広島・長崎や空襲で被災した各地の様子を記録。空爆調査団の公式カメラマンとして原爆投下の1ヶ月後の長崎で撮影を始めました。46年帰国後、私用カメラで撮影した写真ネガを罪悪感から自宅のかばんにしまい込んだ。オダネさんは、そもそも真珠湾攻撃を受けて以来、日本に憎しみを抱き、19歳で軍に志願した人でした。49年から68年まで、米国情報局ホワイトハウス付カメラマンとして、アメリカ情報局に勤めたそうです。中でも暗殺されたケネディの棺の前で、息子が敬礼している写真は有名になりました。
軍の許可なく人物の撮影をしてはならないと言われていたそうです。しかし、彼は悲惨な光景に衝撃を受け、その姿を写真に収めてゆきました。そして、7ヶ月間長崎・広島を撮影した後、秘密裏に母国の自宅に持ち帰りましたが、悲惨な光景は頭から離れる事はありませんでした。
自分の国がした行為をどうしても正当化する事が出来ず、苦渋の日々にさいなまれ、全ての写真をトランクの中に封印してしまったと言います。しかしある日、彼は教会で原爆被害者の写真を貼付けられたキリスト像を目にした時、かつての衝撃がよみがえって来たのでした
89年、米国内の反核運動に触発されてかばんを開け、90年米国で原爆写真展を開催。けれどもアメリカでは受け入れられない行為でした。皆から嫌がらせを受け、妻までもが去って行きました。
2007年、奇しくも長崎原爆投下と同じ日に脳卒中で85歳没。美智子皇后(当時)は、オダネルが従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」の新聞への掲載が、2007年に印象に残ったことの一つとして言及されている。また、彼の遺志を継ぐ息子さんによって、オダネル氏の回想録の入ったテープが発見されました。
オドネルの死は米国ではどう報道されたか、訳してくれたHP(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/08/joe_odonnell_6972.html)があったので下記に引用する。
14日付けニューヨークタイムス”Joe O’Donnell, 85, Dies; Long a Leading Photographer ”(参照・要登録)が詳しい。
The cause was complications of a stroke, said his wife, Kimiko Sakai. She said that he had had more than 50 operations, among them surgery on his colon and his heart, and that he had attributed his poor health to radiation exposure resulting from his visits to Nagasaki and Hiroshima.
(死因は、妻坂井貴美子によると、卒中が併発したものだった。彼は50回もの手術をしていたし、それには直腸や心臓の外科手術も含まれていた。彼が健康を損なっていたのだは、彼が長崎と広島を訪問したおりの被爆によるものだ。)
オドネルは米国の公的な写真家でもあり、そうした側面についてニューヨークタイムス記事は触れているのだが、後半はやはりトランクの中の写真に多くを裂いている。
Mr. O'Donnell also ventured to Hiroshima and to cities bombed with conventional weapons. He carried two cameras. With one, he took pictures for the military. With the other, he took pictures for himself. When he returned home after the war, he put the negatives of his own photos in a trunk and locked it, emotionally unable to look at them.
(オドネル氏はまた広島や通常兵器を受けた諸都市も訪問した。彼は二つのカメラを持っていた。その一つで従軍用の写真を撮り、もう一方で彼自身のための写真を撮った。戦後彼は帰国し、その写真のネガをトランクに詰め封印した。それらは感情的に見ることができなかった。)
彼が自身の封印を解いたのは半世紀近くたってからだ。
When he finally could, nearly a half-century later, he was so repulsed that he threw himself into protesting nuclear arms. In 1995, he published in Japan a book of many of those photos, and, a decade later, another in the United States. He lectured and exhibited in both countries.
(約半世紀して彼は見られるようになったとき、打ちのめされ、自身を核兵器反対運動に投じた。1995年、彼は日本で多くの関連写真を出版し、10年後に米国で出版した。彼は両国で講演と展示会を行った。)
記事はこのあとスミソニアン航空宇宙博物館展示の問題に触れているが、彼は原爆は「しかたがない」とする展示の趣旨を受け入れることができなかった。
The photographs were stricken from curators' plans, as were other features that offended veterans. In an interview that year with National Public Radio, Mr. O’Donnell contended that, given what he had seen immediately after the war, Japan could have been defeated with conventional arms, and without the hundreds of thousands of American casualties that an invasion of the Japanese home islands had been expected to entail.
(退役軍人の怒りを買った他の展示と同様、その写真はキュレーターの企画から削除された。この年の国営ラジオNPRのインタビューでオドネル氏は議論を投げかけた。彼が戦後すぐに見たものからすれば、日本は通常兵器で敗戦に追い込むことができた。しかも、本土上陸による十万人規模の犠牲者を要せずとも可能だった。)
再婚の妻は米在住の坂井貴美子さん(56)が、オダネルさんの遺志を尊重して、写真集「トランクの中の日本」(小学館)を出版。
軍の許可なく人物の撮影をしてはならないと言われていたそうです。しかし、彼は悲惨な光景に衝撃を受け、その姿を写真に収めてゆきました。そして、7ヶ月間長崎・広島を撮影した後、秘密裏に母国の自宅に持ち帰りましたが、悲惨な光景は頭から離れる事はありませんでした。
自分の国がした行為をどうしても正当化する事が出来ず、苦渋の日々にさいなまれ、全ての写真をトランクの中に封印してしまったと言います。しかしある日、彼は教会で原爆被害者の写真を貼付けられたキリスト像を目にした時、かつての衝撃がよみがえって来たのでした
89年、米国内の反核運動に触発されてかばんを開け、90年米国で原爆写真展を開催。けれどもアメリカでは受け入れられない行為でした。皆から嫌がらせを受け、妻までもが去って行きました。
2007年、奇しくも長崎原爆投下と同じ日に脳卒中で85歳没。美智子皇后(当時)は、オダネルが従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」の新聞への掲載が、2007年に印象に残ったことの一つとして言及されている。また、彼の遺志を継ぐ息子さんによって、オダネル氏の回想録の入ったテープが発見されました。
オドネルの死は米国ではどう報道されたか、訳してくれたHP(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/08/joe_odonnell_6972.html)があったので下記に引用する。
14日付けニューヨークタイムス”Joe O’Donnell, 85, Dies; Long a Leading Photographer ”(参照・要登録)が詳しい。
The cause was complications of a stroke, said his wife, Kimiko Sakai. She said that he had had more than 50 operations, among them surgery on his colon and his heart, and that he had attributed his poor health to radiation exposure resulting from his visits to Nagasaki and Hiroshima.
(死因は、妻坂井貴美子によると、卒中が併発したものだった。彼は50回もの手術をしていたし、それには直腸や心臓の外科手術も含まれていた。彼が健康を損なっていたのだは、彼が長崎と広島を訪問したおりの被爆によるものだ。)
オドネルは米国の公的な写真家でもあり、そうした側面についてニューヨークタイムス記事は触れているのだが、後半はやはりトランクの中の写真に多くを裂いている。
Mr. O'Donnell also ventured to Hiroshima and to cities bombed with conventional weapons. He carried two cameras. With one, he took pictures for the military. With the other, he took pictures for himself. When he returned home after the war, he put the negatives of his own photos in a trunk and locked it, emotionally unable to look at them.
(オドネル氏はまた広島や通常兵器を受けた諸都市も訪問した。彼は二つのカメラを持っていた。その一つで従軍用の写真を撮り、もう一方で彼自身のための写真を撮った。戦後彼は帰国し、その写真のネガをトランクに詰め封印した。それらは感情的に見ることができなかった。)
彼が自身の封印を解いたのは半世紀近くたってからだ。
When he finally could, nearly a half-century later, he was so repulsed that he threw himself into protesting nuclear arms. In 1995, he published in Japan a book of many of those photos, and, a decade later, another in the United States. He lectured and exhibited in both countries.
(約半世紀して彼は見られるようになったとき、打ちのめされ、自身を核兵器反対運動に投じた。1995年、彼は日本で多くの関連写真を出版し、10年後に米国で出版した。彼は両国で講演と展示会を行った。)
記事はこのあとスミソニアン航空宇宙博物館展示の問題に触れているが、彼は原爆は「しかたがない」とする展示の趣旨を受け入れることができなかった。
The photographs were stricken from curators' plans, as were other features that offended veterans. In an interview that year with National Public Radio, Mr. O’Donnell contended that, given what he had seen immediately after the war, Japan could have been defeated with conventional arms, and without the hundreds of thousands of American casualties that an invasion of the Japanese home islands had been expected to entail.
(退役軍人の怒りを買った他の展示と同様、その写真はキュレーターの企画から削除された。この年の国営ラジオNPRのインタビューでオドネル氏は議論を投げかけた。彼が戦後すぐに見たものからすれば、日本は通常兵器で敗戦に追い込むことができた。しかも、本土上陸による十万人規模の犠牲者を要せずとも可能だった。)
再婚の妻は米在住の坂井貴美子さん(56)が、オダネルさんの遺志を尊重して、写真集「トランクの中の日本」(小学館)を出版。
2019年11月25日
ご飯をたべよう
昨今では「糖質オフ」「糖質制限」が謳い文句の食品が人気を集めており、糖質に対してネガティブな印象をもちがちですが、私たち日本人の多くは、主食のごはんで炭水化物を摂り、健康を維持してきました。
体内のエネルギー代謝を正常にするためには、最低でも1日に100〜150gの炭水化物が必要です。炭水化物を効果的に摂るには、ごはんが適しています。ごはんに換算すると、ごはん茶碗約2杯です。しかし、それでは必要な最低量なので、普通に生活している人は、1日にお茶碗3〜4杯分は摂るべきでしょう。体内に貯めることができる炭水化物の量はわずかですので、1日の食事で常に適量を摂る必要があります。ごはんの主成分である炭水化物は優先的にエネルギー源として使われるからです。
また、ごはんはゆっくり消化・吸収されます。従って、食後の血糖値の上昇も穏やかでインスリンの分泌も少なく、結果的に体脂肪になりにくいのです。ごはんは腹持ちもよい食品なので、食べ過ぎや間食を防ぎ、肥満予防にもなります。ご飯は糖質ダイエットなど気にせずに出来る食事なので続けて健康になるのです。
参照:https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20191105/keyword.html
体内のエネルギー代謝を正常にするためには、最低でも1日に100〜150gの炭水化物が必要です。炭水化物を効果的に摂るには、ごはんが適しています。ごはんに換算すると、ごはん茶碗約2杯です。しかし、それでは必要な最低量なので、普通に生活している人は、1日にお茶碗3〜4杯分は摂るべきでしょう。体内に貯めることができる炭水化物の量はわずかですので、1日の食事で常に適量を摂る必要があります。ごはんの主成分である炭水化物は優先的にエネルギー源として使われるからです。
また、ごはんはゆっくり消化・吸収されます。従って、食後の血糖値の上昇も穏やかでインスリンの分泌も少なく、結果的に体脂肪になりにくいのです。ごはんは腹持ちもよい食品なので、食べ過ぎや間食を防ぎ、肥満予防にもなります。ご飯は糖質ダイエットなど気にせずに出来る食事なので続けて健康になるのです。
参照:https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20191105/keyword.html
2019年11月24日
韓国のGSOMIA延長、日本は賢明な判断を要請
22日、韓国が日本とのGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の維持を発表した。直前までは破棄されるものと見られていた中での急転直下の破棄凍結。これに対して、ジャーナリストの崔碩栄(チェ・ソギョン)氏は「解決には至っていないが、最悪の状態は回避することができたと思っている」との見解を示した上で、韓国内での受け止めについて次のように説明する。
崔氏は、「色々な放送局が青瓦台の高官の会見を生中継していたが、実際の会見は短く、記者からの質問も受けなかったし、スタジオがシーンとなって、アナウンサーも一瞬止まったように見えた。分かりやすく“GSOMIAを延長することにした。破棄はしないことにした”と言えばいいところを、“GSOMIA終了通報の効力を停止することにした”という馴染みのない表現で、あえて遠回しに国民に伝えようとしたということが印象的だった。やはり前日まで国民の50%以上が破棄に賛成していたし、政府与党もSNSで“破棄は仕方ない”と言ってきた。だから、韓国国内は破棄に向かっていくのだろうという雰囲気があったからだろう。YouTubeライブのコメントも、“韓国が勝ったのか。日本が勝ったのか。どっちなの”というような反応が多く、混乱していた。その後、文在寅大統領支持派のSNSやコミュニティを見てみると、“さすが大統領。賢明な決断だ”という声も見られた。おそらくGSOMIA破棄に支持していた人たちは、GSOMIAのことをあまり分からないまま、ただ大統領のやることは支持するという人たちが多いのだろう。逆に大統領反対派は“やはり負けたではないか”という反応だ」。
.
一方、アメリカ側の見方についてハドソン研究所研究員の村野将氏は「具体的には分からないが、アメリカの強い意向があったことは間違いないだろう。韓国が破棄を発表してから、国防長官から局長級の高官が再三にわたり韓国に対して見直すべきだと言い続けてきたということは間違いない。そしてその間、韓国側の決定を擁護する声はワシントンではほとんど聞かれなかった。GSOMIAが失効して最も困るのはアメリカだ。日韓GSOMIA以前はTISAといって、アメリカが日本と韓国の情報共有を仲介する形でそれぞれの国に情報提供をしていた。だから韓国側としては日韓GSOMIAを破棄してもTISAの枠組みに戻るだけで問題ないということだったが、アメリカにとっては行政的な負荷が大きくなる。韓国側が土壇場で破棄を停止する結果というのは、アメリカ側としてはとりあえず受け入れられる結果だと思う」。今後について村野氏は「GSOMIAが残ったことで、なければできない防衛協力が当面は継続できることはプラスだと思う。日本としては政治的な問題がある中で、ハイレベルな防衛的議論ができるということでGSOMIAの枠組みを作った。しかし今回のことで、政権が変われば駆け引きの材料になってしまう不信感が生まれた。これは簡単に拭えないだろう。また、ワシントンは輸出管理と徴用工が別々の問題だと信じている人はほとんどいない。今回の対処としては、それぞれの関連している問題を切り離して協議しましょうということだと思うが、アメリカとしては、そこは韓国が整理して下さいという立場だ」との見方を示した。
菅義偉官房長官は22日午前の閣議後会見で、23日午前零時に失効が迫るGSOMIAについて、破棄の方針を示す韓国側に引き続き賢明な対応を求めていると述べた。韓国側が協定失効回避には日本側が対韓輸出管理強化を撤回することが必要としていることについては、「韓国に賢明な対応を求める立場に変わりない」と繰り返した。
こうした日米韓の受け止め方を見て、テレビ朝日の足立直紀政治部長は「GSOMIAの継続が決まったわけではなく、破棄する期限を延ばし、その間に交渉すると韓国側が言ってきたと日本側は説明している。韓国側が輸出規制の撤廃を求め、日本側がGSOMIA延長を要求していた中、水面下で落としどころを探っていたと思う。ただ、双方とも国内対策上で譲歩したという形は取れない。その結果、こうなったと見ている」と話す。
日本政府の見方について足立氏は「日本側の政府高官は“時間が先に延びたというだけで、何も動いていない、譲歩も退歩もしていない”と言っている。つまり、韓国側が譲歩し、日本が指摘していた輸出管理改善について韓国側に努力が見られ、WTOの提訴も停止してきたというところだ。政府の中枢の人たちは韓国側が折れてくるかなという動きを21日あたりから感じ取っていたようで、この日の午前中に韓国のNSC(国家安全保障会議)が断続的に開かれる中で、譲歩の芽が出てきているという情報も仕入れていたようだ。現状では輸出規制とGSOMIAはバーターのようになっているので、輸出規制がこじれてしまうとGSOMIA破棄につながる結果になり得るが、輸出規制に関してはレジスト、フッ化水素、フッ化ポリイミドという3品目について、それぞれ認められる企業には認めていっている。現実は少しずつ輸出規制の影響は薄れていっている面もあった。今後は輸出管理の話も当然していくが、徴用工の問題が最も大事であるという位置づけは変わらない。ただ、この問題は日韓両方とも時間がかかると見ている。ひょっとしたらGSOMIAと輸出規制の問題だけ先に片づけてから徴用工の問題、というように時間差が生じるかもしれない」。
加えて元経産省キャリアの宇佐美典也氏は「経産省では半導体を担当する商務情報政策局と貿易管理部での兼任人事が多数発表されている。半導体政策と貿易政策を協力してやる体制ががっちり作られたということだ。運用を徹底させることで、ホワイト国にしたままでも半導体の個別輸出許可ができるという制度を作った。経産省としてはどうとでもできる状況はできていると思う」との見方を示した。
出典:AbemaTIMES (11/24)、ロイター(11/22)
崔氏は、「色々な放送局が青瓦台の高官の会見を生中継していたが、実際の会見は短く、記者からの質問も受けなかったし、スタジオがシーンとなって、アナウンサーも一瞬止まったように見えた。分かりやすく“GSOMIAを延長することにした。破棄はしないことにした”と言えばいいところを、“GSOMIA終了通報の効力を停止することにした”という馴染みのない表現で、あえて遠回しに国民に伝えようとしたということが印象的だった。やはり前日まで国民の50%以上が破棄に賛成していたし、政府与党もSNSで“破棄は仕方ない”と言ってきた。だから、韓国国内は破棄に向かっていくのだろうという雰囲気があったからだろう。YouTubeライブのコメントも、“韓国が勝ったのか。日本が勝ったのか。どっちなの”というような反応が多く、混乱していた。その後、文在寅大統領支持派のSNSやコミュニティを見てみると、“さすが大統領。賢明な決断だ”という声も見られた。おそらくGSOMIA破棄に支持していた人たちは、GSOMIAのことをあまり分からないまま、ただ大統領のやることは支持するという人たちが多いのだろう。逆に大統領反対派は“やはり負けたではないか”という反応だ」。
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一方、アメリカ側の見方についてハドソン研究所研究員の村野将氏は「具体的には分からないが、アメリカの強い意向があったことは間違いないだろう。韓国が破棄を発表してから、国防長官から局長級の高官が再三にわたり韓国に対して見直すべきだと言い続けてきたということは間違いない。そしてその間、韓国側の決定を擁護する声はワシントンではほとんど聞かれなかった。GSOMIAが失効して最も困るのはアメリカだ。日韓GSOMIA以前はTISAといって、アメリカが日本と韓国の情報共有を仲介する形でそれぞれの国に情報提供をしていた。だから韓国側としては日韓GSOMIAを破棄してもTISAの枠組みに戻るだけで問題ないということだったが、アメリカにとっては行政的な負荷が大きくなる。韓国側が土壇場で破棄を停止する結果というのは、アメリカ側としてはとりあえず受け入れられる結果だと思う」。今後について村野氏は「GSOMIAが残ったことで、なければできない防衛協力が当面は継続できることはプラスだと思う。日本としては政治的な問題がある中で、ハイレベルな防衛的議論ができるということでGSOMIAの枠組みを作った。しかし今回のことで、政権が変われば駆け引きの材料になってしまう不信感が生まれた。これは簡単に拭えないだろう。また、ワシントンは輸出管理と徴用工が別々の問題だと信じている人はほとんどいない。今回の対処としては、それぞれの関連している問題を切り離して協議しましょうということだと思うが、アメリカとしては、そこは韓国が整理して下さいという立場だ」との見方を示した。
菅義偉官房長官は22日午前の閣議後会見で、23日午前零時に失効が迫るGSOMIAについて、破棄の方針を示す韓国側に引き続き賢明な対応を求めていると述べた。韓国側が協定失効回避には日本側が対韓輸出管理強化を撤回することが必要としていることについては、「韓国に賢明な対応を求める立場に変わりない」と繰り返した。
こうした日米韓の受け止め方を見て、テレビ朝日の足立直紀政治部長は「GSOMIAの継続が決まったわけではなく、破棄する期限を延ばし、その間に交渉すると韓国側が言ってきたと日本側は説明している。韓国側が輸出規制の撤廃を求め、日本側がGSOMIA延長を要求していた中、水面下で落としどころを探っていたと思う。ただ、双方とも国内対策上で譲歩したという形は取れない。その結果、こうなったと見ている」と話す。
日本政府の見方について足立氏は「日本側の政府高官は“時間が先に延びたというだけで、何も動いていない、譲歩も退歩もしていない”と言っている。つまり、韓国側が譲歩し、日本が指摘していた輸出管理改善について韓国側に努力が見られ、WTOの提訴も停止してきたというところだ。政府の中枢の人たちは韓国側が折れてくるかなという動きを21日あたりから感じ取っていたようで、この日の午前中に韓国のNSC(国家安全保障会議)が断続的に開かれる中で、譲歩の芽が出てきているという情報も仕入れていたようだ。現状では輸出規制とGSOMIAはバーターのようになっているので、輸出規制がこじれてしまうとGSOMIA破棄につながる結果になり得るが、輸出規制に関してはレジスト、フッ化水素、フッ化ポリイミドという3品目について、それぞれ認められる企業には認めていっている。現実は少しずつ輸出規制の影響は薄れていっている面もあった。今後は輸出管理の話も当然していくが、徴用工の問題が最も大事であるという位置づけは変わらない。ただ、この問題は日韓両方とも時間がかかると見ている。ひょっとしたらGSOMIAと輸出規制の問題だけ先に片づけてから徴用工の問題、というように時間差が生じるかもしれない」。
加えて元経産省キャリアの宇佐美典也氏は「経産省では半導体を担当する商務情報政策局と貿易管理部での兼任人事が多数発表されている。半導体政策と貿易政策を協力してやる体制ががっちり作られたということだ。運用を徹底させることで、ホワイト国にしたままでも半導体の個別輸出許可ができるという制度を作った。経産省としてはどうとでもできる状況はできていると思う」との見方を示した。
出典:AbemaTIMES (11/24)、ロイター(11/22)
2019年11月23日
農産物直販所・あびこん
我孫子市は水田、田畑が占める面積は決して少なくない。特に手賀沼沿いの水田は布佐の相島新田から根戸新田へと続く。我孫子の緑地景観は農業者によって維持されているとも言える。しかし、後継者不足と農産物の価格が不安定なため、農業経営は易しくない。我孫子市は、地元の新鮮な野菜や米を給食で使うほか、市民にも新鮮な農産物を提供することで健康な食生活を提供したいと農産物直販所アンテナショップから取り組んで、現在は水の館を改修して「あびこん」を開設した。
先日は、オペラ歌手・岡本静子さんの協力でミニコンサートも行われた。なんと、聴きに来ていた方々とも一緒に歌うコーナーがあったが、セミプロ級な歌声を披露して、我孫子市民の芸達者ぶりを見せつけられた!!
先日は、オペラ歌手・岡本静子さんの協力でミニコンサートも行われた。なんと、聴きに来ていた方々とも一緒に歌うコーナーがあったが、セミプロ級な歌声を披露して、我孫子市民の芸達者ぶりを見せつけられた!!
2019年11月22日
米舞亭:本日の日替わりランチ
選挙後、「あびこん」に久々に行きました。お米がなくなっていたので、ようやく買い物ができました。京芋を見つけたので、ぬめりが少なくて里芋のように調理ができると説明書きがあるので買って見ました。我孫子の農家さんは珍しい野菜を栽培する少数多品目の取り組みは、かつて水害地だったことからの生き抜く知恵だったと言われます。
一緒に行った人たちと3人で日替わりランチにもありつけました。
ここのランチは12時過ぎには完売してしまうので、早めに出かけて正解でした、ラッキー!!!
一緒に行った人たちと3人で日替わりランチにもありつけました。
ここのランチは12時過ぎには完売してしまうので、早めに出かけて正解でした、ラッキー!!!
2019年11月21日
我孫子市:モノオペラ 「焼き場に立つ少年」
被爆後の長崎に進駐した米軍カメラマンが撮った1枚の写真が、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇の訪日を前に、改めて脚光を浴びている。幼い子を背負い、まっすぐ前を見つめる「焼き場に立つ少年」の写真を目にしたローマ教皇が「胸を打たれた」と、来日するのにあたってカードにして長崎の原爆被爆に思いを寄せ、改めて「少年」のその後について情報を集めている。
「焼き場に立つ少年」の写真を撮影したのは、終戦後に長崎に進駐したアメリカ軍の従軍カメラマン、故ジョー・オダネル氏(1922〜2007年)。同氏の写真集「トランクの中の日本」(小学館)には「長崎ではまだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた」「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた(中略)少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた」と、少年が亡くなった弟を火葬場に背負ってきた様子が記されているが、詳しい撮影場所、少年の名前などは書かれていない。
法王の来日は38年ぶり。世界に約13億人の教徒がいるローマ・カトリック教会のトップであり、バチカンの国家元首。今月、23日から26日まで日本を訪れる。
我孫子市では、12月1日にオペラ歌手岡本静子さんによる、モノオペラ『焼き場に立つ少年』の公演が予定されている。 この少年の気持ちを表現しようと作曲家・青英権(あおひで のり、岡本さんに上演のすべてを託した)の作品を岡本さんが自身の住む取手市内の学校で上演を続けてきた。県教育委員会が評判を聞き、県内各地の学校で心の教育の取り組みとして上演の広がっている。
ピアニスト(西元真澄)と岡本さんの歌だけの一人オペラという形式で、モノオペラ上演は2時20分〜2時50分
けやきプラザ・ホールで、我孫子市主催で無料となっている。
我孫子市 広報(11/16号)
http://www.city.abiko.chiba.jp/shisei/kouhou/abiko/backnumber/h31backnumber/20191116.files/191116_1S.pdf
「焼き場に立つ少年」の写真を撮影したのは、終戦後に長崎に進駐したアメリカ軍の従軍カメラマン、故ジョー・オダネル氏(1922〜2007年)。同氏の写真集「トランクの中の日本」(小学館)には「長崎ではまだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた」「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた(中略)少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた」と、少年が亡くなった弟を火葬場に背負ってきた様子が記されているが、詳しい撮影場所、少年の名前などは書かれていない。
法王の来日は38年ぶり。世界に約13億人の教徒がいるローマ・カトリック教会のトップであり、バチカンの国家元首。今月、23日から26日まで日本を訪れる。
我孫子市では、12月1日にオペラ歌手岡本静子さんによる、モノオペラ『焼き場に立つ少年』の公演が予定されている。 この少年の気持ちを表現しようと作曲家・青英権(あおひで のり、岡本さんに上演のすべてを託した)の作品を岡本さんが自身の住む取手市内の学校で上演を続けてきた。県教育委員会が評判を聞き、県内各地の学校で心の教育の取り組みとして上演の広がっている。
ピアニスト(西元真澄)と岡本さんの歌だけの一人オペラという形式で、モノオペラ上演は2時20分〜2時50分
けやきプラザ・ホールで、我孫子市主催で無料となっている。
我孫子市 広報(11/16号)
http://www.city.abiko.chiba.jp/shisei/kouhou/abiko/backnumber/h31backnumber/20191116.files/191116_1S.pdf
2019年11月20日
フランシスコ教皇と被ばく地
60年前の1959年にさかのぼる当時、フランシスコ教皇は、母国アルゼンチンでイエズス会士と司祭を目指して勉強中だった。その若きホルヘ・ベルゴリオ(フランシスコの本名)ら神学生の前に、イエズス会の日本管区長だったペドロ・アルペ神父が現れた。ベルゴリオらに、原爆がもたらした地獄のような世界を語り、映像も見せた。合わせて、日本へキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルや中国で宣教したマテオ・リッチなどイエズス会の先輩たちの東アジアでの活躍を話したという。若きベルゴリオは、この時、日本への宣教を志し、資格を満たした後にイエズス会の総長となっていたアルペ神父に願い出た。だが、肺の一部を切除していたことから健康に不安があるとして、この願いは却下されている。日本での宣教はかなわなかったものの、アルペ神父が語った言葉は深く心に残っているに違いない。
アルペ神父は、スペイン出身で、1938年に日本に宣教に赴き、第2次世界大戦開戦後もとどまった。真珠湾攻撃が行なわれた1941年12月8日は、日本では無原罪の聖母の祝日であり、アルペはミサ後に投獄された。アルペは祈りの日々を過ごした。後の述懐では、この経験はアルペの重要な霊的変容の機会のひとつとなったという。彼の非攻撃的な態度と振舞いに獄吏と裁判官は敬意を示し、約1か月で釈放された。
米軍が世界で初めて原爆を投下した時、ペドロ神父は広島市内で修練院長を務めていた。修道会に入る前は医学生であった神父は、その知識を生かして被爆者の治療にあたったのだった。アルペ神父は後にこの時のことを「私の記憶に刻まれた歴史の外の永遠の経験」と述べた。彼は修練院を臨時の病院として200人の被爆者を手当し、その中には長束修練院の建設に深く関わった広島カトリック教会(幟町天主公教会)の主任司祭フーゴ・ラッサール神父もいた。アルペはイエズス会の初代日本管区長 (1958年 - 1965年) に選ばれた。
10年間の療養期間に会のために祈り、ヨハネ・パウロ2世からも厚意を受けた。1991年2月5日アルペは教皇庁内で84歳で帰天した。ペドロ・アルペの葬儀はジェズ教会で行われ、参列者で広場があふれた。彼の遺体は当初カンポ・ヴェラノのイエズス会博物館に収められ、のちジェズ教会の付属聖堂に収められた。 元上智大学教授。
フランシスコ教皇となったベルグリオは、2017年末のクリスマス・シーズンには、長崎で被爆し、死亡した弟を背負いながら火葬場で順番を待つ少年の姿をとらえた写真を、カードにして配布するよう指示を出した。2018年1月1日にメディアが報じて明らかになったが、このカードには、「幼い少年の悲しみはただ、血のにじんだ唇をかみしめるその身振りの中にのみ表現されている」という写真説明とともに、法王の署名と「戦争が生み出したもの」という言葉が加えられた。この度、我孫子のモノオペラによる演奏会はこの少年の話がテーマになっている。
アルペ神父は、スペイン出身で、1938年に日本に宣教に赴き、第2次世界大戦開戦後もとどまった。真珠湾攻撃が行なわれた1941年12月8日は、日本では無原罪の聖母の祝日であり、アルペはミサ後に投獄された。アルペは祈りの日々を過ごした。後の述懐では、この経験はアルペの重要な霊的変容の機会のひとつとなったという。彼の非攻撃的な態度と振舞いに獄吏と裁判官は敬意を示し、約1か月で釈放された。
米軍が世界で初めて原爆を投下した時、ペドロ神父は広島市内で修練院長を務めていた。修道会に入る前は医学生であった神父は、その知識を生かして被爆者の治療にあたったのだった。アルペ神父は後にこの時のことを「私の記憶に刻まれた歴史の外の永遠の経験」と述べた。彼は修練院を臨時の病院として200人の被爆者を手当し、その中には長束修練院の建設に深く関わった広島カトリック教会(幟町天主公教会)の主任司祭フーゴ・ラッサール神父もいた。アルペはイエズス会の初代日本管区長 (1958年 - 1965年) に選ばれた。
10年間の療養期間に会のために祈り、ヨハネ・パウロ2世からも厚意を受けた。1991年2月5日アルペは教皇庁内で84歳で帰天した。ペドロ・アルペの葬儀はジェズ教会で行われ、参列者で広場があふれた。彼の遺体は当初カンポ・ヴェラノのイエズス会博物館に収められ、のちジェズ教会の付属聖堂に収められた。 元上智大学教授。
フランシスコ教皇となったベルグリオは、2017年末のクリスマス・シーズンには、長崎で被爆し、死亡した弟を背負いながら火葬場で順番を待つ少年の姿をとらえた写真を、カードにして配布するよう指示を出した。2018年1月1日にメディアが報じて明らかになったが、このカードには、「幼い少年の悲しみはただ、血のにじんだ唇をかみしめるその身振りの中にのみ表現されている」という写真説明とともに、法王の署名と「戦争が生み出したもの」という言葉が加えられた。この度、我孫子のモノオペラによる演奏会はこの少年の話がテーマになっている。
2019年11月19日
選挙が済んで
2019年11月18日
選挙に関するご報告
自分を支持してくれた選挙人に対して、お礼のあいさつぐらいしたいものですが、公職選挙法(公職選挙法第178条)では、選挙後のあいさつにも制限が加えられています。
海津にいなの当選の「ご報告」と今回の我孫子市議選の投票率が42.9%であったことのみ、許可されるインターネットでお知らせいたします。
海津にいなの当選の「ご報告」と今回の我孫子市議選の投票率が42.9%であったことのみ、許可されるインターネットでお知らせいたします。
2019年11月16日
2019年11月15日
投票日まであと2日
我孫子北口でのご挨拶
2019年11月14日
駅頭
2019年11月13日
選挙戦4日目
選挙戦4日です。
我孫子の各地区にご挨拶に回りながら、海津にいなの政策をお伝えしています。
ご支援よろしくお願い致します。
我孫子の各地区にご挨拶に回りながら、海津にいなの政策をお伝えしています。
ご支援よろしくお願い致します。
2019年11月12日
期日前投票所@我孫子市議選
◎一般の投票方法
選挙期日(投票日)に、午前7時から午後8時までの間に、指定された投票所で投票します。
◎期日前投票
選挙期日(投票日)に用務など一定の事由が見込まれる人は選挙の告示日の翌日の11日から、選挙期日(投票日)の前日の16日までの間で投票できます。投票期間や時間は選挙の種別や期日前投票所によって異なります。投票に行く際は、お手元の入場整理券等や市のホームページ等をご確認ください。
我孫子市の期日前投票所は下記のとおりです。
@我孫子市役所本庁ロビー(市役所本庁舎1階) 我孫子1858
A我孫子南近隣センター第一会議室
(けやきプラザ8階) 本町3の1の2
B湖北地区公民館 中里81の3
C近隣センターふさの風(2階会議室1) 布佐2972の1
Dあびこ市民プラザ(あびこショッピングプラザ内3階)
我孫子4の11の1
選挙期日(投票日)に、午前7時から午後8時までの間に、指定された投票所で投票します。
◎期日前投票
選挙期日(投票日)に用務など一定の事由が見込まれる人は選挙の告示日の翌日の11日から、選挙期日(投票日)の前日の16日までの間で投票できます。投票期間や時間は選挙の種別や期日前投票所によって異なります。投票に行く際は、お手元の入場整理券等や市のホームページ等をご確認ください。
我孫子市の期日前投票所は下記のとおりです。
@我孫子市役所本庁ロビー(市役所本庁舎1階) 我孫子1858
A我孫子南近隣センター第一会議室
(けやきプラザ8階) 本町3の1の2
B湖北地区公民館 中里81の3
C近隣センターふさの風(2階会議室1) 布佐2972の1
Dあびこ市民プラザ(あびこショッピングプラザ内3階)
我孫子4の11の1
2019年11月11日
2019年11月10日
今日から
選挙期間に入ります。
投票日まであと1週間となりました。
最後まで頑張って参ります。
今日は本当に清々しい晴天に恵まれました。
午後には祝賀御列の儀も行われますね
2019年11月09日
即位祭典の組曲
第三楽章「Journey to Harmony」
作曲 菅野よう子
作詞 岡田惠和
歌唱 嵐
ピアノ 辻井伸行
君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 今を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
はじめはどこかの 岩かげにしたたり 落ちたひとしずくの 水が平野流れ
やがて研ぎ澄まされ 君をうるおし 鳥たちをはぐくみ 花たちとたわむれ
あの大河だって はじめはひとしずく 僕らの幸せも 大河にすればいい
ごらんよ 僕らは 君の そばにいる
君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 今を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
星明りにじんで ふと立ち止まったら 雨の匂いのなかに 虹のうたを聴こう
かすかなそのうた まるでひとしずく 静かにつながって 確かにつながって
青い空の下 夢など語りあう 愛とか語りあう それが僕の願い
ごらんよ 光は 君と ともにいる
君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 時代(とき)を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 今を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
大丈夫 鳥は 歌っている 大丈夫 空は 輝いてる
大丈夫 水は 流れている 大丈夫 海は 光っている
大丈夫 君と 笑ってゆく 大丈夫 君と 歩いてゆこう
作曲 菅野よう子
作詞 岡田惠和
歌唱 嵐
ピアノ 辻井伸行
君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 今を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
はじめはどこかの 岩かげにしたたり 落ちたひとしずくの 水が平野流れ
やがて研ぎ澄まされ 君をうるおし 鳥たちをはぐくみ 花たちとたわむれ
あの大河だって はじめはひとしずく 僕らの幸せも 大河にすればいい
ごらんよ 僕らは 君の そばにいる
君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 今を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
星明りにじんで ふと立ち止まったら 雨の匂いのなかに 虹のうたを聴こう
かすかなそのうた まるでひとしずく 静かにつながって 確かにつながって
青い空の下 夢など語りあう 愛とか語りあう それが僕の願い
ごらんよ 光は 君と ともにいる
君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 時代(とき)を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
君が 笑えば 世界は 輝く
誰かの 幸せが 今を 照らす
僕らの よろこびよ 君に 届け
大丈夫 鳥は 歌っている 大丈夫 空は 輝いてる
大丈夫 水は 流れている 大丈夫 海は 光っている
大丈夫 君と 笑ってゆく 大丈夫 君と 歩いてゆこう
2019年11月08日
「子育てしやすいまち」をPR 、ポスターに
待機児童の解消に四苦八苦する自治体が多いなか、我孫子市が待機児童ゼロを30年以上続けている。県によると、人口10万人以上の県内16市では他に例がない。広さに余裕のある保育園を整備したり、保育士確保のため家賃補助をする先駆的な施策で給与の上乗せや派遣を導入して、あの手この手で「ゼロ」を維持してきた。
市の待機児童数の調査によると、最も古い記録が残る1975年度は285人で、当時の保育園は公立4、私立4の計8カ所。76年度に保育園を11に増やしたが待機児童は減らず、13に増やした78年度はようやく37人に。申し込んだ全員が入園できるようになったのは86年度だ。
その後は順調だったが、95年度ごろから再び保育園需要が高まった。市は99年2月に策定した保育園整備計画で「入園待機児童の未然防止を最重要課題」と定め、待機児童ゼロを基本方針に据えてきた。
我孫子市は県内でも女性議員を多く輩出、全国初の女性市長をとの運動もあった。障がい者(精神、身体を含む)、外国人にも住みやすい街にと目を配り、環境保全にも力を入れてきた。戦前戦後に千葉の行商おばさんとして名を知られるほどに地域経済に貢献してきて、農漁村地域にして女性の声が大事にされてきた。女性が働き易い町づくりは当然の帰結であって、今日に至っている。
参照:朝日新聞(2017年6月28日)
https://www.asahi.com/articles/ASK6W4D18K6WUDCB00D.html
市の待機児童数の調査によると、最も古い記録が残る1975年度は285人で、当時の保育園は公立4、私立4の計8カ所。76年度に保育園を11に増やしたが待機児童は減らず、13に増やした78年度はようやく37人に。申し込んだ全員が入園できるようになったのは86年度だ。
その後は順調だったが、95年度ごろから再び保育園需要が高まった。市は99年2月に策定した保育園整備計画で「入園待機児童の未然防止を最重要課題」と定め、待機児童ゼロを基本方針に据えてきた。
我孫子市は県内でも女性議員を多く輩出、全国初の女性市長をとの運動もあった。障がい者(精神、身体を含む)、外国人にも住みやすい街にと目を配り、環境保全にも力を入れてきた。戦前戦後に千葉の行商おばさんとして名を知られるほどに地域経済に貢献してきて、農漁村地域にして女性の声が大事にされてきた。女性が働き易い町づくりは当然の帰結であって、今日に至っている。
参照:朝日新聞(2017年6月28日)
https://www.asahi.com/articles/ASK6W4D18K6WUDCB00D.html
2019年11月07日
2019年11月06日
秋の湖北台
湖北台のけやき通りは秋の気配で、美しい景観を見せてくれます。
我孫子には市民団体によって、すぐれた景観を認証して、散策におススメの場所情報を冊子にして提供しています。
「あびしるべ」(インフォネーションセンター、イトーヨーカ堂南口店前)で手に入ります・
我孫子には市民団体によって、すぐれた景観を認証して、散策におススメの場所情報を冊子にして提供しています。
「あびしるべ」(インフォネーションセンター、イトーヨーカ堂南口店前)で手に入ります・
2019年11月05日
首里城消失後、再建への呼びかけ
那覇市にある「世界遺産」の首里城跡に復元された首里城で先月31日に起きた大規模な火災では、「正殿」など主要な建物が全焼し、琉球王国時代から伝わる貴重な収蔵品の多くが焼けたものとみられています。警察などは、1日午前から現場で検証を行うなどして詳しい出火原因を調べることにしている。
首里城は琉球王国時代の500年以上前に建てられました。戦前に3回焼失し、再建後、正殿は大正14年に国宝に指定されていた。太平洋戦争中の沖縄戦で焼失した。その後、平成4年に正殿が復元され、平成12年には九州・沖縄サミットで各国首脳の夕食会の会場にもなりました。
また城の跡は、独立王国としての琉球が本土とは異なる独特の文化を発展させたことを示す歴史的な遺産だとして県内のほかの「グスク」と呼ばれる城の跡とともに「世界遺産」に登録されています。
アメリカ南部ノースカロライナ州で3日、現地の沖縄県人会が主催する交流行事が開かれ、移住した沖縄県出身者やその家族など200人近くが参加、火災で焼失した首里城の再建に向けて寄付を呼びかけました。
会場には、募金箱が設置され、参加した人たちは沖縄の食事や踊りで親睦を深める中、寄付の呼びかけが始められた。また、売り上げを寄付しようと首里城が描かれたTシャツも販売され、地元のアメリカ人たちも買い求めていました。
沖縄県出身の女性は「すごいショックで涙が出た。早く再建して、私の子どもや孫の世代にも首里城を見せたい」と述べ、再建の実現に期待を寄せていました。
地元の県人会のセルべー二ィ・利江会長は「みんなで募金を沖縄に送ろうということになった。また、一から首里城を作り直すため団結していきたい」と話していました。
首里城は琉球王国時代の500年以上前に建てられました。戦前に3回焼失し、再建後、正殿は大正14年に国宝に指定されていた。太平洋戦争中の沖縄戦で焼失した。その後、平成4年に正殿が復元され、平成12年には九州・沖縄サミットで各国首脳の夕食会の会場にもなりました。
また城の跡は、独立王国としての琉球が本土とは異なる独特の文化を発展させたことを示す歴史的な遺産だとして県内のほかの「グスク」と呼ばれる城の跡とともに「世界遺産」に登録されています。
アメリカ南部ノースカロライナ州で3日、現地の沖縄県人会が主催する交流行事が開かれ、移住した沖縄県出身者やその家族など200人近くが参加、火災で焼失した首里城の再建に向けて寄付を呼びかけました。
会場には、募金箱が設置され、参加した人たちは沖縄の食事や踊りで親睦を深める中、寄付の呼びかけが始められた。また、売り上げを寄付しようと首里城が描かれたTシャツも販売され、地元のアメリカ人たちも買い求めていました。
沖縄県出身の女性は「すごいショックで涙が出た。早く再建して、私の子どもや孫の世代にも首里城を見せたい」と述べ、再建の実現に期待を寄せていました。
地元の県人会のセルべー二ィ・利江会長は「みんなで募金を沖縄に送ろうということになった。また、一から首里城を作り直すため団結していきたい」と話していました。
2019年11月04日
2019年11月03日
中国富裕層の数が米国を抜く
スイス金融大手のクレディ・スイス(Credit Suisse)の最新調査で「中国の富裕層の数が、米国の富裕層の数を初めて上回った」と、英通信社ロイター(Reuters)が10月21日に報じた。世界のミリオネア(100万米ドル以上の資産を有する成人)を調査するクレディ・スイスのデータによれば、世界トップ10%の富裕層の中にランクインした中国人は1億人もいて、米国の9900万人を上回ったという。
フォーブスジャパン(Forbes JAPAN)によれば、2019年版の長者番付50人の中には、ユニクロ(Uniqlo)を筆頭に新しい消費者ビジネスを開拓したABCマート(ABC-Mart)、ニトリ(Nitori)、ドン・キホーテ(Don Quijote)、メルカリ(mercari)、しまむら(Shimamura Group)や、ICT産業のSoftbank、光通信(Hikari Tsushin)、サイバーエージェント(Cyberagent)、ミクシィ(mixi Group)、グリー(GREE)など、平成の時代に入ってから勃興した起業の創業者たちの名前が多く並んでいた。
しかしながら、経済成長率で、30年近く6%超を維持する中国と、2%超すら維持できなくなった現在の日本の違いは何であろうか。2010年に日本は中国にGDPが抜かれ、今や2倍以上の差がついている。
出典:(c)東方新報/AFPBB News (11/2)
フォーブスジャパン(Forbes JAPAN)によれば、2019年版の長者番付50人の中には、ユニクロ(Uniqlo)を筆頭に新しい消費者ビジネスを開拓したABCマート(ABC-Mart)、ニトリ(Nitori)、ドン・キホーテ(Don Quijote)、メルカリ(mercari)、しまむら(Shimamura Group)や、ICT産業のSoftbank、光通信(Hikari Tsushin)、サイバーエージェント(Cyberagent)、ミクシィ(mixi Group)、グリー(GREE)など、平成の時代に入ってから勃興した起業の創業者たちの名前が多く並んでいた。
しかしながら、経済成長率で、30年近く6%超を維持する中国と、2%超すら維持できなくなった現在の日本の違いは何であろうか。2010年に日本は中国にGDPが抜かれ、今や2倍以上の差がついている。
出典:(c)東方新報/AFPBB News (11/2)
2019年11月02日
コレハ、スゴイ!
ママの愛情がおしゃれな髪形になっていました、楽しい我孫子のワンシーン、微笑ましいですね。