元朝日新聞記者であった植村隆は1987年(昭和62年)8月に韓国の延世大学に留学。1988年(昭和63年)8月に東京本社外報部に戻り、1989年(平成元年)から2年5ヶ月間大阪本社社会部に勤務し民族問題や被差別部落の問題を担当し、その期間に問題となった記事を書いた。植村の記事から4か月後に韓国で慰安婦に対する賠償を日本政府に求めた初の裁判である「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」が行われることになる。
上村の妻は日本政府に対してを起こしている太平洋戦争犠牲者遺族会の会幹部の梁順任の娘で、1991年に結婚した。
植村は「女子挺身隊の名で戦場に連行された」と記事にしたが、証言を行った金学順が記事の掲載から3日後に記者会見を開き「母親によって14歳の時にキーセンの養成所に売られた」「17歳の時に検番があるの養父に慰安所に連れて行かれた」と強制連行ではなく人身売買であったという発言内容と異なっているのは、植村が義母の訴訟ために、意図的にキーセンのことについて触れなかったのではないかと指摘されている。近年には、櫻井よしこに誤認を指摘されるなどで、上村の問題提起は日韓に様々な影響が出ている。
2018/11/16 会見