Wikipediaの便利さについて教えてくれたのは米国の大学を卒業していた娘からだったように記憶する。それは、日本語のみならず、同項目について、英語でも、ハングル、中国語でも対応している無料encyclopediaだった。大学の授業で百科事典に書いてありましたでは頂けないと言われたものだが、今や教授でも瞬時に対応するWikiやWebで情報をスキャンする時代になってしまった。つまり、文字の読め人なら、スマホ片手に世界の歴史情報も、ある程度の理解をすることが可能というわけだ。そこで、日韓のメディアが報道する現状を見直してみると、これは大学教育を受けている朝鮮人であれば、日韓併合後から離脱までの状況が察しがつくというわけだ。
大韓民国(韓国)では「朝鮮が日本から主権(独立)を取り戻した日」を1945年8月15日と認識し、光復節と呼んでいる。しかし、実際に朝鮮人が独立国家で主権を行使できるようになるまでには、連合国の占領行政下で3年にわたる紆余曲折があった。大韓民国政府政府が「国民の祝日に関する法律」で8月15日を「光復節」という名で祝日に指定したのは1949年10月1日である。その後、「光復」・「光復節」が韓国における公式名称となったのは、 1994年3月に金泳三大統領が大統領令14185号(光復50周年記念事業委員会規則)を制定してからである。
また、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、「光復」という単語を用いず「祖国解放」と表現し、朝鮮が日本の統治から離脱した出来事について、史実は宗主国日本の戦争敗北によるソ連軍の占領によってもたらされたわけであるが、「金日成が抗日革命闘争を勝利へ導くことでもたらされた偉業」としている。
それまでの朝鮮半島は、韓国併合(1910年)以来、大日本帝国(朝鮮総督府)の統治下にあった。それが、1945年8月15日、連合国の発したポツダム宣言を日本が受諾し、降伏することが発表(玉音放送)されると、朝鮮人にとって、朝鮮の日本による統治からの解放(「光復」)が確実となった。同日、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作と、朝鮮独立回復運動家の呂運亨との会談がもたれ、日本側からの条件では日本人の安全および財産保全、朝鮮側からは政治犯釈放や食糧確保条件がだされ、行政権を朝鮮総督府から朝鮮側に委譲されることで合意が得られ、同日発足の朝鮮建国準備委員会に委譲されることとなった。翌日の8月16日、ラジオ放送で、行政権の委譲を発表、5千人程度の公然集会で、呂運亨が報告する。
朝鮮は民族解放の喜びに沸き立ち、各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている。政治犯(多くが共産主義者であった)の大半が日本本土では10月10日まで釈放されなかったのに対し、朝鮮半島ではその多くが8月16日と8月17日に釈放され、8月17日には朝鮮神宮が焼き討ちされた。9月2日、日本及び連合国各国は降伏文書(休戦協定)への調印を行った。連合国側はヤルタ会談に基づき、朝鮮半島を米英華ソ4ヶ国による信託統治下におく計画を持っていたが、米ソはもともと互いの軍を朝鮮に進駐させる計画だったが、戦後処理を北緯38度線の南北で分担することなどを決めているにすぎなかった。しかし、アメリカはソ連が朝鮮全土を占領することを恐れ、急遽、北緯38度線を境に半島南半部を米軍、半島北半部をソ連軍が分割占領することでソ連と合意した。
米軍による日本本土占領やソ連軍による東欧諸国への占領に比べると、朝鮮占領については米ソとも準備が足りず、両国軍が朝鮮の内情を把握していなかったことや占領政策が一貫しなかったことは、特に主要都市であるソウルで大きな政治混乱を生む一因となった。このことは、その後の大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の建国による南北分断のみならず、両国内のその後の政治にまで大きな影響を及ぼすこととなった。
ソ連軍はアメリカ軍より早期に朝鮮への進駐を開始し、8月24日、咸鏡南道咸興に到着したが、朝鮮半島北側の中心都市が平壌であることを知ると平壌へ後退した。8月26日までにソ連軍は平壌進駐を完了し、ソ連側占領軍は朝鮮総督府の行政機関の存続を認めると布告したが、このことが朝鮮人の不興を買い、また実際に行政機能が失われていることを知ってこれをすぐに取り消した。これらの経緯もソ連軍の南下が早すぎ、準備不足であったこと物語っている。
ソ連軍は在ソ朝鮮人・ソ連生まれの朝鮮人を投入して占領政策を遂行しようとした。9月19日にはソ連領内に退避していた金日成(後の朝鮮民主主義人民共和国主席)ら元・満州パルチザンたちが元山に到着したが、彼らは各地に分散しすぎたり、地元の共産主義者と対立するなどして政治的主導権を得ることに失敗し、あらかじめソ連と取り決めた役割を担うことができなかった。以降、金日成の権力基盤が安定するまで38度線以北では激しい権力闘争が続いた。
9月7日、アメリカ軍がソ連に遅れて進駐を開始し、9月11日アメリカ占領軍は38度線以南で軍政を布くことを宣言した。朝鮮人は当初、日本からの解放者としてアメリカ軍の進駐を喜んだ。しかし、ソウルではすでに独立国家建設を準備する組織が誕生していたことも手伝って、アメリカが軍政を宣言したことや、朝鮮総督府が残した行政機構・警察機構及びその人員を引き続き運用したことが大きな反発を生み、ソウルの政治情勢は乱戦模様を呈した。
このようにして、米ソによる分割占領は固定化され、1948年になると、38度線以南ではアメリカによる軍政が終了し、8月15日に「大韓民国政府」の樹立が宣言され、同年9月9日、38度線以北において「朝鮮民主主義人民共和国」の建国が宣言された。これにより、朝鮮の分断国家としての歴史が始まることとなった。
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人類の歴史は、結果的にはある合理性に基づいて発展してきた。
多数が理不尽なことから解放されたいと願えば、それは時間がかかりながらもその方向にいくという事になる。
幾多の帝国が例外なく滅びるのは、支配者が冷酷な指導者になった時に打ち倒そうとする勢力が現れるのであって、権力の世襲に冷酷な指導者が現れれば、それは終焉の日が近いとも言える。