6月の我孫子市議会は、個人質問の登壇者数の関係から、12日の休会が追加された。
そこで紙オムツの調査をしているうちに、高分子吸収体ポリマーの是非について考え、そしてそういえば、それは女性用の生理ナプキンに始まるなあと思い起こし、アンネの日と言ってテレビCMに登場した「アンネナプキン」がどうなったのかと、気になりました。
昔生理のこと自体「アンネ」と言ったり、生理日を「アンネの日」と隠語のように言っていました。今の若い女性は聞いたことないでしょう。しかし、いわゆる「ナプキン」というものが日本でこんなに愛用されるようになったのは、さらに、女性の月経=生理に対する「穢れ」意識が大きく拭われるようになったのは、すべてこの「アンネナプキン」が始まりだったと言って過言ではないです。
ネットの幸いで、田中ひかる氏の論文で、女性起業家・坂井泰子がアンネ社を立ち上げる創成期から合併されるまでの記録したものがあったことを紹介するHPがあったのです。
"27歳の主婦坂井泰子さんがアンネ社を設立し、アンネナプキンを世に送り出したのは1961年。高度経済成長のなか、女性の社会進出が一気に加速した時期である。女性の社会進出を支え、その女性たちによって消費されたのが、アンネナプキンだった。"
https://usausa1975.hatenadiary.org/entry/20120122/p1
•アンネ社の生理革命 : 「不浄」から「当たり前」へ
田中 ひかる 技術マネジメント研究 2, 42-55, 2003
上記の論文は、生理用品の歴史の中でもアンネ社の果たした役割のみに焦点を絞ったもので、渡紀彦「アンネ課長」、当時の雑誌、社員からの聞き取り等から「アンネナプキン」開発の経緯、そしてナプキンが爆発的にヒットし、当時の女性にどのような恩恵を与えたか、そしてその後のアンネ社の衰退までをコンパクトに描いています。論文と言うよりは「プロジェクトX」や「ガイアの夜明け」のような企業ドキュメンタリーのような感じです。
◆アンネ社の始まり
論文によれば、アンネナプキンが発売される1961年(結構最近ですよね)まで、ちゃんとした生理用品というものはなくて、脱脂綿を何層にもあてて使っていたそうです。要するに、総ゴム製のパンツみたいなものを履いて、吸収の頼りない脱脂綿をあてがうのです。脱脂綿をただ挟むだけなので、うっかりするとズレ落ちて血のついた脱脂綿の忘れ物が電車にとかあったそうです。
社長となる坂井泰子(1937年生)は、日本女子大卒業後すぐに商社マンとお見合い結婚していたそうですが、専業主婦におわらず、特許の発明者と企業を結ぶ仕事を起業(p.45)するまでになった、パイオニアです。その事業の中で、当時普及し始めた水洗トイレに脱脂綿が詰まって困っているということを知り、脱脂綿を追放し「流せる生理用品」を自ら販売することを決意、夫と共に新たに会社を設立しました。
出資者リストを作り交渉を始めましたが、「いくつかの企業は、『女のシモのものでメシを食う』ということに抵抗を感じたらしく、話はいいところまで行くのだが、最後の所で二の足を踏まれた(p.46)」のでした。そんな中、出資してくれたのがミツミ電機(当時トランジスター・ラジオの部品を生産していた会社)の森部一(はじめ)でした。森部は、「私は、社会に貢献できるものなら、必ず売れるという確信をもっている。(中略)ただし、やるにしてはこんなチッポケな計画ではダメです。3000万人の日本の生理人口から考えても、少なくとも100万人分は当初から作らねばダメです」と言い、潤沢な資金を提供してくれました。この時、社長であった泰子が27歳、会長に就任した森部は34歳でした。
ここで、アンネ社の成功に大きく貢献したもう一人の人物が出てきます。ミツミ電機の広報担当であった渡紀彦です。彼は、森部から新会社のPR課長を命じられました。女性の生理用品ということで、はじめはとまどったようでしたが、毎月1000万円の広告費が投じられることや、まだ社名も商品名も決まっていない商品を売り出すということが、宣伝マンとしての職業意欲に火をつけました。彼の仕掛けた宣伝戦略が、成功に大きな役割を果たしました。
◆「アンネ・ナプキン」ついに発売
「アンネ」という名前は、「アンネの日記」から、泰子の発案で名付けられました。「アンネの日記」には、少女アンネの、生理に対する前向きな捉え方が書かれており、その当時の日本における女性の生理への「穢れ」意識、「それはただ不浄であり、血痕=陰惨、苦痛であった」というものとの違いに、渡も感銘を受けたようです。それから、「ナプキン」という名称を初めて用いたのもこのアンネ・ナプキンでした。これは、小田実の著書からアメリカでの「サニタリー・ナプキン」という呼称を知り、「これなら清潔な感じがするし、語呂もいい」ということで採用しました(p.47)。
完成したナプキンは、「純パルプ紙綿のやわらかなクレープ(しわ)を特殊加工した脱脂綿でくるんだ」もの(p.48)で、今で言うサニタリーショーツの原型も同時発売されました。これが現在国内で普及している生理用ナプキンの原型です。1961年、11月11日に発売されたときのキャッチコピーは「40年間おまたせしました」。アメリカでのナプキンの発売から40年、やっと日本の女性も快適に使用できる生理用品を手にすることができたのです。
アンネ・ナプキンは発売されると爆発的に売れ、「当初森部が主張した1ヶ月で100万個販売するという計画は、他の幹部、専門家から無謀だと反対されたが、結局は達成されてしまった(p.49)」そうです。初経期の女の子が集まる学校周辺の文房具店や薬局を中心に試供品を配布するなどのキャンペーンも行われました。アンネ社や泰子には、1日100通以上の女性からの感謝の手紙が届きました。これらの手紙の中に、生理日を「アンネの日」と呼ぶものがあり、この言葉が商品PRに用いられ、「アンネの日」の呼称が広く使われるようになりました(p.49)。
◆アンネがもたらしたもの
アンネ社は、日本の女性に革命をもたらしたと言えるほど、格段に使いやすい生理用品をもたらし女性たちの生活をまさに自由に解放させただけでなく、その広告や販売戦略を通じて、生理にまつわる暗いイメージを払拭することに大いに貢献しました。それまで「女のシモのもの」などと言われ、男性にはない血の道に苦しんでいた日本の女性たちは、戦後に男性たちが悠々と技術革新し、世界に出て行くのにも、まるで見放されたまま、生理に翻弄されて世に出る事など考えるなど遠い話でしかなかった女性たちにようやく光が差した時でした。「その広告は、「(生理というデリケートなものを)広告によって太陽の下、明るみにだそうというのであるから、よほど慎重にていねいに扱う必要がある。私たちは血液とか経血とか、要するに血という文字も使用しない(p.51)」という渡の気遣いのもとに作られた。さりげなく上品でありながら、女性たちの出かけられない数日の理由を取り除く、社会的インパクトのあるものでした。アンネ社は10年間に10回「雑誌広告賞」を受賞しています(p.50)。
「アンネ」というかわいく気の利いた呼び名で、清潔で使いやすい生理用品が登場し、それが新聞や雑誌で人気タレントによって素敵なキャッチコピーと共に広告される…当時の女性にとって、それがどれだけの開放感を持っていたことか、想像して余りあるものです。資本主義社会において、「その日のための素敵な製品があって広告される」ことは、辱められ屈辱に近い者のような女性特有の生理を「世間に認められる」というのに近い意味を持っているのではないでしょうか。隠さなくていい、テレビでコマーシャルされる時代になったので、それはそれは衝撃的でした。
ところが、アンネはその後、後発メーカーのユニ・チャームや花王、外資系のP&Gに抜かれ、「アンネ」の名の付くナプキンは1985年の「アンネ・キャンティナプキン」を最後に消えました。アンネ社は1992年、ライオンに吸収合併されました(p.53)。論文の「結論」では、以下のように述べられています。
“ 時代とともに着実に進化してきた日本人の生活文化のなかで、まるで存在しないかのように無視され、十年一日のごとく形を変えなかったのが、月経処置法であった。これに対し疑問を感じた坂井泰子が、女性たちの日常を少しでも便利にしたいと創りだしたのが、アンネナプキンである。実際、アンネナプキンによって女性の活動範囲は広がり、外で働く際に月経をハンディキャップと感じることも少なくなった。アンネナプキンの登場が高度経済成長期の女性の社会進出を支え、その後の女性のライフスタイルに影響を与えたと言っても過言ではないのである。
(中略)さらに、日陰者であった生理用品を大々的に世に送り出すためになされたアンネ社の広告戦略により、それ以前は「恥ずべきもの」「隠すべきもの」とされていた月経が、徐々に当たり前の生理現象として認識されるようになったわけだが、この劇的な月経観の変革が、自分たちの身体を不当に貶められてきた女性たちの身体観に与えた影響は、計り知れない。(p.53より抜粋)
実際、これを裏付ける調査結果があります。
•女性にとっての「月経」経験 : ライフコースの視点からの考察 加藤 朋江
年報筑波社会学 6, 117-135, 1994
この論文は、1992年に、1910年代〜1970年代生まれの女性に月経体験についての記述式のアンケート調査を行ったものですが、アンケート結果を分析してでこう述べられています。
“ その後、 1961(昭和 36)年に発売されたアンネナプキンを皮切りに、その後次々と国産の生理用品が普及しはじめ、 1970年代には全国どこでもこの製品が普及した。このころ に初潮を迎えた者たちくらいから、初潮の受容の状況が微妙に変化する.まず、 それは必ず母親に話されるべきイベントとして受けとめられる。家庭内や毅密 な向性との空間においては、自分の月経が以前より公にされている。そうした 自分の月経を隠さない娘たちの態度によって、母親たちが再教育されるという 構図が見える。
また、社会の中に性や身体に関して語りやすい空気が生まれたとする評価が 1950年代前半 -1930年代後半出生者に顕著である。これは、前述の娘世代からの影響、商品化された生理用品による月経の顕在化など、様々な理由が言えるだろう。
月経という現象自体に関する評価も、 1950年代以前の出生者では月経随伴現象を理由とする不快感を示すのに対し、 1940年代以前の出生者では、月経という現象それ自体に対するネガティブなイメージがうかがえる。(p.127より抜粋)
現在の日本では大半の女性がタンポンよりナプキンを使っているようですし、その種類はありすぎるほど豊富で、生理日の始め終わり〜就寝時間や生理前後と厚さ薄さなどの選択肢、値段までも様々に使いやすいものが豊富すぎるほど進化してきています。かえって外国に出かけたときに、「いいナプキンがない」と困るくらいです。このような日本の生理用品の礎を築き、女性の「生理」を開放した坂井泰子という女性に私たち心から感謝したいです。
参照HP:https://usausa1975.hatenadiary.org/entry/20120122/p1