2019年05月21日

オリンピックの祖・嘉納治五郎

駐日フランス大使のジェラールから突然、嘉納治五郎が会見の申し込みを受けたのは、1909年春のことだった。その少し前に、我孫子に別荘を求めたということになる。

 古代オリンピックゆかりの地、アテネのパナシナイコ・スタジアムで第1回近代五輪が開催されたのは1896年。以後、4年ごとに開催されている五輪を運営する国際オリンピック委員会(IOC)への参加の依頼だった。当時IOC会長を務めていたクーベルタンからの依頼に基づき、東京高等師範学校長の嘉納に白羽の矢が立ったのだ。嘉納が選ばれたのはなぜか。ラフカディオ・ハーンにより欧米に柔道の創始者として知られていた。早くから青少年の体育・スポーツに関心を寄せ、98年からは東京高師で長距離走を奨励実施し、夏には水泳も取り入れていたこと、さらに豊かな語学力も魅力だった。嘉納としても「外国との交流促進」やスポーツを通して「国民体力の増強と健全な精神の育成」を図ろうとの考えは五輪の理念に矛盾はなかった。

 ジェラールからの知らせを受けたクーベルタンは、1909年5月、ベルリンで開催されたIOC総会に諮り、嘉納をアジア初のIOC委員として推薦。翌年、日本は第5回ストックホルム五輪への招待を受ける。このときクーベルタンからは次のような要望も伝えられた。五輪への参加を決意した嘉納は、精力的に動く。まずは国民体育の普及と五輪への日本代表選手派遣の2つを目指して11年7月、大日本体育協会を創設し、会長に就任。続いて選手の予選会を実施する。同年11月18、19日のことだった。東京・羽田運動場で行われた予選会には91人の選手が参加した。

 注目のマラソン(25マイル=約40キロ)には、19人が参加して2日目の午後0時30分にスタート。「日本体育協会 日本オリンピック委員会100年史」によると、トラックを3周後に競技場をあとにし、東神奈川を目指して東海道をひた走る。役員と万一の場合に備えた医師を乗せた自動車1台、自転車4台がそのあとに続いた。降りしきる雨に寒気も加わって完走者は6人という過酷なレースになったが、気象条件とは逆に好タイムに沸く。優勝した東京高師の金栗四三のタイムは2時間32分45秒で、3位までが世界記録という快挙だった。

 ドラマでは、一時マラソンが五輪競技から除外されそうになるが、それを思い留まらせたのは嘉納先生の進言をクーベルタン男爵が受け入れたことによると言うものだ。

 









 「オリンピック大会に参加する国は、それぞれスポーツの全国的統括団体をもっていて、これがそれぞれの国のオリンピック委員会(NOC)になっている。ついては日本も早急にこの種の団体を組織されたい」



posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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