2019年04月27日

秘話『日本百名山』:深田久弥の我孫子暮らし

山に関する本は数あれども、『日本百名山』は登山家が書いた不朽の文学として、1965年1月、第16回読売文学賞=評論・伝記賞を受賞し、知られる名著です。作者の深田久弥は「百の頂きに百の喜びあり」の名文句を残し、それぞれの山を3つの基準、選で選定して、山の品格、山の歴史、山の個性を挙げて描写しました。その山に実際に登った者の心にも素直に「確かにそうだ。同感だな。」と感じる文章が多いと言われます。名作『日本百名山』の著者深田久弥は、時に「山の文学者」と呼ばれ 『日本百名山』の後記にに「目ぼしい山にすべて登り、百名山を選んでみようと思いついたのは戦前だった」と書いています。その深田久弥が何と我孫子ゆかりの人物であったというのは、知られてきませんでした。

我孫子の文化を守る会副会長の越岡禮子さんが、深田久弥と北畠八穂を調査、住んだ家が三樹荘であったことを突き止めるなど、講演、発表もされて明らかにされました。深田と妻で児童文学者の北畠八穂が我孫子に住んでいた時代を中心に、この2人を丹念に追ったことで、二人の暮らしぶりがわかり、『日本百名山』への布石がされたのであろうと言われます。越岡さんが北畠八穂の出身地にある県立青森文学館に問い合わせ、その結果、年譜には「我孫子市天神山に住む」との記載があり、深田久弥の記載からも深田夫妻が居を構えたのは「三樹荘」だったことが判明したそうです。「三樹荘」は文化勲章の田中耕太郎の居宅であり、その後は芸術院恩賜賞の河村蜻山が住んでいたことで知られていますが、多くの文化人の作品に示唆を与えていたと言えます。それによると、深田久弥が志賀直哉の弟子として我孫子には昭和4年夏から5年春まで居住、2人3脚の作品と言われる深田久弥の「津軽の野づら」などで、当時の我孫子での出来事や、ゆかりの人物を描いています。

我孫子時代の深田夫妻の暮らしは赤貧を極め、八穂は罹患している脊椎カリエスの薬代を得るために創作に勤しんだ。「オロッコの娘」や「津軽の野づら」は八穂の文体であったが、これらは夫・深田久弥の名前で発表された。このあと我孫子から東京、そして鎌倉へと転居をして昭和7年に改造社から『あすなろう』を発表して文壇に認められるようになった。

ネット上でさらに探すと、朝日新聞記者・小西淳一氏の「深田久弥と志げ子」という一文も見つかり、我孫子に住んだ背景に触れられています。新聞記者らしい緻密な文章で、深田久弥の作家としての軌跡、「日本百名山」誕生のいきさつを証していました。

深田は東京帝大在学中の27(昭和2)年、24歳で改造社に採用された。翌年、懸賞小説に応募してきた北畠八穂という女性の名を知る。青森市生まれの八穂は青森高女から実践女学校(現実践女子大)を中退。青森県内で代用教員をしていたが、脊椎カリエスが悪化して退職し、自宅でふせっていた。深田が手紙を出して青森まで会いに行ったのをきっかけに、11年間の同居生活の末、40年に正式に結婚する。
「深田久弥 山の文学全集」(朝日新聞社)の編集委員だった近藤信行・山梨県立文学館長は「深田さんは『津軽の野づら』から『あすなろう』へ、八穂さんの文体で通している。八穂さんも、深田さんのために仕事をした、という部分が見える」と分析する。

深田の初恋は、20歳の時だった。ある秋の日、一高生の深田は東京・本郷通りで、聡明そうな一少女に目をとめる。菊と蘭の記章がついた焦げ茶色のバンドを締めた、東京女子高等師範付属高女(現お茶の水女子大付属高)の女子学生だった。 深田は、志げ子と初めて言葉を交わしたこの時のことを、「わが青春記」(52年)で「一高時代の私の風貌を彼女は細かな点までおぼえていた。まことにこの世は偶然なものである」と回想し、「この偶然が私の後半生を支配するようになろうとは!」 と記している。

二人の再会は、18年後の41年――深田がようやく八穂と結婚した翌年のことでした。 偶然の出会い、また再会が、山の文学者・深田久弥と児童文学者・北畠八穂を生んだ、と見ることもできる。32年には「あすならう」、翌年には神奈川・鎌倉へ移り、久米正雄、今日出海、小林秀雄ら「鎌倉文士」の仲間入りをした。文芸評論家の中村光夫(本名・木庭(こば)一郎)の結婚披露宴の席で、かつての女学生の名前は木庭志げ子といい、中村の姉だとわかったのです。深田は、41年に志げ子と再会した翌月にはもう、山行へ誘う。百名山の一つ、新潟・長野県境の雨飾(あまかざり)山(1963メートル)。長野側から登ろうとして雨に降り込められ、ふたりは小谷(おたり)温泉の旅館に4日も滞在。 再会の1年余りで男子が生まれ、八穂も知るところとなった。

そのころ、互いの家に出入りした文士仲間は「深田の作品には八穂が関与している」と薄々感づいていく。37年、「鎌倉夫人」の朝日新聞への連載が決まった直後のことを八穂は回想している。友人の小林は朝日新聞紙上で厳しく評した。「何というおづおづした手付きで、作者は自分の青春の書を世に送り出しているか。そして、そういう手つきは、この作者一人の手つきではない」 といわれだした。

夫婦の冷戦状態は深田の応召で中断したが、46年に復員した深田は、八穂のいる鎌倉へは顔を出した程度で、すぐに志げ子が疎開していた新潟・越後湯沢に合流した。翌年には八穂と離婚し、志げ子と結婚。久弥と離婚した八穂は次々と童話を発表し、高い評価を得るようになる。深田の不義に苦しんだ八穂はその後、深田作品の殆どが八穂の筆によったことを世間に公表した。夫婦でいれば済まされたことが、別れたことで表面化し、戦前の名声も打ち砕かれた。「庭から茶の間に入ってこられた川端さんが、『これくらいの連載は、スケッチをするつもりで』と、聞かして下さいました。私は慌てて、『こんど当人に、そうおっしゃって下さいまし』と、頼みました。川端さんは頭を振り、『あなたにそういっとけば』と微笑してさっと帰られました」と看破した。

深田は、ふるさと石川・大聖寺(加賀市)に身を寄せ、 それまでの 八穂との「二人三脚」から離れて地味な短編を書くようになる。鳴かず飛ばずで、 金沢に移って4年余りを過ごした後の、8年間の充電を終えた深田は、55年に上京を決意し、「自分には好きな山しか道はない」と山の文学者として再生を期すことに。それからの 志げ子の献身は見事だった。「志は高く、暮らしは低く」が深田のモットーで、稼ぎは本や資料代に消える。志げ子は丸善から請求書が届くたびに「こわいこわい」と言いながら開封したが、深田が頼んだ洋書が入荷したと聞けばたとえ重くても抱えて帰り「またこれを使って稼いでね」と励ました。 新潮社の編集者だった佐野英夫さんによると、百名山の単行本化を持ちかけてから間もなく、「そんな話は簡単にはいかないから信用するなよと弟(中村光夫)が言うんです」と志げ子は笑っていたという。当時のことを『百名山』にも 「戦後私はふるさとに帰って三年半の孤独な疎開生活を送ったが、白山はどれほど私を慰めてくれたことか」 と記していた。
  

八穂は離婚後、児童文学者として活躍。健康に恵まれなかった八穂が、78歳と3人の中で長生きをした。



posted by Nina at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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