28日に安倍総理と会談したトルドー首相は、安倍総理の前で日本を中国と言い間違えるミスを犯し、言い直ししたものの、さらにその後の共同記者会見で、まったく同じミスを繰り返した(一度目は直後に訂正も、二度目は言い間違いに気づかず話を進める)。
トルード氏は、政界入りから7年、44歳の若さで国のトップの座に就いた。第20・22代首相ピエール・トルドーの長男、若く、清廉でスタイリッシュなイメージで支持者を広げて政界を上り詰めてきた。教員の経歴がありながら、カナダは10ある州のに、アルバータの存在を忘れて9州しか言えなかったり、カナダが建国されてから150年なのに100年と言ってしまうかと、ベルギーがアフリカにあると勘違いしてたこともあったという。性急な移民受け入れなどで支持率が下がり、今年2月には、司法長官に対し刑事事件に介入するよう圧力をかけた疑惑が浮上。憲法、あるいは法の支配を脅かす行為として非難され、現在もトルドー政権を揺るがしている。
日本国内でも前五輪大臣が、多々言い間違えを繰り返して更迭された経緯があったばかり。今回は国際政治の場で、安倍総理をチャイナとの怪談と言い間違えて、特に二回目のチャイナとの間違いであれば、今どきは動画ですぐに配信されるのだから、通訳のヘッドフォンが間違いなく原稿道理に訳していたのかもしれないが、ジョークを交えながらすぐ訂正されたなら、とりいそぎ握手でお互いに様にならない外交檄を演じなくても済んだのに・・・。そんな程度ではカナダ訪問の意義がどこにあったのかさえ、問われる事態になってしまった。
2019年04月30日
2019年04月29日
安倍首相、米大統領に皇室行事を説明
スーパーボウルは米国内で1億人を超える人が視聴する米国の国民的行事。
トランプ米大統領は、安倍首相が訪日を招請した際に新天皇即位について「スーパーボウルと比べて、日本人にとってどれくらい重要なイベントか」と尋ねた。これに対し、首相は米プロフットボールの年間王者決定戦スーパーボウルの「100倍重要」と答えたという。トランプ氏によると、この説明を受けて、5月の訪日を決断したと、ホワイトハウスでの首相との会談冒頭に語って明らかにした。トランプ氏は会話があった時期には触れなかった。このことによって、令和初の国賓としてトランプ大統領を迎えることになった。
安倍昭恵夫人と米フロリダ州の博物館見学(2018 /4 (c)AFP)
4月26日はトランプ大統領の夫人・メラニアの誕生日だったこともあり、安倍首相と昭恵夫人は26日夜(日本時間27日午前)、ホワイトハウスでトランプ大統領夫妻と夕食を共にし、この日に49歳の誕生日を迎えたメラニア夫人を祝った。昭恵夫人からはお茶と急須、湯飲みのセットがプレゼントされ友好的な遣り取りのうちに話が進んだと報じられた。
外国出身のファーストレディは旧宗主国イギリス出身のルイーザ・アダムズに次ぐ史上2人目で190年ぶり。身長178cmのユーゴスラビア出身の元モデル。トランプ氏の三人目の妻。 ユーゴスラビア内戦の影響(現スロベニアは旧ユーゴでは比較的安定していた)で故郷を離れて渡米。2001年にはアメリカの永住権を取得し、2005年1月22日に90年代に知り合ったトランプと結婚した。結婚式にはクリントン夫妻が主賓で出席した。翌年には息子のバロン・ウィリアム・トランプが生まれ、アメリカの国籍(市民権)を取得した。 2016年アメリカ合衆国大統領選挙に立候補した夫の応援演説にも立ち、この選挙で夫のドナルドが当選を果たし、ファーストレディの傍ら宝飾品や腕時計をデザインしている。 移民出身ゆえに夫ドナルドの移民政策を批判しており、政治的思想は夫ドナルドに比べてリベラルとされる。
参照:時事コム(4月27日)
トランプ米大統領は、安倍首相が訪日を招請した際に新天皇即位について「スーパーボウルと比べて、日本人にとってどれくらい重要なイベントか」と尋ねた。これに対し、首相は米プロフットボールの年間王者決定戦スーパーボウルの「100倍重要」と答えたという。トランプ氏によると、この説明を受けて、5月の訪日を決断したと、ホワイトハウスでの首相との会談冒頭に語って明らかにした。トランプ氏は会話があった時期には触れなかった。このことによって、令和初の国賓としてトランプ大統領を迎えることになった。
安倍昭恵夫人と米フロリダ州の博物館見学(2018 /4 (c)AFP)
4月26日はトランプ大統領の夫人・メラニアの誕生日だったこともあり、安倍首相と昭恵夫人は26日夜(日本時間27日午前)、ホワイトハウスでトランプ大統領夫妻と夕食を共にし、この日に49歳の誕生日を迎えたメラニア夫人を祝った。昭恵夫人からはお茶と急須、湯飲みのセットがプレゼントされ友好的な遣り取りのうちに話が進んだと報じられた。
外国出身のファーストレディは旧宗主国イギリス出身のルイーザ・アダムズに次ぐ史上2人目で190年ぶり。身長178cmのユーゴスラビア出身の元モデル。トランプ氏の三人目の妻。 ユーゴスラビア内戦の影響(現スロベニアは旧ユーゴでは比較的安定していた)で故郷を離れて渡米。2001年にはアメリカの永住権を取得し、2005年1月22日に90年代に知り合ったトランプと結婚した。結婚式にはクリントン夫妻が主賓で出席した。翌年には息子のバロン・ウィリアム・トランプが生まれ、アメリカの国籍(市民権)を取得した。 2016年アメリカ合衆国大統領選挙に立候補した夫の応援演説にも立ち、この選挙で夫のドナルドが当選を果たし、ファーストレディの傍ら宝飾品や腕時計をデザインしている。 移民出身ゆえに夫ドナルドの移民政策を批判しており、政治的思想は夫ドナルドに比べてリベラルとされる。
参照:時事コム(4月27日)
2019年04月28日
「ありがとう」という言葉
『法則マクロに発想する』(サンマーク出版)に、運やツキを味方につける法則が示されていました。
人間の「思い」のなかで、「感謝の心」は重要なポイントとなるのではないか、というのです。
感謝が伝えられない人にツキがめぐってくることはまずありえない、せめて「一日に二十回以上、ありがとうございますといいましょう」という実践をすすめています。
戦後の豊かな時代に生まれた人は、暖衣飽食の環境で「ありがとう」と感謝する機会が少なくなっている。戦前は貧しい時代でしたから、「ありがとう」と感謝の思いを積極的に表明する子どもろ、そうでない子どもは気にかけてもらえるかどうかが違ってくる。だからよくも悪くも、感謝するクセづけが半強制的に植えつけられていきました。
いまの豊かな時代は、感謝せずとも食べるには困らないし、夫婦で補い合うことをせずともATMやコンビニでお金を手にして欲しいものを買える、十分に暮していける。だから、「ありがとう」言う場面も減少しているのです。一人で生きている存在のような気になるのです。
御飯が食べられる幸せ、健康である幸せ、この世に無事に生きている幸せ…感謝の種はどこにでもありますが、その種をまくことが減っている時代になっているのにも気づかないのです。とりわけ、「ありがとう」という感謝の言葉を明るく大きな声で表明することは運や福を呼び込むためのきわめて大切な行為なのに忘れられているのが現代です。
ある地方の鉄道会社では、朝の通勤時間帯に「おはようございます。いつもご利用いただきありがとうございます」というあいさつを、明るくはきはきと、しかも笑顔で発すことを駅員に徹底した結果、だたそれだけで会社の業績がいちじるしく向上したといいます。そんな力を言葉は潜在させているので、まずは挨拶を重視するわけです。
そこで、感謝や肯定、喜びや楽しみなどのプラスの明るい相をもった言葉を発していれば、人の悪口非難、妬みや呪いなど、後ろ向きでマイナスの暗い相をもった言葉ばかり呟いていれば、やはりそのとおりの、ネガティブな悪い結果が、それぞれもたらされることになる傾向がみられます。そのなかでも、「ありがとう」はすぐれた言葉といえます。 感謝と肯定、受容と愛情に満ち、きわめてよいエネルギーとプラスの波動をもつ言葉。運とツキを招く幸せの言葉なのです。
小林正観さんは、「言葉が現象化する」ことについてこう語る。(運命好転十二条)より
それは、「うれしい」「楽しい」「幸せ」「ツイてる」「ありがとう」「感謝します」と言っていると、それと同じ現象が起きるということ。
たとえば、神社仏閣で 何かを願うかわりに、今の状況に「うれしいこと」「楽しいこと」、「幸せなこと」、「ツイてること」「感謝すること」に気づいて、それに対して、「うれしい」や「楽しい」「ツイてる」と言うことだというのです。
「ポリアンナ効果」という言葉がある。好ましくない事にあっても、そのなかから「よかったこと」を探してポジティブに考える。
そういう前向きでポジティブな生き方が、まわりによい影響を与えるというのが、ポリアンナ効果。
だから 「ありがとう」を言うことは、この「よかったこと探し」と同じ考えだ。
あらゆることに「ありがとう」と感謝の種を蒔いて、それが広がるようにずっと努めしていく。
平成の時代、日本が戦争の心配もなく、明治維新後の近代国家形成において平和な時代だったのを感謝して新たな時を迎えよう、
人間の「思い」のなかで、「感謝の心」は重要なポイントとなるのではないか、というのです。
感謝が伝えられない人にツキがめぐってくることはまずありえない、せめて「一日に二十回以上、ありがとうございますといいましょう」という実践をすすめています。
戦後の豊かな時代に生まれた人は、暖衣飽食の環境で「ありがとう」と感謝する機会が少なくなっている。戦前は貧しい時代でしたから、「ありがとう」と感謝の思いを積極的に表明する子どもろ、そうでない子どもは気にかけてもらえるかどうかが違ってくる。だからよくも悪くも、感謝するクセづけが半強制的に植えつけられていきました。
いまの豊かな時代は、感謝せずとも食べるには困らないし、夫婦で補い合うことをせずともATMやコンビニでお金を手にして欲しいものを買える、十分に暮していける。だから、「ありがとう」言う場面も減少しているのです。一人で生きている存在のような気になるのです。
御飯が食べられる幸せ、健康である幸せ、この世に無事に生きている幸せ…感謝の種はどこにでもありますが、その種をまくことが減っている時代になっているのにも気づかないのです。とりわけ、「ありがとう」という感謝の言葉を明るく大きな声で表明することは運や福を呼び込むためのきわめて大切な行為なのに忘れられているのが現代です。
ある地方の鉄道会社では、朝の通勤時間帯に「おはようございます。いつもご利用いただきありがとうございます」というあいさつを、明るくはきはきと、しかも笑顔で発すことを駅員に徹底した結果、だたそれだけで会社の業績がいちじるしく向上したといいます。そんな力を言葉は潜在させているので、まずは挨拶を重視するわけです。
そこで、感謝や肯定、喜びや楽しみなどのプラスの明るい相をもった言葉を発していれば、人の悪口非難、妬みや呪いなど、後ろ向きでマイナスの暗い相をもった言葉ばかり呟いていれば、やはりそのとおりの、ネガティブな悪い結果が、それぞれもたらされることになる傾向がみられます。そのなかでも、「ありがとう」はすぐれた言葉といえます。 感謝と肯定、受容と愛情に満ち、きわめてよいエネルギーとプラスの波動をもつ言葉。運とツキを招く幸せの言葉なのです。
小林正観さんは、「言葉が現象化する」ことについてこう語る。(運命好転十二条)より
それは、「うれしい」「楽しい」「幸せ」「ツイてる」「ありがとう」「感謝します」と言っていると、それと同じ現象が起きるということ。
たとえば、神社仏閣で 何かを願うかわりに、今の状況に「うれしいこと」「楽しいこと」、「幸せなこと」、「ツイてること」「感謝すること」に気づいて、それに対して、「うれしい」や「楽しい」「ツイてる」と言うことだというのです。
「ポリアンナ効果」という言葉がある。好ましくない事にあっても、そのなかから「よかったこと」を探してポジティブに考える。
そういう前向きでポジティブな生き方が、まわりによい影響を与えるというのが、ポリアンナ効果。
だから 「ありがとう」を言うことは、この「よかったこと探し」と同じ考えだ。
あらゆることに「ありがとう」と感謝の種を蒔いて、それが広がるようにずっと努めしていく。
平成の時代、日本が戦争の心配もなく、明治維新後の近代国家形成において平和な時代だったのを感謝して新たな時を迎えよう、
2019年04月27日
秘話『日本百名山』:深田久弥の我孫子暮らし
山に関する本は数あれども、『日本百名山』は登山家が書いた不朽の文学として、1965年1月、第16回読売文学賞=評論・伝記賞を受賞し、知られる名著だ。作者の深田久弥は「百の頂きに百の喜びあり」の名文句を残し、それぞれの山を3つの基準、選で選定して、山の品格、山の歴史、山の個性を挙げて描写した。その山に実際に登った者の心にも素直に「確かにそうだ。同感だな。」と感じる文章が多いと言われる。『日本百名山』の後記にに「目ぼしい山にすべて登り、百名山を選んでみようと思いついたのは戦前だった」と書いている。
さらに、ネット上で探すと、朝日新聞記者・小西淳一氏の「深田久弥と志げ子」という一文も見つかり、我孫子に住んだ背景に触れていた。新聞記者らしい緻密な文章で、深田久弥の作家としての軌跡、「日本百名山」誕生のいきさつを証していた。深田久弥が我孫子ゆかりの人物であったというのは、あまり知られずであったが、我孫子の文化を守る会の副会長の越岡禮子さんが、深田久弥と北畠八穂を調査、住んだ家が三樹荘であったことを突き止めるなどされ、この2人を丹念に追って、講演、発表もされた。深田と妻で児童文学者の北畠八穂が我孫子に住んでいた時代を中心に二人の暮らしぶりが明らかになり、『日本百名山』への布石がされたのであろうと言う。越岡さんが手がかりを求め、北畠八穂の出身地にある県立青森文学館に問い合わせると、その年譜に「我孫子市天神山に住む」との記載があり、久弥の記載からも深田夫妻が居を構えたのは「三樹荘」だったことが判明したのだった。越岡さんは、滝井孝作と改造社時代の同僚なので、滝井の縁で夫妻は昭和4年夏から5年春まで我孫子に居住したのだろうと言われる。
我孫子時代の深田夫妻の暮らしは、赤貧を極め、八穂は罹患している脊椎カリエスの薬代を得るために創作に勤しんだ。妻との2人3脚の作品と言われる「津軽の野づら」などで、当時の我孫子での出来事や、ゆかりの人物を描いていた。「津軽の野づら」や「オロッコの娘」は八穂の文体であったが、夫・深田久弥の名前で発表された。このあと我孫子から東京、そして鎌倉へと転居し、昭和7年に改造社から『あすなろう』を発表して深田は文壇に認められるようになった。
深田の経歴を振り返ると、東京帝大在学中の27(昭和2)年、24歳で改造社に採用された。翌年、懸賞小説に応募してきた北畠八穂という女性の名を知る。青森市生まれの八穂は青森高女から実践女学校(現実践女子大)を中退。青森県内で代用教員をしていたが、脊椎カリエスが悪化して退職し、自宅でふせっていた。深田が手紙を出して青森まで会いに行ったのをきっかけに、11年間の同居生活の末、40年に正式に結婚する。
情熱家の深田は、一高生の20歳の秋、東京・本郷通りで、聡明そうな一少女に目をとめる。菊と蘭の記章がついた焦げ茶色のバンドを締めた、東京女子高等師範付属高女(現お茶の水女子大付属高)の女子学生だった。 深田は、志げ子と初めて言葉を交わしたこの時のことを、「わが青春記」(52年)で「一高時代の私の風貌を彼女は細かな点までおぼえていた。まことにこの世は偶然なものである」と回想し、「この偶然が私の後半生を支配するようになろうとは!」と残している。 すれ違いの二人の再会は、18年後の41年――深田がようやく八穂と結婚した翌年のことだった。 文芸評論家の中村光夫(本名・木庭(こば)一郎)の結婚披露宴の席で、かつての女学生の名前は木庭志げ子といい、中村の姉だとわかった。
「深田久弥 山の文学全集」(朝日新聞社)の編集委員だった近藤信行・山梨県立文学館長は「深田さんは『津軽の野づら』から『あすなろう』へ、八穂さんの文体で通している。八穂さんも、深田さんのために仕事をした、という部分が見える」と分析する。偶然の出会い、また再会が、山の文学者・深田久弥と児童文学者・北畠八穂を生んだと見ることもできる。32年には「あすならう」、翌年には神奈川・鎌倉へ移り、久米正雄、今日出海、小林秀雄ら「鎌倉文士」の仲間入りをした。そのころ、互いの家に出入りした文士仲間は「深田の作品には八穂が関与している」と薄々感づいていく。37年、「鎌倉夫人」の朝日新聞への連載が決まった直後のことを八穂は回想している。友人の小林は朝日新聞紙上で厳しく評した。「何というおづおづした手付きで、作者は自分の青春の書を世に送り出しているか。そして、そういう手つきは、この作者一人の手つきではない」 といわれだした。
深田は41年に志げ子と再会した翌月には山行へ誘っていた。百名山の一つ、新潟・長野県境の雨飾(あまかざり)山(1963メートル)。長野側から登ろうとして雨に降り込められ、ふたりは小谷(おたり)温泉の旅館に4日も滞在。 再会の1年余りで男子が生まれ、妻・八穂も知るところとなった。夫婦の冷戦状態は深田の応召で中断したが、46年に復員した深田は、八穂のいる鎌倉へは顔を出した程度で、すぐに志げ子が疎開していた新潟・越後湯沢に合流した。翌年には八穂と離婚し、志げ子と再婚。
一方、離婚した八穂は次々と童話を発表し、高い評価を得るようになる。深田の不義に苦しんだ八穂はその後、深田作品の殆どが八穂の筆によったことを世間に公表した。夫婦でいれば済まされたことが、別れたことで表面化し、戦前の名声も打ち砕かれた。八穂は「庭から茶の間に入ってこられた川端さんが、『これくらいの連載は、スケッチをするつもりで』と、聞かして下さいました。私は慌てて、『こんど当人に、そうおっしゃって下さいまし』と、頼みました。川端さんは頭を振り、『あなたにそういっとけば』と微笑してさっと帰られました」と看破した。
その後、深田は、それまでの 八穂との「二人三脚」から離れ、ふるさと石川・大聖寺(加賀市)に身を寄せ、 地味な短編を書くようになる。鳴かず飛ばずで、 金沢に移って4年余りを過ごした後の8年間の充電を終えた深田は、55年に上京を決意し、「自分には好きな山しか道はない」と山の文学者として再生を期すことになる。 志げ子の献身は見事だった。「志は高く、暮らしは低く」が深田のモットーで、稼ぎは本や資料代に消える。志げ子は丸善から請求書が届くたびに「こわいこわい」と言いながら開封したが、深田が頼んだ洋書が入荷したと聞けばたとえ重くても抱えて帰り「またこれを使って稼いでね」と励ました。 新潮社の編集者だった佐野英夫によると、百名山の単行本化を持ちかけると、「そんな話は簡単にはいかないから信用するなよと弟(中村光夫)が言うんです」と志げ子は笑っていたという。当時のことを『百名山』にも 「戦後私はふるさとに帰って三年半の孤独な疎開生活を送ったが、白山はどれほど私を慰めてくれたことか」 と記していた。
八穂は離婚後、児童文学者として活躍。健康に恵まれなかった八穂が、78歳と3人の中で一番の長寿だった。
柳宗悦が住んでいた「三樹荘」は、文化勲章の田中耕太郎や芸術院恩賜賞の河村蜻山などが住むことになり、多くの文化人の作品に示唆を与えたであった。
さらに、ネット上で探すと、朝日新聞記者・小西淳一氏の「深田久弥と志げ子」という一文も見つかり、我孫子に住んだ背景に触れていた。新聞記者らしい緻密な文章で、深田久弥の作家としての軌跡、「日本百名山」誕生のいきさつを証していた。深田久弥が我孫子ゆかりの人物であったというのは、あまり知られずであったが、我孫子の文化を守る会の副会長の越岡禮子さんが、深田久弥と北畠八穂を調査、住んだ家が三樹荘であったことを突き止めるなどされ、この2人を丹念に追って、講演、発表もされた。深田と妻で児童文学者の北畠八穂が我孫子に住んでいた時代を中心に二人の暮らしぶりが明らかになり、『日本百名山』への布石がされたのであろうと言う。越岡さんが手がかりを求め、北畠八穂の出身地にある県立青森文学館に問い合わせると、その年譜に「我孫子市天神山に住む」との記載があり、久弥の記載からも深田夫妻が居を構えたのは「三樹荘」だったことが判明したのだった。越岡さんは、滝井孝作と改造社時代の同僚なので、滝井の縁で夫妻は昭和4年夏から5年春まで我孫子に居住したのだろうと言われる。
我孫子時代の深田夫妻の暮らしは、赤貧を極め、八穂は罹患している脊椎カリエスの薬代を得るために創作に勤しんだ。妻との2人3脚の作品と言われる「津軽の野づら」などで、当時の我孫子での出来事や、ゆかりの人物を描いていた。「津軽の野づら」や「オロッコの娘」は八穂の文体であったが、夫・深田久弥の名前で発表された。このあと我孫子から東京、そして鎌倉へと転居し、昭和7年に改造社から『あすなろう』を発表して深田は文壇に認められるようになった。
深田の経歴を振り返ると、東京帝大在学中の27(昭和2)年、24歳で改造社に採用された。翌年、懸賞小説に応募してきた北畠八穂という女性の名を知る。青森市生まれの八穂は青森高女から実践女学校(現実践女子大)を中退。青森県内で代用教員をしていたが、脊椎カリエスが悪化して退職し、自宅でふせっていた。深田が手紙を出して青森まで会いに行ったのをきっかけに、11年間の同居生活の末、40年に正式に結婚する。
情熱家の深田は、一高生の20歳の秋、東京・本郷通りで、聡明そうな一少女に目をとめる。菊と蘭の記章がついた焦げ茶色のバンドを締めた、東京女子高等師範付属高女(現お茶の水女子大付属高)の女子学生だった。 深田は、志げ子と初めて言葉を交わしたこの時のことを、「わが青春記」(52年)で「一高時代の私の風貌を彼女は細かな点までおぼえていた。まことにこの世は偶然なものである」と回想し、「この偶然が私の後半生を支配するようになろうとは!」と残している。 すれ違いの二人の再会は、18年後の41年――深田がようやく八穂と結婚した翌年のことだった。 文芸評論家の中村光夫(本名・木庭(こば)一郎)の結婚披露宴の席で、かつての女学生の名前は木庭志げ子といい、中村の姉だとわかった。
「深田久弥 山の文学全集」(朝日新聞社)の編集委員だった近藤信行・山梨県立文学館長は「深田さんは『津軽の野づら』から『あすなろう』へ、八穂さんの文体で通している。八穂さんも、深田さんのために仕事をした、という部分が見える」と分析する。偶然の出会い、また再会が、山の文学者・深田久弥と児童文学者・北畠八穂を生んだと見ることもできる。32年には「あすならう」、翌年には神奈川・鎌倉へ移り、久米正雄、今日出海、小林秀雄ら「鎌倉文士」の仲間入りをした。そのころ、互いの家に出入りした文士仲間は「深田の作品には八穂が関与している」と薄々感づいていく。37年、「鎌倉夫人」の朝日新聞への連載が決まった直後のことを八穂は回想している。友人の小林は朝日新聞紙上で厳しく評した。「何というおづおづした手付きで、作者は自分の青春の書を世に送り出しているか。そして、そういう手つきは、この作者一人の手つきではない」 といわれだした。
深田は41年に志げ子と再会した翌月には山行へ誘っていた。百名山の一つ、新潟・長野県境の雨飾(あまかざり)山(1963メートル)。長野側から登ろうとして雨に降り込められ、ふたりは小谷(おたり)温泉の旅館に4日も滞在。 再会の1年余りで男子が生まれ、妻・八穂も知るところとなった。夫婦の冷戦状態は深田の応召で中断したが、46年に復員した深田は、八穂のいる鎌倉へは顔を出した程度で、すぐに志げ子が疎開していた新潟・越後湯沢に合流した。翌年には八穂と離婚し、志げ子と再婚。
一方、離婚した八穂は次々と童話を発表し、高い評価を得るようになる。深田の不義に苦しんだ八穂はその後、深田作品の殆どが八穂の筆によったことを世間に公表した。夫婦でいれば済まされたことが、別れたことで表面化し、戦前の名声も打ち砕かれた。八穂は「庭から茶の間に入ってこられた川端さんが、『これくらいの連載は、スケッチをするつもりで』と、聞かして下さいました。私は慌てて、『こんど当人に、そうおっしゃって下さいまし』と、頼みました。川端さんは頭を振り、『あなたにそういっとけば』と微笑してさっと帰られました」と看破した。
その後、深田は、それまでの 八穂との「二人三脚」から離れ、ふるさと石川・大聖寺(加賀市)に身を寄せ、 地味な短編を書くようになる。鳴かず飛ばずで、 金沢に移って4年余りを過ごした後の8年間の充電を終えた深田は、55年に上京を決意し、「自分には好きな山しか道はない」と山の文学者として再生を期すことになる。 志げ子の献身は見事だった。「志は高く、暮らしは低く」が深田のモットーで、稼ぎは本や資料代に消える。志げ子は丸善から請求書が届くたびに「こわいこわい」と言いながら開封したが、深田が頼んだ洋書が入荷したと聞けばたとえ重くても抱えて帰り「またこれを使って稼いでね」と励ました。 新潮社の編集者だった佐野英夫によると、百名山の単行本化を持ちかけると、「そんな話は簡単にはいかないから信用するなよと弟(中村光夫)が言うんです」と志げ子は笑っていたという。当時のことを『百名山』にも 「戦後私はふるさとに帰って三年半の孤独な疎開生活を送ったが、白山はどれほど私を慰めてくれたことか」 と記していた。
八穂は離婚後、児童文学者として活躍。健康に恵まれなかった八穂が、78歳と3人の中で一番の長寿だった。
柳宗悦が住んでいた「三樹荘」は、文化勲章の田中耕太郎や芸術院恩賜賞の河村蜻山などが住むことになり、多くの文化人の作品に示唆を与えたであった。
2019年04月26日
2019年04月25日
極東を巡る政治の裏表、プーチン大統領と北朝鮮
政治に権力がはびこると、一般の人々の力では及ばない展開がおきるもので、日本の近海である極東地区にもみられる。
金正恩氏は今月25日、プーチン露大統領とウラジオストクで初の首脳会談に臨む予定となっている。
北朝鮮の金正恩氏がウラジオストックに到着した際に最初に出会うコジェミャコ知事の知事代行の任命、それまでの知事選挙(ロシア初の腐敗選挙見直し再選挙)は複雑怪奇だ。本文の「つづく」に追記に記したが、朱色の文字をクリックして読んでいただきたい。プーチン氏の巻き返し策でどのようなパワーバランスがなされるのか、今後を見なくてはならないだろう。
・・・・・・・・・・・・・・
ロシア極東沿海地方のコジェミャコ知事は24日、同日夕に極東ウラジオストクに専用列車で到達した北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の滞在中に、ボルシチ(ビーツのスープ)やペリメニ(水餃子)、イクラなど、ロシアの伝統料理を振る舞う意向を示した。露国営テレビのインタビューに答えた。 コジェミャコ氏は、会談場所となる極東連邦大学に併設されたホテルに滞在する金正恩氏に提供する料理を尋ねられ、「ロシア料理を代表するボルシチやペリメニのほか、イクラも欠かせない」と話した。ロシア料理の提供は北朝鮮側の要望に基づくものという。
ただ、金正恩氏の訪露団には料理人も帯同しているといい、コジェミャコ氏は「金正恩氏には多種多様な選択肢があるだろう」とつけ加えた。
出典:産経新聞【4/24 ウラジオストク=小野田雄一】つづき
金正恩氏は今月25日、プーチン露大統領とウラジオストクで初の首脳会談に臨む予定となっている。
北朝鮮の金正恩氏がウラジオストックに到着した際に最初に出会うコジェミャコ知事の知事代行の任命、それまでの知事選挙(ロシア初の腐敗選挙見直し再選挙)は複雑怪奇だ。本文の「つづく」に追記に記したが、朱色の文字をクリックして読んでいただきたい。プーチン氏の巻き返し策でどのようなパワーバランスがなされるのか、今後を見なくてはならないだろう。
・・・・・・・・・・・・・・
ロシア極東沿海地方のコジェミャコ知事は24日、同日夕に極東ウラジオストクに専用列車で到達した北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の滞在中に、ボルシチ(ビーツのスープ)やペリメニ(水餃子)、イクラなど、ロシアの伝統料理を振る舞う意向を示した。露国営テレビのインタビューに答えた。 コジェミャコ氏は、会談場所となる極東連邦大学に併設されたホテルに滞在する金正恩氏に提供する料理を尋ねられ、「ロシア料理を代表するボルシチやペリメニのほか、イクラも欠かせない」と話した。ロシア料理の提供は北朝鮮側の要望に基づくものという。
ただ、金正恩氏の訪露団には料理人も帯同しているといい、コジェミャコ氏は「金正恩氏には多種多様な選択肢があるだろう」とつけ加えた。
出典:産経新聞【4/24 ウラジオストク=小野田雄一】つづき
2019年04月24日
ごみ有料化:全国の市町村の61.4%(2012年10月現在)
「レジ袋は石油の成分の中で、余り気味のものを使っていた」レジ袋はポリエチレン製が主流となっているので、完全燃焼させたときには水と二酸化炭素しか発生しない。もしポリエステルのエコバッグを使うという方は、より貴重な石油成分を使うことになって環境負荷が高い、本末転倒だと考えておくべき。「家庭ごみを占めるレジ袋の割合は小さい。もっと取り組むべき問題があるのではないか」
エコバッグ持参の奥さんが、ロールポリ袋がらがら回して、大量に持って行った。3円でレジ袋するけど、どんどん袋詰めに透明ポリ袋で丁寧放送する高級(?)スーパーもどういう事なのか??
スーパーは店員が袋詰めしないから余分に袋くれるが、コンビニは店員が袋詰めするから必要数しか使われないのにな。
レジ袋=悪、というイメージを植え付けたいといか思えない。
台湾で、2001年の台風の際、下水道にレジ袋がつまり洪水の被害が拡大したことから、大幅なレジ袋の使用制限をはじめています。
イタリアでは1984年、死んで打ち上げられた鯨の胃袋からレジ袋などのプラスチック製袋が50枚も見つかったことがきっかけとなりレジ袋有料化がはじまりました。自然界でいつまでも分解されないでいるプラ製品はペットボトルと発砲スチロールが多いのに、それの規制は無視されているのは解せない。
イルカやウミガメなどの海洋生物は海中に漂うレジ袋をクラゲと誤飲して死亡するケースが多く、日本でもレジ袋などのプラスチックの誤飲が原因でイルカが死亡するケースが後を絶ちません。
奈良公園でも、人間が捨てた食べ物の匂いの付いているレジ袋などのプラスチックを食べたシカが、食べ物が吸収できなくなり栄養不足で死亡するケースが増えているそうです
平成24年10月の全国調査で1,069市町村/1,742市町村の自治体がごみ有料化を実施していた。
また、政令市 8市/20市(40.0%)、札幌市、仙台市、新潟市、京都市、岡山市、北九州市、福岡市、熊本市で実施していたため、千葉市では2014年2月よりごみ有料化を実施する事になった。
因みに、千葉県内の市町村 35市町村/54市町村(64.8%)が有料化を実施している:
銚子市、館山市、木更津市、茂原市、旭市、八千代市、鴨川市、富津市、袖ケ浦市、勝浦市、東金市、匝瑳市、南房総市、山武市、いすみ市、香取市、大網白里市、野田市、君津市、栄町、神崎町、多古町、東庄町、横芝光町、九十九里町、芝山町、一宮町、睦沢町、白子町、長柄町、長南町、大多喜町、鋸南町、御宿町、長生村で実施。
ごみを出す量に応じて、ごみ処理費用の一部を負担する仕組みで、柏市や松戸市で行われている指定ゴミ袋(有料)によるものとは、根本的に違っており、ごみ処理費用の一部が含まれた指定袋を購入することで、ゴミ処理手数料を納付することになります。
エコバッグ持参の奥さんが、ロールポリ袋がらがら回して、大量に持って行った。3円でレジ袋するけど、どんどん袋詰めに透明ポリ袋で丁寧放送する高級(?)スーパーもどういう事なのか??
スーパーは店員が袋詰めしないから余分に袋くれるが、コンビニは店員が袋詰めするから必要数しか使われないのにな。
レジ袋=悪、というイメージを植え付けたいといか思えない。
台湾で、2001年の台風の際、下水道にレジ袋がつまり洪水の被害が拡大したことから、大幅なレジ袋の使用制限をはじめています。
イタリアでは1984年、死んで打ち上げられた鯨の胃袋からレジ袋などのプラスチック製袋が50枚も見つかったことがきっかけとなりレジ袋有料化がはじまりました。自然界でいつまでも分解されないでいるプラ製品はペットボトルと発砲スチロールが多いのに、それの規制は無視されているのは解せない。
イルカやウミガメなどの海洋生物は海中に漂うレジ袋をクラゲと誤飲して死亡するケースが多く、日本でもレジ袋などのプラスチックの誤飲が原因でイルカが死亡するケースが後を絶ちません。
奈良公園でも、人間が捨てた食べ物の匂いの付いているレジ袋などのプラスチックを食べたシカが、食べ物が吸収できなくなり栄養不足で死亡するケースが増えているそうです
平成24年10月の全国調査で1,069市町村/1,742市町村の自治体がごみ有料化を実施していた。
また、政令市 8市/20市(40.0%)、札幌市、仙台市、新潟市、京都市、岡山市、北九州市、福岡市、熊本市で実施していたため、千葉市では2014年2月よりごみ有料化を実施する事になった。
因みに、千葉県内の市町村 35市町村/54市町村(64.8%)が有料化を実施している:
銚子市、館山市、木更津市、茂原市、旭市、八千代市、鴨川市、富津市、袖ケ浦市、勝浦市、東金市、匝瑳市、南房総市、山武市、いすみ市、香取市、大網白里市、野田市、君津市、栄町、神崎町、多古町、東庄町、横芝光町、九十九里町、芝山町、一宮町、睦沢町、白子町、長柄町、長南町、大多喜町、鋸南町、御宿町、長生村で実施。
ごみを出す量に応じて、ごみ処理費用の一部を負担する仕組みで、柏市や松戸市で行われている指定ゴミ袋(有料)によるものとは、根本的に違っており、ごみ処理費用の一部が含まれた指定袋を購入することで、ゴミ処理手数料を納付することになります。
2019年04月23日
統一地方選、一票未満で当落が
千葉県内では統一地方選後半戦の3市長選と19市町議選が21日投開票され、4年間を担う市長・議員の顔ぶれがほぼ決まった。このうち3市れが議選では、同姓同名の候補者のほか、1票未満で明暗が分かれたり、定数内の得票順位の候補者が当選できなかったりという珍しい事態が起きた。
勝浦市議選(定数15)では、立候補した17人の中に同姓同名の男性が2人いた。ともに元市職員であった鈴木克己氏。しかし、現職(64)は3選を果たし、新顔(60)は落選した。
選挙戦では名前で区別がつかないため、市選挙管理委員会は大字(おおあざ)名での区別を想定。2人は、投票時に名前の前に大字を書いてもらうよう「お願い合戦」を繰り広げた。開票結果は、当選した鈴木氏は788・869票、落選した鈴木氏は241・130票。公職選挙法では、同姓や同名の候補がいるなどした場合、候補者が一人に特定できない票(案分票)はその候補同士で有効な得票の割合に応じて配分される。勝浦市選管によると、名前だけが記載されて判別できない39票が案分された。市幹部は「2人合わせて約1千の得票があるなかで、案分が39票とは少ない」と話す。
3選を決めた鈴木氏は、「(大字の)うえのを連呼して、得票も前回(526票)から200票以上伸びた。珍しい事態で有権者の関心が高まったのだと思う。期せずして勝浦が注目されたのは良かった」と語った。
他方、1票未満の得票差で当落が分かれる選挙もあった。
銚子市議選(定数18)では25人が立候補して、得票数が18番目の石上允康(いしがみ・みつやす)氏(73)が904・474票で当選し、19番目の男性候補(74)は904票で落選した。銚子市選管によると、候補者には石上氏のほかに別の「石上」姓や「石神」姓がいて、「石上」(9票)や「いしがみ」(4票)と書かれた票が案分された。市選管は「市内であったこれまでの選挙で、1票未満の票差で当落が分かれたのは初めて」という。
参照:朝日新聞(4/23)
勝浦市議選(定数15)では、立候補した17人の中に同姓同名の男性が2人いた。ともに元市職員であった鈴木克己氏。しかし、現職(64)は3選を果たし、新顔(60)は落選した。
選挙戦では名前で区別がつかないため、市選挙管理委員会は大字(おおあざ)名での区別を想定。2人は、投票時に名前の前に大字を書いてもらうよう「お願い合戦」を繰り広げた。開票結果は、当選した鈴木氏は788・869票、落選した鈴木氏は241・130票。公職選挙法では、同姓や同名の候補がいるなどした場合、候補者が一人に特定できない票(案分票)はその候補同士で有効な得票の割合に応じて配分される。勝浦市選管によると、名前だけが記載されて判別できない39票が案分された。市幹部は「2人合わせて約1千の得票があるなかで、案分が39票とは少ない」と話す。
3選を決めた鈴木氏は、「(大字の)うえのを連呼して、得票も前回(526票)から200票以上伸びた。珍しい事態で有権者の関心が高まったのだと思う。期せずして勝浦が注目されたのは良かった」と語った。
他方、1票未満の得票差で当落が分かれる選挙もあった。
銚子市議選(定数18)では25人が立候補して、得票数が18番目の石上允康(いしがみ・みつやす)氏(73)が904・474票で当選し、19番目の男性候補(74)は904票で落選した。銚子市選管によると、候補者には石上氏のほかに別の「石上」姓や「石神」姓がいて、「石上」(9票)や「いしがみ」(4票)と書かれた票が案分された。市選管は「市内であったこれまでの選挙で、1票未満の票差で当落が分かれたのは初めて」という。
参照:朝日新聞(4/23)
2019年04月22日
ゴミ当番からみる「名もなき家事」
「名もなき家事(Unpaid work」の30項目を見てみましたが、そのほとんどは妻がやっているということに社会は気がついていませんでした。大和ハウス工業が2017年5月に発表した家事に関する意識調査をきっかけに「名もなき家事」として知られるようになりました。
かつて、男はひとたび外にでれば仕事(その前は戦争で徴兵)に出るれば七人の敵を向こうに回すのだからと、女は家事育児介護担当と相場が決まっていたのです。主婦の家事は節約をモットーに家計簿をつけるような事を、昭和から令和に引き継がれてきました。夫たちは滅私奉公を当たり前だと考えて、給与袋の封を切らず妻に渡し、その代り女に外の苦労をさせないよう働きに出させないことが甲斐性だとも考えて、仕事のワンオペ、家事育児、介護は女性と役割分担が当たり前で生きてきた。定年すると、退職金をもらっても数年後に、癌になれば亡くなる公算も高かった。
けれど、今は残業代も出ないので、部下を引き連れて交際費を使って夜な夜な会合も、休日の接待ゴルフもなくなって、男のつきあいも激減してきたと言われ、男性だからとブラックな働かされ方をさせられることは減ってきました。 定年後も再就職などである程度働き続けるのか、完全に引退して退職金や年金で暮らしていくのか老後のマネープランは様々ですが、男性も定年から20年は自由時間を謳歌するようになっています。
そこで妻と穏やかな家庭生活を送るには家庭内の家事分担のルールをつくるのとそのためのコミュニケーションを良好にすることが大切です。例えば、ゴミ出しに関して、当然のようにかつては、男にやらせるものではないと、主婦が当然のごとくやってきていると思う。その際の段取りは、次のようにいろいろある。
(1)ゴミ箱は分別して設置しておく
(2)ペットボトルのようなものは飲み切った後、中を洗ってラベルをはがし、キャップとボトルを別々に捨てる
(3)瓶は透明、茶色、その他に分ける
(4)集めた段ボールは紐でくくる
(5)古紙は紙袋にまとめる
(6)電池、電球を分別する
(7)使った油は蓋付き回収容器に流し入れる
(8)燃えない可燃ゴミを分けておく
(9)生ゴミの場合は汁など切って、家中のゴミ箱からゴミを回収して袋に詰める
といった一連の作業をしておいて、その所定の日に生ごみ、資源ゴミとして集積所へ持っていくことでようやく完了となるのです。
ところが、この作業の他に、集積所で集める為の袋やコンテナを所定の場所に持っていく作業の持ち回り当番が巡ってきます。
これも「名もなき家事」として女性が請け負っていることが多い訳です。
ところが多くの共働きの現代夫は、妻に「ゴミ出しお願いね」と言われると、妻がくくっておいたゴミ袋を集積所へ出しにいくが、定年夫のばあいは「で、捨てるゴミはどこに置いていくの?」などと無邪気に聞いて妻をあきれさせます。
妻にしてみれば一連の作業を全部こなして、その後に「ゴミ出しにいく」最終段階ということになるのです。
玄関に置いてあるゴミ袋を集積所へ持っていくことだけがゴミ出しだと思っている夫にガッカリするのは当然かもしれません。
しかしながら男性にすれば、一連の作業をやったことがないから分からない、誰でもできることなのだから説明くらい機嫌よくしてくれれば協力するのです。新人住民だと思って、手順について説明してあげることが大事でそれさえ伝えておけば、あっという間にできるでしょう。 今の若い世代は共働き夫婦が珍しくないため、こうした「名もなき家事の分担」について妻でも夫でもやれると思います。問題は定年後のシニア男性です。彼らの多くは結婚後に妻は専業主婦というケースが多かったので、あまり家事の経験がないし、夫にやらせると周囲の目が気になり、罪悪感も伴うのです。
定年になった夫はむしろ名もなき家事こそ、力もやりやすくすべきだと思います。そのためにはどんな家事があり、それぞれの作業手順をきちんと理解しておく必要があります。妻は妻で、家事それぞれに面倒な作業があるのだということをリストアップし、説明することも大切です。夫は業務を効率よく行なうための手順を考えるというのは会社仕事で経験しているはずですから、事前説明すれば「名もなき家事」も慣れてくれば無難にこなしてくれるでしょう。
かつて、男はひとたび外にでれば仕事(その前は戦争で徴兵)に出るれば七人の敵を向こうに回すのだからと、女は家事育児介護担当と相場が決まっていたのです。主婦の家事は節約をモットーに家計簿をつけるような事を、昭和から令和に引き継がれてきました。夫たちは滅私奉公を当たり前だと考えて、給与袋の封を切らず妻に渡し、その代り女に外の苦労をさせないよう働きに出させないことが甲斐性だとも考えて、仕事のワンオペ、家事育児、介護は女性と役割分担が当たり前で生きてきた。定年すると、退職金をもらっても数年後に、癌になれば亡くなる公算も高かった。
けれど、今は残業代も出ないので、部下を引き連れて交際費を使って夜な夜な会合も、休日の接待ゴルフもなくなって、男のつきあいも激減してきたと言われ、男性だからとブラックな働かされ方をさせられることは減ってきました。 定年後も再就職などである程度働き続けるのか、完全に引退して退職金や年金で暮らしていくのか老後のマネープランは様々ですが、男性も定年から20年は自由時間を謳歌するようになっています。
そこで妻と穏やかな家庭生活を送るには家庭内の家事分担のルールをつくるのとそのためのコミュニケーションを良好にすることが大切です。例えば、ゴミ出しに関して、当然のようにかつては、男にやらせるものではないと、主婦が当然のごとくやってきていると思う。その際の段取りは、次のようにいろいろある。
(1)ゴミ箱は分別して設置しておく
(2)ペットボトルのようなものは飲み切った後、中を洗ってラベルをはがし、キャップとボトルを別々に捨てる
(3)瓶は透明、茶色、その他に分ける
(4)集めた段ボールは紐でくくる
(5)古紙は紙袋にまとめる
(6)電池、電球を分別する
(7)使った油は蓋付き回収容器に流し入れる
(8)燃えない可燃ゴミを分けておく
(9)生ゴミの場合は汁など切って、家中のゴミ箱からゴミを回収して袋に詰める
といった一連の作業をしておいて、その所定の日に生ごみ、資源ゴミとして集積所へ持っていくことでようやく完了となるのです。
ところが、この作業の他に、集積所で集める為の袋やコンテナを所定の場所に持っていく作業の持ち回り当番が巡ってきます。
これも「名もなき家事」として女性が請け負っていることが多い訳です。
ところが多くの共働きの現代夫は、妻に「ゴミ出しお願いね」と言われると、妻がくくっておいたゴミ袋を集積所へ出しにいくが、定年夫のばあいは「で、捨てるゴミはどこに置いていくの?」などと無邪気に聞いて妻をあきれさせます。
妻にしてみれば一連の作業を全部こなして、その後に「ゴミ出しにいく」最終段階ということになるのです。
玄関に置いてあるゴミ袋を集積所へ持っていくことだけがゴミ出しだと思っている夫にガッカリするのは当然かもしれません。
しかしながら男性にすれば、一連の作業をやったことがないから分からない、誰でもできることなのだから説明くらい機嫌よくしてくれれば協力するのです。新人住民だと思って、手順について説明してあげることが大事でそれさえ伝えておけば、あっという間にできるでしょう。 今の若い世代は共働き夫婦が珍しくないため、こうした「名もなき家事の分担」について妻でも夫でもやれると思います。問題は定年後のシニア男性です。彼らの多くは結婚後に妻は専業主婦というケースが多かったので、あまり家事の経験がないし、夫にやらせると周囲の目が気になり、罪悪感も伴うのです。
定年になった夫はむしろ名もなき家事こそ、力もやりやすくすべきだと思います。そのためにはどんな家事があり、それぞれの作業手順をきちんと理解しておく必要があります。妻は妻で、家事それぞれに面倒な作業があるのだということをリストアップし、説明することも大切です。夫は業務を効率よく行なうための手順を考えるというのは会社仕事で経験しているはずですから、事前説明すれば「名もなき家事」も慣れてくれば無難にこなしてくれるでしょう。
2019年04月21日
NHK大河ドラマ いだてん
NHKには、お問合せフォームというネットで意見をいえる方法がありました。そこで、次のような質問(提案)を書いて送ってみました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
毎週、「いだてん」を見て、髭の嘉納治五郎、足袋で走り続ける金栗四三の姿を見て、毎回感動しています。
視聴率が低迷したままであるのを知ると残念ですが、近現代のストーリーに興味がないと見ないのでしょう。登場人物がユニークで、これほど血わき肉躍る物語が、大正ー昭和に実際にあったとは面白くて為になります。
嘉納が我孫子(千葉県)に関係があるとは知られていないが、我が地元、我が母校です。別荘人としてきていたが、借財で全て売却しても別荘だけは残したと、最近の地元の調査で判明。この英傑を市内外に知らせたいと顕彰碑の建立基金運動を推進中で、オリンピックの年に建てるために一丸となって事業を推進しています。震災で放射能被害を受けながらも、駅伝全国優勝など、子どもは元気いっぱい、聖火リレー地にもなれと、市一丸となって頑張ってます。借財が増えても、唯一別荘は一族に残されたとは最近の地元の調査で分かってきました。これだけの英傑を市内外にしってもらおうと顕彰碑の建立基金を始めています。
そこで我孫子の嘉納治五郎について、大河ドラマ終了後のスポットで紹介するのはどうでしょう。当時をしのぶ佇まいが残る東京から、JJ直通45分の街です、ご連絡をお待ちしています。
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毎週、「いだてん」を見て、髭の嘉納治五郎、足袋で走り続ける金栗四三の姿を見て、毎回感動しています。
視聴率が低迷したままであるのを知ると残念ですが、近現代のストーリーに興味がないと見ないのでしょう。登場人物がユニークで、これほど血わき肉躍る物語が、大正ー昭和に実際にあったとは面白くて為になります。
嘉納が我孫子(千葉県)に関係があるとは知られていないが、我が地元、我が母校です。別荘人としてきていたが、借財で全て売却しても別荘だけは残したと、最近の地元の調査で判明。この英傑を市内外に知らせたいと顕彰碑の建立基金運動を推進中で、オリンピックの年に建てるために一丸となって事業を推進しています。震災で放射能被害を受けながらも、駅伝全国優勝など、子どもは元気いっぱい、聖火リレー地にもなれと、市一丸となって頑張ってます。借財が増えても、唯一別荘は一族に残されたとは最近の地元の調査で分かってきました。これだけの英傑を市内外にしってもらおうと顕彰碑の建立基金を始めています。
そこで我孫子の嘉納治五郎について、大河ドラマ終了後のスポットで紹介するのはどうでしょう。当時をしのぶ佇まいが残る東京から、JJ直通45分の街です、ご連絡をお待ちしています。
2019年04月20日
CCC(cross-culture communication),英語でディスカッション
本日のCCCでの話は、ダイエットへの関心が中心でした。上記は、英語リーダーのジェイソンが描いた図。
アメリカ人の多くが糖尿病だという事態から、どうもダイエットやサプリメントへの関心が高まったのではないかしらん。
小麦粉アレルギーもかなりの数の人がかかっているようだ、しかし、花粉症で苦しむ日本人とどっちが大変か、今のところ両方の兆候はない海津にいなにとっては、天の助けではある。しかし、緑内障だとの忠告を受けて年なりに定期検診にいかなくてはならない。考えるところ、毎朝の駅頭が紫外線を浴びて、目に影響したのではと思う。
よもやま話は、子供の話から、日本では幼児のうちから周りを気にして同じになるように心がけるようで、そこがアメリカ人とは大きく違うと思うとジェイソンが指摘。幼稚園で七夕の短冊に何が欲しいか書くのに、友達の短冊を見て描き出したから、皆が犬がほしいと書いたのだと話してくれた。自分の意見をしっかり持って表明する教育をするアメリカとは大いに違うところだといって、一同、さもありなんと納得した。出る釘は打たれる、だから出ないようにそろえることになる。それが良い子だと教えられる。だが、ジェイソンの言うように、個を大切にして自分の意見を言えるようになるのは、これからの日本人には必要だ。人と違って、みんないい、でも未だにそうもいかない現実ではある。子供たち、孫たちの時代はそういう点で励まして、育てていきたい。
次回は、5月18日(土)我孫子北近隣センター(並木)です。
どうぞ、見学にいらしてご参加ください!
2019年04月19日
70歳以上、運転できるか認知テスト
運転免許の高齢者(75才以上)認知症テスト
2:21あたりから
認知症になるか傾向を計るテスト
2:21あたりから
認知症になるか傾向を計るテスト
2019年04月18日
2019年04月17日
花盛りの季節に
2019年04月16日
韓国経済に赤信号か
韓国銀行(中央銀行)が5日発表した国際収支(速報値)によると、4月の経常収支は6億6000万ドル(約714億円)の赤字だった。赤字は、欧州債務危機が拡大した2012年4月以来。当時は欧州連合(EU)への輸出減少により経常収支が赤字を記録した。
経常収支は商品・サービスの輸出入で発生する商品収支(貿易収支に相当)とサービス収支、給与・賃金と投資に伴う利子や配当を差し引きした所得収支(第1次所得収支)、経常移転収支(第2次所得収支)で構成される。
このうち、輸出の減少により商品収支の黒字幅が減少したことが、4月の経常赤字の最大の要因だ。輸出は483億ドルで、前年同月比6.2%減少した。前年同月比での輸出減少は5か月連続。1〜4月の累計は1858億ドルで、前年同期間比7.8%減少した。 韓国銀行は、輸出減少が続いている背景に「半導体単価の下落、世界の貿易量不振」があると説明した。
輸入は426億3000万ドルで、前年同月比1.8%増加した。韓国銀行は、輸入が前年同月比で4か月ぶりに増加に転じた原因として「原油価格など原材料の輸入価格上昇、機械類の輸入減少傾向の鈍化、家電製品など消費財の輸入増加」を挙げた。1〜4月の累計は1605億2000万ドルで、5.3%減少した。
サービス収支は14億3000万ドルの赤字で、赤字幅は16年12月以来2年4か月ぶりの低水準となった。サービス収支の構成項目のうち、旅行運輸収支が改善したためだ。中国人・日本人を中心とする入国者(観光客)の増加傾向が続き、旅行収入(17憶ドル)は14年11月以来4年5か月ぶりの高水準を記録した。一方、韓国国民の海外旅行(出国者)が減少し、旅行支出は23億7000万ドルにとどまった。
商品収支の黒字幅が縮小し、サービス収支の赤字が続く中で所得収支が大幅な赤字を計上したことが4月の経常収支赤字につながった。
所得収支は43億3000万ドルの赤字を記録した。前年同月(56億2000万ドルの赤字)に比べ赤字幅は減少したが、3月(7億4000万ドルの赤字)と比べると急増した。これは外国人投資家の配当シーズンと重なった結果で、配当所得収支は49億9000万ドルの赤字を記録し、過去3番目の高水準となった。
経常移転収支は7億5000万ドルの黒字だった。
経常収支は商品・サービスの輸出入で発生する商品収支(貿易収支に相当)とサービス収支、給与・賃金と投資に伴う利子や配当を差し引きした所得収支(第1次所得収支)、経常移転収支(第2次所得収支)で構成される。
このうち、輸出の減少により商品収支の黒字幅が減少したことが、4月の経常赤字の最大の要因だ。輸出は483億ドルで、前年同月比6.2%減少した。前年同月比での輸出減少は5か月連続。1〜4月の累計は1858億ドルで、前年同期間比7.8%減少した。 韓国銀行は、輸出減少が続いている背景に「半導体単価の下落、世界の貿易量不振」があると説明した。
輸入は426億3000万ドルで、前年同月比1.8%増加した。韓国銀行は、輸入が前年同月比で4か月ぶりに増加に転じた原因として「原油価格など原材料の輸入価格上昇、機械類の輸入減少傾向の鈍化、家電製品など消費財の輸入増加」を挙げた。1〜4月の累計は1605億2000万ドルで、5.3%減少した。
サービス収支は14億3000万ドルの赤字で、赤字幅は16年12月以来2年4か月ぶりの低水準となった。サービス収支の構成項目のうち、旅行運輸収支が改善したためだ。中国人・日本人を中心とする入国者(観光客)の増加傾向が続き、旅行収入(17憶ドル)は14年11月以来4年5か月ぶりの高水準を記録した。一方、韓国国民の海外旅行(出国者)が減少し、旅行支出は23億7000万ドルにとどまった。
商品収支の黒字幅が縮小し、サービス収支の赤字が続く中で所得収支が大幅な赤字を計上したことが4月の経常収支赤字につながった。
所得収支は43億3000万ドルの赤字を記録した。前年同月(56億2000万ドルの赤字)に比べ赤字幅は減少したが、3月(7億4000万ドルの赤字)と比べると急増した。これは外国人投資家の配当シーズンと重なった結果で、配当所得収支は49億9000万ドルの赤字を記録し、過去3番目の高水準となった。
経常移転収支は7億5000万ドルの黒字だった。
2019年04月15日
認知症もリカバリー、水をもっと飲む
国際医療福祉大学大学院教授の竹内孝仁氏は、『水をたくさん飲めば、ボケは寄りつかない』の著書があり、「実は体内の水分不足は、認知症と非常にかかわりが深いんです」と話す。
1日にコップ3杯しか水を飲まない人は、6杯以上飲む人よりも5%程度物忘れが多いことがわかったのだ。
「水の量と物忘れの度合いは完全にリンクします。水を飲んで覚醒水準が上がると、物事を見聞きした時の印象が強く残るようになる。頭がシャキッと起きるんですね。すでに認知力が落ちていた人でも、体の細胞に水分が満たされてくれば、覚醒水準は必ず上がってきます」
竹内氏によれば、「老化とは体内の水分を失っていく過程」なのだという。そもそも、人間の体の大半は水分でできている。子供の水分量が約75%なのに対し、成人では約60%、高齢者は約50%と、次第に減少していく。
「血液はもちろん、体の細胞全てに水分は含まれています。中でも、体内で水分を最も蓄えているのは筋肉です。筋肉の75%は水分なので、筋肉量が少ない高齢者は水分不足に陥りやすい」
さらに、感覚の鈍化により、喉が渇いてもそれを感じにくくなることで生じる “摂取量の減少”や、腎機能の低下により尿に含まれる水分の割
合が増える“排出量の増加”が追い打ちをかける。
「そうして体内の水分のたった1%でも欠乏してしまうと、意識がぼんやりしてきて、意識障害に陥ります。体重50kgの人なら、1%は250ml。500mlペットボトルのたった半分の量なんです」
竹内氏はさらに「認知力の低下の原因に関係するのが、脳の覚醒水準、つまり、意識がハッキリあるかどうかなのです」という。
認知症になる高齢者のほとんどが、意識がぼんやりしている状態だという。例えば、夏の熱中症で考えてみてほしい。熱中症でまず表れる症状は意識レベルの低下だ。頭がぼーっとして、そのうち体がふらつき、倒れてしまう。
「体から水分が1%減ってしまうと、体全体の細胞を正常に機能させることができなくなるため、意識が朦朧とし、熱中症になったような意識障害が起こるのです」
体内の水分は、おしっこ、汗、排便などで、生きていれば毎日必ず体から出ていく。出ていった分を補わなければ、欠乏状態になるのは当然のこと。欠乏した状態・脱水が継続していけば、最初はちょっと頭がぼーっとするというところから始まり、そのうち物忘れが続き、本格的に認知症が始まっていく。飲んでいる水の量が多い人の方が物忘れが少ないことは、今から8年前、竹内さんが鳥取県琴浦町の老人クラブの協力のもと行った健康実態調査(65才以上で介護保険未申請の4827人対象)でも実証されている。
徘徊や夜中に大声をあげたり暴れたりする認知症の症状は完全に水分不足であり、しっかり水を飲めば、数日で劇的によくなると竹内さんは言う。「若年性認知症も高齢者の認知症も原理は一緒。物忘れ防止のためにも、40〜50代から水を飲む習慣を身につけておいた方がいいんです」
1日にコップ3杯しか水を飲まない人は、6杯以上飲む人よりも5%程度物忘れが多いことがわかったのだ。
「水の量と物忘れの度合いは完全にリンクします。水を飲んで覚醒水準が上がると、物事を見聞きした時の印象が強く残るようになる。頭がシャキッと起きるんですね。すでに認知力が落ちていた人でも、体の細胞に水分が満たされてくれば、覚醒水準は必ず上がってきます」
竹内氏によれば、「老化とは体内の水分を失っていく過程」なのだという。そもそも、人間の体の大半は水分でできている。子供の水分量が約75%なのに対し、成人では約60%、高齢者は約50%と、次第に減少していく。
「血液はもちろん、体の細胞全てに水分は含まれています。中でも、体内で水分を最も蓄えているのは筋肉です。筋肉の75%は水分なので、筋肉量が少ない高齢者は水分不足に陥りやすい」
さらに、感覚の鈍化により、喉が渇いてもそれを感じにくくなることで生じる “摂取量の減少”や、腎機能の低下により尿に含まれる水分の割
合が増える“排出量の増加”が追い打ちをかける。
「そうして体内の水分のたった1%でも欠乏してしまうと、意識がぼんやりしてきて、意識障害に陥ります。体重50kgの人なら、1%は250ml。500mlペットボトルのたった半分の量なんです」
竹内氏はさらに「認知力の低下の原因に関係するのが、脳の覚醒水準、つまり、意識がハッキリあるかどうかなのです」という。
認知症になる高齢者のほとんどが、意識がぼんやりしている状態だという。例えば、夏の熱中症で考えてみてほしい。熱中症でまず表れる症状は意識レベルの低下だ。頭がぼーっとして、そのうち体がふらつき、倒れてしまう。
「体から水分が1%減ってしまうと、体全体の細胞を正常に機能させることができなくなるため、意識が朦朧とし、熱中症になったような意識障害が起こるのです」
体内の水分は、おしっこ、汗、排便などで、生きていれば毎日必ず体から出ていく。出ていった分を補わなければ、欠乏状態になるのは当然のこと。欠乏した状態・脱水が継続していけば、最初はちょっと頭がぼーっとするというところから始まり、そのうち物忘れが続き、本格的に認知症が始まっていく。飲んでいる水の量が多い人の方が物忘れが少ないことは、今から8年前、竹内さんが鳥取県琴浦町の老人クラブの協力のもと行った健康実態調査(65才以上で介護保険未申請の4827人対象)でも実証されている。
徘徊や夜中に大声をあげたり暴れたりする認知症の症状は完全に水分不足であり、しっかり水を飲めば、数日で劇的によくなると竹内さんは言う。「若年性認知症も高齢者の認知症も原理は一緒。物忘れ防止のためにも、40〜50代から水を飲む習慣を身につけておいた方がいいんです」
2019年04月14日
相続税のアップ、空家の増加の次世代対策
近年、税制改正によって相続税が実質的増加となり、ライフスタイルも変化しつつあります。このような背景から、自宅を活かせる賃貸併用住宅が注目を浴びるようになりました。ところで、賃貸併用住宅がなぜ注目されているのか、疑問を持っている方も少なくないでしょう。賃貸併用住宅が注目される理由は、税制改正と相続税の基礎控除の引き下げにもあると考えられます。そこで、相続対策を考え始める人が増え、相続財産評価を引き下げることができる賃貸併用住宅に注目が集まったのです。
次は賃貸併用住宅のメリットや利用する上で注意すべきポイントです。
@固定資産税の節税効果が期待できる
自宅の所有にかかる固定資産税の軽減措置があります。
課税標準額の特例によると、1戸あたり200uまで課税標準額を1/6に減額してもらえます。所有する土地が200uを超えた部分については、課税標準額が1/3に減額されます。この場合、もし賃貸併用住宅を建てることで、戸数が2つになれば、さらに200uが1/6の減額特例の対象になります。
A相続税の評価額を減らすことができる
まず、賃貸併用住宅の場合、賃貸部分について評価減の特例の適用を検討することができます。
賃貸部分については、自宅部分より低い評価額となるため、相続税を低く抑えることができます。
さらに、相続税の計算上、小規模宅地等の評価額の特例が適用できる場合、大幅な評価額の減額が認められます。
配偶者や同居の子供が自宅を相続する際、最大330uまで80%の評価減も可能です。ただし、相続人の住まいの状況について厳しい条件が付いています。例えば、相続人としての子供が別居の持ち家に住んでいる場合、この特例を受けることができません。
次は賃貸併用住宅のメリットや利用する上で注意すべきポイントです。
@固定資産税の節税効果が期待できる
自宅の所有にかかる固定資産税の軽減措置があります。
課税標準額の特例によると、1戸あたり200uまで課税標準額を1/6に減額してもらえます。所有する土地が200uを超えた部分については、課税標準額が1/3に減額されます。この場合、もし賃貸併用住宅を建てることで、戸数が2つになれば、さらに200uが1/6の減額特例の対象になります。
A相続税の評価額を減らすことができる
まず、賃貸併用住宅の場合、賃貸部分について評価減の特例の適用を検討することができます。
賃貸部分については、自宅部分より低い評価額となるため、相続税を低く抑えることができます。
さらに、相続税の計算上、小規模宅地等の評価額の特例が適用できる場合、大幅な評価額の減額が認められます。
配偶者や同居の子供が自宅を相続する際、最大330uまで80%の評価減も可能です。ただし、相続人の住まいの状況について厳しい条件が付いています。例えば、相続人としての子供が別居の持ち家に住んでいる場合、この特例を受けることができません。
2019年04月13日
ペタンク
近所の公園では桜が満開の下でペタンクの朝練習があるというので、混ぜて頂き初参加してきた。
スポーツ推進員のかけ声で、念入りに準備運動をして、簡単にルールの説明をしてもらって、銀球を投げてビリヤードのような感じで点数を競う。
もっとも、球をどこにコントロールしていけるかは、地面の状態、乾燥や湿気、また起伏やら突起物によって運命の分かれ道が起きる。
フランス発祥のゲームだというので、以前にコマーシャルでおしゃれな雰囲気があって、年がいってから始めるにもなかなかいいなあと思っていたらご近所で集まってやっていた、また参加出来たら段々要領がわかってくるだろう。みなさまもご近所のチームを探して、どうぞいらしてみてください。
2019年04月12日
五輪担当相の辞任
桜田義孝五輪担当相(69)は10日夜、首相官邸で安倍晋三首相と会い、自らの失言の責任を取って辞任する意向を伝えた。桜田氏はその後、官邸で記者団に「被災者の気持ちを傷付けるような発言をしてしまい申しわけない」と陳謝し、自らの発言を撤回。そのうえで「責任を感じて辞表を提出した」と説明した。桜田氏は同日、自民党の高橋比奈子衆院議員のパーティーで「復興以上に大事なのは、高橋さんだ。よろしくお願いする」と発言していた。
岩手県の達増拓也知事は11日、桜田義孝五輪担当相の失言について、記者団に「あのような軽口が出ることは信じられない気持ちだ」と語り、厳しく批判。さらに「大臣の個人的な問題というよりも、政権全体として復興についての基本的考え方が定まっていないところに問題がある」と安倍政権の姿勢を疑問視した。
また、大臣の地元では柏の恥だ−−。東日本大震災からの復興を軽視する失言で10日に五輪担当相を辞任した桜田義孝氏に対し、地元の柏市民らは憤りの声を上げた。来年に迫った東京五輪・パラリンピックのかじ取り役を県選出国会議員が担うことに当初は期待が高まったが、「辞任は遅きに失した」という声も漏れ聞こえた。
出典;
毎日新聞2019年4月12日
地方版【橋本利昭、金沢衛、斎藤文太郎、町野幸】
岩手県の達増拓也知事は11日、桜田義孝五輪担当相の失言について、記者団に「あのような軽口が出ることは信じられない気持ちだ」と語り、厳しく批判。さらに「大臣の個人的な問題というよりも、政権全体として復興についての基本的考え方が定まっていないところに問題がある」と安倍政権の姿勢を疑問視した。
また、大臣の地元では柏の恥だ−−。東日本大震災からの復興を軽視する失言で10日に五輪担当相を辞任した桜田義孝氏に対し、地元の柏市民らは憤りの声を上げた。来年に迫った東京五輪・パラリンピックのかじ取り役を県選出国会議員が担うことに当初は期待が高まったが、「辞任は遅きに失した」という声も漏れ聞こえた。
出典;
毎日新聞2019年4月12日
地方版【橋本利昭、金沢衛、斎藤文太郎、町野幸】
2019年04月11日
行政視察は香川県へ
令和初の行政視察は、香川県の丸亀市と三豊市の二都市に一泊して行政視察が決まった。
一日目の丸亀市では、リノベーションによるまちづくりというテーマでの視察する。二日目は三豊市で、バイオマスを利用した全国初のごみの燃料化について視察する。海津にいなが環境都市常任委員会の委員長、公明党議員が副委員長、他に各会派から6人の市議と都市部長、議会事務局から1名が同行する。
歴史ある街・丸亀は江戸時代初期に金刀比羅宮参詣の場所でもあり、土産として考案された「うちわ」は、丸亀市を代表的する特産品として発展を続け、今や年間生産数約8000万本、全国シェア90%に至った。うちわの港ミュージアムは、「丸亀うちわ」の地元に開設されたうちわの総合博物館である。近世から現代までの多種多彩な丸亀うちわと製造工程の模型人形や文献を展示して、その歴史と製法を紹介するとともに、全国の主なうちわも展示、紹介する。愛称はスペイン語で「港のうちわ館」の略語であるポルカ(POLCA)、1995年丸亀市により開設され、指定管理者制度に基づき、香川県うちわ協同組合連合会が管理・運営している。
三豊市は、2006年(平成18年)1月1日 に 仁尾町、高瀬町、豊中町、山本町、財田町、詫間町、三野町の7町が合併して7万人の市が成立した。 四国八十八箇所霊場として大興寺、本山寺、弥谷寺があり、古くから共通の生活・文化圏のもとに、各町の住民間でも互いに町域を超えた様々な交流やふれあいを活動を積み重ねて、「田園都市」を形成している。
市内高瀬町には、さぬき麺機が運営する全日本麺総合技術研修センターがあり、香川県から委託された唯一の公的な「さぬきうどん学校」があり、全国または海外からの研修生も多い。これが「さぬきうどんの聖地」を三豊が称する根拠になっており、うどん行脚をはじめ、うどん関連観光も盛り上げられている。 各地区は合併以前より、国際都市交流を行って市内だけでなく盛んに交流をはかっていた。
1990年(平成2年)9月4日 - 詫間町と米国ワシントン州タコマ市が友好都市提携。
1995年(平成7年)8月 - 三野町と米国ニューヨーク州オディゴ郡ユナディラ町が友好都市提携。9月 にベルギーリュクサンブール州フロランヴィル町が友好都市提携。
1996年(平成8年)7月13日 - 高瀬町と大韓民国慶尚南道陜川郡が友好都市提携。
1997年(平成9年) 1月25日 - 詫間町と米国ワシントン州ギグハーバー市が友好都市提携。
同年1月28日 - 仁尾町と米国ウィスコンシン州ワウパカ市が姉妹都市提携。
1998年(平成10年)3月5日 - 詫間町と岡山県勝山町(現・真庭市)が姉妹都市提携。
2002年(平成14年)5月 - 三野町と中華人民共和国陝西省三原県が友好都市提携。
グリーンツーリズム等の観光振興が盛んで、マラソン大会やロードレースなどスポーツとグリーンツーリズムを融合したイベントも実施し、市のイメージの向上にも努めている。 三豊市詫間町には、浦島太郎伝説が残っており「浦島」と呼ばれていた地区がいくつか存在する。町興しの一環として、浦島太郎関連のモニュメントが数多く作られている。竜宮城を模した公衆トイレも設置されている。道の駅たからだの里さいたには、産直販売や温泉、宿泊施設もあり、観光客が市内で最も多い。
一日目の丸亀市では、リノベーションによるまちづくりというテーマでの視察する。二日目は三豊市で、バイオマスを利用した全国初のごみの燃料化について視察する。海津にいなが環境都市常任委員会の委員長、公明党議員が副委員長、他に各会派から6人の市議と都市部長、議会事務局から1名が同行する。
歴史ある街・丸亀は江戸時代初期に金刀比羅宮参詣の場所でもあり、土産として考案された「うちわ」は、丸亀市を代表的する特産品として発展を続け、今や年間生産数約8000万本、全国シェア90%に至った。うちわの港ミュージアムは、「丸亀うちわ」の地元に開設されたうちわの総合博物館である。近世から現代までの多種多彩な丸亀うちわと製造工程の模型人形や文献を展示して、その歴史と製法を紹介するとともに、全国の主なうちわも展示、紹介する。愛称はスペイン語で「港のうちわ館」の略語であるポルカ(POLCA)、1995年丸亀市により開設され、指定管理者制度に基づき、香川県うちわ協同組合連合会が管理・運営している。
三豊市は、2006年(平成18年)1月1日 に 仁尾町、高瀬町、豊中町、山本町、財田町、詫間町、三野町の7町が合併して7万人の市が成立した。 四国八十八箇所霊場として大興寺、本山寺、弥谷寺があり、古くから共通の生活・文化圏のもとに、各町の住民間でも互いに町域を超えた様々な交流やふれあいを活動を積み重ねて、「田園都市」を形成している。
市内高瀬町には、さぬき麺機が運営する全日本麺総合技術研修センターがあり、香川県から委託された唯一の公的な「さぬきうどん学校」があり、全国または海外からの研修生も多い。これが「さぬきうどんの聖地」を三豊が称する根拠になっており、うどん行脚をはじめ、うどん関連観光も盛り上げられている。 各地区は合併以前より、国際都市交流を行って市内だけでなく盛んに交流をはかっていた。
1990年(平成2年)9月4日 - 詫間町と米国ワシントン州タコマ市が友好都市提携。
1995年(平成7年)8月 - 三野町と米国ニューヨーク州オディゴ郡ユナディラ町が友好都市提携。9月 にベルギーリュクサンブール州フロランヴィル町が友好都市提携。
1996年(平成8年)7月13日 - 高瀬町と大韓民国慶尚南道陜川郡が友好都市提携。
1997年(平成9年) 1月25日 - 詫間町と米国ワシントン州ギグハーバー市が友好都市提携。
同年1月28日 - 仁尾町と米国ウィスコンシン州ワウパカ市が姉妹都市提携。
1998年(平成10年)3月5日 - 詫間町と岡山県勝山町(現・真庭市)が姉妹都市提携。
2002年(平成14年)5月 - 三野町と中華人民共和国陝西省三原県が友好都市提携。
グリーンツーリズム等の観光振興が盛んで、マラソン大会やロードレースなどスポーツとグリーンツーリズムを融合したイベントも実施し、市のイメージの向上にも努めている。 三豊市詫間町には、浦島太郎伝説が残っており「浦島」と呼ばれていた地区がいくつか存在する。町興しの一環として、浦島太郎関連のモニュメントが数多く作られている。竜宮城を模した公衆トイレも設置されている。道の駅たからだの里さいたには、産直販売や温泉、宿泊施設もあり、観光客が市内で最も多い。
2019年04月10日
働き方の変化
今や、働き方改革や転職、起業という言葉がマスコミに出ない日はない。
日本で長く続いた年功序列や年金などの制度が破綻してきている。
社会変化の中で自分を価値づけられる人になれとトムピーターズ氏は『ブランド人になれ!』(阪急コミュニケーションズ)を著して、その中で「ブランド人」のことをこう説明している。
■人びとの記憶に長く残る仕事をする。
■日々、切磋琢磨し、達人を目指す。
■すったもんだがあるから人生は楽しい。
■意識して、変人と付き合う(カッコいい人からカッコよさを学ぶ)
他方、岡崎かつひろ『自分を安売りするのは“いますぐ”やめなさい。』(きずな出版)では 「もうこれ以上必要ないだろ」と思うくらいモノや情報があふれている時代であっても、事業経営者として、もしくはサラリーマンとして所得を得る以上、何らかのニーズに向けてサービスを起こしていかなければなりません。
なぜ、これからの時代に、あなたが自分を高く売らなければいけなないのか、それには3つの理由があるからです。
1. 激変の時代にしっかりと保証をつけることができる存在は、自分自身だけであるため
2. 社会の一員として世の中に価値を提供できる人が時代を求めるようになり、その要求速度が加速しているため
3. しっかりと自分の望む未来を実現させていくため
あなたが自分自身をどのような人間と捉え、安売りを善とする人から自分の身を守り、あなたの価値をしっかりと認めてくれる人と出会うかが、成功のカギになります。
「バブル」と言われた時代がありました。
当時は大手の会社で働くことが成功する一番の近道。
退職金に数千万円が当たり前に出る時代。
土地神話があり、土地を買えば必ず儲かると言われ、銀行からお金を借りて土地を買う人がたくさんいました。
そして銀行は大手企業に勤める人ほどお金を貸してくれていたので、いい大学に入って、大手企業に勤めて、土地を買うと成功するという方程式が成り立ったのです。
では、いまの時代はどうでしょう?
残念ながら土地神話は崩れました。
給料も上がり続ける時代ではありません。
時代は驚くようなスピードで変化しています。
しかし、それでも表面的な常識だけは残っているわけです。
「いい大学に入って、大手企業に入りなさい」
残念ながら、このアドバイスはすでに時代遅れになってしまったのです。
当然ですが、ゲームが変わったらルールも変える必要があります。
いま、世の中のゲーム(仕組み)は変わり続けています。
●年功序列の世の中が、成果主義の世の中に変わった
●大手に入ればうまくいった世の中が、会社の規模では決まらない世の中に変わった
●1億総中流の世の中が、格差社会の世の中に変わった
●大家族が当たり前の世の中が、核家族の世の中に変わった
●高学歴が成功の条件だった世の中が、学歴では人生が決まらない世の中に変わった
ほかにもあげたらキリがありませんが、確実に世の中のゲームは変わったのです。
大事なことは長く勤めているかどうかよりも、価値がある仕事をしているかどうかです。
同じルーティンワークをこなしていても価値は高まらず、給料も上がらないのです。
価値が上がっていないのに「給料だけ上げてくれ」というのは土台無理な話なのです。
これからの時代、もし収入を上げたいと思うなら、自分の価値を高めるしかないのです。
その反対のブランド人になれない人は…
■やれと言われたことだけをやる。
■書類とにらめっこして、時間をつぶす。
■ごたごたはもうたくさん。
■新しい友だちはいらない。ほっといてくれ。
日本で長く続いた年功序列や年金などの制度が破綻してきている。
社会変化の中で自分を価値づけられる人になれとトムピーターズ氏は『ブランド人になれ!』(阪急コミュニケーションズ)を著して、その中で「ブランド人」のことをこう説明している。
■人びとの記憶に長く残る仕事をする。
■日々、切磋琢磨し、達人を目指す。
■すったもんだがあるから人生は楽しい。
■意識して、変人と付き合う(カッコいい人からカッコよさを学ぶ)
他方、岡崎かつひろ『自分を安売りするのは“いますぐ”やめなさい。』(きずな出版)では 「もうこれ以上必要ないだろ」と思うくらいモノや情報があふれている時代であっても、事業経営者として、もしくはサラリーマンとして所得を得る以上、何らかのニーズに向けてサービスを起こしていかなければなりません。
なぜ、これからの時代に、あなたが自分を高く売らなければいけなないのか、それには3つの理由があるからです。
1. 激変の時代にしっかりと保証をつけることができる存在は、自分自身だけであるため
2. 社会の一員として世の中に価値を提供できる人が時代を求めるようになり、その要求速度が加速しているため
3. しっかりと自分の望む未来を実現させていくため
あなたが自分自身をどのような人間と捉え、安売りを善とする人から自分の身を守り、あなたの価値をしっかりと認めてくれる人と出会うかが、成功のカギになります。
「バブル」と言われた時代がありました。
当時は大手の会社で働くことが成功する一番の近道。
退職金に数千万円が当たり前に出る時代。
土地神話があり、土地を買えば必ず儲かると言われ、銀行からお金を借りて土地を買う人がたくさんいました。
そして銀行は大手企業に勤める人ほどお金を貸してくれていたので、いい大学に入って、大手企業に勤めて、土地を買うと成功するという方程式が成り立ったのです。
では、いまの時代はどうでしょう?
残念ながら土地神話は崩れました。
給料も上がり続ける時代ではありません。
時代は驚くようなスピードで変化しています。
しかし、それでも表面的な常識だけは残っているわけです。
「いい大学に入って、大手企業に入りなさい」
残念ながら、このアドバイスはすでに時代遅れになってしまったのです。
当然ですが、ゲームが変わったらルールも変える必要があります。
いま、世の中のゲーム(仕組み)は変わり続けています。
●年功序列の世の中が、成果主義の世の中に変わった
●大手に入ればうまくいった世の中が、会社の規模では決まらない世の中に変わった
●1億総中流の世の中が、格差社会の世の中に変わった
●大家族が当たり前の世の中が、核家族の世の中に変わった
●高学歴が成功の条件だった世の中が、学歴では人生が決まらない世の中に変わった
ほかにもあげたらキリがありませんが、確実に世の中のゲームは変わったのです。
大事なことは長く勤めているかどうかよりも、価値がある仕事をしているかどうかです。
同じルーティンワークをこなしていても価値は高まらず、給料も上がらないのです。
価値が上がっていないのに「給料だけ上げてくれ」というのは土台無理な話なのです。
これからの時代、もし収入を上げたいと思うなら、自分の価値を高めるしかないのです。
その反対のブランド人になれない人は…
■やれと言われたことだけをやる。
■書類とにらめっこして、時間をつぶす。
■ごたごたはもうたくさん。
■新しい友だちはいらない。ほっといてくれ。
2019年04月09日
アルプス一万尺「山行」
1956年(昭和31年)にマナスルはヒマラヤ山脈の未踏峰の一つであった。ヒマラヤの8,000m峰・マナスル第3次登頂隊長となったのが槙有恒だった。同年5月9日、11日に有恒の指揮する日本隊が世界で初めてマナスル登頂に成功した。この快挙は、日本人の精神力と体力が世界各国に比肩するものであることを示し、戦後の日本国民に自信を与えるニュースとして喧伝された。
12歳のときに槙有恒少年は、富士登山をして以来、山が好きになってあちこちの山に登り、ついに世界的登山家になった。
1918年(大正7年)、アメリカ・コロンビア大学に留学している。
1919年(大正8年)から2年間ヨーロッパで過ごすが、この間スイスに滞在しアルプスをくまなく登山し、それまでのワラジ履き、掛け鞄、登山杖で一種の旅の延長であった日本の登山に新しい技術を導入、登山界に刺激と影響を与えた。
1921年(大正10年)、グリンデルヴァルトの登山ガイド3名(Fritz Amatter, Samuel Brawand, Fritz Steuri)と共にアイガー東山稜(ミッテルレギ)を初登攀する(東山稜は50年もの間、犠牲もあり誰も成功していなかった)。その記念として3年後に1万スイスフランを寄贈してミッテルレギ小屋(en)を作った。
1925年(大正14年)、早川種三らとともにカナダのアルバータ山世界初登頂に成功、その際頂上に細川護立侯爵から預かった銀のピッケルを立てた。また、この登攀の際に絹のクライミングロープを初めて使用したとされている。また、スイスから持ち帰ったピッケル「シェンク」を日本に紹介した。 1944年(昭和19年)、日本山岳会会長に就任した。
登山家はよく読み、思索し、文章がかける。槙有恒・著『山行』はその登山記 <アイガー東山稜の初登攀> はアルプスの自然、アルプスに生きる人びとが立ち現れ、長く愛されている。読めば、アルプス1万尺に連れていってもらえる。志賀重昂『日本風景論』、ウォルター・ウェストン『極東の遊歩場』に並ぶ地理・地形の名著とされている。
12歳のときに槙有恒少年は、富士登山をして以来、山が好きになってあちこちの山に登り、ついに世界的登山家になった。
1918年(大正7年)、アメリカ・コロンビア大学に留学している。
1919年(大正8年)から2年間ヨーロッパで過ごすが、この間スイスに滞在しアルプスをくまなく登山し、それまでのワラジ履き、掛け鞄、登山杖で一種の旅の延長であった日本の登山に新しい技術を導入、登山界に刺激と影響を与えた。
1921年(大正10年)、グリンデルヴァルトの登山ガイド3名(Fritz Amatter, Samuel Brawand, Fritz Steuri)と共にアイガー東山稜(ミッテルレギ)を初登攀する(東山稜は50年もの間、犠牲もあり誰も成功していなかった)。その記念として3年後に1万スイスフランを寄贈してミッテルレギ小屋(en)を作った。
1925年(大正14年)、早川種三らとともにカナダのアルバータ山世界初登頂に成功、その際頂上に細川護立侯爵から預かった銀のピッケルを立てた。また、この登攀の際に絹のクライミングロープを初めて使用したとされている。また、スイスから持ち帰ったピッケル「シェンク」を日本に紹介した。 1944年(昭和19年)、日本山岳会会長に就任した。
登山家はよく読み、思索し、文章がかける。槙有恒・著『山行』はその登山記 <アイガー東山稜の初登攀> はアルプスの自然、アルプスに生きる人びとが立ち現れ、長く愛されている。読めば、アルプス1万尺に連れていってもらえる。志賀重昂『日本風景論』、ウォルター・ウェストン『極東の遊歩場』に並ぶ地理・地形の名著とされている。
2019年04月08日
笑いとビタミン
ブルーマンデーなどと呼ばれることもあるし、連休明けは気も重いなどということもある。
精神科医、斎藤茂太『いい人生には「生き方のコツ」がある』(だいわ文庫)には、前向きなオプティミスト(楽観主義者)は、病気にも、トラブルにも、ストレスにも強いとある。 前向きになって病気を治した代表的な人物に、アメリカのジャーナリストで、世界平和に対しても精力的に貢献してきたノーマン・カズンズが紹介されている。
太平洋戦争後、来日した氏は、広島、長崎の原爆投下による惨状に心を痛めた。そして、原爆で親をなくした原爆孤児たち400人の里親を見つけ、世話をしたりしている。また、原爆によって顔などを負傷した25人の日本人女性をアメリカに招き、整形外科手術を受けさせている。
だが、カズンズはその後、重症の膠原病に倒れてしまった。 回復の可能性は500分の1という難病である。
痛みで眠れない日もある厳しい病状だったが、氏は数分間、腹をかかえて笑うと1時間以上、痛みを忘れて眠ることができることに気がついた。 病院で一般的な治療を受けたあと、自分で考えた治療を実践するために、病院を退院した。その治療法とは、「笑い」と「ビタミン」である。
ホテルに部屋をとると、ビタミン注射をし、喜劇俳優マルクス兄弟などの往年のコメディ映画を見て笑い、お笑いの本を読んで笑い、笑い漬けの生活を送った。その結果、500分の1の奇跡が起こったのである。 大笑いは内臓を動かし、呼吸作用を盛んにする。 病気を笑い飛ばそうという前向きの姿勢が自己治癒力を後押ししたのだろう。 病気に勝ったのである。
ところで、氏は10歳のときに結核にかかり、療養所生活を送っていたことがある。 当時、結核は死病と考えられていたが、少年であった彼は、療養所では患者たちが「オプティミスト」と「リアリスト」に分けられることに気がついた。 「オプティミスト」たちはグループでいっしょに遊び、笑いあった。 「リアリスト」たちはグループ活動を嫌い、孤独で味気ない生活をしているように見えた。
結核が治って退院していくのは「オプティミスト」たちのほうだった。そこで彼も退院するために、遊び仲間の一員として「オプティミスト」の患者の仲間になり、結核を克服した。そういった経験から、人間には病気と闘う潜在的な力があり、肯定的な感情がその力を引きだし、治療効果を生むという信念をもったと述べている。1980年には、外交交渉などで世界を飛びまわった過労から心筋梗塞を発病した。このとき、医師は「状況そのものは回復不可能」と説明したが、回復不可能という言葉を聞いたとたん闘志が燃えあがったという。このときも氏は、自分で考えた治療計画を半年間続け、回復してしまった。
具合が悪いとき、まずチェックすることは、この頃、笑ったことがあるか、楽しい生活を送っているかどうかである。しばらく笑っていないと気づいたなら、健康が危機に瀕しているかもと疑ったほうがいい。そこをどう乗り切るかはおのずと明らかである。かくいう私も、つねに笑いを忘れないようにしているつもりである。ユーモアとは人生の薬味というよりも、人生そのものではないかとすら思っている。
「パニック時の特効薬は笑いなんです。 危機管理を専門にしている連中は、洋の東西を問わずブラックユーモリストですよ。 とんでもないときに、みんなを笑わせる」
初代内閣安全保障室長をつとめた佐々淳行氏の言葉だ。
だれもがパニックになっているとき、ユーモアがあれば、ふっと我に返り、客観的になれる。
また、筑波大名誉教授、村上和雄氏の「笑いの効用」の科学的実験がある。
「私たちは糖尿病に着目しました。糖尿病の指標となる血糖値は、ほんの少しの血液で簡単に測定ができますし、明白な結果が出ます。実験は糖尿病患者に対して昼食後の40分間に、1日目は医学部教授による「糖尿病に関する講義」を聞いてもらい、2日目は落語を楽しんでもらい、終了後に採血をして血糖値を測定するというものです。講義は当然ながら真剣なもので、笑いはありません。吉本興業と共同で3回実験をして、3回とも漫才や落語を聞いた人のほうが血糖値の上昇が抑えられたという結果になりました」
そして、岡山県の医師・伊丹仁朗博士の実験によると、がん患者に寄席を見せ、その前後に採血をしたところ、がん細胞を殺すナチュラルキラー細胞が正常値より低めだった人は、観劇後に全て活性化していたという。
「笑い」は、パニックになった時も、病気に対しても有効だ。
エイプリルフールもユーモアと笑いを忘れない人でありたい。
精神科医、斎藤茂太『いい人生には「生き方のコツ」がある』(だいわ文庫)には、前向きなオプティミスト(楽観主義者)は、病気にも、トラブルにも、ストレスにも強いとある。 前向きになって病気を治した代表的な人物に、アメリカのジャーナリストで、世界平和に対しても精力的に貢献してきたノーマン・カズンズが紹介されている。
太平洋戦争後、来日した氏は、広島、長崎の原爆投下による惨状に心を痛めた。そして、原爆で親をなくした原爆孤児たち400人の里親を見つけ、世話をしたりしている。また、原爆によって顔などを負傷した25人の日本人女性をアメリカに招き、整形外科手術を受けさせている。
だが、カズンズはその後、重症の膠原病に倒れてしまった。 回復の可能性は500分の1という難病である。
痛みで眠れない日もある厳しい病状だったが、氏は数分間、腹をかかえて笑うと1時間以上、痛みを忘れて眠ることができることに気がついた。 病院で一般的な治療を受けたあと、自分で考えた治療を実践するために、病院を退院した。その治療法とは、「笑い」と「ビタミン」である。
ホテルに部屋をとると、ビタミン注射をし、喜劇俳優マルクス兄弟などの往年のコメディ映画を見て笑い、お笑いの本を読んで笑い、笑い漬けの生活を送った。その結果、500分の1の奇跡が起こったのである。 大笑いは内臓を動かし、呼吸作用を盛んにする。 病気を笑い飛ばそうという前向きの姿勢が自己治癒力を後押ししたのだろう。 病気に勝ったのである。
ところで、氏は10歳のときに結核にかかり、療養所生活を送っていたことがある。 当時、結核は死病と考えられていたが、少年であった彼は、療養所では患者たちが「オプティミスト」と「リアリスト」に分けられることに気がついた。 「オプティミスト」たちはグループでいっしょに遊び、笑いあった。 「リアリスト」たちはグループ活動を嫌い、孤独で味気ない生活をしているように見えた。
結核が治って退院していくのは「オプティミスト」たちのほうだった。そこで彼も退院するために、遊び仲間の一員として「オプティミスト」の患者の仲間になり、結核を克服した。そういった経験から、人間には病気と闘う潜在的な力があり、肯定的な感情がその力を引きだし、治療効果を生むという信念をもったと述べている。1980年には、外交交渉などで世界を飛びまわった過労から心筋梗塞を発病した。このとき、医師は「状況そのものは回復不可能」と説明したが、回復不可能という言葉を聞いたとたん闘志が燃えあがったという。このときも氏は、自分で考えた治療計画を半年間続け、回復してしまった。
具合が悪いとき、まずチェックすることは、この頃、笑ったことがあるか、楽しい生活を送っているかどうかである。しばらく笑っていないと気づいたなら、健康が危機に瀕しているかもと疑ったほうがいい。そこをどう乗り切るかはおのずと明らかである。かくいう私も、つねに笑いを忘れないようにしているつもりである。ユーモアとは人生の薬味というよりも、人生そのものではないかとすら思っている。
「パニック時の特効薬は笑いなんです。 危機管理を専門にしている連中は、洋の東西を問わずブラックユーモリストですよ。 とんでもないときに、みんなを笑わせる」
初代内閣安全保障室長をつとめた佐々淳行氏の言葉だ。
だれもがパニックになっているとき、ユーモアがあれば、ふっと我に返り、客観的になれる。
また、筑波大名誉教授、村上和雄氏の「笑いの効用」の科学的実験がある。
「私たちは糖尿病に着目しました。糖尿病の指標となる血糖値は、ほんの少しの血液で簡単に測定ができますし、明白な結果が出ます。実験は糖尿病患者に対して昼食後の40分間に、1日目は医学部教授による「糖尿病に関する講義」を聞いてもらい、2日目は落語を楽しんでもらい、終了後に採血をして血糖値を測定するというものです。講義は当然ながら真剣なもので、笑いはありません。吉本興業と共同で3回実験をして、3回とも漫才や落語を聞いた人のほうが血糖値の上昇が抑えられたという結果になりました」
そして、岡山県の医師・伊丹仁朗博士の実験によると、がん患者に寄席を見せ、その前後に採血をしたところ、がん細胞を殺すナチュラルキラー細胞が正常値より低めだった人は、観劇後に全て活性化していたという。
「笑い」は、パニックになった時も、病気に対しても有効だ。
エイプリルフールもユーモアと笑いを忘れない人でありたい。
2019年04月07日
昭和の終わり
これは、やっぱり昭和の名曲!
沢田研二の「TOKIO」がテレビでパフォーマンスされたのは1980年元旦。1月1日へと日付が変わったときの生放送だったということで、TOKIOは文字通り80年代の東京を象徴する楽曲と称される。TOKIOの作詞家の糸井重里自身も放送を見て驚いたとコメント。衣装やメイクを含めたTOKIOという楽曲のパフォーマンスの完成度は想像を超えるものがあったということに。
当時に最高の人気者だった沢田研二のピカピカの歌。
1979年の大みそかから元日にかけて、民放全チャンネルで放映されたテレビ番組=『ゆく年くる年』で、1980年1月1日のちょうど0時0分、沢田研二は「TOKIO」を歌い出したのです。つまり、日本の80年代は「TOKIO」によって迎え入れられたということになります。
沢田研二の「TOKIO」がテレビでパフォーマンスされたのは1980年元旦。1月1日へと日付が変わったときの生放送だったということで、TOKIOは文字通り80年代の東京を象徴する楽曲と称される。TOKIOの作詞家の糸井重里自身も放送を見て驚いたとコメント。衣装やメイクを含めたTOKIOという楽曲のパフォーマンスの完成度は想像を超えるものがあったということに。
当時に最高の人気者だった沢田研二のピカピカの歌。
1979年の大みそかから元日にかけて、民放全チャンネルで放映されたテレビ番組=『ゆく年くる年』で、1980年1月1日のちょうど0時0分、沢田研二は「TOKIO」を歌い出したのです。つまり、日本の80年代は「TOKIO」によって迎え入れられたということになります。
2019年04月06日
グルテンフリーとジョコビッチ
プロテニスプレーヤーのジョコビッチ選手のセリアック病の事例として発表されてから、注目されるようになりました。ジョコビッチ選手は、実家がピザ屋だったのにも関わらず、グルテンを消化しにくい体質とは気づかず長年体調不良 と戦わざるを得なくなっていました。グルテンフリーに変えてからは体質が劇的に変化し、最高の選手に上り詰めました。 2012年以降、わずか数年でグルテンフリーは瞬く間に世界中に広がりを見せました。 レディ・ガガなどハリウッドスターがグルテンフリーダイエットを発信したりと、もはやグルテンフリーは一つの価値観になりつつあります。 大手の有名チェーンレストランもグルテンフリー化しているほどの勢いです。
小麦アレルギーは別物で、グルテン不調の場合はアナフィラキシー症候群のような体調の急変は起きません。 ただ、腸がグルテンに過剰に反応したり、グルテンを消化しにくい体質の方は、小麦を食 べる事で慢性的な不調を引き起こす事が報告されています。 その症状はグルテンに反応し、体内に異物が入ってきたと勘違いし 自ら小腸を攻撃する自己免疫疾患が多く、栄養吸収に多くのトラブル を抱えるケースが代表的なものになります。
頭痛・めまい・イライラ・倦怠感などの症状が出る事も。 自分自身の腸がグルテンに敏感なのかどうかを調べてみるには、 抗体を調べる血液検査などがありますが、費用は掛かります。 もっと簡単な方法としては、3週間程グルテンフリー食に切り替えて、体調の変化を見てみる事です。 少しでも思い当る不調が改善されていれば、あなたはグルテン不調の対象者だった可能性があります。 小腸の粘膜が傷つけられると、太りやすい体質になる事も報告されていますので、体調の回復と共に痩せやすい体質に改善されるチャンスかも!
小麦粉を使った食品を一切口にしない事! パンをご飯に変えたり、パスタやうどんを十割りそばに変えるなど、小麦食品を規制する必要があります。ハムやソーセージなどの加工品は元より、カレーのルーや味噌、醤油などの調味料にも使われている事が多いので、原材料をしっかりとチェックしてください。
単なる夏風邪?と思っていた体調不良が、グルテン不調だったなどということもあるので、思い当たる方は試してみては如何でしょうか。
小麦アレルギーは別物で、グルテン不調の場合はアナフィラキシー症候群のような体調の急変は起きません。 ただ、腸がグルテンに過剰に反応したり、グルテンを消化しにくい体質の方は、小麦を食 べる事で慢性的な不調を引き起こす事が報告されています。 その症状はグルテンに反応し、体内に異物が入ってきたと勘違いし 自ら小腸を攻撃する自己免疫疾患が多く、栄養吸収に多くのトラブル を抱えるケースが代表的なものになります。
頭痛・めまい・イライラ・倦怠感などの症状が出る事も。 自分自身の腸がグルテンに敏感なのかどうかを調べてみるには、 抗体を調べる血液検査などがありますが、費用は掛かります。 もっと簡単な方法としては、3週間程グルテンフリー食に切り替えて、体調の変化を見てみる事です。 少しでも思い当る不調が改善されていれば、あなたはグルテン不調の対象者だった可能性があります。 小腸の粘膜が傷つけられると、太りやすい体質になる事も報告されていますので、体調の回復と共に痩せやすい体質に改善されるチャンスかも!
小麦粉を使った食品を一切口にしない事! パンをご飯に変えたり、パスタやうどんを十割りそばに変えるなど、小麦食品を規制する必要があります。ハムやソーセージなどの加工品は元より、カレーのルーや味噌、醤油などの調味料にも使われている事が多いので、原材料をしっかりとチェックしてください。
単なる夏風邪?と思っていた体調不良が、グルテン不調だったなどということもあるので、思い当たる方は試してみては如何でしょうか。
2019年04月05日
韓国の裏事情
日本の政治への高い関心とともに、一度謝れば「水に流す」のが美徳とされる日本の文化や考え方との違いがある。反日感情をあらわにする市民団体の行動は時に過激になる。警官隊ともみ合いになることも多い。集会の回数は増えても集まる顔ぶれに大きな変化はない。人数が急増している訳でもない。まして今年は、日本の統治に抵抗した「三・一独立運動」から100周年を迎えた。植民地時代に日本に協力した人物の責任を追及する動きが一段と活発になっているのだ。そのため、今までにも増して関係改善を望む人たちも、声を上げにくい空気が漂う。
抗議集会のそばを通りかかった釜山市の会社員男性(32)に、市民の対日感情も悪化しているのかと問うと、首を振ってこう説明してくれた。「韓国ではかつて軍事政権による弾圧が続いた。市民団体は声高に叫ばないと注目されなかったので、そのやり方を踏襲してきた歴史がある」
日本統治時代に小学時代を過ごした80代男性は、市民団体への苦々しい思いを明かす。「日本人も70代以上は韓国に対してすまないという思いを持つ人は多い。なのに何十年も前のことを引っ張り出して、子や孫の世代を苦しめて何になるのか」だが、その思いを公にすることはないという。「言えば問題になるだけ。関わらないのが一番いい」
「正直、歴史問題には関心がないんです。それよりも僕たちの世代は国に対する不満が大きい」。釜山市内の病院に勤務する高薫基(コフンギ)さん(31)はこぼした。
韓国では徴兵制の負担は重いのに、若者の失業率は昨年まで2年連続で9%前後と高い。不動産価格も高騰し、上の世代よりも将来の見通しは厳しい。こうした世相を反映して日本で就職を目指す若者も増えている。昨年度、約100人の卒業生が日本に就職した釜山外国語大の鄭起永(チョンギヨン)総長によると、日本語学科の学生のうち、親が日本での就職に反対するのは1割ほどだという。「日本批判の政治家の発言には意図があることを見抜き、政府間の関係悪化に左右されず、合理的に考える人が増えたのではないか」と分析する。
日本語教師の李(イ)セボムさん(35)は人々の気持ちをこう代弁する。「今は日本について悪い情報を見聞きしても、直接日本に行ったり、インターネットで内容を確かめたりできる。最悪といわれる韓日関係も冷静に見ている人が実は多いんです」
釜山の魅力を動画で伝え、日本の視聴者と韓国人の交流会を開いてきた釜山在住の日本人、昆雅之さん(45)も揺らがない。「日韓の間に、一緒に食事ができる人間関係を少しでも増やしたい。人として向き合えば、相手への思いやりも生まれるでしょう」
関係悪化をすぐに解決する妙案はない。でも希望はあると確信している。
参照:西日本新聞社(4/4)つづき
抗議集会のそばを通りかかった釜山市の会社員男性(32)に、市民の対日感情も悪化しているのかと問うと、首を振ってこう説明してくれた。「韓国ではかつて軍事政権による弾圧が続いた。市民団体は声高に叫ばないと注目されなかったので、そのやり方を踏襲してきた歴史がある」
日本統治時代に小学時代を過ごした80代男性は、市民団体への苦々しい思いを明かす。「日本人も70代以上は韓国に対してすまないという思いを持つ人は多い。なのに何十年も前のことを引っ張り出して、子や孫の世代を苦しめて何になるのか」だが、その思いを公にすることはないという。「言えば問題になるだけ。関わらないのが一番いい」
「正直、歴史問題には関心がないんです。それよりも僕たちの世代は国に対する不満が大きい」。釜山市内の病院に勤務する高薫基(コフンギ)さん(31)はこぼした。
韓国では徴兵制の負担は重いのに、若者の失業率は昨年まで2年連続で9%前後と高い。不動産価格も高騰し、上の世代よりも将来の見通しは厳しい。こうした世相を反映して日本で就職を目指す若者も増えている。昨年度、約100人の卒業生が日本に就職した釜山外国語大の鄭起永(チョンギヨン)総長によると、日本語学科の学生のうち、親が日本での就職に反対するのは1割ほどだという。「日本批判の政治家の発言には意図があることを見抜き、政府間の関係悪化に左右されず、合理的に考える人が増えたのではないか」と分析する。
日本語教師の李(イ)セボムさん(35)は人々の気持ちをこう代弁する。「今は日本について悪い情報を見聞きしても、直接日本に行ったり、インターネットで内容を確かめたりできる。最悪といわれる韓日関係も冷静に見ている人が実は多いんです」
釜山の魅力を動画で伝え、日本の視聴者と韓国人の交流会を開いてきた釜山在住の日本人、昆雅之さん(45)も揺らがない。「日韓の間に、一緒に食事ができる人間関係を少しでも増やしたい。人として向き合えば、相手への思いやりも生まれるでしょう」
関係悪化をすぐに解決する妙案はない。でも希望はあると確信している。
参照:西日本新聞社(4/4)つづき
2019年04月04日
「父の謝罪」から始まった、日韓の誤解
『父の謝罪費を撤去します』(2017 産経新聞出版)という、大高未貴が吉田政治の長男から取材するなどして慰安婦問題の起こりをまとめた本がある。
吉田清治の証言記事を手始めに朝日新聞が大々的な従軍慰安婦報道を繰り広げ、それを他紙も追随したこともあって、国内外に大きな流れを作りだした。当時の宮沢首相の謝罪や河野談話につながったと考えられるが、偽証であったと分かってくると、日韓関係に悪く響いている原因をつくった、もしくは利用された部分がある。その吉田証言が虚偽証言だったとの認識がされた頃には、その流れが国連の人権委員会で取り上げられ、今や取り消して済む話ではないほどの禍根を残していた。
吉田自身が誤認記事であると認めた時には、世界は "The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan"という組織の言葉を信じるようになっていた。日本語に訳せば「日本によって軍の性奴隷に徴用された女性のための韓国協議会」ということになり、「徴用された(Drafted)」という語を使って誤解を上塗りしてきたのが略称「挺対協」だ。
このため、例えばAFP通信社の発信するニュースでも "Up to 200,000 women from Korea, China, the Philippines and elsewhere were forcibly drafted into brothels catering to the Japanese military in territories occupied by Japan during WWII, according to many mainstream historians." と「徴兵された (drafted)」と、世界に報道されてきた。
さらに、女性記者が朝日新聞が拠り所とした吉田証言を鵜呑みのまま、日本の慰安婦問題についての責任を追及していった。その裁判というのは、一般裁判とは区別されるのではあるが、法廷を模した名称で「女性国際戦犯法廷」というセンセーショナルな国際社会に訴える民間団体の抗議活動(民衆法廷)であった。2000年に起きたこの模擬裁判で「昭和天皇への有罪」が判決とされた。主宰者となったのは、この国際実行委員会 共同代表である尹貞玉(1925年 。梨花女子大学英文科名誉教授。 韓国挺身隊問題対策協議会の初代代表)と松井やより( 1934 - 2002、朝日新聞記者)だった。
この法廷は、韓国政府が慰安婦問題の賠償を求める根拠ともなっていった。この模擬法廷運動を含め、従軍慰安婦問題を日本に突きつける先駆的リーダーとなったのが「挺身隊」であった。挺身隊(女子挺身隊)は、日本や朝鮮半島や台湾など招集され主に内地の軍需工場で働く勤労奉仕団体のことを指す。しかし、韓国においては慰安婦を女子挺身隊と混同して運動が起きている。当時、朝鮮の慰安婦斡旋業者が挺身隊の名を仮り慰安婦を集めるなどがあり、「挺身隊として徴集されると慰安婦にさせられる」と流布されていたほか、「慰安婦」の語は後の韓国の米軍や韓国軍の慰安婦と混同するため、日本軍慰安婦であることを強調するためでもあった。
「日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷」も、英語では”The Women's International War Crimes Tribunal on Japan's Military Sexual Slavery”とされた。「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)を中心とする団体で構成され、2000年に東京で開催し、2001年にオランダで「最終判決」として要求事項などを発表し、世界に事実以上の罪状を印象づけた。
つづき
吉田清治の証言記事を手始めに朝日新聞が大々的な従軍慰安婦報道を繰り広げ、それを他紙も追随したこともあって、国内外に大きな流れを作りだした。当時の宮沢首相の謝罪や河野談話につながったと考えられるが、偽証であったと分かってくると、日韓関係に悪く響いている原因をつくった、もしくは利用された部分がある。その吉田証言が虚偽証言だったとの認識がされた頃には、その流れが国連の人権委員会で取り上げられ、今や取り消して済む話ではないほどの禍根を残していた。
吉田自身が誤認記事であると認めた時には、世界は "The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan"という組織の言葉を信じるようになっていた。日本語に訳せば「日本によって軍の性奴隷に徴用された女性のための韓国協議会」ということになり、「徴用された(Drafted)」という語を使って誤解を上塗りしてきたのが略称「挺対協」だ。
このため、例えばAFP通信社の発信するニュースでも "Up to 200,000 women from Korea, China, the Philippines and elsewhere were forcibly drafted into brothels catering to the Japanese military in territories occupied by Japan during WWII, according to many mainstream historians." と「徴兵された (drafted)」と、世界に報道されてきた。
さらに、女性記者が朝日新聞が拠り所とした吉田証言を鵜呑みのまま、日本の慰安婦問題についての責任を追及していった。その裁判というのは、一般裁判とは区別されるのではあるが、法廷を模した名称で「女性国際戦犯法廷」というセンセーショナルな国際社会に訴える民間団体の抗議活動(民衆法廷)であった。2000年に起きたこの模擬裁判で「昭和天皇への有罪」が判決とされた。主宰者となったのは、この国際実行委員会 共同代表である尹貞玉(1925年 。梨花女子大学英文科名誉教授。 韓国挺身隊問題対策協議会の初代代表)と松井やより( 1934 - 2002、朝日新聞記者)だった。
この法廷は、韓国政府が慰安婦問題の賠償を求める根拠ともなっていった。この模擬法廷運動を含め、従軍慰安婦問題を日本に突きつける先駆的リーダーとなったのが「挺身隊」であった。挺身隊(女子挺身隊)は、日本や朝鮮半島や台湾など招集され主に内地の軍需工場で働く勤労奉仕団体のことを指す。しかし、韓国においては慰安婦を女子挺身隊と混同して運動が起きている。当時、朝鮮の慰安婦斡旋業者が挺身隊の名を仮り慰安婦を集めるなどがあり、「挺身隊として徴集されると慰安婦にさせられる」と流布されていたほか、「慰安婦」の語は後の韓国の米軍や韓国軍の慰安婦と混同するため、日本軍慰安婦であることを強調するためでもあった。
「日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷」も、英語では”The Women's International War Crimes Tribunal on Japan's Military Sexual Slavery”とされた。「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)を中心とする団体で構成され、2000年に東京で開催し、2001年にオランダで「最終判決」として要求事項などを発表し、世界に事実以上の罪状を印象づけた。
つづき
2019年04月03日
2019年04月02日
着物で観桜会@あびこゴルフ
2019年04月01日
イチロー引退
実を言うと、私はイチローが言動が生意気な上に、カッコをつけてなんて奴だとは思ったことはあるけれど、大変な努力と鍛錬によって、スーパースターの座を獲得したことは間違いないと感心してていた。笑って死ぬためにには、やっぱり健康に留意する必要はありそうである。ここは偉そうなことは言えない。私は、ドアツードアの車移動で歩かない派の暮らしそのものだ。笑って死ぬには、日頃のトレーニングをやるしかないのか。
ところがだ、引退会見では真顔になって眼が赤くなって涙を浮かべているようにも見え、「ボクはアスリートとしてしか生きる術がない。打てなくなったら、それは死ぬことなんだ。後の人生なんて、ボクには残されてない」と、しみじみ語っているのに、驚かされた。一言一言確かめるように言葉を紡いで話すスターを、かつて見たことはなかった。この純粋さに感動した。
私たちは、ともすると逃げ道を考えたり、少しでも楽をして生きたいと願ったりする。ところが国民栄誉賞も拒否して「どうしよう。もうこれでお終いなんだ」と、自分を曝け出してしまえる。自分が築いて来た様な実績や栄光にいささかもこだわらない。だからプレイヤーを辞めたくなかったという一途な思いを「笑って死にたい」という言葉の意味が光り輝いて聞こえるのだ。
イチローは、自宅に大きなトレーニング・ルームを持っていて、引退後も身体を鍛えている。生きている限り、それを続けるつもりらしい。引退後のアスリートが太ったり、失意のまま早逝したりする例は枚挙に暇がない。自己管理を怠った結果だろうけれど、私たち普通人にも日常生活の中で、心身共に弛(たる)みや緩みを許容しているに違いない。
それにしてもエイプリル・フールに元号が発表されたなんて、ユーモアだろうか。
ところがだ、引退会見では真顔になって眼が赤くなって涙を浮かべているようにも見え、「ボクはアスリートとしてしか生きる術がない。打てなくなったら、それは死ぬことなんだ。後の人生なんて、ボクには残されてない」と、しみじみ語っているのに、驚かされた。一言一言確かめるように言葉を紡いで話すスターを、かつて見たことはなかった。この純粋さに感動した。
私たちは、ともすると逃げ道を考えたり、少しでも楽をして生きたいと願ったりする。ところが国民栄誉賞も拒否して「どうしよう。もうこれでお終いなんだ」と、自分を曝け出してしまえる。自分が築いて来た様な実績や栄光にいささかもこだわらない。だからプレイヤーを辞めたくなかったという一途な思いを「笑って死にたい」という言葉の意味が光り輝いて聞こえるのだ。
イチローは、自宅に大きなトレーニング・ルームを持っていて、引退後も身体を鍛えている。生きている限り、それを続けるつもりらしい。引退後のアスリートが太ったり、失意のまま早逝したりする例は枚挙に暇がない。自己管理を怠った結果だろうけれど、私たち普通人にも日常生活の中で、心身共に弛(たる)みや緩みを許容しているに違いない。
それにしてもエイプリル・フールに元号が発表されたなんて、ユーモアだろうか。