昨年の4月15日、東京ディズニーランドは開園35周年となった。今年の3月25日までお祝いのイベントを多数開催している。千葉にあるのに東京ディズニーランドと言われるのは、かつて新東京国際空港と言われた成田空港のように、千葉に国際性のある施設がなじみがないためだったのだろう。千葉県民には、県民の日のお得な入場料が設定されるのがありがたい。聞くところによると、浦安市の成人式はTDLで行われるのだそう。
今、TDLを運営する「株・オリエンタルランド(以下、OLC)」は、1960年(昭和35年)に京成電鉄が千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設(当時の仮称がオリエンタルランド)を計画、社長の旧友であった三井不動産社長・江戸英雄に共同事業者として声をかけたのがきっかけであった。当時の京成社長、川ア千春は自社のみで計画を遂行しようとしたが、銀行を含めて信用が担保できず、三井不動産などに声をかけたのである。これにより京成電鉄、三井不動産、朝日土地興業(船橋ヘルスセンター、後に三井不動産に吸収合併)の3社が均等に出資することでOLCは設立となった。京成電鉄本社(東京都墨田区業平、現在は千葉県市川市八幡)内に事務所を設置し、初代社長は川アが就任した。 すでに京成電鉄は、都心部 - オリエンタルランド(現在の舞浜・新浦安付近) - 船橋港 - 稲毛海岸 - 千葉港 - 千葉寺という新規鉄道路線(現JR京葉線の原型)を計画及び免許申請をしていたので、オリエンタルランド計画は、この新規路線の沿線開発の一つであった。川アは、谷津遊園拡張の際にバラ園を新設する構想を練っていた(この事業は後に京成バラ園芸の設立につながる)。友人である正力松太郎(読売新聞社社主)にも声をかけたのだと言う。そのバラ園に飾るバラを買い付けに訪米した際、開業後間もないディズニーランドの本拠地を訪れ、衝撃を受けた。帰国後、レジャーランド計画にアメリカのディズニーランドと手を組むという明確な方針を掲げた。
当時の千葉県知事は友納武人であり、三井不動産社長の江戸英雄と2人3脚で進んでいった。造成地は県有地として千葉県が売却し、その益金は出資比率に応じて分配されることになった。金権千葉の構図が作られる、地上げ体質が形成されていく最中にあった。浦安の漁民との補償交渉を取り仕切ったのが、江戸の推薦でOLCに入社した高橋政知。高橋自身は名門の家の生まれで東大の卒論を英語で書くほどのエリートであったが、持ち前の豪放磊落な性格が漁民との話し合いをスムーズにし、漁業補償、千葉県からの土地払い下げまでは順調に進んでいった。ディズニーとの初交渉は1974年(昭和49年)に開始されたが、先行して開園していた奈良ドリームランドの著作権侵害問題[7][8](この件に関しては同項目を参照)もあり、最初は門前払いに近い扱いであった。ディズニーから提示された条件はディズニーは建設費・運営費等を一切支払わず、ロイヤルティとして売り上げの10%を回収すると言う当時の日本の常識からは法外なものだった。交渉は何度も決裂寸前の様相を呈し、一時は修復も危ぶまれる状況に陥った。最終的には、高橋が条件を飲み、高橋の顔をたてるために50年契約だった条件を1割減じて45年とさせた。こうして1979年(昭和54年)4月30日にウォルト・ディズニー・プロダクション(後のディズニー・エンタプライゼズ・インク)との業務提携契約を取り交わした。
TDLの 建設候補地は浦安市舞浜のほか、千葉県我孫子市、茨城県ひたちなか市、岩手県盛岡市長野県大鹿村、静岡県清水市(現:静岡市清水区)・御殿場市、神奈川県横浜市・川崎市などがあった。東京都心に近い立地の良さに加え、独特の少雨・乾燥の気候であったため、かなり早い段階から舞浜にとディズニー側は決めていたとされる。しかし、最終的にディズニーは日本の象徴である富士山が見えるのでは人工物が引き立たなくなってしまうと言う理由を付けて、舞浜に決定した。その後、ディズニーによる技術・ノウハウ提供を受け、1983年(昭和58年)4月15日東京ディズニーランドが開園を迎えた
2011年(平成23年) 3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響により、東京ディズニーリゾートを含む東京湾岸の埋立地の広域で液状化現象が見られ、パーク内の施設点検を行うため終日運営を見合すことになった。駐車場の一部に液状化の影響がでた以外は大きな損傷は認められなかったが周辺の環境を配慮した上、運営再開は2011年3月21日を目途に発表するとのことだったが、結局未定となった。その後、パーク再開が4月15日と公式に発表された。再開後も、節電のため営業時間の短縮や一部アトラクション・イベントの自粛などを行っていた。