1965年の日韓国交正常化にあたり、日本と韓国は日韓請求権協定を締結。 協定に基づき、日本との国交正常化を果たした韓国は当時の韓国の国家予算の約2年分に相当するこの巨額の資金(計5億ドル)を日本から得て、 国内インフラ整備事業投資として使われ、“漢江の奇跡”と呼ばれる経済成長が実現した。浦項総合製鉄(現ポスコ)の設立や高速道路の建設などに注ぎ込み、アジア有数の経済国家に発展する礎を築いた。ある関係者は新しい国づくりを後押しした当時の日本の空気を「贖罪意識」と振り返る。元徴用工への補償は、韓国政府が行い、賠償問題は「完全かつ最終的に解決する」と日韓両政府が合意していた。交渉の過程において、日本政府は個人に対する補償も検討したことがあるけども、韓国側から「一括して」って言ってきたことから、徴用工に対する補償は日韓協定(1965年)の中に含まれて韓国の歴代政府は、この問題解決してきたと対処してきた。
一方、元徴用工やその遺族たちは、2005年になって韓国で日本企業を提訴した。当時の韓国政府は「日本企業への賠償要求は困難」との見解を表明していたが、2012年に韓国の最高裁は「1965年の日韓協定で、個人の請求権問題は解決していない」と判断した。差し戻された控訴審では、賠償を命じる逆転判決が言い渡され、新日鉄住金(旧・新日本製鉄)が上告していた。日韓請求権協定を締結した時の朴正熙(前大統領の父でもある)政権を否定する革新系の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が2017年に誕生すると、元従軍慰安婦問題を含め日韓の取り決めをうやむやにするような動きが相次ぐ。
そして迎えた最高裁判決の30日、国会審議中の午後2時17分、「日本企業の上告判決」と思われるメモが渡された河野外相は、駐日韓国大使を呼び抗議をした。
安倍首相も午後4時過ぎ、この判決についてインタビューを受けて「本件については、1965年の日韓請求権協定によって、完全かつ最終的に解決しています。」と言及した。首相による、ツイートで「 今般の判決は国際法に照らして、ありえない判断であります。日本政府としては毅然と対応してまいります。」が流れていた。
判決は、協定締結に至る過程で日本政府が自らの不法行為を認めていないため、「不法的な植民地支配や侵略戦争遂行に直結した不法行為」を行った企業への「慰謝料請求権」は、請求権協定の枠外であり今も有効だと認定した。約21万7000人いたとされる徴用工とその遺族がいるため、 今後に賠償を次々と求める可能性がある。韓国外務省は「日韓関係に否定的な影響を及ぼさないよう、日韓両国が知恵を出さなければならないと日本側に伝達した」としている。
両国の経済関係での相互依存は深まっている。多くの韓国メーカーは日本企業(元徴用工から賠償請求訴訟を起こされている企業も含む)に部品の調達などを頼っており、韓国を訪れる日本人観光客は今年1〜6月に前年同期比18%増の131万人にのぼり、外国人観光客全体の2割程度を占める。韓国政府のこのような対応次第では、日韓関係が根底から覆される可能性がある。
:韓国大使館に通算12年勤務、外務省北東アジア課長などを歴任の
元駐韓大使・武藤正敏さんへのインタビュー:
日韓関係の根幹が50年ぶりに新しい試験台に立つことになった。1965年以来続いている、日韓関係のターニングポイントになる。また、日本は賠償はしないという立場であり、日本との外交戦の導火線になるのか、韓国政府の対応が注目される。
――試験台やターニングポイントなどの言葉は、これまでの日韓関係をチャラにしようとしているのでは?
日本政府の考えを韓国側も同意してたわけですよね。こういうことを何度もやられては、安定した両国関係というのは難しくなってきますよね。そういった意味では「ターニングポイント」だと私も思いますよ。
――文大統領が、(元徴用工の問題について)解決済みだと明言しなかったのはなぜ?
やっぱり人権弁護士ですし、大統領である以上、人権弁護士だったってことなんじゃないでしょうかね。
.
◆元徴用工問題をめぐる今後のシナリオは?
――今後の日本政府の動きは?
韓国政府の見方でしょうね。差し押さえに出てきた場合には、今後の日韓関係にものすごく影響してきますからね。戦前に活動していた日本企業は、それほど多くはないけれども、韓国で事業するためには韓国の労働者雇ってますからね。韓国ではものすごく過激な労働組合もあるわけでしょう。
だから、韓国の労働者が日本企業に対して訴訟を起こす危険性もあるわけだから、日本企業として韓国で事業活動することに心中するってことも出てくるでしょうね。
韓国の反日と中国の反日って違うんですよ。
中国の反日は、国益に基づいてやるんですよ。
韓国は国民感情で反日するんですよ。そこで理性的な判断がどこまで働いているかは分かりませんけどね。韓国政府が了解してきたことを今になって司法が覆すのは国際社会の対応にありえないですよ
――今後、行きつくところは?
紛争解決するにはまず日韓で協議する。それがうまくいかなければ、第三者(第三国)を交えた仲裁委員会で協議する。これが紛争解決のメカニズム、請求権協定に入ってるわけですよね。これでうまくいくかどうかですよね。国際司法裁判所っていうのもありますけど、韓国は拒否できますからね。だから、政府間の協議で解決するというのは、なかなか難しいんじゃないですかね。
参照:(「プライムニュース イブニング」10月30日放送分より)
つづき
2018年10月31日
2018年10月30日
ふじみ野市へ、焼却炉視察
2018年10月29日
古きを知ってこそ未来を語れる
藤尾秀昭『心に響く言葉』致知出版社に、安岡正篤師が三十五歳の頃、 岡山県閑谷学校において、「古本大学講義」と題して講演された故事を書いてあります。
東洋には「四部の学」というものがあると説明され、これは私たちが学問修養をしていく上において非常に意義深い分類法であり、こういう分類法は東洋独特のもので、西洋の学問にはみられない。
「四部の学」とは「経」「史」「子」「集」の概略は、「子」は人生に独特の観察と感化力を持つすぐれた人物の著書のことをいい、これは「経」に従属させるべきものだといわれています。 「集」は詩文のことです。 従って、東洋の教学は「経」「史」「集(詩文)」の三つに分けて考えたほうがよいといわれています。
なぜ、これが意義深いか。まず、「経学」です。
「経学」というのは、人間はいかに生くべきかを研究する学問であり、我われの生き方の信念を養い、生活の指導力となる学問のことだ、と安岡先生は説かれています。 即ち、人間力を養い、人間性を高める学問ですね。 今日でいう「人間学」の根幹をなすものと言えます。
これに対して、「我われ人間はいかに生きてきたか」「かく生きた故にかくなったから、人間はかくあらねばならない」というふうに、歴史を照らして、人間の生き方・あり方を教えているのが「史」、即ち歴史だというのです。つまり、史学は経学を実証するものです。
「経」を離れて、「史」なく、「経」と「史」の学を兼ね修めて初めて人は知行合一的に、全人格を練っていく。 次に「集」ですが、人間の情緒・情操を養っていくのが詩文です。人は詩文を読むことによって感動し、行動にかりたてられます。そこで、私たちが本当に自己を磨いていくには、「経」と「史」と「詩文」の三つを深めていかなければならない。この三方面から終始自分を養ってゆけば、明るい洗練された人格が光輝を増していくと安岡氏は説かれています。この三部はいずれも大事ですが、根幹はやはり「経学」です。
「我われの生き方の信念を養い、生活の指導力となる」そういう学びを深めていくのです。
後年、安岡正篤師は、 古典と歴史と人物の研究、これなくして人間の見識は生まれてこないといわれました。壮年期に説いた三部の教えをより平明に語られた言葉だと思います。
安岡正篤氏はこう語る。
「歴史はくり返す。たいていのことは古典の中にある。何千年もたっているのに、人間そのものの根本は少しも変わっていない。 自分が創意工夫し、真理を発見したと思っているが、それは大変な錯覚で、すでに古典にのっていることを知らないのだ」(安岡正篤)
我々が古典を学ぶ理由はここにある。 現在起こっている事象 を解きほぐし、未来のことを予測するには古典の勉強が一番だ。人間としての根本は少しも変わっていないからだ。また、
「愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い 」(安岡正篤)
我々が歴史上の人を知ろうとする理由がここにある。 中国の古典「呻吟語」中でも、そのことが述べられている。
「深沈厚重(しんちんこうじゅう)是(これ)第一等
磊落豪遊(らいらくごうゆう) 是第二等
聡明才弁(そうめいさいべん) 是第三等」
どっしりと落ちついて深みのある人物が第一等。
細かいところにこだわらないような豪放磊落な人間は第二等。
そして、目から鼻に抜けるように頭が切れて弁の立つ「聡明才弁」の人は第三等だという。
また、
「徳とは無類の明るさのことである」(安岡正篤)
無類の明るさは「集」、すなわち、 人間の情緒・情操によってつくられる。
古典と歴史と人物の研究を重ねることは、古きを知って未来を予測するのに重要なわけである。
地域に残る古文書には重要な土地の歴史が残っており、これを反故にするなどはおいそれと見逃すことはよろしくないのである。
東洋には「四部の学」というものがあると説明され、これは私たちが学問修養をしていく上において非常に意義深い分類法であり、こういう分類法は東洋独特のもので、西洋の学問にはみられない。
「四部の学」とは「経」「史」「子」「集」の概略は、「子」は人生に独特の観察と感化力を持つすぐれた人物の著書のことをいい、これは「経」に従属させるべきものだといわれています。 「集」は詩文のことです。 従って、東洋の教学は「経」「史」「集(詩文)」の三つに分けて考えたほうがよいといわれています。
なぜ、これが意義深いか。まず、「経学」です。
「経学」というのは、人間はいかに生くべきかを研究する学問であり、我われの生き方の信念を養い、生活の指導力となる学問のことだ、と安岡先生は説かれています。 即ち、人間力を養い、人間性を高める学問ですね。 今日でいう「人間学」の根幹をなすものと言えます。
これに対して、「我われ人間はいかに生きてきたか」「かく生きた故にかくなったから、人間はかくあらねばならない」というふうに、歴史を照らして、人間の生き方・あり方を教えているのが「史」、即ち歴史だというのです。つまり、史学は経学を実証するものです。
「経」を離れて、「史」なく、「経」と「史」の学を兼ね修めて初めて人は知行合一的に、全人格を練っていく。 次に「集」ですが、人間の情緒・情操を養っていくのが詩文です。人は詩文を読むことによって感動し、行動にかりたてられます。そこで、私たちが本当に自己を磨いていくには、「経」と「史」と「詩文」の三つを深めていかなければならない。この三方面から終始自分を養ってゆけば、明るい洗練された人格が光輝を増していくと安岡氏は説かれています。この三部はいずれも大事ですが、根幹はやはり「経学」です。
「我われの生き方の信念を養い、生活の指導力となる」そういう学びを深めていくのです。
後年、安岡正篤師は、 古典と歴史と人物の研究、これなくして人間の見識は生まれてこないといわれました。壮年期に説いた三部の教えをより平明に語られた言葉だと思います。
安岡正篤氏はこう語る。
「歴史はくり返す。たいていのことは古典の中にある。何千年もたっているのに、人間そのものの根本は少しも変わっていない。 自分が創意工夫し、真理を発見したと思っているが、それは大変な錯覚で、すでに古典にのっていることを知らないのだ」(安岡正篤)
我々が古典を学ぶ理由はここにある。 現在起こっている事象 を解きほぐし、未来のことを予測するには古典の勉強が一番だ。人間としての根本は少しも変わっていないからだ。また、
「愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い 」(安岡正篤)
我々が歴史上の人を知ろうとする理由がここにある。 中国の古典「呻吟語」中でも、そのことが述べられている。
「深沈厚重(しんちんこうじゅう)是(これ)第一等
磊落豪遊(らいらくごうゆう) 是第二等
聡明才弁(そうめいさいべん) 是第三等」
どっしりと落ちついて深みのある人物が第一等。
細かいところにこだわらないような豪放磊落な人間は第二等。
そして、目から鼻に抜けるように頭が切れて弁の立つ「聡明才弁」の人は第三等だという。
また、
「徳とは無類の明るさのことである」(安岡正篤)
無類の明るさは「集」、すなわち、 人間の情緒・情操によってつくられる。
古典と歴史と人物の研究を重ねることは、古きを知って未来を予測するのに重要なわけである。
地域に残る古文書には重要な土地の歴史が残っており、これを反故にするなどはおいそれと見逃すことはよろしくないのである。
2018年10月28日
日本の育児事情、そもそも論として再考察
フランスでは「里帰り出産」という言葉もなければ、出産のために長期間里帰りしたという人の話も聞いたことがない。特に欧米では、無痛分娩が主流です。無痛にすることで、不要ないきみ・痛み・母子への負担を減らしますので、産後の母子の回復が自然分娩よりも早いのです。
ベビーの時から自室でスリープトレーニングをして、夫婦は二人の寝室で眠ります。日本で子供が小さいうちは添い寝して一緒に寝て、泣いたらすぐにあやす愛情効果について予想通りフランス人にはかなり不評である。それは「旦那がかわいそう」だというものだ。
里帰り出産の現状を調べてみると、欧米では里帰りしての産後の過ごし方はしないものの、他の国ではさまざまのようだ。
・「ベトナムでは里帰り出産はあまりないですが、妊娠から出産まで旦那さんの母親かお嫁さんの実母が来てくれることが多いです。孫の世話を見てくれることが一般的です」(ベトナム/30代前半/女性)
・「里帰り出産は聞いたことがありません。妊娠時より母親がお手伝いに来ます(奥さんの母親の方が多い)」(ブラジル/40代前半/女性)
・「里帰りも、親や兄弟が嫁を手伝いに家に来ることもあります。後者の方が一般的だと思います」(フィリピン/30代半ば/女性)
・「里帰りする人もいますが、妻の家族が出産や産後のお手伝いをしに妻の住居へ行くというパターンが多いです」(トルコ/40代前半/男性)
・「人によって違いますが、基本的に妊婦さんが里帰りするよりは妊婦さんを支えるために地元から両親が来る場合が多いです」(ロシア/20代後半/男性)
子育てしやすい、社会とはどういうものなのか、社会通念ではなく、妻の本音、夫の本音で再考してみたい問題だ。
アメリカでは産後の2週間、ヨーロッパ等の他国では3ヶ月程度、お父さんが産休を取得し、産後のお母さんを支えながら育児を行うのが一般的です。
また、産後10日間もの間、毎日、かかりつけの助産師さんの訪問を受け、授乳や沐浴の他、お母さんの心身のケアをしたり、それらのアドバイスをしてくれたりといったサービスの受けられる国もあります。
日本の場合ですと、授乳や沐浴の手法については入院の5日間のうちにお母さんに向けて行われるという場合も多く、産後の入院には、これらのスキルをお母さんに身につけされるためにあるのだ、という声もあるようです。
里帰り出産した人の里帰り期間を見てみると、2カ月間以内という人が最も多いが(45.4%)、これだけ長い期間、夫婦が別々に暮らすと言うことがありえない。その間は旦那は赤ちゃんに会えないのか?、旦那は蚊帳の外なのか?、旦那はそれでいいの?旦那も奥さんも互いに会いたいと思わないのか?、元々夫婦関係が悪いってこと?と頭にハテナがいっぱいのようである(ただこのなかに、「その間の旦那の家事や食事はどうするのか?」という質問がないところもフランス人らしい)。
これが日本人とフランス人の家族観の根本的な違いだ。芥川賞作家の藤原智美氏は、著書「家族を『する』家」のなかで独自の家族観をこのように論じている。
ベビーの時から自室でスリープトレーニングをして、夫婦は二人の寝室で眠ります。日本で子供が小さいうちは添い寝して一緒に寝て、泣いたらすぐにあやす愛情効果について予想通りフランス人にはかなり不評である。それは「旦那がかわいそう」だというものだ。
里帰り出産の現状を調べてみると、欧米では里帰りしての産後の過ごし方はしないものの、他の国ではさまざまのようだ。
・「ベトナムでは里帰り出産はあまりないですが、妊娠から出産まで旦那さんの母親かお嫁さんの実母が来てくれることが多いです。孫の世話を見てくれることが一般的です」(ベトナム/30代前半/女性)
・「里帰り出産は聞いたことがありません。妊娠時より母親がお手伝いに来ます(奥さんの母親の方が多い)」(ブラジル/40代前半/女性)
・「里帰りも、親や兄弟が嫁を手伝いに家に来ることもあります。後者の方が一般的だと思います」(フィリピン/30代半ば/女性)
・「里帰りする人もいますが、妻の家族が出産や産後のお手伝いをしに妻の住居へ行くというパターンが多いです」(トルコ/40代前半/男性)
・「人によって違いますが、基本的に妊婦さんが里帰りするよりは妊婦さんを支えるために地元から両親が来る場合が多いです」(ロシア/20代後半/男性)
子育てしやすい、社会とはどういうものなのか、社会通念ではなく、妻の本音、夫の本音で再考してみたい問題だ。
アメリカでは産後の2週間、ヨーロッパ等の他国では3ヶ月程度、お父さんが産休を取得し、産後のお母さんを支えながら育児を行うのが一般的です。
また、産後10日間もの間、毎日、かかりつけの助産師さんの訪問を受け、授乳や沐浴の他、お母さんの心身のケアをしたり、それらのアドバイスをしてくれたりといったサービスの受けられる国もあります。
日本の場合ですと、授乳や沐浴の手法については入院の5日間のうちにお母さんに向けて行われるという場合も多く、産後の入院には、これらのスキルをお母さんに身につけされるためにあるのだ、という声もあるようです。
里帰り出産した人の里帰り期間を見てみると、2カ月間以内という人が最も多いが(45.4%)、これだけ長い期間、夫婦が別々に暮らすと言うことがありえない。その間は旦那は赤ちゃんに会えないのか?、旦那は蚊帳の外なのか?、旦那はそれでいいの?旦那も奥さんも互いに会いたいと思わないのか?、元々夫婦関係が悪いってこと?と頭にハテナがいっぱいのようである(ただこのなかに、「その間の旦那の家事や食事はどうするのか?」という質問がないところもフランス人らしい)。
これが日本人とフランス人の家族観の根本的な違いだ。芥川賞作家の藤原智美氏は、著書「家族を『する』家」のなかで独自の家族観をこのように論じている。
2018年10月27日
県立高校の先生と留学生にお話しする
お天気がよい、秋の散歩に留学生の方たちをお誘いしたいと依頼を受けた。県立高校の歴史教師の皆さんの集まりがあり、千葉と韓国のつながりが大変に深いのだということを研究されているグループが、韓国へのホームステイや留学生の日本理解に奮闘している。我孫子の場合は柳兼子さんと白樺派の人々がいかに我孫子を愛し、世界が平和になることを願って芸術活動をしたか、私の研究の一端を話して欲しいとの事だった。昔は、朝鮮の人たちに柳宗悦と言えば多くが関心を持っていたようだが、今回きた方たちに聞いてみたら初めてその名前をしったという事でした。語り継いでいく人がいないと歴史は消えていくということになる・・・・。
写真は、講師紹介のご挨拶する前にアビスタ(第二研修室)にて。
写真は、講師紹介のご挨拶する前にアビスタ(第二研修室)にて。
2018年10月26日
リバースモーゲージで老後も豊かに
気になる老後のお金のやりくり。 定年後も住宅ローンが残っている方に役立つ、自宅を活用した資金作り「リバースモーゲージ」をご紹介!
戸建を購入した方の多くが住宅ローンを組んだ経緯があり、定年後も貯金や年金の中から、住宅ローン返済を続ける方が増加する可能性があります。 さらに、定年後に低金利の住宅ローンに借り換えをしたいと思っても、仕事をリタイアしているため審査に通らず、高い金利で住宅ローン返済を続けている方も多のです。
☆年金に加えて余剰となる生活資金が欲しい
☆持ち家を残したまま、手持ちの資金を確保したい
☆有料老人ホームへの入居を考えているが、それまで自宅は手放したくない
年金だけでは生活がままならないため、本来は自宅などの財産を保有していては生活保護は受けられません。そのため、居住用の財産を所有している高齢者向けに「要保護世帯者向け不動産担保型生活資金」という制度が2007年より導入されています。
これもリバースモーゲージの一種です。貸し付け条件は「生活福祉資金」と同様です。
【 或るものを活用して、充実の3つのポイント 】
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生活費、レジャー、医療費、リフォームなどお使いみちは自由。
55〜80歳までのお客さまが対象です。
※一部のエリアではマンションでもご利用いただけます。
※事業目的や投資目的にはご利用いただけません。
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┃2┃ ◆≪ご融資は一生涯、ご利用いただけます。≫
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元本の返済は、ご契約者さまが亡くなられてからですので、
ご融資金は、一生涯ご利用いただけます。
配偶者さまがご利用条件を満たしていれば、ご契約者さまがお亡くな
りになられた後も、引き続きご利用いただけます。
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毎月のお支払いはお利息分のみ。さらに、預金連動型なので、
連動の対象となる預金残高と同額分には、お利息のお支払いがありません。
もし売却後に負債が残れば、その穴埋めは原則、残された相続人が行うことになります。
その点も留意して、計画的な利用を心がけましょう。
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2018年10月25日
2018年10月24日
「女・子・高・生」の時代に
女性議員の立場からお話しして欲しいとのことで熱心な我孫子市民を含む多方面の方たちが参加する会に伺いました。都内で行われたサロン集会に参加して、時間は夕方6−9時でしたが、9時を軽く過ぎました。
正確には「女・子・高・生」つまり「女性・子ども(若者)・高齢者・生活者」が政治を変えていくというテーマでした。
宇部市での実践的な女性市長を選出するという取り組みの中で体験的に女性や若者のパワーを実感し、経験的に「女・子・高・生」への期待が高まったそうで、最近はやりの「女性活用の発想」などとは全く違ったものだと、話の中でも強調されていました。
最近の女性活用などの掛け声は、政治のみならず経済の分野でも広がっていますし、制度面での整備は進んでいますが、上滑りなものも多く、実体はむしろ逆行ではないかと思うようなものもありますが、今回の宇部の実践は「男からの発想」で女性政治家を活用しようとの面白い話でした。
参加者の中には、30年以上前から女性議員を増やす活動に取り組んでいる松戸市の市会議員の中田さんをはじめ、市議や県議として今の政治を変えていこうと健闘されている2人の女性議員たちも参加(うち一人が海津)でしたが、残念ながらまだまだ「昭和の男性」たちが中心になっている地方政治の現実は変わってきたとは言えないのです。
女性市長のいる横浜市の行政職員が参加していましたが、市長が女性になったら変わってきたというお話がありました。
そういう意味では、女性議員が増えたり、首長に女性がついたりすることが、政治を変えていくことにつながっていくことはたしかですが、宇部市もそうやって女性市長になったものの首長だけでは限界があるのが見えてきました。しかも首都圏などの大都市部と地方とでは住民意識も違い、地方の政治体質はまだまだ変わっていないという話もでました。たしかに首長の力は大きいですが、それだけでは政治は変わらないでしょう。
「住民視点の政治」や「生活のための政治」を目指すのであれば、変わるべきは政治家だけではなく、住民の政治意識(生活意識)でなければいけません。その意味で、地域のしくみを決定する議会で女性が活躍できる状況をつくりだすことが不可欠です。そのためにも、住民の意識や行動が変わっていく必要がある。
男性が語る政治と女性が語る政治は、男性はすぐに安全保障とか財政赤字を話題にしがちですが、女性は生活の不安や家計の心配を問題にします。いずれも大事な問題で、深くつながっていますが、視点が全く違うのです。権力や統治という視点から考えるか、個人の尊厳や生活という視点で考えるかで、政治はまったく別のものになります。
そこで、サロンの主宰者が男女が同じテーマに向かいあえない気分になるのが、日本の「政治」の問題があるような気がすると指摘しています。女性にとっては「消費者」問題に取り組むのはたやすいが、「生活者」という意識はなかなか持ちにくいのかもしれません。「生活者」という言葉は、経世済民とつながるもので、経済の変質を考える上でもとても重要な切り口です。政治の世界もまた、生活とのつながりがとても重要だろうということです。政治家も、政治家である前に、生活者として説明しようと努力することがあって、生活と政治の溝が埋まっていくはずで、そのためにも女性が政治の場に出て行く必要があるのです。
戦争が起こったら、自らが戦場に行く覚悟も持ってそれを阻止するのか考える、あるいはオリンピックの予算が増えたら自分の家計から補てんしていくくらいの責任感をもって、つまり自らの生活とつなげて、憲法論議やオリンピック招致、あるいは海外支援を考えていくのです。
それも含めて、議員と住民の関係や首長と議員の関係、さらには地方議員と国会議員(政党)の関係など、政治のあり方を考える上では、そうした関係のあり方を考え直す必要があるように思います。税金は天引きされて、地域に配分されて使っているので、納税者としては「取られている」という気にさえなってしまいますが、どう使われるのか、決定するつもりで政治に目を向けていくといいです。
住民たちが話し合いながら、「女・子・高・生」のエネルギーを地方議会に顕在化させていこうという「運動型」の活動です。
政治は「議会」の中にあるのではなく、生活の場での日常生活の中にこそあるはずです。政治の構図を変えていくのは「生活者」としての意識をもつことなのだと改めて思います。
正確には「女・子・高・生」つまり「女性・子ども(若者)・高齢者・生活者」が政治を変えていくというテーマでした。
宇部市での実践的な女性市長を選出するという取り組みの中で体験的に女性や若者のパワーを実感し、経験的に「女・子・高・生」への期待が高まったそうで、最近はやりの「女性活用の発想」などとは全く違ったものだと、話の中でも強調されていました。
最近の女性活用などの掛け声は、政治のみならず経済の分野でも広がっていますし、制度面での整備は進んでいますが、上滑りなものも多く、実体はむしろ逆行ではないかと思うようなものもありますが、今回の宇部の実践は「男からの発想」で女性政治家を活用しようとの面白い話でした。
参加者の中には、30年以上前から女性議員を増やす活動に取り組んでいる松戸市の市会議員の中田さんをはじめ、市議や県議として今の政治を変えていこうと健闘されている2人の女性議員たちも参加(うち一人が海津)でしたが、残念ながらまだまだ「昭和の男性」たちが中心になっている地方政治の現実は変わってきたとは言えないのです。
女性市長のいる横浜市の行政職員が参加していましたが、市長が女性になったら変わってきたというお話がありました。
そういう意味では、女性議員が増えたり、首長に女性がついたりすることが、政治を変えていくことにつながっていくことはたしかですが、宇部市もそうやって女性市長になったものの首長だけでは限界があるのが見えてきました。しかも首都圏などの大都市部と地方とでは住民意識も違い、地方の政治体質はまだまだ変わっていないという話もでました。たしかに首長の力は大きいですが、それだけでは政治は変わらないでしょう。
「住民視点の政治」や「生活のための政治」を目指すのであれば、変わるべきは政治家だけではなく、住民の政治意識(生活意識)でなければいけません。その意味で、地域のしくみを決定する議会で女性が活躍できる状況をつくりだすことが不可欠です。そのためにも、住民の意識や行動が変わっていく必要がある。
男性が語る政治と女性が語る政治は、男性はすぐに安全保障とか財政赤字を話題にしがちですが、女性は生活の不安や家計の心配を問題にします。いずれも大事な問題で、深くつながっていますが、視点が全く違うのです。権力や統治という視点から考えるか、個人の尊厳や生活という視点で考えるかで、政治はまったく別のものになります。
そこで、サロンの主宰者が男女が同じテーマに向かいあえない気分になるのが、日本の「政治」の問題があるような気がすると指摘しています。女性にとっては「消費者」問題に取り組むのはたやすいが、「生活者」という意識はなかなか持ちにくいのかもしれません。「生活者」という言葉は、経世済民とつながるもので、経済の変質を考える上でもとても重要な切り口です。政治の世界もまた、生活とのつながりがとても重要だろうということです。政治家も、政治家である前に、生活者として説明しようと努力することがあって、生活と政治の溝が埋まっていくはずで、そのためにも女性が政治の場に出て行く必要があるのです。
戦争が起こったら、自らが戦場に行く覚悟も持ってそれを阻止するのか考える、あるいはオリンピックの予算が増えたら自分の家計から補てんしていくくらいの責任感をもって、つまり自らの生活とつなげて、憲法論議やオリンピック招致、あるいは海外支援を考えていくのです。
それも含めて、議員と住民の関係や首長と議員の関係、さらには地方議員と国会議員(政党)の関係など、政治のあり方を考える上では、そうした関係のあり方を考え直す必要があるように思います。税金は天引きされて、地域に配分されて使っているので、納税者としては「取られている」という気にさえなってしまいますが、どう使われるのか、決定するつもりで政治に目を向けていくといいです。
住民たちが話し合いながら、「女・子・高・生」のエネルギーを地方議会に顕在化させていこうという「運動型」の活動です。
政治は「議会」の中にあるのではなく、生活の場での日常生活の中にこそあるはずです。政治の構図を変えていくのは「生活者」としての意識をもつことなのだと改めて思います。
2018年10月23日
碑文を残す意味
我孫子には、多くの史跡があるのに碑文を立てることが少ないと、都内でガイドをされる方にご指摘をうける。
お金をかけて碑文、説明文がなくても思っていたが、やはりその方が言われるように考えなくてはいけないと、つと思うようになった。
ご本人が、我がことを後々につたえようと顕彰碑を建てようとするのが一つかと思うけれど、未来に伝える意思があってされたことなのか、名誉欲なのか、それは後世の人が計ることだろう。いくら学んでも知らない事のほうが多いが、知って損はないし、またその事が発展のきっかけになることも多いと思う。
*ニューオータニで、娘夫婦が結婚披露をした折に、上記は庭園を散策していて見つけました。オリンピックという国家事業への貢献を考えてホテルを作ったことが分かります。
お金をかけて碑文、説明文がなくても思っていたが、やはりその方が言われるように考えなくてはいけないと、つと思うようになった。
ご本人が、我がことを後々につたえようと顕彰碑を建てようとするのが一つかと思うけれど、未来に伝える意思があってされたことなのか、名誉欲なのか、それは後世の人が計ることだろう。いくら学んでも知らない事のほうが多いが、知って損はないし、またその事が発展のきっかけになることも多いと思う。
*ニューオータニで、娘夫婦が結婚披露をした折に、上記は庭園を散策していて見つけました。オリンピックという国家事業への貢献を考えてホテルを作ったことが分かります。
2018年10月22日
2018年10月21日
晴天のもと、産業まつり
我孫子市産業まつりは、第37回になる。市内企業のPRコーナーをはじめ、市内の商店などによる青空市やステージイベントなど催し物が盛りだくさんのおまつりで、湖北中央公園には多数の人が集まって賑わうが、私も市議になるまでは覗いてみたことがなかったが、家族連れで週末にいくにもいいイベントです。このおまつりから我孫子の産業を盛り上げよう!イベントを支えるのは市民のボランティアなので、それも素晴らしい。いくらテントを準備していても荒天中止となるし、雨の降った翌日だったなどの時は公園敷地内なので足元がぐずつくこともあった。今年は秋晴れの中で最高に清々しい!! もっと、たくさんの人にも知ってもらえるように声を大にして、お知らせした方が「いいね!我孫子」になると思う。
ウルトラマンの周りをミニュチュアSLが走るジオラマもありました。圧巻です!
宇宙開発に携わった松本産業(ねじ)の松本さんともしばし、嘉納治五郎農園について語らいました!!
ウルトラマンの周りをミニュチュアSLが走るジオラマもありました。圧巻です!
宇宙開発に携わった松本産業(ねじ)の松本さんともしばし、嘉納治五郎農園について語らいました!!
2018年10月20日
布佐小学校で防災訓練
市内の防災組織、婦人消防クラブなどが布佐小学校の校庭に介して、防災訓練を行ったので、市議会議員も来賓席に集合した。このところ各地であいづぐ災害もあって、近年に工夫をこらされ開発された、閣議業の防災グッズ展示のテントも幾張かあって参考になった。3Dメガネをかけて、土石流の疑似体験ができる特殊カーもあって、海津にいなも布佐小学校の生徒さん、先生と共にメガネをかけて体験した。
秋晴れの校庭で、元気に遊ぶ男の児ををつれて、参加しているお母さんと帰り際に子育て談義ができたのも収穫だった。
備えあれば憂いなし、帰りに、新木駅脇に新しくできたKASUMIスーパーで、非常食用にカップ麺を買い、さらにアビコンによって、また買い足した! 明日は、湖北の産業まつり、来週は手賀沼マラソン、と秋の行事が続いている。
秋晴れの校庭で、元気に遊ぶ男の児ををつれて、参加しているお母さんと帰り際に子育て談義ができたのも収穫だった。
備えあれば憂いなし、帰りに、新木駅脇に新しくできたKASUMIスーパーで、非常食用にカップ麺を買い、さらにアビコンによって、また買い足した! 明日は、湖北の産業まつり、来週は手賀沼マラソン、と秋の行事が続いている。
2018年10月19日
日本と海外の掃除比較
ドイツの掃除機機最大手メーカーのKarcher(ケルヒャー)が、世界9カ国を対象に掃除に関する意識調査をしたところ、1週間の掃除時間が最も短い国は日本(1.09時間)だったという。また、家が清潔であることの重要性について聞いたところ、平均94%が「重要だ」と回答したのに対し、日本は74%と、9カ国中最も低かった。
最も掃除時間が長かったのはロシアで、3.05時間と日本の3倍近く。次いでポーランド(2.40時間)、ブラジル(2.25時間)、中国(2.19時間)、ドイツ(2.17時間)、イギリス(2.15時間)――と続いた。さらに日本でのみ家事代行サービスの利用についても調査したところ、90%が「利用したことがない」ことが判明。また、掃除ロボット掃除機の使用率も日本は14%と、平均(17%)を下回った。日本人は外国人と比べて、ロボットや家事代行に頼らず自ら掃除する人が多い。同社は「欧米とは異なり、日本は土足文化がない。各国によって『清潔さ』の概念が違うのかもしれない」と分析する。
調査は5月24日〜6月6日にかけて、世界9カ国(米国、英国、中国、ドイツ、日本、フランス、ブラジル、ポーランド、ロシア)の18〜65歳を対象にインターネット上で実施。1000件以上の有効回答を得た。
出典:メディアビジネスONLINE
最も掃除時間が長かったのはロシアで、3.05時間と日本の3倍近く。次いでポーランド(2.40時間)、ブラジル(2.25時間)、中国(2.19時間)、ドイツ(2.17時間)、イギリス(2.15時間)――と続いた。さらに日本でのみ家事代行サービスの利用についても調査したところ、90%が「利用したことがない」ことが判明。また、掃除ロボット掃除機の使用率も日本は14%と、平均(17%)を下回った。日本人は外国人と比べて、ロボットや家事代行に頼らず自ら掃除する人が多い。同社は「欧米とは異なり、日本は土足文化がない。各国によって『清潔さ』の概念が違うのかもしれない」と分析する。
調査は5月24日〜6月6日にかけて、世界9カ国(米国、英国、中国、ドイツ、日本、フランス、ブラジル、ポーランド、ロシア)の18〜65歳を対象にインターネット上で実施。1000件以上の有効回答を得た。
出典:メディアビジネスONLINE
2018年10月18日
70才ジュリー、ファンが全国に待機
それは、17日に国内最大級のさいたまアリーナのコンサートを、あのジュリーと呼ばれた歌手・沢田研二がドタキャンしたと、久々に貴社にとりかこまれた取材に姿を見せて各局の話題になった出来事がネット上でもかなり取り上げられたことに始まった。それにジュリーファンも応じて、「今まで色々な出来事や、事件、事故があったが、今回のドタキャンで取材に応じる事になったのが51年間で一番こたえています」などという。
集まった記者の前で、多少憔悴気味に見える沢田研二は頭をさげ、「さいたまスーパーアリーナでやる実力がなかった。ファンに申し訳なく思ってます。責任は僕にあります。これから取り戻せるようにできるだけしていきたい」と謝罪した。その日、開場時間の午後3時半まで事務所、イベンター会社から予定通り開催するように懇願され、押し問答となったが、最後まで首をたてに振らなかった。「今回はできませんと1分でも早くお客さんに伝えてほしかった。僕が帰らないと収まらないならと、3時45分くらいに帰った」と説明した。謝罪会見のジュリーの画像は、いつもとは違い、元気がなくうなだれ、白髪の力ない老人の姿になっていた。だから、余計に哀しい、ファンとして見ていてつらいと書いている。沢田研二も記者に語りながら、自らの歌手人生に後がないのだなどと、さすがに70才としての老いを語る言葉があった。
中止の詳細について、「動員に関する契約上の問題だった」と説明。本番前のリハーサルでモニターを見た時、座席が置けるのに置いておらず、観客が座れないように客席がつぶされているブロックが「6か所くらいあった」こと気づいた。ジュリーは小規模の会場での公演も全国で廻ってきているが、ハコにたいして客席の空間が目立つ状態でやるのは酷なこと。そのため最初から『ライブをやるならいっぱいにしてくれ、無理なら断ってくれ』と言ってきた。イベンターには集客の努力を士てほしかったし、それが無理なら早い時点でそう言って断ってくれればよかった。そういう意思を伝えてある以上、履行されないなら、僕としても意地がある、皆様には申し訳ないが、自身がこれではできないと中止を決断したことを明かした。同会場は客席が可動式で、規模によって約1万人から最大で3万7000人まで収容可能。開演前に所属事務所、イベンター会社から集客状況について「9000人と聞いていたが、実際は7000人だった」と知らされた。ジュリーとしたら、話が違うとなってきた、「できると踏んだが、僕に実力がなかったのが一番。(イベンターが)無理ですよねと言ってくれれば、早めに中止もできたが、今回は当日まで知らされなかった」つまり、主催者である沢田研二にリスペクトがなかったと感じてきて「事務所もイベンターもやりたいと言ったが、僕には酷だ。老人虐待ですよ」との言葉になった。
さらに、ファンには「今回は(意地を通して迷惑かける事になるが)ちょっと助けてもらいたい。甘えさせてもらいたい。代替公演などできるだけのことはしたい」とはなした。「意地」という言葉を6回も繰り返した。お客は彼がファンを集めて成り立ってきているのだから、分かってくれてついてきてくれると信じている、だけれどそうした意地でどこまで、今の時代のイベンターにもプロとして通じるかと、不安になってきたという事なのだろうか。しかし、入場者数を席を設けない可動式アリーナで、沢田としては2000も胡麻化されていると感じた、大スターだからって言っても昔の話で、元から埋められるわけがないと思われてるって風で、兎も角ハコを狭め興行としてペイすればいい、そういう発想、対応でいた現場スタッフの対応に最後にきて許せないとなった。筋が通らないとキレるのはは未だ健在だったということだ。沢田自身は芸能人としてのキャリアも長いから、致命傷になりかねないのも分かっていて、70歳にして相変わらずジュリーのポリシーを持ち続けて、頑張ってしまったという事だ。損得より、自分らしさを貫いてきたから、彼をジュリーとして愛するファンに分ってもらいたいと言ったのだ。開場時間の午後3時半まで事務所、イベンター会社から予定通り開催するように懇願され、押し問答となったが最後まで首をたてに振らなかった。そういう意地をみせる事が出来た。「今回はできませんと1分でも早くお客さんに伝えてほしかった。僕が帰らないと収まらないならと、3時45分くらいに帰った」と説明した。
現代の人気もの「嵐」は5人組、2008年以降は、5大ドームツアー+国立競技場のツアーがメインになっています。コンサートの日程が決まれば、ファンクラブに入会している人には申し込み案内(振込用紙)が送られて、嵐ファンクラブ会員は91万人を越えています。ファンクラブに入会していても、それでもかなりの方々がチケットを手に出来ないらしい。国立公演しか一般販売はありませんでしたし、一般ではまず電話が繋がりません。その為、ファンクラブに入会していなければチケットが取れる確率はほぼ0%だと言われる。その嵐のコンサートツアーでも、国立4日間、京セラ3日間、札幌2日間、東京3日間、名古屋2日間、福岡2日間の合計で16回コンサートをして、86万人動員で、比べてみるにもスタイルが違うが、沢田研二として過去現在、観客動員も引けをとらないで、自主興行でやり続けているのは凄いの一語だ。
男でも女でも、特に若い時に美し過ぎる人にとって、老いは酷だなと思える。それほど、20代のジュリーは、周囲にいる人をゾックとさせるほどの稀な美しさがあった。その人気ぶりは海外の雑誌・ローリングストーン誌にも取り上げられた。ある同年代の女性歌手は、「自ら意地があると言うなら、もっと痩せて、見に来てもらえば」などと、カーネルオジさんと見間違えるけどになった70歳のジュリーに苦言を呈する。しかし、そうした過去の自分と決別、培った歌手としての地震、ミスからのプロデュースで50年もコンサートで全国の主だった会場を押え、ファンがそれだけ集まるのが凄いと、そのカリスマにもなるほど!なのだが、高齢化するファンの足が遠のけば、どうやって集客を減らさないで盛り上げられるか、プロとしての興行になるか、大規模な同窓会を続けているだけなのか、アーティストとして瀬戸際に立たされている。老人虐めなどと言わず、皆さん若いからなどと言わず、沢田研二の80才へのラストスパートを魅せて頂きたい。因みに、海津にいなはB4のファンだから、当時の日本の歌謡界は興味がなかったが、それでも「憎み切れないろくでなし」「TOKIO」は耳に残っていて、改めてジュリーを聞いて見ると面白いと思う。
そこで古株のファンのブログを見たりすると、次のように言っているのが目にはいった。
ジュリーも自分の口から言わないと収拾がつかないと思ったんでしょうね。
7000人〜入るって凄い事やん。それだけじゃなくて、それを60カ所こなすパッションを持ち続けているのもジュリーの凄さだ
「アリーナを埋める能力がなかったなどという事は
ないのに、これしか言い方なかったんだろう、
言い訳じみた事になるんが嫌やったんやろうな・・
真をついているから辛い言葉や。
正直にもほどがあるって言いたいけど
正直に言うわな・・ジュリーやもん。
次に控えている大阪の狭山での会場まで追いかけられるしな・・
会場に来てるファンにも、迷惑かかると思いはったんやろな。
こういう性格は、生きにくいで。
やろうと思えば、7000人の前で、さいたまアリーナでやりましたと言えたんやから。
それを、目をつぶって、出来ないのがジュリー
自分の中の「意地」の塊。崩されへんねん。そういう時にへこたれへんのが70歳にして、昔と変わらないジュリー
だから、ファンがそこについてくる、その真っ正直に歌を聴いて欲しいとステージで全開する
そういう変わらないところが、容姿なんかじゃなくて惚れるねん
そんな強がり、だれでも出来るもんじゃない、潔いキレてるカッコよさが他にはない、
ステージでマジになる瞬間に触れる だから貴重なん
聞くところによると、「狭山」のチケット
凄い速さで売れてるらしい・・(完売した)
そこで、何かジュリーが言うてくれるの期待してるんかな?
満員じゃないと、ジュリーは辞める・・
辞めるという事は・・ジュリーが見れない・・
行かなアカンがな・・ガーン
昨日から今日にかけて、大変やったなぁ・・ショック!
ジュリーが一番、大変やけど・・
ジュリー本人が下した答えやから
まぁ仕方無いとして。
ファンの人達も大変でしたよね。
遠いとこから来る方も沢山居たでしょ・・
帰れないからお泊りの方も・・
もちろん、昔からファンというのでなくて、「一回見ときたかった・・」と
チケット取られた方もいてるやろうし。
めまぐるしい1日でしたね。
でも、会場に来た方たちは、騒ぎもせず
「ジュリーとカズさんが無事で良かった」と。
「仕方無いね・・」と帰って行ったって・・凄い事。
文句の1つも言いたいやろうに・・むっ
大きい心で、ジュリーを包んでいるのが往年のジュリーファンには頭が下がります。
ジュリーも幸せ者やと思います。
ほんまに長い2日間やったなぁ・・って・・
今日会見したから、またワイドショー
賑わうかな・・賑わうやろな・・
明日で最後にしてほしいよな・・・ショック!
終り・・にしてほしい
華奢で、色男に見えるジュリーだが、沢田研二はキレきれの男だった。
彼は常に、死ぬ気で勝負に出る、だからステージに立つ。
そういうミッションでステージを考えているのを、たまアリーナのイベンターは興行なのだから
入ればいいと甘くみていた。70歳、古希祝のレベルだと馬鹿にしていた節を見逃さなかったジュリーとしての
プロ意識が抗議させたということ、ファンにとってはだんだんに盛り上がっていくのではと思えてきた。
半世紀も、多くの人をひきつける魅力の持ち主とは、ただ事ではないと思うし、『我が窮状(九条)』なる曲も作詞して歌っていたのを知って、改めてどういう歌手なのかとそそられている。まるで、ジョンレノンとデビットボウイを掛け算したロック野郎だったのか・・・。
芸能界の異端児、ジュリー・沢田研二、ガンバッテ〜 ♪
つづき
集まった記者の前で、多少憔悴気味に見える沢田研二は頭をさげ、「さいたまスーパーアリーナでやる実力がなかった。ファンに申し訳なく思ってます。責任は僕にあります。これから取り戻せるようにできるだけしていきたい」と謝罪した。その日、開場時間の午後3時半まで事務所、イベンター会社から予定通り開催するように懇願され、押し問答となったが、最後まで首をたてに振らなかった。「今回はできませんと1分でも早くお客さんに伝えてほしかった。僕が帰らないと収まらないならと、3時45分くらいに帰った」と説明した。謝罪会見のジュリーの画像は、いつもとは違い、元気がなくうなだれ、白髪の力ない老人の姿になっていた。だから、余計に哀しい、ファンとして見ていてつらいと書いている。沢田研二も記者に語りながら、自らの歌手人生に後がないのだなどと、さすがに70才としての老いを語る言葉があった。
中止の詳細について、「動員に関する契約上の問題だった」と説明。本番前のリハーサルでモニターを見た時、座席が置けるのに置いておらず、観客が座れないように客席がつぶされているブロックが「6か所くらいあった」こと気づいた。ジュリーは小規模の会場での公演も全国で廻ってきているが、ハコにたいして客席の空間が目立つ状態でやるのは酷なこと。そのため最初から『ライブをやるならいっぱいにしてくれ、無理なら断ってくれ』と言ってきた。イベンターには集客の努力を士てほしかったし、それが無理なら早い時点でそう言って断ってくれればよかった。そういう意思を伝えてある以上、履行されないなら、僕としても意地がある、皆様には申し訳ないが、自身がこれではできないと中止を決断したことを明かした。同会場は客席が可動式で、規模によって約1万人から最大で3万7000人まで収容可能。開演前に所属事務所、イベンター会社から集客状況について「9000人と聞いていたが、実際は7000人だった」と知らされた。ジュリーとしたら、話が違うとなってきた、「できると踏んだが、僕に実力がなかったのが一番。(イベンターが)無理ですよねと言ってくれれば、早めに中止もできたが、今回は当日まで知らされなかった」つまり、主催者である沢田研二にリスペクトがなかったと感じてきて「事務所もイベンターもやりたいと言ったが、僕には酷だ。老人虐待ですよ」との言葉になった。
さらに、ファンには「今回は(意地を通して迷惑かける事になるが)ちょっと助けてもらいたい。甘えさせてもらいたい。代替公演などできるだけのことはしたい」とはなした。「意地」という言葉を6回も繰り返した。お客は彼がファンを集めて成り立ってきているのだから、分かってくれてついてきてくれると信じている、だけれどそうした意地でどこまで、今の時代のイベンターにもプロとして通じるかと、不安になってきたという事なのだろうか。しかし、入場者数を席を設けない可動式アリーナで、沢田としては2000も胡麻化されていると感じた、大スターだからって言っても昔の話で、元から埋められるわけがないと思われてるって風で、兎も角ハコを狭め興行としてペイすればいい、そういう発想、対応でいた現場スタッフの対応に最後にきて許せないとなった。筋が通らないとキレるのはは未だ健在だったということだ。沢田自身は芸能人としてのキャリアも長いから、致命傷になりかねないのも分かっていて、70歳にして相変わらずジュリーのポリシーを持ち続けて、頑張ってしまったという事だ。損得より、自分らしさを貫いてきたから、彼をジュリーとして愛するファンに分ってもらいたいと言ったのだ。開場時間の午後3時半まで事務所、イベンター会社から予定通り開催するように懇願され、押し問答となったが最後まで首をたてに振らなかった。そういう意地をみせる事が出来た。「今回はできませんと1分でも早くお客さんに伝えてほしかった。僕が帰らないと収まらないならと、3時45分くらいに帰った」と説明した。
現代の人気もの「嵐」は5人組、2008年以降は、5大ドームツアー+国立競技場のツアーがメインになっています。コンサートの日程が決まれば、ファンクラブに入会している人には申し込み案内(振込用紙)が送られて、嵐ファンクラブ会員は91万人を越えています。ファンクラブに入会していても、それでもかなりの方々がチケットを手に出来ないらしい。国立公演しか一般販売はありませんでしたし、一般ではまず電話が繋がりません。その為、ファンクラブに入会していなければチケットが取れる確率はほぼ0%だと言われる。その嵐のコンサートツアーでも、国立4日間、京セラ3日間、札幌2日間、東京3日間、名古屋2日間、福岡2日間の合計で16回コンサートをして、86万人動員で、比べてみるにもスタイルが違うが、沢田研二として過去現在、観客動員も引けをとらないで、自主興行でやり続けているのは凄いの一語だ。
男でも女でも、特に若い時に美し過ぎる人にとって、老いは酷だなと思える。それほど、20代のジュリーは、周囲にいる人をゾックとさせるほどの稀な美しさがあった。その人気ぶりは海外の雑誌・ローリングストーン誌にも取り上げられた。ある同年代の女性歌手は、「自ら意地があると言うなら、もっと痩せて、見に来てもらえば」などと、カーネルオジさんと見間違えるけどになった70歳のジュリーに苦言を呈する。しかし、そうした過去の自分と決別、培った歌手としての地震、ミスからのプロデュースで50年もコンサートで全国の主だった会場を押え、ファンがそれだけ集まるのが凄いと、そのカリスマにもなるほど!なのだが、高齢化するファンの足が遠のけば、どうやって集客を減らさないで盛り上げられるか、プロとしての興行になるか、大規模な同窓会を続けているだけなのか、アーティストとして瀬戸際に立たされている。老人虐めなどと言わず、皆さん若いからなどと言わず、沢田研二の80才へのラストスパートを魅せて頂きたい。因みに、海津にいなはB4のファンだから、当時の日本の歌謡界は興味がなかったが、それでも「憎み切れないろくでなし」「TOKIO」は耳に残っていて、改めてジュリーを聞いて見ると面白いと思う。
そこで古株のファンのブログを見たりすると、次のように言っているのが目にはいった。
ジュリーも自分の口から言わないと収拾がつかないと思ったんでしょうね。
7000人〜入るって凄い事やん。それだけじゃなくて、それを60カ所こなすパッションを持ち続けているのもジュリーの凄さだ
「アリーナを埋める能力がなかったなどという事は
ないのに、これしか言い方なかったんだろう、
言い訳じみた事になるんが嫌やったんやろうな・・
真をついているから辛い言葉や。
正直にもほどがあるって言いたいけど
正直に言うわな・・ジュリーやもん。
次に控えている大阪の狭山での会場まで追いかけられるしな・・
会場に来てるファンにも、迷惑かかると思いはったんやろな。
こういう性格は、生きにくいで。
やろうと思えば、7000人の前で、さいたまアリーナでやりましたと言えたんやから。
それを、目をつぶって、出来ないのがジュリー
自分の中の「意地」の塊。崩されへんねん。そういう時にへこたれへんのが70歳にして、昔と変わらないジュリー
だから、ファンがそこについてくる、その真っ正直に歌を聴いて欲しいとステージで全開する
そういう変わらないところが、容姿なんかじゃなくて惚れるねん
そんな強がり、だれでも出来るもんじゃない、潔いキレてるカッコよさが他にはない、
ステージでマジになる瞬間に触れる だから貴重なん
聞くところによると、「狭山」のチケット
凄い速さで売れてるらしい・・(完売した)
そこで、何かジュリーが言うてくれるの期待してるんかな?
満員じゃないと、ジュリーは辞める・・
辞めるという事は・・ジュリーが見れない・・
行かなアカンがな・・ガーン
昨日から今日にかけて、大変やったなぁ・・ショック!
ジュリーが一番、大変やけど・・
ジュリー本人が下した答えやから
まぁ仕方無いとして。
ファンの人達も大変でしたよね。
遠いとこから来る方も沢山居たでしょ・・
帰れないからお泊りの方も・・
もちろん、昔からファンというのでなくて、「一回見ときたかった・・」と
チケット取られた方もいてるやろうし。
めまぐるしい1日でしたね。
でも、会場に来た方たちは、騒ぎもせず
「ジュリーとカズさんが無事で良かった」と。
「仕方無いね・・」と帰って行ったって・・凄い事。
文句の1つも言いたいやろうに・・むっ
大きい心で、ジュリーを包んでいるのが往年のジュリーファンには頭が下がります。
ジュリーも幸せ者やと思います。
ほんまに長い2日間やったなぁ・・って・・
今日会見したから、またワイドショー
賑わうかな・・賑わうやろな・・
明日で最後にしてほしいよな・・・ショック!
終り・・にしてほしい
華奢で、色男に見えるジュリーだが、沢田研二はキレきれの男だった。
彼は常に、死ぬ気で勝負に出る、だからステージに立つ。
そういうミッションでステージを考えているのを、たまアリーナのイベンターは興行なのだから
入ればいいと甘くみていた。70歳、古希祝のレベルだと馬鹿にしていた節を見逃さなかったジュリーとしての
プロ意識が抗議させたということ、ファンにとってはだんだんに盛り上がっていくのではと思えてきた。
半世紀も、多くの人をひきつける魅力の持ち主とは、ただ事ではないと思うし、『我が窮状(九条)』なる曲も作詞して歌っていたのを知って、改めてどういう歌手なのかとそそられている。まるで、ジョンレノンとデビットボウイを掛け算したロック野郎だったのか・・・。
芸能界の異端児、ジュリー・沢田研二、ガンバッテ〜 ♪
つづき
2018年10月17日
自己投資と仲間たちが、ツキを呼ぶ!!
杉山大輔 『運を動かせ』ディスカヴァー
『多くの成功した先輩方と会うと気づくのですが、とてもシンプルなコンセプトだけれど、誰もが続けていることがあります。みなさん自分を信じ、自分に投資することを当たり前に続けているのです。
年齢問わず、常に新しいことを学ぼうとする姿勢が大事です。 自己投資をやめた瞬間に自分の成長は止まります。 年齢に関係なく、貯金よりも自分にどれだけ投資しているかがポイントです。そうして自己能力を鍛えれば、お金は後からいくらでもついてきます。 貯金があっても能力を鍛えないと成長はありません。
事業においては、素晴らしいお店や繁盛店を見て感動することは大事。ただ、感動するだけで終わってしまったら、それはお客と同じ。プロなら、感動させる側にまわらなければならない。どこかのお店や、誰かのファンになって応援することはとても楽しいし尊い。しかし、プロなら、応援してくれる人、ファンをつくらなければならない。プロとはお金を稼げる人。プロになるためには、自己投資が必要だ。「自己投資は運を呼ぶ」
だから、プロである限り、死ぬまでずっと続く。
自分が自分のことを信じていなければ、誰が自分のことを信じてくれるでしょうか?
自信をつくるための自己投資ほど自分に返ってくるものはありません。そのための自己投資を365日毎日、生きている年数、続けることで、たとえどんなことが起きても自分で対応することができるようになります。そして、仲間も自分の財産の重要な一部です。
所属している会社から離れたときに自分にどれだけの人がついてくるのか?それがポイントです。
地位をなくしても、肩書がなくなっても、自分というブランドと特徴があればまた頑張ることができる。そこに仲間が加われば、怖いものはありません。そのような人は世界中のどこに行っても、どんな職種・職業でも怖いものはないはずです。学んで頭の中に入れた知識や、体験を通して得た経験こそが最も重要な財産になります。
『多くの成功した先輩方と会うと気づくのですが、とてもシンプルなコンセプトだけれど、誰もが続けていることがあります。みなさん自分を信じ、自分に投資することを当たり前に続けているのです。
年齢問わず、常に新しいことを学ぼうとする姿勢が大事です。 自己投資をやめた瞬間に自分の成長は止まります。 年齢に関係なく、貯金よりも自分にどれだけ投資しているかがポイントです。そうして自己能力を鍛えれば、お金は後からいくらでもついてきます。 貯金があっても能力を鍛えないと成長はありません。
事業においては、素晴らしいお店や繁盛店を見て感動することは大事。ただ、感動するだけで終わってしまったら、それはお客と同じ。プロなら、感動させる側にまわらなければならない。どこかのお店や、誰かのファンになって応援することはとても楽しいし尊い。しかし、プロなら、応援してくれる人、ファンをつくらなければならない。プロとはお金を稼げる人。プロになるためには、自己投資が必要だ。「自己投資は運を呼ぶ」
だから、プロである限り、死ぬまでずっと続く。
自分が自分のことを信じていなければ、誰が自分のことを信じてくれるでしょうか?
自信をつくるための自己投資ほど自分に返ってくるものはありません。そのための自己投資を365日毎日、生きている年数、続けることで、たとえどんなことが起きても自分で対応することができるようになります。そして、仲間も自分の財産の重要な一部です。
所属している会社から離れたときに自分にどれだけの人がついてくるのか?それがポイントです。
地位をなくしても、肩書がなくなっても、自分というブランドと特徴があればまた頑張ることができる。そこに仲間が加われば、怖いものはありません。そのような人は世界中のどこに行っても、どんな職種・職業でも怖いものはないはずです。学んで頭の中に入れた知識や、体験を通して得た経験こそが最も重要な財産になります。
2018年10月16日
二つの不安に乱高下する、日経平均
2018年の日経平均は、2つの不安に振り回されて、乱高下している。
一つは貿易戦争がエスカレートして世界景気が悪化する不安と、もう一つは米金利上昇で世界の金融市場が悪影響を受ける不安である。
日経平均も、この2つの不安の高まりに連動して売られ、不安が緩和すると買われる展開が続いている。
2018年2月2日に最初の金利上昇ショック、今10月12日には2度目の米長期金利上昇ショックで世界株安となり、日経平均も売られた。
先週の日経平均株価は、1週間で1089円下落し2万2694円となった。
米長期金利(10年国債利回り)が一時、3.2%台に乗せたことをきっかけにNYダウが急落し、
つれて世界的に株が売られ、日経平均も急落したと構図だ。
16日には、ニューヨーク株式相場は、米主要企業の好決算などを手掛かりに急反発した。
優良株で構成するダウ工業株30種平均は全面高となり、前日終値比547.87ドル高の2万5798.42ドル(暫定値)で引けた。
ハイテク株中心のナスダック総合指数は同214.75ポイント高の7645.49だった。
参照:【ニューヨーク時事】
一つは貿易戦争がエスカレートして世界景気が悪化する不安と、もう一つは米金利上昇で世界の金融市場が悪影響を受ける不安である。
日経平均も、この2つの不安の高まりに連動して売られ、不安が緩和すると買われる展開が続いている。
2018年2月2日に最初の金利上昇ショック、今10月12日には2度目の米長期金利上昇ショックで世界株安となり、日経平均も売られた。
先週の日経平均株価は、1週間で1089円下落し2万2694円となった。
米長期金利(10年国債利回り)が一時、3.2%台に乗せたことをきっかけにNYダウが急落し、
つれて世界的に株が売られ、日経平均も急落したと構図だ。
16日には、ニューヨーク株式相場は、米主要企業の好決算などを手掛かりに急反発した。
優良株で構成するダウ工業株30種平均は全面高となり、前日終値比547.87ドル高の2万5798.42ドル(暫定値)で引けた。
ハイテク株中心のナスダック総合指数は同214.75ポイント高の7645.49だった。
参照:【ニューヨーク時事】
2018年10月15日
千葉で二人目なる女性市長誕生
14日に投開票された君津市長選では、無所属新人で元県議の石井宏子さん(53)が、いずれも無所属新人で元県職員の渡辺吉郎さん(61)=自民、公明推薦=と、元市議の安藤敬治さん(70)を破り、初当選を果たした。石井さんは同日夜、「市民の皆さんと対話を重ね、身近で開かれた市役所にし、政策を一つ一つ実現したい」と抱負を語った。
市では初の女性市長で、県内でも2008年の白井市長選以来、二人目の女性市長誕生となった。
「市民の支えで愚直に政策を訴え、市民の志が集まった結果」。当選の知らせを受け、事務所近くで開かれた当選祝賀会で石井さんは、支持者から花束を受け取り、喜びをかみしめた。
公約に掲げた小櫃川源流域にある産業廃棄物最終処分場の増設中止については、「あらゆる方策を市民の皆さんと考えながら早急に対応したい」と話した。「県全体の女性活躍の意識は高まると思う。期待して票を投じてくれた女性も多いと思っているので、大切にしたい」とも語った。
石井さんは小中学校の元音楽教諭。市議、県議を計十五年間務めた。選挙戦では連合千葉などの支援を受けた。
出典:東京新聞
市では初の女性市長で、県内でも2008年の白井市長選以来、二人目の女性市長誕生となった。
「市民の支えで愚直に政策を訴え、市民の志が集まった結果」。当選の知らせを受け、事務所近くで開かれた当選祝賀会で石井さんは、支持者から花束を受け取り、喜びをかみしめた。
公約に掲げた小櫃川源流域にある産業廃棄物最終処分場の増設中止については、「あらゆる方策を市民の皆さんと考えながら早急に対応したい」と話した。「県全体の女性活躍の意識は高まると思う。期待して票を投じてくれた女性も多いと思っているので、大切にしたい」とも語った。
石井さんは小中学校の元音楽教諭。市議、県議を計十五年間務めた。選挙戦では連合千葉などの支援を受けた。
出典:東京新聞
2018年10月14日
運が50%
さいとう・たか 『鬼平流』(出版社:宝島)が次のように、成功するために運が必要だと著している。
才能がモノをいう世界で活躍できるかは、才能があってこそだが、それを世に知られるために「運」が大きくかかわっていると伝えている。
面白い人生とさして何事もない人生がある、しかし、苦しいだけの人生も運なのだろうか。生まれた時から虐待を受けて亡くなる乳幼児などの話を聞くと、人間らしさとは獣でおわらない為の教育をうけていないと法も情もない生き方をすることになる人々もいてしまうのだろうと考えさせられる、秋の夜長のこの頃だ。
============
私は仕事についてすべて計算ずくで行うが、ヒット作品というものはだいたい苦労に比例しない。
悩んで、悩んで、悩み抜いて考えてつくった作品があまり売れなかったり、ふとした瞬間に閃(ひらめ)いたキャラクターがヒットしたりする。この仕事についていえば、私は20%の才能と、30%の努力と、50%の運だと思っている。
運とは、その人の行動について回ったり、離れたりするもの。
その運が見えた人、運をつかめる体制になれる人が成功する。
成功といっても運が50%を占めている、成功し続ける人間は一握りだ。
才能があってもプロ意識を持たずに努力をしなければやはり運を継続できない。
裏返すと 才能もあって、努力をして、それでも運をつかめなければ成功できないという事がある。
私自身でいえば、非常に幸運な人間だ。
まず、この仕事に気がついたこと、つまり絵で大好きな映画と同じようなことができる、と気がついたことがそもそもの運だ。
これはものすごい強運だと思っている。
私はこの仕事の可能性について、気づくことができた。
そしてそれに気がついたからこそ、運を引き寄せるようになった。
しかし、考えて、考えて、考えても気づけない場合もあるだろう。
そのような人は結局運がなかったということになる。
ただ何もしていなくても運を呼ぶことはできない。
30%の努力が土台となって、さらに20%の才能があって、50%の運を呼ぶことができるのだ。
運が50%を占めることを述べたが、だからといって運のせいにしたり、悪運を嘆いたりすることに意味はない。
しかも運というのは、運をつかんでいることに気がつかない場合が多い。
私のこれまでの人生の中でも、振り返ってみて、あの時はこういう運だったと、歳を重ねてからわかることが実に多い。
人との出会いなど運ばかりだ。 私の場合はあれも運だった、これも運だったと、運がついて回っていた。
なにせ半分が運なのだからそれも当たり前といえば、当たり前だ。
しかし、私は運が悪かったと思っても仕方ない、と考えている。
自分を幸せにしてやれるのは自分しかいない。
だから自分の考え方次第で、幸せが決まる。
そもそも五体満足に生まれてきたことが大きな幸運だ。
私は過去に、網膜剥離の手術を行い、糖尿病を患った。
だから、毎日を元気に過ごせること自体が奇跡だと私は思っている。
私は良いことも悪いことも正面から受け止めるようにしている。
そして幸運には感謝し、悪運を忘れるようにしている。
悪い運だけではない。
私は描いたものもすべて忘れるようにしている。
そうしなければ、新しいものが出てこないし、新しいものを描く意欲がそがれてしまうからだ。
自分の置かれた境遇、直面した運、出会った人、これらのせいにして自分の不幸の原因のあら探しをするのではなく、自分の価値観を持って幸福を感じ取ることを考えたほうがいいに決まっている。
仕事での苦しみや悩みは尽きることがないし、時として運が悪いことに出くわすことがある。
それでも私は、苦境もまたエネルギー源として捉えて、苦境に立つ自分を楽しみさえした。
不運を不幸だと考える必要などないのだ。
だから私はそもそも不幸だと思ったことは一度もない。
才能がモノをいう世界で活躍できるかは、才能があってこそだが、それを世に知られるために「運」が大きくかかわっていると伝えている。
面白い人生とさして何事もない人生がある、しかし、苦しいだけの人生も運なのだろうか。生まれた時から虐待を受けて亡くなる乳幼児などの話を聞くと、人間らしさとは獣でおわらない為の教育をうけていないと法も情もない生き方をすることになる人々もいてしまうのだろうと考えさせられる、秋の夜長のこの頃だ。
============
私は仕事についてすべて計算ずくで行うが、ヒット作品というものはだいたい苦労に比例しない。
悩んで、悩んで、悩み抜いて考えてつくった作品があまり売れなかったり、ふとした瞬間に閃(ひらめ)いたキャラクターがヒットしたりする。この仕事についていえば、私は20%の才能と、30%の努力と、50%の運だと思っている。
運とは、その人の行動について回ったり、離れたりするもの。
その運が見えた人、運をつかめる体制になれる人が成功する。
成功といっても運が50%を占めている、成功し続ける人間は一握りだ。
才能があってもプロ意識を持たずに努力をしなければやはり運を継続できない。
裏返すと 才能もあって、努力をして、それでも運をつかめなければ成功できないという事がある。
私自身でいえば、非常に幸運な人間だ。
まず、この仕事に気がついたこと、つまり絵で大好きな映画と同じようなことができる、と気がついたことがそもそもの運だ。
これはものすごい強運だと思っている。
私はこの仕事の可能性について、気づくことができた。
そしてそれに気がついたからこそ、運を引き寄せるようになった。
しかし、考えて、考えて、考えても気づけない場合もあるだろう。
そのような人は結局運がなかったということになる。
ただ何もしていなくても運を呼ぶことはできない。
30%の努力が土台となって、さらに20%の才能があって、50%の運を呼ぶことができるのだ。
運が50%を占めることを述べたが、だからといって運のせいにしたり、悪運を嘆いたりすることに意味はない。
しかも運というのは、運をつかんでいることに気がつかない場合が多い。
私のこれまでの人生の中でも、振り返ってみて、あの時はこういう運だったと、歳を重ねてからわかることが実に多い。
人との出会いなど運ばかりだ。 私の場合はあれも運だった、これも運だったと、運がついて回っていた。
なにせ半分が運なのだからそれも当たり前といえば、当たり前だ。
しかし、私は運が悪かったと思っても仕方ない、と考えている。
自分を幸せにしてやれるのは自分しかいない。
だから自分の考え方次第で、幸せが決まる。
そもそも五体満足に生まれてきたことが大きな幸運だ。
私は過去に、網膜剥離の手術を行い、糖尿病を患った。
だから、毎日を元気に過ごせること自体が奇跡だと私は思っている。
私は良いことも悪いことも正面から受け止めるようにしている。
そして幸運には感謝し、悪運を忘れるようにしている。
悪い運だけではない。
私は描いたものもすべて忘れるようにしている。
そうしなければ、新しいものが出てこないし、新しいものを描く意欲がそがれてしまうからだ。
自分の置かれた境遇、直面した運、出会った人、これらのせいにして自分の不幸の原因のあら探しをするのではなく、自分の価値観を持って幸福を感じ取ることを考えたほうがいいに決まっている。
仕事での苦しみや悩みは尽きることがないし、時として運が悪いことに出くわすことがある。
それでも私は、苦境もまたエネルギー源として捉えて、苦境に立つ自分を楽しみさえした。
不運を不幸だと考える必要などないのだ。
だから私はそもそも不幸だと思ったことは一度もない。
2018年10月13日
長編小説『鬼龍院花子の生涯』
秋は、読書にも良い季節だとされる。
先週、日本経済の指標となる日経平均は大きく下落し、先行き不安が垂れ込めた。
そんな時に、宮尾登美子の長編小説『鬼龍院花子の生涯』を思い出した。
この作品は、最初『文藝春秋』別冊145号から149号に連載、纏められたものであった。
ストーリーは大正、昭和の高知を舞台に、侠客鬼龍院政五郎(通称・鬼政)とその娘花子の波乱万丈の生涯を描いた。女の一生の中でこれほど、社会に翻弄される主人公もいないと思えるヤクザの世界に生まれた主人公・松恵という設定で物語が展開する。この作品に目をつけて、当初は梶芽衣子が映画化を持ちかけていたが、様々な変遷を経て、主役の松恵を演じた夏目雅子の演技が評判となり、映画は大ヒットとなる。鬼政に松恵が手篭めにされそうになる場面もあり、[女の目は泣くためにあり、口は噤むためにある](p114)宮尾作品。
「なめたらいかんぜよ」と、夏目雅子が映画で啖呵を切るシーンは映画予告編としてテレビスポットに使われた。侠客の養女となった松恵(夏目雅子)の目からみた、時代を描いた宮尾作品。この言葉は世間に知れ渡り、映画 が大ヒットとなり、本作の新聞広告は、1982年度の朝日広告賞を受賞している。
鬼龍院花子は政五郎によって半ば親の都合で養子に出され、一家の跡目を継ぐべき位置にはありながら、実子が生まれて変転する中で、松恵が一家を纏めていかなければならなくなる過程を描いて、女が運命に逆らうことも許されず付き合う理不尽な実際を文芸化した任侠劇だ。松恵は12歳で鬼政のもとへ養女に出され、約50年にわたりその興亡を見守った松恵の目から見た時代を描いたもの。鬼龍院花子とタイトルにあるが、主人公は、政五郎の養女とされた松恵である。諸行無常などと受け入れている様で一切を拒絶する「女の目」が理不尽な世の中をみつめていた。松恵は学業に優秀で県立の高等女学校に入学し、後に小学校教師となる。鬼龍院家の人間たちの生き様を目の当たりにしてきた影響で、しとやかな中にも激しい情念を秘める女性に成長。様々な人間との出会いや別れを通じて、波乱に満ちた人生を送る。当初弟・拓(ひらく)だけが養子になる予定だったが、政五郎に「賢そうな顔をしている」と気に入られたため急遽、鬼龍院家にもらわれる。学校に通わせてもらい勉強に勤しむ傍ら、政五郎の身の回りの世話や妾との間に生まれた花子の子守などをして暮らす。
大正から戦前に土佐に一家を興し没落した、侠客・鬼龍院政五郎と、彼に絡め取られた女たちの因果。
徒手空拳から土佐の親分として、いくらでも横車を押せる政五郎の絶倫さがに陰りを見せるのは、花子が生まれた頃からか、一家や自身にふりかかる不幸に、一人娘の花子が産まれるまでと、産まれてから花子が成長して、その生涯を閉じるまでを描く。我侭放題に育てられた娘花子は、親の庇護から外れたのちにどのように生きていけばいいのか。甘やかすだけではその子を駄目にしてしまうことが恐ろしいほどに良く分かる。
『鬼龍院花子の生涯』『陽暉楼』『櫂』は、五社と宮尾登美子とのコンビ作品で「高知三部作」とも呼ばれた。これらは東映に新たな“女性文芸大作路線”を確立させた。
夏目雅子がグラビアモデルとして注目後、女優として世に認められる”松恵”の有名な台詞が、あまりにもそれまでの可憐な夏目雅子と書け班られて、インパクトを与えた。
「あては高知九反田の侠客”鬼龍院政五郎”の”鬼政”の娘じゃき。」
「なめたら、なめたらいかんぜよ」。
この物語のモデルとなったのが「森田良吉」、侠客であり興行師でもあった別名「鬼頭良之助」といわれる人物だとされる。高知の街は、太平洋戦争で戦火に遭い、多くの歴史的遺産が消失してしまったが、森田は維新を興した偉人ばかりでなく歴史をつくってきた人々を排出した人々の記念碑も建立してきた。戦火にも耐え、今日まで土佐の墓山に佇む数多くの墓碑、記念石碑がそれらを記録する重要な史跡となったと言える。
参照:ウィキペディア
先週、日本経済の指標となる日経平均は大きく下落し、先行き不安が垂れ込めた。
そんな時に、宮尾登美子の長編小説『鬼龍院花子の生涯』を思い出した。
この作品は、最初『文藝春秋』別冊145号から149号に連載、纏められたものであった。
ストーリーは大正、昭和の高知を舞台に、侠客鬼龍院政五郎(通称・鬼政)とその娘花子の波乱万丈の生涯を描いた。女の一生の中でこれほど、社会に翻弄される主人公もいないと思えるヤクザの世界に生まれた主人公・松恵という設定で物語が展開する。この作品に目をつけて、当初は梶芽衣子が映画化を持ちかけていたが、様々な変遷を経て、主役の松恵を演じた夏目雅子の演技が評判となり、映画は大ヒットとなる。鬼政に松恵が手篭めにされそうになる場面もあり、[女の目は泣くためにあり、口は噤むためにある](p114)宮尾作品。
「なめたらいかんぜよ」と、夏目雅子が映画で啖呵を切るシーンは映画予告編としてテレビスポットに使われた。侠客の養女となった松恵(夏目雅子)の目からみた、時代を描いた宮尾作品。この言葉は世間に知れ渡り、映画 が大ヒットとなり、本作の新聞広告は、1982年度の朝日広告賞を受賞している。
鬼龍院花子は政五郎によって半ば親の都合で養子に出され、一家の跡目を継ぐべき位置にはありながら、実子が生まれて変転する中で、松恵が一家を纏めていかなければならなくなる過程を描いて、女が運命に逆らうことも許されず付き合う理不尽な実際を文芸化した任侠劇だ。松恵は12歳で鬼政のもとへ養女に出され、約50年にわたりその興亡を見守った松恵の目から見た時代を描いたもの。鬼龍院花子とタイトルにあるが、主人公は、政五郎の養女とされた松恵である。諸行無常などと受け入れている様で一切を拒絶する「女の目」が理不尽な世の中をみつめていた。松恵は学業に優秀で県立の高等女学校に入学し、後に小学校教師となる。鬼龍院家の人間たちの生き様を目の当たりにしてきた影響で、しとやかな中にも激しい情念を秘める女性に成長。様々な人間との出会いや別れを通じて、波乱に満ちた人生を送る。当初弟・拓(ひらく)だけが養子になる予定だったが、政五郎に「賢そうな顔をしている」と気に入られたため急遽、鬼龍院家にもらわれる。学校に通わせてもらい勉強に勤しむ傍ら、政五郎の身の回りの世話や妾との間に生まれた花子の子守などをして暮らす。
大正から戦前に土佐に一家を興し没落した、侠客・鬼龍院政五郎と、彼に絡め取られた女たちの因果。
徒手空拳から土佐の親分として、いくらでも横車を押せる政五郎の絶倫さがに陰りを見せるのは、花子が生まれた頃からか、一家や自身にふりかかる不幸に、一人娘の花子が産まれるまでと、産まれてから花子が成長して、その生涯を閉じるまでを描く。我侭放題に育てられた娘花子は、親の庇護から外れたのちにどのように生きていけばいいのか。甘やかすだけではその子を駄目にしてしまうことが恐ろしいほどに良く分かる。
『鬼龍院花子の生涯』『陽暉楼』『櫂』は、五社と宮尾登美子とのコンビ作品で「高知三部作」とも呼ばれた。これらは東映に新たな“女性文芸大作路線”を確立させた。
夏目雅子がグラビアモデルとして注目後、女優として世に認められる”松恵”の有名な台詞が、あまりにもそれまでの可憐な夏目雅子と書け班られて、インパクトを与えた。
「あては高知九反田の侠客”鬼龍院政五郎”の”鬼政”の娘じゃき。」
「なめたら、なめたらいかんぜよ」。
この物語のモデルとなったのが「森田良吉」、侠客であり興行師でもあった別名「鬼頭良之助」といわれる人物だとされる。高知の街は、太平洋戦争で戦火に遭い、多くの歴史的遺産が消失してしまったが、森田は維新を興した偉人ばかりでなく歴史をつくってきた人々を排出した人々の記念碑も建立してきた。戦火にも耐え、今日まで土佐の墓山に佇む数多くの墓碑、記念石碑がそれらを記録する重要な史跡となったと言える。
参照:ウィキペディア
2018年10月12日
11歳の少年がオセロ世界チャンピョン
10月9〜12日にチェコで開かれた第42回世界オセロ選手権で、横浜市の小学5年、福地啓介君(11)が歴代最年少優勝を果たした。
その日本選手団が搭乗した帰国便の機長は福地君の前の最年少優勝者だった。オセロ日本選手団は例年、世界選手権の際に全日空便を利用しており、全日空はこれまでも選手団の搭乗便に、かつての世界チャンピオンである谷田邦彦さん(51)を機長に配置してきた。
一般社団法人日本オセロ連盟(東京)によると、以前の記録は田谷さんが1982年に打ち立てた15歳という記録。谷田さんと福地君は、平成28年9月の第11期オセロ王座戦で対戦経験があり、このときは谷田さんが勝利したという。
参照:産経新聞
その日本選手団が搭乗した帰国便の機長は福地君の前の最年少優勝者だった。オセロ日本選手団は例年、世界選手権の際に全日空便を利用しており、全日空はこれまでも選手団の搭乗便に、かつての世界チャンピオンである谷田邦彦さん(51)を機長に配置してきた。
一般社団法人日本オセロ連盟(東京)によると、以前の記録は田谷さんが1982年に打ち立てた15歳という記録。谷田さんと福地君は、平成28年9月の第11期オセロ王座戦で対戦経験があり、このときは谷田さんが勝利したという。
参照:産経新聞
2018年10月11日
白樺文学館の朗読のひとときへのご案内
我孫子市白樺文学館では、「朗読のひととき」として、志賀直哉をはじめとする白樺派の作品や、柳宗悦らの民藝運動に関するものなどを中心に毎回テーマを決めて朗読しています。
朗読は市民スタッフによるもので、学芸員による白樺派や民藝に関するトークと共にお楽しみいただけます。
合わせて柳兼子(柳宗悦夫人、声楽家)が晩年に愛用していたピアノによる演奏会が行われます。ピアノは日本民藝館に所蔵されていたもので、柳夫妻が新婚時代を過ごしていた我孫子市にと寄贈されたものです。演奏は市民スタッフによるもので、毎回テーマを決めて白樺派や民藝に関するお話を挟みながら楽しんでいただけます。それぞれ、学芸員のトークをはさみ朗読30分、ピアノ30分の予定です。
下記の日程で、2−3時の一時間の内容です。
朗読は市民スタッフによるもので、学芸員による白樺派や民藝に関するトークと共にお楽しみいただけます。
合わせて柳兼子(柳宗悦夫人、声楽家)が晩年に愛用していたピアノによる演奏会が行われます。ピアノは日本民藝館に所蔵されていたもので、柳夫妻が新婚時代を過ごしていた我孫子市にと寄贈されたものです。演奏は市民スタッフによるもので、毎回テーマを決めて白樺派や民藝に関するお話を挟みながら楽しんでいただけます。それぞれ、学芸員のトークをはさみ朗読30分、ピアノ30分の予定です。
下記の日程で、2−3時の一時間の内容です。
10月21日(日)
11月25日(日)
12月9日(日)
1月20日(日)
2月24日(日)
3月17日(日)
11月25日(日)
12月9日(日)
1月20日(日)
2月24日(日)
3月17日(日)
2018年10月10日
いざ、極上ゆるり散歩
流山市民、柏市民も参加しての「まち歩き」にガイドのお役目を仰せつかった、これ幸いと我孫子ならではの歩かなくちゃいかれない奥の細道にもご案内した。
スタートは、電車で来ていただいた皆様との集合場所として、我孫子駅南口のポストの前。
そこから、飯泉嘉雄 我孫子駅解説にいたる秘話を記す、SLをかたどったた記念碑について説明、アビシルベにてガイドMAPをもらって、
まずは、ABISTAへ向かう。ァビスタの屋上庭園から秋の晴天の下に輝く細長〜い手賀沼を実感して頂く。次に、ァビスタ脇のバーナードリーチ碑を紹介し、白樺派の拠点であったことやリーチの世界的な活躍を果たす原点であったと話すと、あまり知られていない話だと驚かれた。その上に、我孫子に郷土資料館ができるはずだったが、未だに話が立ち消えた顛末を語ると、さらにびっくりされた。これだけの歴史があるのに、流山、柏にもどこでもあるのが当たり前だから、ないとは七不思議だ!と言われてしまう。
我孫子で最も大きいと思われる「血脇守之助の顕彰碑」について、野口英世が世に名を残す大恩人であり、その為に度々の金策をしていくたびか助けた話をして、これもあまり知られていないですね、「モッタイナイ」と言われました。このHPをご覧になった皆様は、下記の画像をクリックしてみてください。
さて、そこからしばらく歩いて、富桝旅館の脇に出て、秋篠宮殿下と我孫子市と山階鳥類研究所誘致の話、JBF(日本最大の鳥をテーマにしたフェスタ)をしながら、この旅館には紀子妃と共に殿下が食事などに利用されたとか、鳥類研究所のスタッフだった黒田清子さんもいらしたかかわりから、「大正せんべい」の手焼きせんべいが隠れたお土産になっているなどと、語りながら『無限抱擁』の滝井孝作が仮寓跡を案内した。急坂を上るのでここから見るだけにしておきましょう、と話したら、がぜんファイトを燃やして、皆さまヤブ蚊に刺されながら、柿のたわわになる場所に来て、栗を見つけたり、小さな秋を発見。
そして、白樺文学館、志賀直哉邸を横目に、いよいよ三樹荘の坂の下へ。(ここを上るかどうかと、話したところ)またの機会に上りましょうとなって、お昼の予約をしている場所に急ぎ足になりました。
以上、次回をお楽しみにと。また、来ていただけたら、本当に喜んで頂けたと・・・・。
スタートは、電車で来ていただいた皆様との集合場所として、我孫子駅南口のポストの前。
そこから、飯泉嘉雄 我孫子駅解説にいたる秘話を記す、SLをかたどったた記念碑について説明、アビシルベにてガイドMAPをもらって、
まずは、ABISTAへ向かう。ァビスタの屋上庭園から秋の晴天の下に輝く細長〜い手賀沼を実感して頂く。次に、ァビスタ脇のバーナードリーチ碑を紹介し、白樺派の拠点であったことやリーチの世界的な活躍を果たす原点であったと話すと、あまり知られていない話だと驚かれた。その上に、我孫子に郷土資料館ができるはずだったが、未だに話が立ち消えた顛末を語ると、さらにびっくりされた。これだけの歴史があるのに、流山、柏にもどこでもあるのが当たり前だから、ないとは七不思議だ!と言われてしまう。
我孫子で最も大きいと思われる「血脇守之助の顕彰碑」について、野口英世が世に名を残す大恩人であり、その為に度々の金策をしていくたびか助けた話をして、これもあまり知られていないですね、「モッタイナイ」と言われました。このHPをご覧になった皆様は、下記の画像をクリックしてみてください。
さて、そこからしばらく歩いて、富桝旅館の脇に出て、秋篠宮殿下と我孫子市と山階鳥類研究所誘致の話、JBF(日本最大の鳥をテーマにしたフェスタ)をしながら、この旅館には紀子妃と共に殿下が食事などに利用されたとか、鳥類研究所のスタッフだった黒田清子さんもいらしたかかわりから、「大正せんべい」の手焼きせんべいが隠れたお土産になっているなどと、語りながら『無限抱擁』の滝井孝作が仮寓跡を案内した。急坂を上るのでここから見るだけにしておきましょう、と話したら、がぜんファイトを燃やして、皆さまヤブ蚊に刺されながら、柿のたわわになる場所に来て、栗を見つけたり、小さな秋を発見。
そして、白樺文学館、志賀直哉邸を横目に、いよいよ三樹荘の坂の下へ。(ここを上るかどうかと、話したところ)またの機会に上りましょうとなって、お昼の予約をしている場所に急ぎ足になりました。
以上、次回をお楽しみにと。また、来ていただけたら、本当に喜んで頂けたと・・・・。
2018年10月09日
竹灯篭の夕べ
村川別荘で行われる「竹灯篭の夕べ」は、今回で12回目だそうで、きもの愛好会の皆さんに誘われて初めて行ってきました。竹を利用した幻想的なライトアップが行われます。我孫子の秋の風物詩になっています。始まりは、市民グループが我孫子に竹でライトアップするイベントで我孫子を盛り立てようとのアイデアで、カッパ祭りのイベントにも広げていました。それが、東日本大震災の起きる少し前に始まっていたので、竹を切り出す手伝いをしてくれた消防団の関係者と協力して、鎮魂・竹宵のイベントで被災地への義援金を募る活動へとつなげていったのでした。
今年の村川別荘での日程は次の通り:
5日(金曜日)・6日(土曜日) 午後5〜7時に、5日はSPレコード鑑賞会、6日はコカリナの演奏会. 我孫子の昔の風景をスライドショーで流したり、 ...
2018年10月08日
にこにこセール@カフェドック
これまで、消費者の会の活動の一環としてガレージセールを春秋に行ってきました。
この度は場所を変えて、プチマーケットという設えで、ご近所さんのカフェでということになりました。
どうぞ、お茶のみがてらいらしてくださいませ。
今回は、場所柄、お昼も注文できますから、ランチ時がおススメですよ。
そして、楽しいアクセサリーのオリジナル注文製作して即売もあります。
その他、小物、カバン、などの供出品が出てお得感が、ありありのタイムセールです!!
会場:カフェドック 店内
日時:10月17日(水)11時から2時
場所:我孫子市つくし野7-1-10
https://www.facebook.com/events/280570086117448/?active_tab=discussion
連絡先:090-8810-0968
cafe-dock@docomo.ne.jp
お待ちしています (^_-)-☆
この度は場所を変えて、プチマーケットという設えで、ご近所さんのカフェでということになりました。
どうぞ、お茶のみがてらいらしてくださいませ。
今回は、場所柄、お昼も注文できますから、ランチ時がおススメですよ。
そして、楽しいアクセサリーのオリジナル注文製作して即売もあります。
その他、小物、カバン、などの供出品が出てお得感が、ありありのタイムセールです!!
会場:カフェドック 店内
日時:10月17日(水)11時から2時
場所:我孫子市つくし野7-1-10
https://www.facebook.com/events/280570086117448/?active_tab=discussion
連絡先:090-8810-0968
cafe-dock@docomo.ne.jp
お待ちしています (^_-)-☆
2018年10月07日
三浦さん、90才でエベレスト
人間の肉体はどんな可能性を秘めているのか。平均寿命を超えて、冒険家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さん(86)は標高約7千メートルの頂をめざす。心臓に持病を抱えながら超高齢化社会への勇気と希望になる挑戦だ。
「人類で前例のないことにトライ」を続けてきた三浦さんの人生は、幾多の冒険の歴史を刻んできた。1966年に富士山でスキー直滑降を果たすと、70年にはエベレストの標高8千メートルから「大滑降」を実現。85年の南米大陸最高峰アコンカグア(標高6962メートル)を滑り、7大陸最高峰での滑降を達成した。
ところが、その後に「燃え尽き」の状態から不摂生な生活を送り、標高500メートル程度の山で挫折するほどになった。そこで65歳のときに「5年後にエベレストへ」と一念発起。体を鍛え直すと、80歳までに3回も登頂して世界に日本人の底力をみせた。
その後、当初は85歳でヒマラヤのチョー・オユー(標高8201メートル)の滑降を計画したが、現地の年齢制限で断念。新たな目標にアコンカグアを据えた。「90歳でエベレスト」という夢があり、今回をその足がかりにもする。
「人類で前例のないことにトライ」を続けてきた三浦さんの人生は、幾多の冒険の歴史を刻んできた。1966年に富士山でスキー直滑降を果たすと、70年にはエベレストの標高8千メートルから「大滑降」を実現。85年の南米大陸最高峰アコンカグア(標高6962メートル)を滑り、7大陸最高峰での滑降を達成した。
ところが、その後に「燃え尽き」の状態から不摂生な生活を送り、標高500メートル程度の山で挫折するほどになった。そこで65歳のときに「5年後にエベレストへ」と一念発起。体を鍛え直すと、80歳までに3回も登頂して世界に日本人の底力をみせた。
その後、当初は85歳でヒマラヤのチョー・オユー(標高8201メートル)の滑降を計画したが、現地の年齢制限で断念。新たな目標にアコンカグアを据えた。「90歳でエベレスト」という夢があり、今回をその足がかりにもする。
2018年10月06日
手作りクッキー
天王台の中華料理店・清華では、店の入り口の近くでクッキーを販売。
季節ごとに、アイシングによるデザインが毎回面白い変化がある。
季節ごとに、アイシングによるデザインが毎回面白い変化がある。
2018年10月05日
ロケ地となった新日鉄君津工場:『大地の子』
『大地の子』は、ある中国残留孤児の人生を描いたストーリーです。『白い巨塔』や『沈まぬ太陽』を書いた作家の山崎豊子の代表作として挙げらる作品です。NHKでドラマ化1995年に放送されたので、団塊の世代の方には特に記憶に残っている作品でしょう。日本の名優・仲代達矢や中国の名優・朱旭を上回るほどの素晴らしい演技をしたのが、当時、無名の俳優だった上川隆也でした。セリフとはいえ、上川隆也の中国語はすばらしかったと中国関係者にも絶賛でした。
この小説で描いている主たるテーマは、主人公である残留孤児・陸一心と養父・陸徳志、実父・松本耕次との親子の情愛、恩愛です。これを中心にして、戦争の悲惨さ、文化大革命の実態、中国人の濃い人間関係と足の引っ張り合い、日中国交正常化、中国国内の政争、日中の経済格差、中国人の日本観、日中の不幸な歴史的関係、といったものも描いています。ドラマでは、1960〜80年代の貧しい中国の農村の風景や迷信、人々の服装などディテールもしっかり描かれていて、その時代を研究している人々にも参考になると映像だということです。中でも強く印象的なシーンが、日中共同の製鉄プロジェクトで日中の技術者が激しく対立する場面でした。中国視察団の訪日シーンでは千葉県にある新日鉄の君津工場がロケ地にされました。中国からの視察は実際にあった話で、当時のトウ小平副首相らが来たということです。
日本側が輸出したアンカーボルトのコンテナを中国側が開けてチェックし、「アンカーボルトが錆びているじゃないか」と文句をつけるシーンです。日本側は「通常、ボルトは埋め込んでしまうので、多少錆びていても使用できるから大丈夫だ」と説明するのですが、中国側は「信じられない。こちらは貴重な外貨を使っているのだ。こんな製品は絶対に受け入れられない」と突っぱねます。
通常、国際社会では問題にならないようなささいなことについて、徹底的に主張し続ける中国人。それに対して唖然としながらもまずは意見を聴こうとする日本人、その日本側への不信感を募らせ、「バカにされたくない」と思う中国人のプライドが事態を悪化させていく様子がドラマにも映し出されます。 ドラマの主人公・陸一心が「日本人はシミのついたワイシャツを買いますか? ズボンの中に入れてしまうから平気だ、とはいわないでしょう? だから、こういうものは我が国では受け入れられない」と説明し、まだ実父とは知らずに対処していた日本人側の一人にいた技術者にも理解を得ようとするのです。
この対立は、まさに現在の日中の関係悪化にもつながる、日本人と中国人の根本的な「考え方の違い」を現わしていて、深く考えさせられました。当時の中国では「国家」や「党」が表に出てプロジェクトを推し進めているのに対し、日本側は一民間企業(この小説のモデルとなっているのは新日鉄)が、プロジェクトを背負わされ、多くの技術者が、言葉もよくわからない中国で事業に取り組まなければならない。日中国交正常化後、初の大型プロジェクトとして鳴り物入りで始まった事業ですが、当時の日本人関係者が慣れない中国でいかに苦労したか、その一端が山崎豊子さんの綿密な取材で明らかになっています。現在、中国に住み、中国人と丁々発止でビジネスをしなければいけない14万人の在留邦人にとっても、参考になるところが大きいのではないかと思います。
中国を美しく書いてくれなくてもいい
小説の後日談である『「大地の子」と私』の中で、なぜ山崎さんがこの小説を書いたのか、執筆のきっかけや秘話も紹介しています。中国の招待で1983年、84年と続けて訪問され、そのとき、北京の出版社の方から「宋慶齢について書いてくれませんか?」と依頼されました。宋慶齢は孫文の妻となった女性、有名な宋家の3姉妹の二女です。ですが、山崎さんは「私にはとても中国人は書けません」と辞退します。すると、「あなたは『二つの祖国』でアメリカを書いたじゃないですか? アメリカを書けて、中国は書けないんですか?」といわれ、そこで「二つの祖国」で日系アメリカ人を書いたことを思い出し、「中国には戦争孤児がいた。これなら書けるかもしれないとひらめいた」といいます。
しかし、取材には長い年月がかかりました。1984年に取材を始めましたが、中国の取材は役所の厚い壁に阻まれて遅々として進まず、困りぬいた山崎さんは一旦あきらめようとします。そんなとき、救いの手を差し伸べてくれたのが当時の中国共産党・胡耀邦総書記でした。会見に先立って「1人の中国人と、1人の日本人として語ろう」というひと言が伝えられたといいます。当時、“中国の常識”では最高指導者が外国の一作家と会うことなど、考えられないことだったとか。山崎さんはホテルで3日間待機させられ、ついに会見が実現しました。このときの2人の会話のうち、象徴的な場面が、同著の中に収録されています。
'''山崎さん:「小説はスローガンではありません。私は中日友好のために小説を書くと報道されていますが、最初からそれを前提にして書くことはできません。書いたものが結果的に中日友好のためになればと思っています」
胡耀邦総書記:「中国を美しく書いてくれなくてもよい。中国の欠点も、暗い影も書いてくれて結構。ただし、それが真実であるならば」'''
山崎さんの胸に「それが真実であるならば」が重くのしかかってきましたが、胡耀邦総書記との会談のあと、普通では考えられない未開放地区の農村のホームステイなどの許可も下り、東北地方、新疆ウイグル自治区、延安、西安、内蒙古などの取材を行うことができたと書いています。胡耀邦総書記の支援がなかったら、おそらく『大地の子』が日の目を見ることはなかったでしょう。
失脚した胡耀邦氏のお墓に参る
このようにして、ようやく大作『大地の子』は完成しました。しかし、完成を目前にした1989年4月、胡耀邦氏は亡くなってしまいます。天安門事件の2カ月前でした。胡耀邦氏といえば、政治改革に取り組んで保守派の批判にさらされて失脚した人物。民主化を叫ぶ大学生にも理解を示していました。胡氏への学生たちによる追悼デモが天安門事件の引き金になったといわれています。
山崎さんは葬儀の日、北京にいました。中央電視台で放送された葬儀の中継を見たあと、矢もたてもたまらず、自宅を訪問します。古びた質素な四合院、それが胡耀邦氏の私邸でした。警備員との問答の末、ようやく門を開けてもらい、中で李昭夫人と涙の対面を果たします。そして、後日、最終回を書き終えた山崎さんは江西省の共青城(共産主義青年団の町)にあるお墓を訪れ、出来上がった著書を墓前に供えたそうです。
『大地の子』は限りなくノンフィクションに近い小説だといわれており、小説の中に出てくる中国の指導者の名前も、「トウ平化」「趙思央」「夏国鋒」「江卓民」など、明らかに本名が誰かわかる人物も登場します。また、主人公・陸一心のモデルとなる残留孤児がいるわけではありません。山崎さんが取材した何人かの孤児のエピソードをつないで構成しているそうですが、残留孤児の中で、高校以上に進学した人はわずかしかいなかったとか。ほとんどが農村で労働力のひとりとして働き、中には自分の名前くらいしか書けなかった人も多かったそうです。山崎さんは「残留孤児」という言葉は決して使いませんでした。本書によると、「残留」という言葉には「自分の意思で残った」ニュアンスがあるからだそうです。 本書の回想録である『「大地の子」と私』(文春文庫)も刊行されました。
参照HP:
この小説で描いている主たるテーマは、主人公である残留孤児・陸一心と養父・陸徳志、実父・松本耕次との親子の情愛、恩愛です。これを中心にして、戦争の悲惨さ、文化大革命の実態、中国人の濃い人間関係と足の引っ張り合い、日中国交正常化、中国国内の政争、日中の経済格差、中国人の日本観、日中の不幸な歴史的関係、といったものも描いています。ドラマでは、1960〜80年代の貧しい中国の農村の風景や迷信、人々の服装などディテールもしっかり描かれていて、その時代を研究している人々にも参考になると映像だということです。中でも強く印象的なシーンが、日中共同の製鉄プロジェクトで日中の技術者が激しく対立する場面でした。中国視察団の訪日シーンでは千葉県にある新日鉄の君津工場がロケ地にされました。中国からの視察は実際にあった話で、当時のトウ小平副首相らが来たということです。
日本側が輸出したアンカーボルトのコンテナを中国側が開けてチェックし、「アンカーボルトが錆びているじゃないか」と文句をつけるシーンです。日本側は「通常、ボルトは埋め込んでしまうので、多少錆びていても使用できるから大丈夫だ」と説明するのですが、中国側は「信じられない。こちらは貴重な外貨を使っているのだ。こんな製品は絶対に受け入れられない」と突っぱねます。
通常、国際社会では問題にならないようなささいなことについて、徹底的に主張し続ける中国人。それに対して唖然としながらもまずは意見を聴こうとする日本人、その日本側への不信感を募らせ、「バカにされたくない」と思う中国人のプライドが事態を悪化させていく様子がドラマにも映し出されます。 ドラマの主人公・陸一心が「日本人はシミのついたワイシャツを買いますか? ズボンの中に入れてしまうから平気だ、とはいわないでしょう? だから、こういうものは我が国では受け入れられない」と説明し、まだ実父とは知らずに対処していた日本人側の一人にいた技術者にも理解を得ようとするのです。
この対立は、まさに現在の日中の関係悪化にもつながる、日本人と中国人の根本的な「考え方の違い」を現わしていて、深く考えさせられました。当時の中国では「国家」や「党」が表に出てプロジェクトを推し進めているのに対し、日本側は一民間企業(この小説のモデルとなっているのは新日鉄)が、プロジェクトを背負わされ、多くの技術者が、言葉もよくわからない中国で事業に取り組まなければならない。日中国交正常化後、初の大型プロジェクトとして鳴り物入りで始まった事業ですが、当時の日本人関係者が慣れない中国でいかに苦労したか、その一端が山崎豊子さんの綿密な取材で明らかになっています。現在、中国に住み、中国人と丁々発止でビジネスをしなければいけない14万人の在留邦人にとっても、参考になるところが大きいのではないかと思います。
中国を美しく書いてくれなくてもいい
小説の後日談である『「大地の子」と私』の中で、なぜ山崎さんがこの小説を書いたのか、執筆のきっかけや秘話も紹介しています。中国の招待で1983年、84年と続けて訪問され、そのとき、北京の出版社の方から「宋慶齢について書いてくれませんか?」と依頼されました。宋慶齢は孫文の妻となった女性、有名な宋家の3姉妹の二女です。ですが、山崎さんは「私にはとても中国人は書けません」と辞退します。すると、「あなたは『二つの祖国』でアメリカを書いたじゃないですか? アメリカを書けて、中国は書けないんですか?」といわれ、そこで「二つの祖国」で日系アメリカ人を書いたことを思い出し、「中国には戦争孤児がいた。これなら書けるかもしれないとひらめいた」といいます。
しかし、取材には長い年月がかかりました。1984年に取材を始めましたが、中国の取材は役所の厚い壁に阻まれて遅々として進まず、困りぬいた山崎さんは一旦あきらめようとします。そんなとき、救いの手を差し伸べてくれたのが当時の中国共産党・胡耀邦総書記でした。会見に先立って「1人の中国人と、1人の日本人として語ろう」というひと言が伝えられたといいます。当時、“中国の常識”では最高指導者が外国の一作家と会うことなど、考えられないことだったとか。山崎さんはホテルで3日間待機させられ、ついに会見が実現しました。このときの2人の会話のうち、象徴的な場面が、同著の中に収録されています。
'''山崎さん:「小説はスローガンではありません。私は中日友好のために小説を書くと報道されていますが、最初からそれを前提にして書くことはできません。書いたものが結果的に中日友好のためになればと思っています」
胡耀邦総書記:「中国を美しく書いてくれなくてもよい。中国の欠点も、暗い影も書いてくれて結構。ただし、それが真実であるならば」'''
山崎さんの胸に「それが真実であるならば」が重くのしかかってきましたが、胡耀邦総書記との会談のあと、普通では考えられない未開放地区の農村のホームステイなどの許可も下り、東北地方、新疆ウイグル自治区、延安、西安、内蒙古などの取材を行うことができたと書いています。胡耀邦総書記の支援がなかったら、おそらく『大地の子』が日の目を見ることはなかったでしょう。
失脚した胡耀邦氏のお墓に参る
このようにして、ようやく大作『大地の子』は完成しました。しかし、完成を目前にした1989年4月、胡耀邦氏は亡くなってしまいます。天安門事件の2カ月前でした。胡耀邦氏といえば、政治改革に取り組んで保守派の批判にさらされて失脚した人物。民主化を叫ぶ大学生にも理解を示していました。胡氏への学生たちによる追悼デモが天安門事件の引き金になったといわれています。
山崎さんは葬儀の日、北京にいました。中央電視台で放送された葬儀の中継を見たあと、矢もたてもたまらず、自宅を訪問します。古びた質素な四合院、それが胡耀邦氏の私邸でした。警備員との問答の末、ようやく門を開けてもらい、中で李昭夫人と涙の対面を果たします。そして、後日、最終回を書き終えた山崎さんは江西省の共青城(共産主義青年団の町)にあるお墓を訪れ、出来上がった著書を墓前に供えたそうです。
『大地の子』は限りなくノンフィクションに近い小説だといわれており、小説の中に出てくる中国の指導者の名前も、「トウ平化」「趙思央」「夏国鋒」「江卓民」など、明らかに本名が誰かわかる人物も登場します。また、主人公・陸一心のモデルとなる残留孤児がいるわけではありません。山崎さんが取材した何人かの孤児のエピソードをつないで構成しているそうですが、残留孤児の中で、高校以上に進学した人はわずかしかいなかったとか。ほとんどが農村で労働力のひとりとして働き、中には自分の名前くらいしか書けなかった人も多かったそうです。山崎さんは「残留孤児」という言葉は決して使いませんでした。本書によると、「残留」という言葉には「自分の意思で残った」ニュアンスがあるからだそうです。 本書の回想録である『「大地の子」と私』(文春文庫)も刊行されました。
参照HP:
2018年10月04日
農産物直販所にビーツ
ビーツは、ボルシチの味をきめる大事な根菜。缶詰めになっているカットされたビーツを買い求めて作っていたが、採れたてを手に入れることが出来るようになりました。
ビーツ 150g
キャベツ 50g
玉ねぎ 50g
にんじん 30g
パプリカ
ニンニク ひとかけ
パセリ 1/2束
ローレル
レモン
粒胡椒
水 400ml
塩 小さじ1/3
ケチャップ
サラダ油(あればひまわり油) 大さじ1/2
有塩バター 15g
サワークリーム (トッピング) 大さじ1
ディル (トッピング) 適量
作り方
準備. にんじんの皮は剥いておきます。 ビーツの皮は剥いておきます。
1. 玉ねぎは適当にカットします。にんじんは千切りにします。
2. ビーツとキャベツは千切りにします。
3. 中火に熱したフライパンにサラダ油をひいて炒めます。
4. 同じフライパンを、弱火に熱し油を入れて、1を入れてしんなりするまで炒めます。
5. なべに水を入れて馴染むまで煮込みます。
6. 器に盛り付けて、サワークリームの代用にマヨネーズも可。
料理のコツ・ポイント
このレシピは下ごしらえされたビーツを使用しています。
2018年10月03日
本庄教授と製薬会社の快挙
ノーベル医学・生理学賞の授与が決まった京都大の本庶佑(ほんじょ・たすく)特別教授(76)と長年、共同研究に取り組み、がん免疫治療薬「オプジーボ」として実用化した小野薬品工業は1日、本庶氏の受賞決定を歓迎するコメントを発表した。同社の相良暁(さがら・ぎょう)社長は「共同研究ができた巡り合わせに感謝する」と喜びの声を寄せ、「私たちの使命はより多くの患者さんに(製品を)お届けすること」とし、オプジーボを適応できる疾患対象の拡大に意欲を示した。
小野薬品は30年近く前から本庶氏の研究室に社員を在籍させるなど共同研究を行ってきた。その中で、本庶氏らのグループが免疫を担う細胞の表面にある「PD−1」を発見。平成14年にがんの免疫システムに関与していることがわかり、創薬に弾みがついた。
がん領域の創薬経験がなかった小野薬品は、共同開発してくれる製薬企業を探して奔走。しかし、同社が話を持ちかけた国内の主要メーカー13社すべてから断られてしまう。今でこそ、免疫治療は、手術、化学療法、放射線療法に次ぐ、がんの「第四の治療」と評価されているが、当時はがんの免疫療法といえば、効果が証明されない民間療法のイメージが強く、敬遠されたのだ。
本庶研究室に在籍していた小野薬品の免疫研究センターの柴山史朗センター長によると、「あの頃は免疫療法でがん治療を行うことに強い偏見があったため、私たちの提案をまともに取り合う企業はほぼなかった」という。一方で、「実験での効果を見て、かなり(実用化に)自信があった。非常にやってみたい」との思いのあった本庶氏は、自ら海外出張の合間に協力してくれる企業を探すなど、決してあきらめる様子はなかった。その後、小野薬品は米国のバイオベンチャーと協力して18年に臨床試験(治験)を開始、26年に米製薬大手のブリストル・マイヤーズスクイブとオプジーボの発売にこぎつけた。
「本庶先生とともに歩んだ二十数年間。成果がすぐ出なくても研究の可能性を信じ続ける本庶先生に間近に接し、触発された。その精神を今後の創薬にもいかしていきたい」と、かねてこう語っていた相良氏。現在、国内では非小細胞肺がんや胃がんなど7種のがんに承認され、世界各地でも適応できるがんの種類は増えている。これに加えて、国内の治験で最終段階にあるものだけでも食道がんや肝細胞がんなど7種類あり、相良氏は「できる限り早く、より多くの患者さんにお届けしたい」としている。
小野薬品は30年近く前から本庶氏の研究室に社員を在籍させるなど共同研究を行ってきた。その中で、本庶氏らのグループが免疫を担う細胞の表面にある「PD−1」を発見。平成14年にがんの免疫システムに関与していることがわかり、創薬に弾みがついた。
がん領域の創薬経験がなかった小野薬品は、共同開発してくれる製薬企業を探して奔走。しかし、同社が話を持ちかけた国内の主要メーカー13社すべてから断られてしまう。今でこそ、免疫治療は、手術、化学療法、放射線療法に次ぐ、がんの「第四の治療」と評価されているが、当時はがんの免疫療法といえば、効果が証明されない民間療法のイメージが強く、敬遠されたのだ。
本庶研究室に在籍していた小野薬品の免疫研究センターの柴山史朗センター長によると、「あの頃は免疫療法でがん治療を行うことに強い偏見があったため、私たちの提案をまともに取り合う企業はほぼなかった」という。一方で、「実験での効果を見て、かなり(実用化に)自信があった。非常にやってみたい」との思いのあった本庶氏は、自ら海外出張の合間に協力してくれる企業を探すなど、決してあきらめる様子はなかった。その後、小野薬品は米国のバイオベンチャーと協力して18年に臨床試験(治験)を開始、26年に米製薬大手のブリストル・マイヤーズスクイブとオプジーボの発売にこぎつけた。
「本庶先生とともに歩んだ二十数年間。成果がすぐ出なくても研究の可能性を信じ続ける本庶先生に間近に接し、触発された。その精神を今後の創薬にもいかしていきたい」と、かねてこう語っていた相良氏。現在、国内では非小細胞肺がんや胃がんなど7種のがんに承認され、世界各地でも適応できるがんの種類は増えている。これに加えて、国内の治験で最終段階にあるものだけでも食道がんや肝細胞がんなど7種類あり、相良氏は「できる限り早く、より多くの患者さんにお届けしたい」としている。
2018年10月02日
玉城デニー氏、沖縄県知事当選
米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は1日、米軍普天間飛行場移設に伴う沖縄県名護市辺野古の新基地建設計画に反対する玉城デニー氏の県知事選当選を受け「沖縄の米軍駐留を減らすために」と題した社説を掲載し「日米両政府は妥協案を見いだすべきだ」と新基地計画の再考を促した。
同紙は、日本政府がこれまで沖縄に対し、「アメとムチ」で新基地建設を受け入れさせようとしてきたが「沖縄の人々は何度も何度も、新しい基地は要らないと答えてきた。彼らは既に過重な米軍を受け入れていると考えている」と指摘した。
その意思は玉城氏が知事に選ばれたことで非常に明確に示されたとし「安倍晋三首相に迫られた決断は、最高裁で玉城氏が司法の場に訴える『反対』を全て退けるか、(もっと前にやるべきだったが)沖縄の正当な不満を受け入れ、負担を軽減する、あまり面倒でない方法を探すことだ」と提起した。
また、米軍は「沖縄の兵たん、航空、地上部隊を日本の他の場所に分散させると、東シナ海での迅速な対応能力を低下させる」と主張するが、日本と地域の安全保障のために、不公平、不必要で、時に危険な負担を県民に強いてはいけないと説明した。その上で安倍首相と米軍司令官は、公平な解決策を見いだすべきだと主張した。
米軍普天間飛行場は、沖縄県宜野湾市の中心部に位置する米海兵隊の航空基地。面積は約480ヘクタールで、市全体の4分の1を占める。周辺には住宅や学校などが密集し、「世界一危険な飛行場」とも言われる。日米両政府は、県内移設を条件に同飛行場の全面返還で合意、名護市辺野古沿岸部への移設計画が決まった。
しかし、移設をめぐる県内の賛否は分かれ、これまでの知事選でも主要な争点になってきた。2014年の知事選では、辺野古移設阻止を掲げる翁長雄志氏が初当選、玉城氏はその遺志を受け継ぐとして立候補し当選した。
出典:琉球新報社(10/1)
同紙は、日本政府がこれまで沖縄に対し、「アメとムチ」で新基地建設を受け入れさせようとしてきたが「沖縄の人々は何度も何度も、新しい基地は要らないと答えてきた。彼らは既に過重な米軍を受け入れていると考えている」と指摘した。
その意思は玉城氏が知事に選ばれたことで非常に明確に示されたとし「安倍晋三首相に迫られた決断は、最高裁で玉城氏が司法の場に訴える『反対』を全て退けるか、(もっと前にやるべきだったが)沖縄の正当な不満を受け入れ、負担を軽減する、あまり面倒でない方法を探すことだ」と提起した。
また、米軍は「沖縄の兵たん、航空、地上部隊を日本の他の場所に分散させると、東シナ海での迅速な対応能力を低下させる」と主張するが、日本と地域の安全保障のために、不公平、不必要で、時に危険な負担を県民に強いてはいけないと説明した。その上で安倍首相と米軍司令官は、公平な解決策を見いだすべきだと主張した。
米軍普天間飛行場は、沖縄県宜野湾市の中心部に位置する米海兵隊の航空基地。面積は約480ヘクタールで、市全体の4分の1を占める。周辺には住宅や学校などが密集し、「世界一危険な飛行場」とも言われる。日米両政府は、県内移設を条件に同飛行場の全面返還で合意、名護市辺野古沿岸部への移設計画が決まった。
しかし、移設をめぐる県内の賛否は分かれ、これまでの知事選でも主要な争点になってきた。2014年の知事選では、辺野古移設阻止を掲げる翁長雄志氏が初当選、玉城氏はその遺志を受け継ぐとして立候補し当選した。
出典:琉球新報社(10/1)
2018年10月01日
ノーベル賞 受賞 本庶佑京大特別教授
本庶佑・京都大学特別教授がノーベル医学・生理学賞に決まったとの発表がされた。免疫の仕組みを明らかにする研究に長年取り組んできて、がん免疫療法を確立以前からノーベル賞の有力な候補者と言われてきました。本庶は京都大学医学部を卒業後、いずれもアメリカにあるカーネギー研究所やNIH=国立衛生研究所で研究したあと、37歳の若さで大阪大学の教授に就任するなどして免疫の仕組みを研究してきました。
6つのC:好奇心(Curiosity)、勇気(Courage)、挑戦(Challenge)、確信(Confidence)、集中(Concentration)、継続(Continuation)の頭文字「C」を常に頭に本庶教授は学生時代から追い求めてきたといいます。本庶教授は、平成4年に、免疫細胞の表面に「PD−1」というこれまで知られていない新しい物質があることを発見します。
当初はどのような働きがあるのか全く分かっていませんでしたが、「PD−1」の働きを止めると免疫反応が過剰に働くことがわかり、発見から7年後の平成11年、この物質が免疫が働くのを抑える、いわば「ブレーキ」の役割を果たしていることを突き止めました。さらに、がん細胞がこのメカニズムを利用してヒトの免疫を逃れていることもわかります。
そこで、がん患者の体内で「PD−1」が働かないようにすることで、再び免疫ががん細胞を攻撃するようにして治療するというそれまでの抗がん剤とはメカニズムが全く違う新しいがん治療薬の開発につながり、「オプジーボ」という名前で売られるようになりました。この薬は日本で皮膚がんの治療薬として承認され、続いて肺がんの治療薬としても承認されるなど、今では世界中の医療現場で使われています。
免疫の力を利用してがんを治療しようというがんの免疫療法を医療として確立し、手術、抗がん剤、放射線治療に続く第4の治療法となるきっかけを開いたとして高く評価されていました。
オプジーボは、免疫のブレーキとなる「PD−1」と呼ばれるタンパク質の働きを妨げることで、がん細胞を免疫に攻撃させて治療する薬です。平成26年に皮膚がんの一種の「メラノーマ」の治療薬として販売され、現在では、肺がんや胃がんなどの7つのがんで治療薬として使われ、これまでに国内で2万5000人以上に使われています。オプジーボは従来の抗がん剤では治療が難しい患者にも効果が期待できるとして注目されています。
一方、発売を始めた当初は肺がんの場合、体重60キロの男性患者が1年間使用するとおよそ3500万円かかるとされ、国の財政圧迫につながるとする指摘もあり、緊急的に価格の引き下げがおこなわれました。
学生時代は、学部対抗のボートレースに参加したほか、医学部近くの雀荘で朝までマージャンをすることもよくあったといい、現在は、ゴルフでのエージシュート76をめざすというほど、常に何においても挑戦をされて、諦めないことをモットーにして、続けられている方だと、ご家族、研究者、学生を含めて賞讃しています。
参照:朝日新聞、NHKニュース
6つのC:好奇心(Curiosity)、勇気(Courage)、挑戦(Challenge)、確信(Confidence)、集中(Concentration)、継続(Continuation)の頭文字「C」を常に頭に本庶教授は学生時代から追い求めてきたといいます。本庶教授は、平成4年に、免疫細胞の表面に「PD−1」というこれまで知られていない新しい物質があることを発見します。
当初はどのような働きがあるのか全く分かっていませんでしたが、「PD−1」の働きを止めると免疫反応が過剰に働くことがわかり、発見から7年後の平成11年、この物質が免疫が働くのを抑える、いわば「ブレーキ」の役割を果たしていることを突き止めました。さらに、がん細胞がこのメカニズムを利用してヒトの免疫を逃れていることもわかります。
そこで、がん患者の体内で「PD−1」が働かないようにすることで、再び免疫ががん細胞を攻撃するようにして治療するというそれまでの抗がん剤とはメカニズムが全く違う新しいがん治療薬の開発につながり、「オプジーボ」という名前で売られるようになりました。この薬は日本で皮膚がんの治療薬として承認され、続いて肺がんの治療薬としても承認されるなど、今では世界中の医療現場で使われています。
免疫の力を利用してがんを治療しようというがんの免疫療法を医療として確立し、手術、抗がん剤、放射線治療に続く第4の治療法となるきっかけを開いたとして高く評価されていました。
オプジーボは、免疫のブレーキとなる「PD−1」と呼ばれるタンパク質の働きを妨げることで、がん細胞を免疫に攻撃させて治療する薬です。平成26年に皮膚がんの一種の「メラノーマ」の治療薬として販売され、現在では、肺がんや胃がんなどの7つのがんで治療薬として使われ、これまでに国内で2万5000人以上に使われています。オプジーボは従来の抗がん剤では治療が難しい患者にも効果が期待できるとして注目されています。
一方、発売を始めた当初は肺がんの場合、体重60キロの男性患者が1年間使用するとおよそ3500万円かかるとされ、国の財政圧迫につながるとする指摘もあり、緊急的に価格の引き下げがおこなわれました。
学生時代は、学部対抗のボートレースに参加したほか、医学部近くの雀荘で朝までマージャンをすることもよくあったといい、現在は、ゴルフでのエージシュート76をめざすというほど、常に何においても挑戦をされて、諦めないことをモットーにして、続けられている方だと、ご家族、研究者、学生を含めて賞讃しています。
参照:朝日新聞、NHKニュース