爆弾を抱えた航空機で敵艦に体当たりをする「特攻」は、一般に「カミカゼ」と言われるが、昭和19(44)年10月25日、レイテ(フィリピン)防衛戦に投入された海軍初の「神風(しんぷう)特別攻撃隊」は、劣勢に追い込まれた日本軍の起死回生の作戦だった。
零戦に250キロ爆弾を装備して敵艦に体当たりする。日本軍の航空機と搭乗員が減る中、練習航空隊も特攻隊に組み入れられることになった。
無謀な作戦の背景には戦況の悪化はあるものの、作戦立案において「体当たりは、爆弾を落とすよりも簡単だろう」といった空戦の経験のない参謀たちが中枢を占めたことがあげられる。
その効果に関しても当時、現場のパイロットから疑問が投げかけられていた。命中しても甲板を炎上させるだけで、大破撃沈には至らない。急降下爆撃による爆弾投下が有効と意見を呈するベテランパイロットたちに対して、しかし「命が惜しいのか」と一考されることはなかった。
栗原俊雄著『特攻──戦争と日本人』(中公新書)によると、8月15日の敗戦までの特攻隊員の戦死者は海軍2431人、陸軍1417人(戦死者数は諸説あり)。対して、撃沈した米軍艦船は合計47隻。しかし大半が小型駆逐艦や輸送船などで、標的とした正規空母、戦艦の撃沈はゼロだ。
戦後こうした特攻は「志願」によるものか「命令」されたものか、議論を呼んできた。
紙切れと封筒を渡され、希望するかしないか、誰にも相談せずに書いて出せという。その場は重苦しい雰囲気に包まれた。
当時、18歳だった。岩手県にいる母と姉、4人の妹や弟のことが気になった。一番下の弟とは12歳離れていた。2カ月ほど前に父が亡くなったばかり。体が弱い母と姉が働き、桑原さんは仕送りを続けていた。白紙で出そうかとも迷ったが「命令のままに」と書き、封筒に入れて出した。
午後から、海軍飛行予科練習生(予科練)からの同期生で酒でも飲んで気分を変えようと、北条の町(加西市中心部)に繰り出した。「何て書いた?」。自然とそんな話になる。白紙や「希望しない」という者はいない。「半殺しに遭うもんな」と語り合った。
「建前社会の軍隊では本音が言えず、事実上の強制だった」
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2日後、選ばれた者が発表された。名前もあった。頭の中が真っ白になった。家庭の事情に配慮してくれるという淡い期待は裏切られ、大きな足で踏みつぶされたような圧迫感を覚えた。予科練の同期18人の中で選ばれたのは操縦技術の優れた順だった。
燃料が足りないため、航空機には選ばれた者しか乗れず、宿舎も別になった。指名されなかった者はほっとする一方、肩身が狭い。彼らの複雑な心境をその視線から感じた。
爆弾を投下して戦果をあげて帰還すると、上官から非難された。「なぜ死ななかったんだ」「次は必ず死んでこい」と。戦果をあげる手段だった特攻が、目的にすりかわってしまった。なんとなく人間が操縦したほうが命中率は高いように思われがちですが、それは現場を知らないからで、実際は爆弾を投下したほうが破壊力がある。だから飛行士は憤り、その愚かしさを訴えた。爆弾を落とすほうが戦果が出るのが、飛行機は揚力があるから体当たりをしようとすると減速して破壊力が落ちる。機体は軽金属で、分厚い鉄板に生卵をぶつけるようなものでしかない。
離着陸、編隊飛行、降下。これまでしてきた訓練の中に変化もあった。降下爆撃なら、一定の高さまで降りたら操縦桿を引いて上昇するが、特攻の場合はそのまま突っ込む。
「大地がぐっと迫ってくるのに、引いちゃいけないんだ、という緊迫感があった。『死』を完成させるため。これは大変なことだ、と思った」
自発的に編隊に加わったとの主張を続けた倉澤清忠少佐の存在は凄まじいの一言。戦後、復讐を恐れて80歳まで拳銃を持っていたという記述には唸りました。本人が自分のしたことの意味を知り、どんなに怯えていたのか分かります。同時に、インタビューのあけすけな語りに、これまた唸ります。「12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ」を始めとした発言に衝撃を受けます。
最初の特攻で米軍商船を改造した「護衛空母」に体当たりして沈没させた。防御力に劣る船だったから成功したと判断できるんだけれども、上層部は「空母」とし、“零戦1機で空母を沈めた”と喧伝することになる。そういう上層部の人たちは戦後も生き残り、特攻を美化していった。
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海軍に遅れはするが同年11月12日には、陸軍初の特攻隊が出撃している。陸軍の特攻でありながら、正式な隊名を名乗れなかったという。
正式に部隊を編成するとなると、天皇の裁可が必要になる。責任が天皇に及ばないように「リーダーをもった憂国の同志集団」ということにした。海軍は天皇の裁可した軍令で編成している。
海軍と陸軍が同時期に特攻を考え、海軍の「神風(しんぷう)」が先行した。(最初の特攻遂行後に)天皇が「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」と言ったと記録されています。特攻では、人間魚雷の「回天」なども早くから考えられていた。しかし、軍の中枢がなぜ特攻に急速に傾いていったのかはまだ明らかにされていません。
陸海軍ともに初期の特攻隊には、戦果を重視しベテランパイロットを投入。とくに海軍初の特攻では関行男大尉の体当たり攻撃により、米軍「護衛空母」を撃沈させたことの戦意発揚効果は大きかった。
しかし、特攻は機とともに飛行士の命を失うもので、回数を重ねるにつれ飛行時間が少なく「離着陸がやっと」の少年飛行兵や予備学生らの若い操縦士が充てられ、ガソリンの欠乏から操縦訓練さえ満足にできないまま出撃していったという。
若い操縦士が選ばれたのは、ベテランを「本土決戦」に残そうとした狙いもあったとされるが、選出する側が身内であるエリート士官に配慮した面が大きいとされる。古参兵のなかには「俺を選んだら許さんぞ」とすごむ者もいたといわれる。
特攻機が不足するに及んでは、誰が見ても不向きと思われる爆撃機や練習機までも投入。整備兵をして「こんな子供たちをこんなぼろ飛行機で」と悔しがらせたほどだった。
無謀な作戦の背景には戦況の悪化はあるものの、作戦立案において「体当たりは、爆弾を落とすよりも簡単だろう」といった空戦の経験のない参謀たちが中枢を占めたことがあげられる。
73年前、鶉野飛行場で訓練した姫路海軍航空隊から神風特別攻撃隊「白鷺隊」として出撃した63人が命を落とした。1・2キロの滑走路が伸び、防空壕や機銃座が残る同飛行場跡を平和学習や観光などに活用しようと、市は整備を進める。
参照:週刊朝日