1868年、日本最初の移民がハワイに向かった年から150年が経った。
153名を乗せた船は、34日かけてハワイに着いた。
ハワイで一旗揚げたい人、貧しさが嫌で飛び出した人のほとんどが17歳から23歳の男性だった。
ハワイは製糖産業で人手不足だった。
夢と希望を持って渡ったものの、労働の内容は故郷でしていた事とほぼ変わらない。
「話が違う」「帰りたい」と言う人も出てきて、40人が帰国。
100人が残った。契約の3年が過ぎた。ほとんどが、帰国しなかった。
中にはアメリカ本土に渡った人もいた。しかし50人は、ハワイに残った。
そこで、結婚したり、事業を始めた。そして、二世、三世が生まれた。
ところが、パールハーバーが彼らの運命を変えた。
日本人というだけで不当な扱いを受けた。
二世は、自分たちの子孫を守るためにもアメリカ軍に志願兵となって戦った。
それが、米軍の伝説にもなる442連隊。
彼らの活躍によって、日本人が認められることになる
第二次世界大戦中、士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成された。
第442連隊はヨーロッパ戦線の激戦地に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。
その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示している。
特にその負傷者の多さから、「パープルハート大隊」とまで呼ばれた。
約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ合衆国軍事史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、米国史に名前を残すことになった。
アメリカ政府は、真珠湾攻撃の後、アメリカ国内の日系人社会の動向を不安視していたことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。そして彼らは有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の辛い状況に置かれていた。
ハワイ準州(Territory of Hawaii)居住の日系人については、全体の人口に対して、その率が島によっては人口の半分程度とあまりにも多く[3]、生活や経済が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、当局は日系人社会に対して影響力が高いとみられた日系人会幹部や僧侶ら数百人をホノルルのサンド・アイランドの収容所に収容、後に人数は数千人に増え、オアフ島のホノウリウリ抑留キャンプをはじめ、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島(一部は本土)の数か所に強制収容したものの、全日系人が対象とはならなかった。
イタリアに到着していた第442連隊は第1大隊が解体されたため1個大隊欠けていた編成となっていたので、6月に第100歩兵大隊を第442連隊に編入して、第442連隊戦闘団をベルベデーレ、ピサなどイタリア北部での戦闘に参加させた。1944年9月に部隊はフランスへ移動し、第36師団に編入された。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘を行う。10月15日以降、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた。一帯は、山岳・森林地帯であるため戦車が使えず、歩兵の力のみが頼りであった。20日には町を攻略したものの、第36師団長ジョン・アーネスト・ダールキスト(John E. Dahlquist)少将の命令により、引き続き町東方の攻略を継続した。
1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、テキサス大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられる激しい戦いだった。また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)に十月に一緒であったダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、ダールキスト少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「将軍、K中隊の残りは彼らだけです(That's all of K company left, Sir)」と答えた。その報告を聞いたダールキスト少将は落胆の余りスピーチさえ出来なかったという。10月に第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたたのである。なお、戦後のブリュイエールでは、ダールキストが団長として率いた部隊の活躍を記念して通りに「第442連隊通り」という名称がつけられた。ブリュイエールでは1994年10月15日には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。
参照:Wikipediaつづき