東京医科大が一般入試で、女子受験者の得点を意図的に一律で減点していたとみられることが明らかになった。結婚や出産で医師を辞める例が多いので、女性合格者数を抑えて医師不足を防ぐことが各医大かなり行われてきたと発覚した。医師を目指す受験生や女性医師らからは「妊娠、出産は当然の権利なのに」「性別を理由にした差別は許されない」と憤りの声が上がっている。
「努力しているのに、性別が理由で減点されたならひどすぎる」。医師志望の札幌市東区、札幌北高3年井沢莉子さん(17)は怒りを込めた。予備校に通い、1日約10時間は受験勉強に励んでいる。「同級生にも医師志望の女子は多い。男女で差別されるのは許せない」と話す。
浪人しながら医師を目指す札幌市手稲区の西山綾音さん(19)は「こんな時代でも男女差別があるなんて、まして妊娠や出産は当たり前の権利なのにショック」。私立大医学部を目指す同市中央区の古畑花さん(21)は「女性だからこそできる医療もある。性別で差別されるのは理不尽。『女性は結婚して仕事を辞める』と決めつける風潮はまだある」と憤る。
北海道で行った2016年の調査によると、道内の女性医師の割合は15・2%。年々増加しているものの、都道府県別で全国最低水準だ。女性医師の約6割が20〜40代前半に集中する。定年がないことから考えると、むしろ、出産や育児で離職を余儀なくされ、職場復帰できていない例が多いとみられる。 参考:北海道新聞(8/3)
京都に話を移してみる。女性で初めて文化勲章を得た女性画家・松園。才能があっても、女は嫁に行くのが務めだと画家になとうとの志を砕く非難囂々だった。
父は生れる二ヶ月前に他界していた。母が女手一つで彼女を育て上げる。子どもの頃から絵がたまらなく好きだった松園は、小学校を卒業すると、京都に開校したばかりの日本最初の画学校に12歳で入学する。尊敬する画家の内弟子となって修業しようと退学、鈴木松年に師事する(1888年)。めきめきと腕をあげたので“松園”の号を与えられた。親戚や周囲には彼女のこうした生き方を非難する声も多かった。明治の世では「女は嫁に行き家を守ることが最上の美徳」とされており、教育を受けたり、絵を習うなどは中傷の対象だったのだ。
1890年、彼女は15歳にして第3回内国勧業博覧会に出品した「四季美人図」が英国皇太子コンノート殿下の買上げとなり、一等褒状を受け、「京に天才少女有り」と世間から俄かに注目されるようになった。新たな画法を学ぶべく師匠を幾度と変えていった松園は、20歳から京都画壇の中心人物・竹内栖鳳(せいほう)に師事する。やがて27歳で妊娠。相手は最初の師匠松年と言われているが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていない。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男・松篁(こちらも、画家になり文化勲章)を出産する。
私生活がどんな状況でも、早朝から絵の勉強を怠らず、その絵筆はますます冴え渡り、各地の展覧会・博覧会で作品が高く評価された。 誹謗や中傷が渦巻く中、1904年(29歳)には、展覧会に出品中の『遊女亀遊』の顔が落書きされるという酷い事件も起きる。会場の職員から絵を前に「どうしますか」と尋ねられた松園は、「そのまま展示を続けて下さい。この現実を見せましょう…」と語ったという。
小柄な松園だが精神力は鋼のようだった。その活躍が、「女のくせに」とライバルの男性画家たちから激しい嫉妬と憎しみの対象になった。晩年に松園が「戦場の軍人と同じ、血みどろな戦いでした」と記すほどで、女性の社会進出を嫌う保守的な日本画壇の中で、ひたむきに、孤高に絵筆を握り続けていったのだ。
作品に描かれる女性像はどれも凛として気品に満ちており、画風はどこまでも格調高かった。1907年(32歳)に始まった文部省美術展覧会(文展)では、毎回のように入選&受賞を繰り返し、第10回からは“永久無鑑査”となる。多くの人々が作品に魅了され、以降、帝展、新文展、日展の審査員となる一方でニューヨーク万国博覧会に出品もした。
1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が死亡。その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させる。それは女性が描く“真に理想の女性像”だった。様々な苦悩を克服して、燃える心を内に秘めるが如く、朱に染められた着物を着て、指し延ばした扇の先を、ただ真っ直ぐに、毅然として見つめる女性だった。「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです」(松園)。
1948年(73歳)、女性として初めて文化勲章を受章。その翌年74歳で逝去した。現代の画壇では「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」とまで言われている。
※近代日本の美人画の代表的作家は、西(京都)の松園と東の鏑木(かぶらき)清方。松園の3歳年下だった鏑木は、若い頃を回想して「松園の作品は自らの目標であり、裏返しても見たいほどの欲望にかられた」と記している。