2018年08月31日

Time to say good bye





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2018年08月30日

新渡戸稲造という国際人

第一次世界大戦が終結直後、新渡戸が東京女子大学の学長についてまだ1年もたっていない頃であった。そのころパリでは、第一次世界大戦終結の平和条約の調印とともに国際連盟が誕生した。途中から参戦した日本は棚ぼた式に戦勝国になったので、その事務次長の割り当てがきていた。

日本は中国に21ヵ条の要求を突きつけていたので「日本人は(ドイツ人に似て)好戦的で野蛮な国民ではないのか」という風評がたっていた。そのような時期に、後藤新平(当時、拓殖大学学長)の誘いに乗って新渡戸稲造が一緒に欧米の旅に出っていたのが、大正8年(1919)3月であった。事務次長についたばかりの新渡戸は、早くも日本人に対する風当たりの強さを敏感に察知していたが、「損してもよい、馬鹿を見てもかまわぬ、と覚悟を決めて、何をやるにも日本人らしく立派に振舞いさえすれば、だんだんと了解しますよ」と杉村陽太郎(新渡戸の後任の事務次長)に言い含めている。

それから数年後のある年のクリスマスでのこと、連盟職員が数百名集まった折、「このジュネーブ(つまり国際連盟)で最も人気のある人物の名を順に3人あげよ」と、人気投票をしたことがあった。その集計した結果、大変なことが起こった。全員が新渡戸の名(InazoNitobe)をナンバーワンとして書いたのである。2位と3位はばらばらだったのに、新渡戸の1位だけは全員一致していた。人気投票といっても、もちろん人格識見なども入ってのナンバーワンだったと思われる。新渡戸という人の評判は、もうこのくらい国際連盟で確固たるものになっていたのである。

4月、新渡戸はアメリカに旅立った。大正13年(1924)7月に排日移民法が施行されたのに憤慨してから、二度とその地を踏むまいと誓っていた新渡戸がアメリカに赴く決意をしたのは、一説には昭和天皇に後押しされたからと言われている。新渡戸にとってそれは「暗黒の中に入っていく(ような)気持ち」だった。

その心持ちを新渡戸は渡米直前の大阪英文毎日(3月19日)の「編集余録」に、次のように書いて自らを納得させている。

「上司の不興を買い、群集の怒りを招くのは、私の家の伝統なのだ。私の曾祖父(維民)は封建領主と意見をあえて異にしたかどで、(下北半島へ)追放に処せられた。私の祖父(傳)は、維新戦争の際は負けた賊軍側だったが、幾度脅迫を受けたか知れぬ。私自身の父(十次郎)は、いわゆる蟄居閉門中に死んだ」

しかし新渡戸は、これら3代の父祖はすべて「政治的な罪で罰せられ」た「名誉ある禁固の形」であるとして一種の誇りさえもっていた。それを考えれば、自分がアメリカに交渉に行くことなど何でもないことだと自ら納得できたのである。

折悪しく、新渡戸の渡米直前には満州国建国が、渡米直後には犬養毅首相の暗殺などが相次いだため、アメリカの世論は日本を軍国主義化の一途をたどりつつある国と決めつけていた。しかし、新渡戸には、自分にとってまったく不利なことでも、それが日米の平和の構築、戦争の回避という大きな目的のためなら甘んじて受ける寛厚な度量があった。むしろこの役目は自分にしかできない、こういうときにこそ自分が引き受けるべきだと、彼は次のような憂国の歌を詠んでアメリカへ向かった。

「国を思ひ世を憂うればこそ何事も 忍ぶ心は神ぞ知るらん」

新渡戸の主たる目的は、日本の満州政策についてアメリカの誤解を解き、対日感情を和らげることだった。新渡戸には「中国大陸は無政府状態にあるので、満州国を建国した日本こそが防波堤となってソ連の進出を食い止めている。なにもそれ以上に中国の土地を欲しいというのではない」という確固たる認識があった。それをアメリカは分かっておらず、まして日本人は口べたなので、あえて自分が代弁しにアメリカへ赴くのだという強い思いがあった。

そのため彼はアメリカで100回以上もの講演をこなし、各地で日本の立場を切々と説いた。しかし同年6月にフーバー大統領と会見したとき、彼から「最近起こった暗殺(犬養首相のこと)は、われわれみんなにショックを与え狼狽させた。日本は国際的政治に通暁した公僕を1人失った。私は日本の指導的立場の人たちが将来日本をどうしようとしているのか不安である」と言われるなど、新渡戸は非常に厳しい立場に立たせられている。このようなフーバー大統領の言からも分かるように、アメリカの世論はすでに日本にはまったく厳しく(反対に中国には好意的だった)、新渡戸の講演などでくつがえるという期待は薄かった。新渡戸はなおも全米各地で講演し、翌8年(1933)3月24日に帰国している。彼の傷心はいかばかりだったろうか。

しかし、その彼に、またもや追い討ちをかけるような出来事が発生した。彼が評判を上げて帰ってきた国際連盟を、日本がいとも簡単に脱退してしまったのである。帰国して3日後のことであった。

それでも、新渡戸は最後まで諦めなかった。同年8月、体調不良をおして、カナダで開催された第5回太平洋会議に日本の団長として出席し、改めて国際平和を訴えたのである。しかし、ビクトリア市で病床に臥し、10月15日、ついに帰らぬ人となった。我孫子のゆかりの人、嘉納治五郎といい、岩手生まれの新渡戸稲造といい、国際感覚に優れた人がいて、国際社会に敬意をもって認められていた。戦意高揚の社会風潮の中で正しく先を見ていた人の考えが無視されてしまった時代であったが、後々に気づかされることがある。


出典HP:https://shuchi.php.co.jp/article/1126?p=1



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2018年08月29日

国境なき医師団・日本を牽引する女性医師

黒崎伸子さんは、2001年から、国境なき医師団(MSF)の外科医として紛争地域などで、国際的な医療活動に貢献されてきました。MSF会長でいる間は、自分のような、まったく違う価値観を持つ人たちが、「弱い立場の人に寄り添いながら自分を変えていく」体験を持つ人が増えることで、偏見や差別がなくなり、もっと心地良く暮らせる世の中になるのではないかと考えています。そういう人をどんどん海外に派遣したい。 少しでも参加したいと思っている方には、しかるべき準備をして、自分を試すつもりで挑戦していただきたいです。現地には、行ってみなければわからないことがたくさんあります。日本にとどまっていては出会えなかった社会や人々、考え方にふれることで、自分を見つめなおしたり、日本の良さを改めて実感したりする過程で、自分自身の生き方が見えてくることも多いと思います。マラリアもエボラも、昔なら日本で流行するとは誰も想像しなかったでしょう。しかし、グローバル化した社会では、これらの感染症はいとも簡単に日本に上陸する可能性を秘めています。そこで、途上国支援のために研究や臨床経験を重ねてきた医師がいて、日本での流行時にも迅速に対応ができることには意義があります。グローバル化している社会においては、医師自身も多様性をもって活躍していくことが、日本社会にとっても大事なのではないでしょうか。

黒崎さんは、長崎県の小さな町で生まれ、家の医院を手伝うのが好きで、外へはあまり遊びに行かない子どもだったそう。日曜日の午後だけが休診で、たまの外食が楽しみでしたが、患者さんが来て取りやめになることもしょっちゅうだったという。数少ない家族との思い出は、クラシック好きな父が3年に一度くらい福岡へ音楽会に行くというとき、みんなで福岡まで出かけた電車の中です。着いてしまえば子どもたちはどこかに預けられ、両親だけが音楽会に行くのですが、その行き帰りが家族旅行みたいで楽しかったのを覚えています。そこは日本と明確に異なると思います。現在は、働く女性の地位向上や環境改善を目指す活動もやっていますし、子どものころと違うのは家にいると罪悪感があること、常に何かやらなきゃと思う自分がいます。

宗教的、歴史的な背景も大きいのでしょうが、欧米では、「ノブレス・オブリージュ」(直訳:「高貴なものに伴う義務」。社会的に強者に位置するものが弱者に施しを行う精神)という考えが根付いていて、「途上国医療に携わることはよいことである」という認識が社会に浸透している。

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2018年08月28日

ミッション


田中道昭 『「ミッション」は武器になる』NHK出版新書553

「人生100年」時代をこれから迎えるにあたり、言葉にしたミッション、つまり「ミッションステートメント」は、あなたが長期間にわたって働くことが求められる時代に、きっとあなたを駆動し続けるエンジンとなると筆者は示しています。

筆者は2017年3月に、ユダヤ人国家でもあり「スタートアップ大国」とも呼ばれるようになったイスラエルに渡航し、多くの若い起業家たちとディスカッションを行いました。そこで出会った人がみな熱く語っていた人生観が、「人は誰でも何かを創造するために生まれてきた」ということでした。ユダヤ人の離散と迫害の歴史の中で建国されたイスラエルにおいては、人々が独特の人生観や死生観を持っています。 政府高官から科学者、起業家に至るまで、「世界をよりよい場所にする」という表現を多くの機会で耳にすることができたのも印象的でした。

彼らが語っていた「何かを創造するため」の「何か」とは、決して最先端テクノロジーから生み出される最先端製品のことばかりを指しているわけではありません。 文章を書くこと、絵を描くこと、料理を作ること、歌を歌うこと、工作をすること、そして仕事で誰かに何かを提供すること。これらのすべてが「何かを創造すること」にあたるという彼らの言葉に、深い感銘を受けました。 自分が強みを持ち、自分がするのが好きなことの延長線上で何かを生み出すことこそがミッションであると実感したのです。

長年にわたって、企業のミッションをいっしょに練り直すことや、社員個人のミッションを見出せるようにサポートする仕事をしてきましたが、 長年の経験で気づいたのは、実はミッションはその人の中にすでに内在しているものを見つけ出す作業にすぎないということです。

ミッションは、言ってみればビジョンよりもより上位の概念です。
これまでの自分や現在の自分をきちんと「整理整頓」していけば必ず自分の中から見つけ出すことができます。
いちばん大事なのは、自分の中にあるはずのミッションを「言葉にする」ことで意識へと変えていくことです。

ビジョンが将来の夢や生きる目標を意味する言葉であるのに対し、ミッションとは、存在意義や使命、自分が生まれてきた意味や生きる目的を意味する言葉です。つまりは、ミッションとは、未来の中にあるものではなく、「今ここ」という現在にあります。ミッションは、だからこそ自分のワークスタイルやライフスタイルを表象します。 他人に与えらえたシナリオで他人のような人生を送るのではなく、自分が主人公であり自分の人生を主体的に過ごしていくための指針となるものです。

自分が仕事を通じてどのような人たちと関わり合い、どのような人たちのどのような問題を解決していきたいのか。
自分が仕事を通じてどのような人たちに、どのような価値を提供していきたいのか。これらの具体性こそが重要です。
ただ漠然と抽象的に「社会貢献したい」と思っているだけでは、それはミッションと呼ぶことができません。
自分の仕事を通じて顧客や社会の問題を解決して、自分の仕事を通じて価値を提供していくことが大切です。
「自分の目の前にある仕事の中にすでに存在しているもの」こそがミッションなのです。


さらに「ヒーローズ・ジャーニー」という英雄たちの旅路という意味の言葉について、筆者が説明しているところによると、 世界中の神話や民話などの研究から導き出された「英雄物語に共通したパターン」を普遍化したものだとの事です。

その展開は、次のようにまとめることができます。
1. 天命…使命が降りてくる、見つかる
2. 旅の始まり…使命を果たす旅に出る
3. 境界線…障害や困難にぶちあたる
4. メンター…障害や困難の解決を導く師に出会う
5. デーモン…成功の兆しが見えてくるが失敗し、再び障害や困難に陥る
6. 変容…失敗や障害、困難を通じて自己成長する
7. 課題完了…障害・困難を乗り越えて使命を果たす
8. 故郷へ帰る…成長して英雄となる。新たな使命を見つけ、旅に出る準備をする

世の中の多くの人は、自分の学歴や肩書き、あるいは知識、スキル、資格などが「武器」だと思っていることでしょう。
何か勉強しないと不安だ、目的は旅行ぐらいしかないけど、とりあえず語学学校に通おう、自分を磨こうという方も多いのではないでしょうか。しかし、旅先で何げなく知り合ってたわいもない会話をするだけで、その人の人間力が伝わってくる人もいます。 肩書どころか、名前さえ知らないし、仕事の話はもちろん、自身のことさえ聞いていないのに「すてきな人だな」と感じる。これは潜在意志からの反応で、いわゆる直感です。

つまり、ヒーローズ・ジャーニーに置き換えて言い直せば、「デーモン」を打ち破る唯一の秘訣は、「武器の強さではなく、何も持たないときの強さが、本当の自分の強さなのだ」ということに気づくことなのです。その人に本当に人としての魅力があり、しっかりとしたミッションを持っていることを感じさせてくれるなら、あなたはその人が何者であるかをまったく知らなかったとしても、その人の魅力を感じることができるのではないでしょうか。そのようなときに、ありのままのその人と、使命感だけからにじみ出てくるような謙虚であることの真の価値を感じることができるのではないでしょうか。



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2018年08月27日

食品添加物に注意

人の体が老化していく根源には、酸化ストレスという現象があります。人間の体内では、つねに活性酸素という物質が作られていて、活性酸素が過剰にできると臓器を錆び付かせてしまう。目の老化にも、酸化ストレスが関与している。つまり“目の老化は全身の老化のバロメータ”だということ。目の老化防止を心がけることは全身の老化防止につながるとも言えるわけだ。老化が進むことで起きる代表的な目の疾患の代表は老眼(老視)、白内障、緑内障、そして加齢黄斑変性の4つだという。

人という字は、支え合う右と左の払いに似て、助け合って生きているなどと言われたものだが、最近はコンビニがあれば、お母さんが作らなくてもいつでもオニギリ、サンドイッチにすぐさまありつける。しかし、まさかの添加物が含まれている食品が多くなっている事は、あまり気にされてきませんでした。

下記が入ってない事を要確認です。コンビニは便利だけれど、常用していると知らぬ間に複合被害にもなってしまいます。


@複合リスク
ソルビン酸、亜硝酸ナトリウム、リン酸塩

A味覚破壊トリオ
タンパク加水分解物・酵母エキス・調味料(アミノ酸等)

B人工甘味料
アスパルテーム・アセスファムカリウム・スクラロース・ネオテーム・アドバンテーム

Cタール系着色料
赤色102号、赤色40号、黄色4号、黄色5号



もちろん、なかに良心的な作り方の食品もあります。なにごとも、上手に利用することですね。


ハウス食品

・離乳食の終わった1歳ごろからの野菜カレー

・3歳からの野菜カレー

大塚食品
 ボンカレー

エトセトラ・・・・

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2018年08月26日

女子水泳、日本勢初の6つの金メダル@ジャカルタ

ジャカルタ・アジア大会第7日(24日、インドネシア・ジャカルタ)競泳の女子50メートル自由形決勝が行われ、池江璃花子(18)が午前中に行われた予選では25秒09を記録し、全体1位で決勝進出。決勝では50メートル背泳ぎで世界新記録を出した劉湘(中国)との一騎打ちを見事に制して24秒53で優勝し、6冠に輝いた。日本勢史上初となる1大会で最多の六つ目の金メダルを手にした。

 池江は、23日に女子400メートルメドレーリレーに第3泳者で出場。3分54秒73の日本新記録を樹立し、5個目の金メダルを獲得した。1大会5冠は1970年バンコク、74年テヘラン大会で競泳女子の自由形などで連続5冠に輝いた村山(旧姓西側)よしみさん以来、日本勢44年ぶりの快挙を成し遂げていた。

 池江はレース後「本当に優勝できるとは思っていなくて一番緊張しました。絶対に負けたくないっていうのと、『負けるか!』っていう気持ちで泳いでいました。六冠を達成できてうれしいです。タイムは良くはなかったですけれど、自分の力を出し切れたので良かったです」と満面の笑みで答えた。
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2018年08月25日

認知症予防は脳細胞を増やすこと

米疾病対策センター(CDC)の7日の発表によると、16年の全米の自殺者数は約4万5千人に達し、17年前の1999年と比べて約30%増加した。低迷する経済や薬物依存のまん延、ソーシャルメディアの浸透によるコミュニケーション不足などが原因に挙げられている。

今の時代で人とのつながりを作りにくい、インターネットやSNSでつながって、実際に会って、おしゃべりをするということが少ない。
子どもたちはみんなで集まっても、ゲームに夢中になっていることがあります。
大人はスマホに夢中になって、子供にもタブレットで画像をみせて絵本代わりにしている光景をよく見かけます。
どの世代でも、「人とのつながり」を減少させており、危険水域です。

寝たきりを防ぐ方法として今全世界で注目されている方法とは、
人とつながりを持つこと!おしゃべりすること、笑うことだった。
人と協調し合うことでしか生き伸びるできたという人類の進化の過程の影響だと考えられるそうです。

血液中の免疫細胞が病原菌などをやっつけるために反応しますが、その反応が長く続くと自分自身の筋肉や血管にダメージを与えてしまいます。
その結果、筋力が衰えたり、動脈硬化から脳卒中や心筋梗塞などの病気になったり、最終的には寝たきりになってしまいます。

そこで、「人に親切にする」という行動を1日3回したグループは、「世の中の役に立つことをする」グループ、「自分がうれしいことをする」グループに比べて、体内の過剰反応が起こらなくなる、とわかったのです。逆に家に引きこもってしまい、ことばを使うチャンスが減ってしまうことで、せっかくリハビリで良くなってもまた悪くなってしまうこともあります。逆に、重い言語障害があっても、社交的で物おじせずに人と接する人は、改善のスピードが速い方が多いです。

経験上「人とのつながりの大切さ」は寝たきり予防にもつながるというデータを見て、間違いはなかったのだと確信を強めました。
人と会い、人とおしゃべりをすることで、脳も活性化され、認知症予防にもつながると思います。
一人よりは、大勢でワイワイやることが1番効果がおおきいとと「ためしてガッテン」に出演された東京大学飯島勝矢教授の太鼓判でした。
歳をとれば、老化していくばかりと考えがちでしたが、実は、記憶をつかさどる海馬は、脳の体積が増える場合があります。
PCの記憶部分も時折、リセット、初期設定でリカバリーをするように、死ぬ脳神経細胞より生まれる脳神経細胞が多ければ、年に関係なく活性されていきます。それに効果があるのが、新しいことをやること、です。
海馬から新しい神経回路ができます。挑戦したことのないことでも過去の経験を生かして上手くできるようになっていきます。
歳を重ねるごとに新しいことにチャレンジするのに躊躇しがちですが、自分から新しいことへの挑戦を常にすることで海馬を大きくします。
また、型にはまった考え方に囚われず、常に新しい視点をもって、どうしたら面白くなるか、楽しくなるかを考えるようにすることも大事です。
失敗したり、どうにもならないことが起きたりしても、それに対応しようとする姿勢が海馬を大きくします。
扁桃体は感情を司る部位で、感情が大きく揺さぶられると、海馬にも大きな影響を与えます。
特に、「好き!」「楽しい!」「嬉しい!」という感情が起こると、扁桃体からドーパミンが放出され、海馬が活性化し記憶力が向上します。
好きなことは自然と覚えられるのは、このメカニズムがあるからです。

意外な検査結果は、運動嫌いの奥様よりも毎日運動している、ご主人の方が寝たきりのリスクが高いとわかったこと。
それは奥様が、お友達と趣味のサークルでのお付き合いが多い。情報交換するおしゃべり仲間と笑いが続く。
自ら考えて、行動することも海馬を大きくします。


鶏肉に多く含まれているイミダゾールジペプチドという成分が脳萎縮の進行を抑えるという研究結果が出ています。イミダゾールジペプチドには疲労回復や抗酸化作用もあります。週二回取るとよい。
マグロ、サバ、サケなどの青魚にEPA・DHAは多く含まれています。缶詰でも同様に取れます。EPAもDHAも体の中で作ることが出来ない成分のため、積極的に食べるようにしたい。週一回。


ブルーベリーは、記憶力の改善や言語・理解のアクセスの改善に効果があるとアメリカの研究チームから発表されています。

ケーキ。揚げ物、チーズは減らす。
オリーブオイルに含まれるオレオカンタールという物質がアルツハイマー病の原因物質アミロイドベータの分解酵素を助ける働きをすることが分かっています。つまりオリーブオイルもアルツハイマー病を予防する食品になります。イタリアオーガニック認定のピュアオイル「オルチョサンニータ」フルーティなエキストラバージンオリーブオイル660g3400円サラダにパスタにたっぷり使ってもしつこくなく、オイルそのものも美味しいのはもちろん、素材の味を引き立てるオリーブオイル。丁寧な工程を踏んで作られた、無添加のオリーブオイル

クルミ、胡麻、ブドウジュースも良い、緑茶にはカテキンというポリフェノールが含まれ一日1杯の緑茶で認知機能の低下を予防できたという研究結果がある。また、コーヒーやココアにもケルセチンというポリフェノールが含まれている。
ブルーベリーに含まれるポリフェノールの一種アントシアニンの効果

食後すぐにデンタルフロスで歯と歯の間や、歯と歯肉の間に挟まった食べかすを取り除く。
そして、口の中で舌を使って歯の表面をぐるぐるなめまわす「舌回し」という運動をします。
こうすると、歯に洗浄作用のある唾液が回ることになります。
歯ブラシを使った歯みがきは、朝起きた直後と夜寝る前に、歯磨き粉は使わず、1本1本丁寧に、優しく磨きます。

脳の中央部には側坐核という部位があり、別名「やる気スイッチ」と言われています。慣れない事やり始めると側坐核の「やる気スイッチ」が押され、海馬や前頭葉にやる気をおこすアセチルコリンが放出されます。何かを身につけたい、覚えたいという場合には、繰り返し、繰り返し情報を入力することが必要です。繰り返すことで海馬の神経回路も強くなります。

有酸素運動によって、脳の栄養素が作られ、海馬を大きくするということが分かっています。
行ったことのない場所へ空間的に移動することも海馬に入る情報量を格段に増やし、効果があります。
海馬の整理整頓の時間を作る睡眠をとることで海馬の天敵であるストレスを解消できます。
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2018年08月24日

「太陽を盗んだ男」

図書館の雑誌棚に並んでいた『キネマ旬報』が目に入った、これまで公開された映画の人気投票で、「太陽を盗んだ男」が第一位に選ばれて、表紙になっていた。長谷川和彦監督は、レナード・シュナイダー(ポール・シュナイダー監督の弟)脚本。実は、この監督、この映画のあとに映画を撮っていない。ご本人も会心の作であってこれを凌ぐ作品が、作れずという事らしいが、やはり映画業界の専門家による一票の集計の結果であるから、評価が高いことを示す結果になった。映画についての総評をするTV番組で解説をしていた。

この画像のなかでは1;00〜

http://www.discovernikkei.org/ja/journal/article/3455/

大変な話題になりながら、日本では公開されていない映画「Mishima」についても、1:30〜 語っている。

日本映画は、富に評判が高くなっている。これからの映像文化に対しての社会的の関心はさらに高まっていくと思われる。
そういう点でも、映画がどう扱われるかのチェックは欠かせないと思う。
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2018年08月23日

口腔ケアは大事

口を開けたり閉じたりして噛んで食べるという行為は、脳に酸素を送ったり刺激を与えたりするため、中枢神経を活性化し認知症を予防するといわれます。愛知県在住の65歳以上の健常者を対象に、2003年から4年間かけて行われた調査によると、歯が20本以上残っている人に比べて、歯がなく入れ歯も使っていない人は、認知症になるリスクが1.9倍も高いという結果になっています。

口腔ケアで口の中を清潔にすると、唾液の分泌が促進されます。また、歯ブラシなどで「唾液腺」を刺激することで、唾液腺の働きを活発にし、意図的に分泌量を増やします。唾液には歯や口の粘膜を保護したり、虫歯や歯周病を予防したりする役割があるため、唾液の量を増やすことは口腔ケアにおいて重要なポイントです。

先月、刊行された 岡田弥生著 『シニアのための口腔ケア』 では、
http://nashinokisha.theshop.jp/items/12045956

笑うことも、「いただきま〜す」も口腔ケアだと、新たな視点で歯ばかりでなく、口のなか全体を見直す大切さを教えています。
やがて介護される人、する人に知ってほしい51項目を丁寧に教えてくれます。

ブラシングの原則は「食べたら磨く」が基本ですが、最低でも一日一回は、寝る前に丁寧に磨きましょう。歯磨き粉は原則としては必要ありませんが、使用する場合、小豆大の少量を使用するとさっぱりします。液体歯磨きやデンタルリンスを使うのもいいでしょう。

歯肉炎(歯ぐきの腫れ)の予防には、定期的に歯垢取り、フッ素塗布をするとよいでしょう。舌には舌苔(舌の表面にできる白黄色から褐色の汚れ)が付いてしまうことがあり、そのままにすると細菌の温床になり、口臭の原因になるのでやわらかいブラシや舌ブラシで軽く清掃するといいそうです。通常の歯磨きにプラスして、時折、歯医者で歯石や舌苔のメンテをしてもらうのが最善です。

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2018年08月22日

好事魔多し

浜松医科大学名誉教授・高田明和 『困ったことは起こらない』きこ書房
ご自身も剣の道を究めようとされ、その指導もされた方がおられたが、そのような方でも晩年の十年くらいは脳卒中のために四肢麻痺で、口もきけない日々を過ごすことになった。 剣で鍛えた体はなかなか衰えず、かえって長く苦しむ結果になったのです。
この事例、あるいは人の上に立つような仕事上、あるいは本人の修業上のことで徳を積むだけでは充分でないことを示している。
このような方々も、身を慎み、一人でできたような大言せず、他人の批判をしないなどという日々の努力のほうが重要だと述べる。

禅の書に、「好事も無きにしかず」とか「無事是貴人(ぶじこれきにん)」などと書かれている。
これは、「楽中苦あり、苦中楽あり」という因縁の法則にも関係している。
「好事も無きにしかず」とは、 良き事や目出たいことに執着するな、安易に好事を喜ぶな次が怖いぞとの戒め。
人の上に立つ人、指導する立場になって、 本を書いたり、講師になったりすると、どうしてもそこに慢心、驕りが生まれやすい。
注意を言う人もいなくなり、一見 順調なときほど落とし穴があり、人生のひっかけ問題もある。
是がすなわち、「好事魔多し」。
若い時には、表だって評価されることもない、または不遇だったとしても、それは借金があって払って返していくのだから、その後努力が尊い学びになる。
しかし、晩年何かよいことが起こるということは、不幸が待ち構えているかもしれず、晩年に美味い話は、むしろない方がよい。
だったら、人に分ける方が心豊かに生きられる。

幸田露伴は、「惜福、分福、植福」と、好事の時にあっては三福が有効だと訓える。
惜福とは、福を使い尽くさないこと、惜しむこと。大事に使うこと。
分福とは、まわりのみんなに福を分けること。
植福とは、福の種をまき、その木を植え、子孫(後世)にその果実を残すこと。








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2018年08月21日

グローバルな観点で地域の再生

昨年、日本は出生数が95万人を切り、人口の自然減も39万人超となっているということが言われ、それは、一つならずも町がなくなったことになります。
このところ、テレビでは国内の景勝地を案内する番組や近郊の散歩に相応しい所を案内していたのが、最近は、道も見つけにくい場所を辿る「こんな所に一軒家」なる番組も出てきて、そこでは長閑に明るい笑顔で暮らしているご高齢のご夫婦を紹介して、興味深いものです。

一方で、昨年在留外国人数は247万人になり、全人口の1.9%で推移しています。
外国人労働者も127万人になりました。

最近コンビニでは、東南アジアのアルバイト生しか見なくなりました。
日本の人口の自然減、高齢化、労働力不足を代替するマンパワーになっています。
留学生や技能実習生の実態は形を変えたで稼ぎになっているケースも多く
しかし、その受入れ体制や制度には、多くの課題が残っています。

そこで、政府が経済財政運営指針の「骨太方針」で人手不足が深刻な分野で、外国人の就労を大幅に認める方針を出しました。
外国人労働者受入れの、本格的なスタートに立ちました。

そして、今年はハワイ日系移民150周年にあたります。
明治元年に約150名の移民が日本からハワイに行き、今では日系5世までいてハワイ全人口の2割弱を占めています。
日本は、観光インバウンド、まちづくり等の地域活性化策を行っていく一方で、外国人の流入に対処しながら
日本人ばかりの社会構成ではない、ハワイ型の社会作りも考える必要もありそうです。
我孫子は、東葛エリアでは HULAダンス人口の多いファミリーな人気地ですから、ここから何かが始められるような気がします。
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2018年08月20日

楽観主義は意思によるものである

日本の人口は、2008年の1.28億人をピークに減少しています。
社会全体の高齢化も進み、高齢者人口がピークになるのもこの頃で、ちょうど団塊ジュニア世代が高齢者となるのが2040年頃です。 高齢者人口がピークを迎える2040年頃には総人口は毎年100万人近く減少、1.11億人になることが予想されています。多くの市区町村の人口が2040年までに2割、3割減少することが予想されています。総務省のホームページでもみることができます。人口資料は、市区町村別の人口増減率の表のページ数9~11ですから、チェックしてみてください。

こうした人口構造の変化に対応した自治体行政のあり方が検討され始めているのですが、まさに未曽有の対応をせまられて、対応策は今後の課題です。
そうした中で、人口の増加が予想されているのは、川崎市、つくば市、港区、江東区など、ほんの一部の市区町村だけです。
人口が減少することで、出生率、労働力の低下、高齢者への対応ばかりが懸念されるが、そんな時思い出されるのが 「悲観主義は幼稚であり、楽観主義は大人のふるまいとも言える」と言ったのは、『幸福論』を書いたアランです。

『幸福論』で知られるアラン(本名はエミール・シャルチエ)は、パリの名門校などフランス各地の高校で、哲学の1教師として生涯を貫いた人物。高校教師でありながら社会的な事件に対して積極的に発言し、政治活動や講演活動にも参加しました。新聞への寄稿も精力的に行い、連載した文章は膨大な数に及びます。『幸福論』は、第1次世界大戦前後に執筆した文章のなかから、「幸福」をテーマとしたものを集めて編纂した書でした。93編のプロポ(断章)と呼ばれる、短くて独立したコラム的な形式で書かれているのが特徴です。形式の斬新さだけではなく、内容も難解で観念的な哲学書とは異なり、平易な言葉で書かれた思索の本となっています。日常生活の具体的な事柄を例に幸福になるための指針やヒントが語られていると、多くの読者に親しまれています。

 女性のチカラが発揮されるよう、社会改革が進行中です。男は仕事、女は家庭という男女役割でがんじがらめであった時代を乗り越えると、出生率も多少とも上向く気がします。「楽観主義は意思による」「悲観主義は気分による」、と考えると、まだまだ考えると方策が出てきそうです。つづき
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2018年08月19日

週末のご馳走!?

朝食は、つくし野の「新鮮市場」で購入したズッキーニをグリル焼き、「あびこん」で購入したニンジンをピクルスなどと、残りご飯をカレーピラフ風にして、お取り寄せの乳酸菌いり青汁のシェイクでした。ワイン、酢、庭で積んできた月桂樹の葉などで入れたピクルス液に、キュウリ、カリフラワー、ニンジンなどを一口大に切って漬け込み、コリコリと歯ごたえよく食べるのが、暑い季節には嬉しいです。小さな陶器のお猪口で切り落としたニンジンの葉が生える部分を水栽培して、新芽の緑が出てくるのを楽しみつつ、3−5p位伸びては、つまんで食べたり、または刻んでパセリのようにして、カレーピラフのトッピングに使ったりすると、なんだかビタミン、ミネラルが取れた感があってお得感、二度楽しめます。

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夕方は、近所を散歩がてらつくし野界隈を歩き、「シャンティーイ」まで行きました。初孫の誕生以来、毎月なにやら母子で泊りに来るので、ケータリングが定番でしたが、お店で食べるのは、やはり出来立てで一段と”美味い!” ディナータイムに、お店まで来てワインを飲みながらというのは初めてだったかもしれないと、なんだか新鮮な気分でした。

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2018年08月18日

韓国国民はクールな反応、初の「慰安婦の日」

韓国で今年から国家記念日となった「慰安婦の日」(8月14日)は、想像以上に騒ぎにならなかった。日本政府やメディアの間には事前に警戒感があり、日本の反応を肌で知る在京韓国大使館にも心配する声が強かったのだが、韓国国民の反応はクールだったと言えるだろう。韓国側の言動には日本側が過剰反応する恐れはあるだろうと考えていた。だが、そうした心配も今年は当たらなかったようだ。韓国内では、朝鮮戦争後に、韓国兵はベトナム戦争にも派遣されて、そこでベトナム女性をレイプ、虐待したという事実があって、ベトナム人が抗議の記念碑を設置してこれに対する運動をおこしているというのが知られるようになってきたこともある。聖人と野獣というのではなく、哀しいかな、戦争という状況は兵士を野獣に変貌させていくのが世界で起きていた、そういうことが知られてこなかったのだという事実にも気が付き始めた。

 ただし、日韓関係に大きな影響を与える問題について韓国側が軽く考え、日本側が過剰反応する構図がなくなったわけではない。その典型が慰安婦問題である。慰安婦問題に対する関心は今や、韓国より日本の方が高い。日本のことを知らない韓国の政府当局者やメディア関係者にそう言うと必死に否定するけれど、そうした反論は「被害者である韓国の方が強い思いを持っていて当然だ」という思い込みから出ているものにすぎない。日韓の状況をきちんと比較して反論してくる人には会ったことがない。

 韓国世論に絶大な影響力を持っていると言われることの多い「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連、旧韓国挺身隊問題対策協議会=挺対協)」にしても、実態以上に評価されている面がある。この団体は今年初め、青瓦台(大統領府)サイトのシステムを使って電子署名集めをしたのだが、結果は30日間で20万人という目標を大きく下回った。団体幹部は「平昌冬季五輪の期間中だったから大々的な署名集めをしなかった」と釈明したが、集まったのは、1919人だったのである(署名集めの経緯については毎日新聞サイト「政治プレミア」のコラム「挺対協は過大評価されていないか」https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20180727/pol/00m/010/004000d で詳しく紹介した)。

 その結果もあるのだろうか「慰安婦の日」の式典では文在寅大統領が演説で、2015年の日韓合意に直接は言及せずに「この問題が韓日間の外交紛争につながることを望まない」と語った。むしろ、「慰安婦問題は韓日間の歴史問題にとどまらず、人類の普遍的な女性の人権の問題だ」「私たち自身と、日本を含む全世界が反省し、二度と繰り返さないという教訓にすることで、初めて解決できる」と訴えた。不可逆的に、未来に向けてとの合意を、文大統領が結果的に踏襲していた事になった。国民の感情を煽ることも、国際社会の認識が韓国政府寄りになることもないとの状況になりつつある。また、これまで韓国国民が過去の事実としての慰安婦問題を知ったうえで、且つ日本政府が、韓国に国家賠償をまったくしていこなかったという、軍政政権の朴政権時代からの刷り込みも単に鵜呑みをするのでもなくなったということだろうか。

 日韓合意ですべて解決したとは言えないものの、この夏にあっては、北朝鮮との国交問題が浮上して、新たな歴史認識が始まっている最中に、日本に対して辛辣に再交渉を求めるようなことはしない、従来の姿勢を改めた形で強烈に触れないという事を示した。この問題を荒げる形で深く立ち入る考えを持っていないことの再確認だとも言える。

 日本の新聞の中には「国内の求心力維持に『歴史カード』を使い続ける姿勢を改めて鮮明にした」と評価するものがあったけれど、これは的外れである。むしろ、韓国社会における日本への憎悪感が低下、それを国民の感情を揺さぶるのに政権をまとめる求心力として利用する程の効果を対日外交に期待するのは難しくなっているからだ。

 そうしたことから、今年に初めて国家記念日「慰安婦の日」であったが、韓国メディアも文大統領の演説を報じたものの、ほとんどの新聞は5面や6面で取り上げた程度だった。慰安婦問題に熱心な進歩系紙「ハンギョレ新聞」でさえも、社説で取り上げた主要紙はゼロだったのであった。


参照:WEDGE Infinity(8月17日)

つづき
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2018年08月17日

反対メディアは The enemy of the people?!

 有力紙ボストン・グローブの論説委員室が呼びかけた、トランプ大統領への報道の自由を訴えは、一斉社説の取り組みになって、同社によると、週刊紙など今後の掲載も含めて400紙以上が賛同しているという。自らに批判的なメディアを「国民の敵(The enemy of the people)」と執拗(しつよう)に攻撃するトランプ米大統領に対抗しようとアピールして、広がりをみせている。

 「報道の自由」を共通のテーマとして、各社がそれぞれ書いた。ボストン・グローブ紙は「記者は敵ではない」と題し、「自由な報道機関を国営メディアに置き換えるのが、あらゆる腐敗した政権がまず着手することだ」「米国の偉大さは、権力者に真実を突きつける自由な報道機関に支えられている」などと訴えた。

 同紙でオピニオンなどを扱うアイデア部のアレックス・キングスバリー副部長は朝日新聞の取材に、「各社で歩調を合わせて社説を掲げることで、米国民に対して『民主主義にとって報道の自由は大切だ』と伝えたかった」と語った。他社からの反響は大きいという。「米国の記者の多くが、メディアを敵と位置づける大統領の言動を強く警戒していることを示した」

 今回の取り組みには、地方の主要紙であるダラス・モーニング・ニュース、デンバー・ポストなどのほか、小規模な新聞も多く加わった。賛同したニューヨーク・タイムズは、「気に入らない事実を『フェイク(偽)ニュース』とするのは民主主義の源泉を脅かす。記者を『国民の敵』と呼ぶのは危険の一言に尽きる」などと記した。

 新聞各社のアピールを、米政界も後押しした。米上院は16日、「報道機関は国民の敵ではない」などとする決議を、与野党問わず全会一致で採択した。
同日明らかにした米朝首脳会談に対する立場を「今日の結果が出るまで、関心と愛情を示してくれた世界各国の指導者たちにも感謝の気持ちを伝える」ことで締めくくっただった。
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2018年08月16日

ボランティアの活躍、行方不明2歳児を無事保護

 山口県周防(すおう)大島町で12日から行方不明になっていた、2歳になったばかりの藤本理稀(よしき)ちゃん)が15日早朝6時半ごろ、同町家房の曽祖父宅付近から数百メートル北東の山中で発見、保護された。

 県警によると、理稀ちゃんは脱水症状がみられるが、目立った外傷はみられず、理稀ちゃんは母親(37)や祖母らと面会し、受け答えもできていたという。
親から離れて飲まず食わず、夜中には真っ暗になるのもへこたれず、泣きぬれて脱水症状という最悪のケースが避けられ3日目を無事に親元に戻ることができた。
 
 県警柳井署が山口県周防大島町役場を通じて行方不明の通報を受けたのは12日午前11時半。90人態勢で、理稀ちゃんが最後に目撃された曽祖父宅近くを中心に捜索。140人態勢を組んだ13日は、ため池や側溝、古井戸、空き家などに重点を置いた。ヘリコプターや、体温を感知するセンサーが付いたドローンを使い、上空からも捜した。町内の公共放送での呼びかけも利用されて、母親の申し出で「よっちゃーん、早く出てきて、お母さん待ってるよー」と何度も必至で呼びかけを続ける、母親の憔悴感も周囲に痛々しく伝わってきた。しかし、14日になって、集落の周囲のすべての山を捜索範囲に加え、数十人ずつの捜索班に山を割り振ったものの、発見現場の一帯も捜したが、手がかりは得られなかったという。

 15日早朝からボランティアで捜索に加わっていた大分県の70代の男性が、理稀ちゃんの名前を連呼しながら山中を分け入っていくと「ぼく、ここー」と返事があった。男性は、もと鮮魚店を営み、売り声が通す気合がちがったのか、ボランティアの熱意と経験から、山の上に向けて声を上げながら山中に入ると、ほどなく理稀ちゃんの反応が耳に入ったのだという。沢の近くでしゃがんでいたといい、男性が用意してきたあめ玉をあげると、かみ砕くように3つを食べたという。抱っこしようかというと頷くので、男性は理稀ちゃんを持参していたバスタオルにくるんで山を下り、途中で警察官と合流して、曽祖父宅に送り届けた。
 柳井署の道下斉亮副署長は、理稀ちゃんの年齢を考え、まずは近くの井戸など事故に巻き込まれそうな場所を中心に捜索したと説明。山中も捜したが「かなり広大で、すべての場所を綿密に見ることができたかは分からない」といい、「『一刻も早く見つけてあげたい』という一心で捜したが、結果的に見つけることができなかったのは残念」と話した。

 理稀ちゃんは12日午前10時半ごろ、祖父(66)と兄(3)と歩いて約400メートル離れた海岸に海水浴に向かったが、家を出て100メートルほどのところで、「帰る」などと言って、1人で家に戻ろうとしたという。


参照:朝日新聞8/15
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2018年08月15日

末期の戦闘、命令した上官が戦意を美化

爆弾を抱えた航空機で敵艦に体当たりをする「特攻」は、一般に「カミカゼ」と言われるが、昭和19(44)年10月25日、レイテ(フィリピン)防衛戦に投入された海軍初の「神風(しんぷう)特別攻撃隊」は、劣勢に追い込まれた日本軍の起死回生の作戦だった。
零戦に250キロ爆弾を装備して敵艦に体当たりする。日本軍の航空機と搭乗員が減る中、練習航空隊も特攻隊に組み入れられることになった。

無謀な作戦の背景には戦況の悪化はあるものの、作戦立案において「体当たりは、爆弾を落とすよりも簡単だろう」といった空戦の経験のない参謀たちが中枢を占めたことがあげられる。

 その効果に関しても当時、現場のパイロットから疑問が投げかけられていた。命中しても甲板を炎上させるだけで、大破撃沈には至らない。急降下爆撃による爆弾投下が有効と意見を呈するベテランパイロットたちに対して、しかし「命が惜しいのか」と一考されることはなかった。

 栗原俊雄著『特攻──戦争と日本人』(中公新書)によると、8月15日の敗戦までの特攻隊員の戦死者は海軍2431人、陸軍1417人(戦死者数は諸説あり)。対して、撃沈した米軍艦船は合計47隻。しかし大半が小型駆逐艦や輸送船などで、標的とした正規空母、戦艦の撃沈はゼロだ。

 戦後こうした特攻は「志願」によるものか「命令」されたものか、議論を呼んできた。


 紙切れと封筒を渡され、希望するかしないか、誰にも相談せずに書いて出せという。その場は重苦しい雰囲気に包まれた。

 当時、18歳だった。岩手県にいる母と姉、4人の妹や弟のことが気になった。一番下の弟とは12歳離れていた。2カ月ほど前に父が亡くなったばかり。体が弱い母と姉が働き、桑原さんは仕送りを続けていた。白紙で出そうかとも迷ったが「命令のままに」と書き、封筒に入れて出した。

 午後から、海軍飛行予科練習生(予科練)からの同期生で酒でも飲んで気分を変えようと、北条の町(加西市中心部)に繰り出した。「何て書いた?」。自然とそんな話になる。白紙や「希望しない」という者はいない。「半殺しに遭うもんな」と語り合った。

 「建前社会の軍隊では本音が言えず、事実上の強制だった」

      ◇

 2日後、選ばれた者が発表された。名前もあった。頭の中が真っ白になった。家庭の事情に配慮してくれるという淡い期待は裏切られ、大きな足で踏みつぶされたような圧迫感を覚えた。予科練の同期18人の中で選ばれたのは操縦技術の優れた順だった。

 燃料が足りないため、航空機には選ばれた者しか乗れず、宿舎も別になった。指名されなかった者はほっとする一方、肩身が狭い。彼らの複雑な心境をその視線から感じた。

 爆弾を投下して戦果をあげて帰還すると、上官から非難された。「なぜ死ななかったんだ」「次は必ず死んでこい」と。戦果をあげる手段だった特攻が、目的にすりかわってしまった。なんとなく人間が操縦したほうが命中率は高いように思われがちですが、それは現場を知らないからで、実際は爆弾を投下したほうが破壊力がある。だから飛行士は憤り、その愚かしさを訴えた。爆弾を落とすほうが戦果が出るのが、飛行機は揚力があるから体当たりをしようとすると減速して破壊力が落ちる。機体は軽金属で、分厚い鉄板に生卵をぶつけるようなものでしかない。

 離着陸、編隊飛行、降下。これまでしてきた訓練の中に変化もあった。降下爆撃なら、一定の高さまで降りたら操縦桿を引いて上昇するが、特攻の場合はそのまま突っ込む。

 「大地がぐっと迫ってくるのに、引いちゃいけないんだ、という緊迫感があった。『死』を完成させるため。これは大変なことだ、と思った」

自発的に編隊に加わったとの主張を続けた倉澤清忠少佐の存在は凄まじいの一言。戦後、復讐を恐れて80歳まで拳銃を持っていたという記述には唸りました。本人が自分のしたことの意味を知り、どんなに怯えていたのか分かります。同時に、インタビューのあけすけな語りに、これまた唸ります。「12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ」を始めとした発言に衝撃を受けます。
 最初の特攻で米軍商船を改造した「護衛空母」に体当たりして沈没させた。防御力に劣る船だったから成功したと判断できるんだけれども、上層部は「空母」とし、“零戦1機で空母を沈めた”と喧伝することになる。そういう上層部の人たちは戦後も生き残り、特攻を美化していった。


    ■    ■
 海軍に遅れはするが同年11月12日には、陸軍初の特攻隊が出撃している。陸軍の特攻でありながら、正式な隊名を名乗れなかったという。
正式に部隊を編成するとなると、天皇の裁可が必要になる。責任が天皇に及ばないように「リーダーをもった憂国の同志集団」ということにした。海軍は天皇の裁可した軍令で編成している。

 海軍と陸軍が同時期に特攻を考え、海軍の「神風(しんぷう)」が先行した。(最初の特攻遂行後に)天皇が「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」と言ったと記録されています。特攻では、人間魚雷の「回天」なども早くから考えられていた。しかし、軍の中枢がなぜ特攻に急速に傾いていったのかはまだ明らかにされていません。


 陸海軍ともに初期の特攻隊には、戦果を重視しベテランパイロットを投入。とくに海軍初の特攻では関行男大尉の体当たり攻撃により、米軍「護衛空母」を撃沈させたことの戦意発揚効果は大きかった。

 しかし、特攻は機とともに飛行士の命を失うもので、回数を重ねるにつれ飛行時間が少なく「離着陸がやっと」の少年飛行兵や予備学生らの若い操縦士が充てられ、ガソリンの欠乏から操縦訓練さえ満足にできないまま出撃していったという。

 若い操縦士が選ばれたのは、ベテランを「本土決戦」に残そうとした狙いもあったとされるが、選出する側が身内であるエリート士官に配慮した面が大きいとされる。古参兵のなかには「俺を選んだら許さんぞ」とすごむ者もいたといわれる。

 特攻機が不足するに及んでは、誰が見ても不向きと思われる爆撃機や練習機までも投入。整備兵をして「こんな子供たちをこんなぼろ飛行機で」と悔しがらせたほどだった。

 無謀な作戦の背景には戦況の悪化はあるものの、作戦立案において「体当たりは、爆弾を落とすよりも簡単だろう」といった空戦の経験のない参謀たちが中枢を占めたことがあげられる。

 73年前、鶉野飛行場で訓練した姫路海軍航空隊から神風特別攻撃隊「白鷺隊」として出撃した63人が命を落とした。1・2キロの滑走路が伸び、防空壕や機銃座が残る同飛行場跡を平和学習や観光などに活用しようと、市は整備を進める。


参照:週刊朝日
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2018年08月14日

計257回の公判と4.5億円超のオウム裁判費用

 オウム真理教の一連の事件で死刑が確定していた6人の死刑が執行された。教団の元代表の麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚ら7人には7月6日に刑が執行されていて、教団に対する強制捜査から23年余りがたって13人の死刑囚全員に刑が執行された。

’89年の坂本堤弁護士一家殺害事件の頃からオウム真理教の取材を続け、’94年には教団から命を狙われたジャーナリストの江川紹子氏は 「刑事事件としての真相は裁判でほぼ解明されていますし、相当の時間と経費も費やしてきました」とはなす。


 一審では、初公判から判決まで7年10か月をかけ、257回の公判が開かれた。しかも麻原には、特別に12人もの国選弁護人がつけられ、その弁護費用は4億5200万円にも上った。

「控訴審で公判が開かれずに一審での死刑判決が確定したのはおかしい、と主張している会がありますが、これは麻原の弁護人の戦略ミスで提出すべき控訴趣意書を提出しなかったためです」

「治療によって麻原に真実を語らせるべきだった」とする意見に対しても、江川氏はこう反論する。

「裁判所も拘禁反応が全くないとは言っていませんが、MRIや頭部CTなど器質的な検査も含めた精神鑑定も行い、彼自身や他の法廷での言動を細かく分析して、訴訟能力はあると判断したのです。麻原は自身の裁判では(意図的に)支離滅裂な発言を繰り返してきましたが、元部下の裁判では自分に都合の良い主張ばかりを雄弁に語っていました。とても訴訟能力がないとは思えず、仮に治療したからといって真実を語るとも思えません。同会は明らかに事実を軽視しています」

 事実を正しく伝えていなかったのは、一部文化人に限らずマスコミも同じである。

 ’93年ころまで、SPA!をはじめメディアの多くがオウム真理教を好意的に報道しており、江川氏は「とても苦々しい思いだった」と振り返る。その最たる例が『朝まで生テレビ!』(’91年放送、テレビ朝日系)での、「幸福の科学vsオウム真理教」と銘打った回だ。

「幸福の科学は教祖不在、オウム真理教は麻原を含め幹部がズラリと出席。万全の態勢で臨み、放送で麻原の弁舌を見た人の中にはオウム真理教に入信してしまった者もいます。坂本さんの事件のときは、事件現場にオウム真理教のバッジが落ちていたことを受け、当時教団の広報担当だった上祐史浩はマスコミに対し、『教団のバッジをつけて殺害に行くなんて常識的にありえない』と詭弁を披露。結果、多くの人がその言葉に騙されました。そして最近の“真相は闇の中”報道でも世論に正しく情報が伝わっているとは思えません」

【江川紹子】

オウム真理教の取材の功績が評価され、’95年に「菊池寛賞」を受賞。麻原の四女の未成年後見人を務めたことも。著書に『オウム事件はなぜ起きたか』(新風舎文庫)など多数


出典:日刊SPA8/13
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2018年08月13日

台湾で慰安婦像の設置

台湾で初めてとなる「慰安婦像」が南部・台南市の繁華街に設置されることが13日、分かった。
人権団体を名乗る「台南市慰安婦人権平等促進協会」が、野党、中国国民党の馬英九前総統の出席の下、14日に除幕式を行うとの取材案内を報道機関に送付した。馬氏は在任中、慰安婦問題で日本に謝罪を要求した。

 設置場所は国民党台南市支部の敷地内で、同支部が関与を認めた。「慰安婦像」は台湾人の作家が制作した女性像。背後に中国語、英語、日本語、韓国語で説明文の看板を設置する。看板には1937年の南京攻略後、30万人が「虐殺やレイプ」に遭ったとの記述のほか、慰安婦について人数が「20万ないし40万人」との主張や「国連人権委員会で性奴隷と認定された」との内容が記された。

 台湾には元慰安婦だと名乗り出た女性2人が生存している。しかし、元慰安婦を支援してきた人権団体「台北市婦女救援基金会」は、促進協について「詳しく知らないし連携していない」と答えた。


参照:産経新聞 8/13
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2018年08月12日

強運はお礼をいうことについてくる?!

中谷彰宏『強運になれる50の小さな習慣』(PHP出版)

用件に入る前に、お礼を忘れていないだろうか。
電話をかける時、いきなり用件から入っていませんか。
何か、お礼を言うことを忘れていませんか。

お礼は、後回しになってはいけないのです。
「こんにちは。この間のあれ、ありがとうございました」というのが、いつなんどきでも、話し始めの言葉なのです。

人は、相手に何かをあげたり、おごったりしたことはよく覚えているものです。
だからこそ、久しぶりに会った時、「先日はステキなものをいただきありがとうございました」「この間はごちそうになりました」と言われると、とてもうれしいのです。

「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻む」という言葉があります。
縁を大切にする人は、どんな小さなことであっても、受けた恩をずっと覚えている。
そうすることで、縁が広がり、またいつかその縁に助けられることもある。
用件に入る前に、お礼を言うべきを思いかえす余裕をもちたい。

英語でも、マジックワードと言われるのが、Thank you だから、世界共通にお礼をいうことは人とのコミュニケーションを円滑にして、運をも開くということです。
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2018年08月11日

(非核)平和記念式典

我孫子市被爆者の会の皆さんは、広島、長崎から転居されてお住まいになった方もおられますが、初代会長の染谷氏は我孫子から広島に軍人として派遣されていて、二次被ばくされたのだと聞いた。戦後、このような戦禍が二度と万民の上に起きないように、このような歴史を再び人類が繰り返すことのないよに、風化の恐れを感じながら行動をお越し、当地での非核平和活動の端緒をつけた。

その後、二代目の会長となった山田氏、副会長の清水氏、顧問の藤本氏らに我孫子での真摯な非核平和の活動をしている会であることを教えられ、平和条例をつくろうとの運動をおこした。初回の中学生広島派遣にも同行して、お仕事の関係で広島に移り住んでいた我孫子市民とも語り合った。
毎年、市内の皆様の協力で折鶴がたくさん集められ広島へ送られるので、私も心を込めて折って一翼に加えて頂いた。

CIMG3576.JPG  CIMG3575.JPG  CIMG3581.JPG そして、今夏は広島生まれの女優・綾瀬はるかの朗読を

映像化した映画『いしぶみ』(是枝監督作品)も上映された。
 
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2018年08月10日

知られざる第二次大戦、日系部隊の死傷率314%

1868年、日本最初の移民がハワイに向かった年から150年が経った。
153名を乗せた船は、34日かけてハワイに着いた。

ハワイで一旗揚げたい人、貧しさが嫌で飛び出した人のほとんどが17歳から23歳の男性だった。
ハワイは製糖産業で人手不足だった。

夢と希望を持って渡ったものの、労働の内容は故郷でしていた事とほぼ変わらない。
「話が違う」「帰りたい」と言う人も出てきて、40人が帰国。
100人が残った。契約の3年が過ぎた。ほとんどが、帰国しなかった。
中にはアメリカ本土に渡った人もいた。しかし50人は、ハワイに残った。
そこで、結婚したり、事業を始めた。そして、二世、三世が生まれた。

ところが、パールハーバーが彼らの運命を変えた。
日本人というだけで不当な扱いを受けた。
二世は、自分たちの子孫を守るためにもアメリカ軍に志願兵となって戦った。

それが、米軍の伝説にもなる442連隊。
彼らの活躍によって、日本人が認められることになる

第二次世界大戦中、士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成された。
第442連隊はヨーロッパ戦線の激戦地に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。
その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示している。
特にその負傷者の多さから、「パープルハート大隊」とまで呼ばれた。

約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ合衆国軍事史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、米国史に名前を残すことになった。

アメリカ政府は、真珠湾攻撃の後、アメリカ国内の日系人社会の動向を不安視していたことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。そして彼らは有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の辛い状況に置かれていた。

ハワイ準州(Territory of Hawaii)居住の日系人については、全体の人口に対して、その率が島によっては人口の半分程度とあまりにも多く[3]、生活や経済が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、当局は日系人社会に対して影響力が高いとみられた日系人会幹部や僧侶ら数百人をホノルルのサンド・アイランドの収容所に収容、後に人数は数千人に増え、オアフ島のホノウリウリ抑留キャンプをはじめ、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島(一部は本土)の数か所に強制収容したものの、全日系人が対象とはならなかった。

イタリアに到着していた第442連隊は第1大隊が解体されたため1個大隊欠けていた編成となっていたので、6月に第100歩兵大隊を第442連隊に編入して、第442連隊戦闘団をベルベデーレ、ピサなどイタリア北部での戦闘に参加させた。1944年9月に部隊はフランスへ移動し、第36師団に編入された。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘を行う。10月15日以降、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた。一帯は、山岳・森林地帯であるため戦車が使えず、歩兵の力のみが頼りであった。20日には町を攻略したものの、第36師団長ジョン・アーネスト・ダールキスト(John E. Dahlquist)少将の命令により、引き続き町東方の攻略を継続した。

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、テキサス大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられる激しい戦いだった。また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)に十月に一緒であったダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、ダールキスト少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「将軍、K中隊の残りは彼らだけです(That's all of K company left, Sir)」と答えた。その報告を聞いたダールキスト少将は落胆の余りスピーチさえ出来なかったという。10月に第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたたのである。なお、戦後のブリュイエールでは、ダールキストが団長として率いた部隊の活躍を記念して通りに「第442連隊通り」という名称がつけられた。ブリュイエールでは1994年10月15日には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。

参照:Wikipediaつづき
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2018年08月09日

The sppech from nagasaki

首相経験のあるグテーレスが国連事務総長に就任したのは1917年1月。
リスボンで生まれ、育つ。高等工科大学 (IST) で物理学と電気工学を学び、1971年に修了、助教として学問の世界に入った。政治と関わりを持った。それから間もなく学界を退き、政治活動に専念するようになった。在任中、ポルトガルに対する世界の注目度を高めた1998年のリスボン国際博覧会の誘致に尽力した。

1999年に首相に再任され、2000年1月から7月には欧州理事会の議長も兼務した。しかし、首相としての二期目は苦しい時期となった。経済の低迷とヒンツェ・リベイロ橋崩落事故の影響に加えて、党内対立がグテーレスの権威と人気を揺るがした。2001年12月の地方選挙で、社会党は大敗を喫した。これを受けてグテーレスは「国を政治的な泥沼に陥れないため、職を辞す」と表明し、辞任した。グテーレスはポルトガルの政治から退き、2005年まで社会主義インターナショナルの議長を務めた。

2005年5月の国連総会で、グテーレスは国連難民高等弁務官に選任された。2007年2月16日のナショナル・パブリック・ラジオによるインタビューでは、イラクの難民が直面している苦境について、1948年以降の中東で発生した最大の難民危機のひとつであると述べた。あまり一般に知られていない難民危機として、グテーレスは中央アフリカ共和国とコンゴ民主共和国における危機を挙げた。2011年にシリア内戦が発生すると、それによって生じた難民に対する国際的な支援を確保するために尽力した。2014年11月13日、明治大学名誉博士学位を授与された。2015年12月31日に難民高等弁務官を退任した。弁務官時代には経費のかかるジュネーヴ本部の職員数を3分の2に削減し、その分現場により多くの人員を投入した。

ポルトガル政府から支持を取り付けたグテーレスは、次期事務総長の最有力候補と目されていたとおり、2016年10月6日、国連安全保障理事会は次期国際連合事務総長としてグテーレスを国連総会に勧告する決議を採択した。13日には国連安全保障理事会の勧告を受け、国連総会はグテーレスを次期国連事務総長に任命することを決定した。

2017年1月1日、国連事務総長に就任。首相経験者が事務総長に選ばれたのはこれが初めてのことである。また、グテーレスは国際連合設立後に生まれた最初の国際連合事務総長となった。

2017年1月1日、前任者の潘基文に代わって事務総長に就任したグテーレスは就任後、初めてとなる声明で「新年に皆さんも私と決意を共有していただきたい。平和を第一にすると心に決めよう」と呼び掛けた。2018年8月9日、国連の事務総長では初めて、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に出席した。

1972年にルイーザ・アメーリア・ギマリャンイス・エ・メロ(1946年9月1日、ポルト生まれ)と結婚。ペドロ・ギマリャンイス・エ・メロ・グテーレス(1977年生まれ)とマリアナ・ギマリャンイス・エ・メロ・デ・オリヴェイラ・グテーレス(1985年生まれ)の1男1女を儲けたものの、ルイーザは1998年1月28日に、ロンドンの王立自由病院で癌のため亡くなった。

2001年には2人目の妻であるカタリナ・マルケス・デ・アルメイダ・ヴァス・ピント(1960年6月15日生まれ)と結婚した。カタリナには前夫のジョゼ・カルロス・ダ・コスタ・ラモスとの間に儲けた、フランシスコ・ヴァス・ピント・ダ・コスタ・ラモス(1998年5月20日生まれ)という連れ子がいる。

ポルトガル語のほか、英語やフランス語、スペイン語に堪能。歴史や地理、オペラを愛好し、とりわけ世界史に精通している。スポーツではサッカーを好む[。

アントニオ・マヌエル・デ・オリヴェイラ・グテーレス
ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はデ・オリヴェイラ、第二姓(父方の姓)はグテーレスです。

 式典に先立つ記者会見では、核禁条約に対する国連の姿勢として「全面的に支持し、発効することを望む」と述べた。核軍縮に後ろ向きな米国に対しては、「米国の決定は米国の決定だ。国連はできることを精いっぱいやっていく。国連がすべき役割を果たす」と強調した。

 「核保有国は、核兵器の近代化に巨額の資金をつぎ込んでいる。2017年には1兆7千億ドル以上のお金が武器や軍隊のために使われた。これは冷戦終了後、最高の水準だ。世界中の人道援助に必要な金額のおよそ80倍にあたる」

事務総長のあいさつ全文(英語版)

 2010年に当時の潘基文(パンギムン)事務総長が初めて広島の式典に参列したが、長崎の式典への参列はグテーレス氏が初めて。8日には田上富久・長崎市長と松井一実・広島市長や、被爆者団体の代表らと面談した。


「長崎を核兵器による惨害の最後の場所に」国連事務総長
被爆者はいま、核兵器はなくせないのか…核といのちを考える

 「核保有国には、核軍縮をリードする特別の責任がある」
 「広島と長崎の原爆を生き延びた被爆者の方々は世界中で平和と軍縮の指導者になった」と評し、「私たちはその声に耳を傾けなければならない」と呼びかけた。「私たちみんなで、この長崎を核兵器による惨害で苦しんだ地球最後の場所にするよう決意しましょう」と結んだ。
 
国連事務総長として初めて被爆地・長崎の平和祈念式典に参列したグテーレス氏の演説は、名指しは避けながらも、国連加盟国の大半が賛同した核兵器禁止条約に背を向けて「使える核」の開発をめざすトランプ米政権に向けた強い抗議のメッセージを込めた。米国から国連への「圧力」も強まるなか、米ニューヨークの国連本部では言いにくいことを、長崎から世界に発信したようにも見える。

 「核軍縮プロセスが失速し、ほぼ停止している。多くの国が昨年、核兵器禁止条約を採択したことで、これに対する不満を示した」

 核大国・米ロの二国間や既存の核不拡散条約(NPT)体制による核軍縮ペースの遅さが条約の誕生につながったと指摘した。ただ、演説で「核兵器禁止条約」に触れるのには、かなりの勇気と熟慮が必要だったのではないだろうか。


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2018年08月08日

健康長寿の研究

 日本人の平均的な「不健康な期間」は 男性9.13年、女性12.68年だと調査が出ています。これまで平均寿命を中心に考えていました。その時の0歳の人が、その後どれくらい生きるのかを示すのが平均寿命です。これに対して健康寿命は、2000年にWHO(世界保健機構)が提唱した概念で、厚生労働省が日本語でその定義したところによれば、「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」のことを言います。要は、日常的に介護などのお世話にならず、自立した健康な生活ができる期間のことですが、その点から見直すと、嫁が介護した時代から、独身のままの娘・息子が契約社員であったり、リストラされて同居することになると、おいおい仕事を辞めて介護する、もしくは、老人施設に費用を払って介護をする時代になってきた。

 そこで、加齢制御医学を専門とする白澤卓二・順天堂大学大学院教授は、100歳を超えても元気な人について調べ、「共通するのは長寿遺伝子が働いていることにあり、長寿遺伝子を活性化させ、健康寿命を延ばす条件もわかってきた」と、話す。実際に人間の長寿遺伝子が特定されたわけではないが、白澤氏は、100歳を過ぎてなお現役スキーヤーだった三浦敬三氏(故人)をはじめ、多くの“健康長寿者”に会い、体の状態や食事、生活習慣などから、長生きの秘密を研究してきた。それらを簡単にいえば、健康寿命を延ばすには、「(1)カロリーコントロール、(2)運動、(3)前向きな考え方が不可欠」と、白澤氏は特に食事について注目している。

 カロリーコントロールの必要性は動物実験で実証されている。長寿遺伝子「Sir2」を発見したマサチューセッツ工科大学(MIT)のガレンチ教授によれば、餌を制限した酵母菌や線虫のほうがSir2が活性化され、寿命も50%延びたという。「1日のカロリー摂取の目安としては、厚生労働省の日本人の食事摂取基準を参考に、栄養バランスは崩さず、腹七分から八分に抑えるべき」と白澤氏は言う。腹八分目の食事が長寿遺伝子を活性化させ、健康寿命を延ばすわけだ。

 また、老化を抑えるのに必要なのが抗酸化物質の摂取である。人間の体内では、ミトコンドリアでブドウ糖などの栄養と酸素からエネルギーがつくり出されるが、ミトコンドリアが漏出する酸素が活性酸素に変化し、細胞やDNAを傷つけ、老化を促進してしまう。つまり、活性酸素の無毒化・除去ができれば、老化を防げるということになる。

 特効薬はないが、日常的にできる対策の一つが抗酸化作用のある成分、食品を取ることである。特に重要な成分が3つある。まずビタミンE。脂肪の酸化を食い止める効果がある(ただし、脂溶性ビタミンのため、必要以上に取ると体内に蓄積されてしまい、注意が必要だ)。2つ目がビタミンC。活性酸素を消し去る力がある。3つ目にコエンザイムQ10。ミトコンドリアの膜に含まれる補酵素で、抗酸化力が強く、ビタミンEの抗酸化作用を助けることが知られている。

 「植物や動物は紫外線から身を守るために、抗酸化物質を蓄えている。抗酸化力の強い食べ物をしっかり取ることをお勧めしたい」と白澤氏は言う。βカロテンが豊富なニンジン、ビタミンCが豊富なブロッコリー、リコピンが豊富なトマト、アスタキサンチンの豊富なサケの切り身など、抗酸化力の強い食品はいろいろある。「食材を購入するときには、色の濃いものや、過酷な自然環境で育ったものを選ぶとよい」(白澤氏)。

 前述の長寿遺伝子発見者のガレンチ氏の食事は野菜中心で、ブロッコリーを積極的に取っているそうだ。ブロッコリーには、ビタミンのほかに、発ガン物質の活性化を抑えるイソチオシアネートやインスリンを助けるクロムなどさまざまな有効成分がある。厚生労働省が掲げる「1日に野菜5皿、果物2皿」の目安は、重量でいえば、野菜350グラム、果物200グラム。参考までにニンジン1本100グラム、リンゴ1個250グラムである。

 (5)に「お酒を飲むなら赤ワイン」と書いたが、これは脂っこいものを食べているのに心臓病が少ないというフレンチパラドックスのことだけではない。ハーバード大学のシンクレア博士は、赤ワインに含まれるポリフェノールの一種、レスベラトロールが長寿遺伝子に直接働きかけ、酵母菌の寿命を延ばしたという研究を発表している。 もっとも、アルコールの取り過ぎは問題。米国のガン研究財団は「ガン予防の15ヵ条」で、男性は1日2杯以下、女性は1杯以下に(1杯はビールで250ミリリットル、ワインで100ミリリットル)と定めている。

 長寿遺伝子を活性化させるために、食事と並んで重要なのが運動だ。運動は定期的、継続的に行なうことだ。「脂肪に含まれるアディポネクチンというホルモンは、血管修復や脂肪燃焼作用があるが、太った脂肪細胞からは分泌されなくなってしまう。つまり、脂肪細胞を太らせないようにしなければならず、生涯にわたって運動する必要がある」(白澤氏)

 興味深いことに、運動は何歳から始めても遅過ぎることはないという。たとえば水泳。体力や泳力は年齢とともに低下していくが、「練習によって開発される能力は高齢になっても向上することが専門家のあいだで確認されている」(白澤氏)。

 社会全体で考えても、急速な高齢化が進む日本にあっては、不健康な期間が延びると、介護費用、医療費用が膨大なものになる。現在、年金、介護、医療などの社会保障は現役世代(20歳〜64歳)2.4人で一人の老齢者(65歳以上)を支える「騎馬戦型」となった。これが、30年後の2050年には、現役世代1.2人で1人を支える「肩車型」になると予想される。ごく大雑把にいって、現役世代の5割を保証しようとすると、現役世代はお給料の半分50%を社会保障に回さないといけなないということだ。このような社会は持続可能とは言えまい。



参照:『週刊ダイヤモンド』(大坪稚子)



つづき
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2018年08月07日

フランス人女性、日光で行え不明

大学で知り合ったフランス人の友人から、知り合いのTiphaine Veron(女性、16Ap、グリーンの目、36歳。教師)が、日本で7月末から行方不明になっているとのことで、手がかりを探してと依頼されました。夏休みをとって日光に行き、ハイキングにいくと1人で出かけたまま、宿泊先のホテルに戻らず、一週間たったとのことです。てんかん性の発作を起こす持病を持っており、家族も心配して日本に到着しました。フランス大使館も動き出し、警察に捜索願いも出しました。山道を迷って戻れなくなった可能性もあり、健康状態の危険性もあるので、ちょっとでも見かけたなどの情報があれば、日光の警察に連絡してください。

hl.htm

情報提供は日光署 (電)0288・53・0110
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Sent: Saturday, August 4, 2018 12:22 PM
Subject: Fwd: french friend missing in Japan



A good friend of mine, Tiphaine Veron, is missing in Japan. She is 36 years old, height 1,62m and has green eyes. She sometimes suffers epileptic seizure. The last time we heard from her was the 29th of july and she was in Nikko. If you can share the message with her pictures (attached in this email) it might help us to find her. And if you know people that could help (officials...) don't hesitate to share with them. You can contact me directly via this email or by my cell phone ( or even what's app) if you have some news.

Thanks in advance.
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2018年08月06日

健康年齢のキャッチアップ

厚生労働省は本年3月に、介護を受けたり寝たきりになったりせず日常生活を送れる期間を示す「健康寿命」が、2016年までの調査によって、男性72.14歳、女性74.79歳だったと公表した。 平均寿命と健康寿命の差は、介護などが必要となる期間。この差を縮めることが社会保障費の抑制につながる。
 
厚労省の研究班が3年に1度の国民生活基礎調査(大規模調査)を使って推計した。熊本地震の影響で調査できなかった熊本を除く46都道府県のデータを使用した。前回(13年時点)と比べ男性が0.95歳、女性は0.58歳延びた。平均寿命との差も男女とも縮小した。厚労省は食生活の改善などが寄与していると分析している。

 健康寿命は男女ともに年々延びている。
 男性は01年に69.40歳だったのが、07年に70.33歳と70歳を超え、16年は72.14歳まで延びた。
 女性は01年に72.65歳だったのが、16年は74.79歳まで延びた。
 16年の平均寿命と健康寿命の差は男性8.84年、女性12.35年。13年と比べると男性0.18年、女性0.05年改善した。

 研究班の代表を務める辻一郎・東北大教授(公衆衛生学)は「要介護の大きな原因となる脳血管疾患の患者が、生活習慣の改善で減っている」と指摘。「高齢者の社会参加の場が広がっていることも健康寿命の延びにつながっている」とみている。

参照:
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2018年08月05日

トクトク、ウチトレ

な、なんと筋肉の構成単位である筋繊維の数は、基本的に生まれてから死ぬまで大きな変化はないそうです。使わないでいると筋繊維はどんどん細くなり、かわりに脂肪はつきやすくなります。地道に家庭でのトレーニングを心掛ければ、シニアの低下した筋力も向上します。ジュニアは、それこそアスリートを目指す子供でなくても、体育の授業で週に少なくても3、4回は体力造りをしているのですから、体力に自信がなくなっているシニアの皆さんはウチトレををしましょう。

シニアが衰えた筋肉を鍛えるには、「無理をしないこと」「鍛えたい筋肉に狙いを定めること」が大事です。

立ち上がるときや階段の上り下「りで、バランスを崩して転ばないようにする「大臀筋」とその奥にある「中臀筋」です。大殿筋は全身の筋肉で2番目に大きい筋肉、弱ると慢性腰痛、冷え性、尿もれ、生理痛などの症状が起きやすくなる。中殿筋」は下半身のバランス感覚を保つ鍵を握っています。このどちらも骨盤を支えています。またふくらはぎの奥にあるヒラメ筋」は歩くとき最後に地面を押し出し前進するための筋肉で、弱まるとつまずきやすくなるほか、ひざ痛、外反母趾、冷え性にもつながりますから、ここも意識して鍛えます。

太ももの中でも、内転筋群は意識しにくい筋肉ですので、筋トレする時は必ず意識しながら取り組んでいきましょう。
https://youtu.be/_-H51AIk3E0
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2018年08月04日

In My Life

ハーヴァード大学で統計学の准教授を務めるマーク・グリックマンとダルハウジー大学で数学の教授を務めるジェイソン・ブラウンによる新たな共同研究によって、“In My Life”を巡る議論に一つの結論がもたらされたと、私にもツイートされてきた。ビートルズの楽曲である、「In My Life」について、ポール・マッカートニーが曲を書いたというのは「勘違い」であり、実際はジョン・レノンによる作品だったとする新たな研究結果が発表されたのだ。なぜ、私がビートルズ・フリークだとの個人情報を知って、頼みもしてないのに知らせてくるのか、訝しい社会になっているとは思いながらも、相変わらずにB4のニュースが入ってくるのに目くじら立てるより、目頭が下がってしまった。
単なる有名人を超えてレジェンドとなってくると、色々に楽曲の作曲者について言いたい人も出てきて、その後何年にもわたって議論の対象となっていたのだったことを知った。「In My Life」は私も大好きな曲の一つ、1965年発表のアルバム『ラバー・ソウル』に収録されていた。当時、小学生だったが、ラジオからはよくヒットチャートに上るビートルズの話が満載の時代だった。イギリスやアメリカはポップ、ロックの発祥の地で憧れだった。未だ尽きない話題を提供するビートルズは、今世紀最大のクラッシックになる作曲家だというのは間違いない!彼らは、アカデミックな世界でも研究がされる対象になっているのがそれを証明する。

その頃はジョン・レノンの曲と認識されていた。つまり、ジョンが歌っていれば、その曲の着想をして、多くの部分をつくっているというのがファンの認識だった。次から次にヒットを飛ばすので、どっちがどこまで作ったのかなど些細なことだ気にしなかった。レノン/マッカートニーに関しては、当初の仲の良かった時代に、彼らは楽曲の著作権など固執していなくて、クレジットはいつも二人の名前が順よく並んでいた。

ところが、段々グループの事情は、ガールフレンドができたりすると一緒にばかりはいなくなる。マネージャーとの関係も複雑になり訴訟にまで至る。リリースからおよそ10年後に、ポールはラジオDJのガンバッキーニのインタビューに、「ジョンがあの歌詞を書いて、僕がそれに曲をつけたんだ。あれは素晴らしい曲だよね」といったような事からも、尾ひれがつきだした。ジョンはそれについて1980年に、ポールが作曲のパートナーとして書いたのはミドルエイトとハーモニーだけだと語っていた。今回の共同研究の結論は、ポールはこの曲を書いたことについて勘違いしており、統計学的に見ると、「In My Life」はジョン・レノンの作品のほうが遥かに、彼の作曲の流儀に酷似しているという。結局のところ、議論はいくらあっても、二人に関しての著作権が半分半分であることには変わりないので、論争もお好きにどうぞという事だが、学会ネタにもなるということだ。

この詩の内容も、ジョンらしい優しさ、夢想する哲学性が込められている。ポールはこうした傾向にはなくて、賢明でスイートだ。この作曲の当時には、シンシア夫人と蜜月の頃だったはずだけれど、ジョンは多くの人を愛した詩人だったと思う。亡くなってしまった人に思いを馳せるのは、ジョンの母親とは幼少期に別れており、再会まもなく亡くなってしまったことにもあるのかもしれない。



「In My Life」

人生において、変わってしまうものがあるけれど
いつも変わらず思い出す場所もある
永遠に変わらないモノもあれば、そうではないものもある
無くなってしまった場所や変わらずに残っている場所
そういった場所には
すべて恋人達や友人達との時があって
今でもそれらをはっきりと思い出す

死んでしまった人もいれば
今に生きている人もいる
この人生で出会ったそんな人達を、みんな愛している

しかしそういったかつての友人達や仲の良かった人でさえ
貴方に匹敵する人は誰もいない
この新たな愛には
それらの想い出なんて意味も失してしまう

過ぎ去った人々や物事への愛情を失うことはないけれど
時には立ち止まり 想い出に耽ることもあるけれど
でも今、人生での何よりも貴方を愛している

過ぎ去った人々や物事への愛情を失うことはないけれど
時には立ち止まり 想い出に耽ることもあるけれど
でも今、人生での何よりも貴方を愛している

僕は何よりも貴方を愛している



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2018年08月03日

今も昔も”排除”される女性

 東京医科大が一般入試で、女子受験者の得点を意図的に一律で減点していたとみられることが明らかになった。結婚や出産で医師を辞める例が多いので、女性合格者数を抑えて医師不足を防ぐことが各医大かなり行われてきたと発覚した。医師を目指す受験生や女性医師らからは「妊娠、出産は当然の権利なのに」「性別を理由にした差別は許されない」と憤りの声が上がっている。

 「努力しているのに、性別が理由で減点されたならひどすぎる」。医師志望の札幌市東区、札幌北高3年井沢莉子さん(17)は怒りを込めた。予備校に通い、1日約10時間は受験勉強に励んでいる。「同級生にも医師志望の女子は多い。男女で差別されるのは許せない」と話す。

 浪人しながら医師を目指す札幌市手稲区の西山綾音さん(19)は「こんな時代でも男女差別があるなんて、まして妊娠や出産は当たり前の権利なのにショック」。私立大医学部を目指す同市中央区の古畑花さん(21)は「女性だからこそできる医療もある。性別で差別されるのは理不尽。『女性は結婚して仕事を辞める』と決めつける風潮はまだある」と憤る。

 北海道で行った2016年の調査によると、道内の女性医師の割合は15・2%。年々増加しているものの、都道府県別で全国最低水準だ。女性医師の約6割が20〜40代前半に集中する。定年がないことから考えると、むしろ、出産や育児で離職を余儀なくされ、職場復帰できていない例が多いとみられる。  参考:北海道新聞(8/3)



 京都に話を移してみる。女性で初めて文化勲章を得た女性画家・松園。才能があっても、女は嫁に行くのが務めだと画家になとうとの志を砕く非難囂々だった。

父は生れる二ヶ月前に他界していた。母が女手一つで彼女を育て上げる。子どもの頃から絵がたまらなく好きだった松園は、小学校を卒業すると、京都に開校したばかりの日本最初の画学校に12歳で入学する。尊敬する画家の内弟子となって修業しようと退学、鈴木松年に師事する(1888年)。めきめきと腕をあげたので“松園”の号を与えられた。親戚や周囲には彼女のこうした生き方を非難する声も多かった。明治の世では「女は嫁に行き家を守ることが最上の美徳」とされており、教育を受けたり、絵を習うなどは中傷の対象だったのだ。

1890年、彼女は15歳にして第3回内国勧業博覧会に出品した「四季美人図」が英国皇太子コンノート殿下の買上げとなり、一等褒状を受け、「京に天才少女有り」と世間から俄かに注目されるようになった。新たな画法を学ぶべく師匠を幾度と変えていった松園は、20歳から京都画壇の中心人物・竹内栖鳳(せいほう)に師事する。やがて27歳で妊娠。相手は最初の師匠松年と言われているが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていない。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男・松篁(こちらも、画家になり文化勲章)を出産する。

私生活がどんな状況でも、早朝から絵の勉強を怠らず、その絵筆はますます冴え渡り、各地の展覧会・博覧会で作品が高く評価された。 誹謗や中傷が渦巻く中、1904年(29歳)には、展覧会に出品中の『遊女亀遊』の顔が落書きされるという酷い事件も起きる。会場の職員から絵を前に「どうしますか」と尋ねられた松園は、「そのまま展示を続けて下さい。この現実を見せましょう…」と語ったという。
小柄な松園だが精神力は鋼のようだった。その活躍が、「女のくせに」とライバルの男性画家たちから激しい嫉妬と憎しみの対象になった。晩年に松園が「戦場の軍人と同じ、血みどろな戦いでした」と記すほどで、女性の社会進出を嫌う保守的な日本画壇の中で、ひたむきに、孤高に絵筆を握り続けていったのだ。

作品に描かれる女性像はどれも凛として気品に満ちており、画風はどこまでも格調高かった。1907年(32歳)に始まった文部省美術展覧会(文展)では、毎回のように入選&受賞を繰り返し、第10回からは“永久無鑑査”となる。多くの人々が作品に魅了され、以降、帝展、新文展、日展の審査員となる一方でニューヨーク万国博覧会に出品もした。

1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が死亡。その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させる。それは女性が描く“真に理想の女性像”だった。様々な苦悩を克服して、燃える心を内に秘めるが如く、朱に染められた着物を着て、指し延ばした扇の先を、ただ真っ直ぐに、毅然として見つめる女性だった。「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです」(松園)。

1948年(73歳)、女性として初めて文化勲章を受章。その翌年74歳で逝去した。現代の画壇では「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」とまで言われている。


※近代日本の美人画の代表的作家は、西(京都)の松園と東の鏑木(かぶらき)清方。松園の3歳年下だった鏑木は、若い頃を回想して「松園の作品は自らの目標であり、裏返しても見たいほどの欲望にかられた」と記している。


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2018年08月02日

女子学生に対して医学部が配点を減点

東京医科大学をめぐって、私立大学の支援事業の選定で、文部科学省の前局長から便宜を図ってもらう見返りに、受験した前局長の息子を不正に合格させたとして、理事長だった臼井正彦被告(77)らが贈賄の罪で東京地検特捜部に在宅起訴されています。前局長の息子はことしの医学部医学科の一般入試を受験していましたが、一方で大学側が女子の受験者の点数に係数を掛けて一律に減点し、女子の合格者の数を抑えていたことが関係者への取材でわかりました。

関係者によりますと、こうした点数操作は、平成22年に合格者の女性の割合が男子を超えたことをきっかけに始まって、3割に抑えていたということですが、入試の募集要項には男女の定員に関する記載はなく受験者側には一切知らされていませんでした。

NHKの取材に対し、大学関係者の1人は「女子は結婚や出産で医師を辞めたり休職したりするケースが多く、大学病院の態勢を維持できないという危機感があった」と話しています。

ことしの医学部医学科の一般入試は、男女合わせて2614人が受験し、171人が合格しましたが、合格率は男子の8.8%に対し女子は2.9%にとどまっていました。

東京医科大学は「現時点で点数操作については把握していない。一連の不正については内部調査で事実関係を確認し、今月上旬をめどに結果を公表したい」としています。

大学関係者によりますと、東京医科大学では平成23年から女子の得点を一律に減点するようになったということです。その理由について、大学の関係者は「女性の医師は、出産で仕事を休んだり、子育てで急な出勤や長時間の勤務が難しくなることがあり、男性医師を多めに確保できないと人手が足りなくなり、病院の運営に支障を来すおそれが出るため、女子の合格者数を抑えることになった」などと話しています。

文部科学省は毎年、各大学に入試の基本方針を示した実施要項を通知し、入試が公正に行われるよう求めています。
そこでは、大学がどういう観点で選抜を行うか受験者にわかるよう明示することが必要だとしています。

今回の東京医科大学のケースについて、文部科学省は事実関係を把握していないとしたうえで、「どういう選抜を行うかは、募集要項などに明示し公にすることが重要だ。今回のように募集要項になにも示さず、男女の性差を理由に操作していたとすれば不当だ」と話しています。
つづき
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2018年08月01日

姉妹都市の解消を避ける為にも

大阪市は7月31日、旧日本軍の慰安婦像を市有化した米サンフランシスコ市に対し、像を市有物でなくすよう求める吉村洋文市長名の書簡を送ったと発表した。9月末までの返答を求めており、姉妹都市解消に向けた「最後通告」との位置づけだ。

 像は昨年11月に市有化され、吉村市長は関係解消の方針を決めたが、直後にサンフランシスコ市のエドウィン・リー前市長が急逝し、通知を延期していた。今回の書簡は7月に就任したロンドン・ブリード新市長に送った。

 書簡は7月24日付。慰安婦像に添えられた碑文について「不確かで一方的な主張をあたかも歴史的事実として記した」と指摘。「像と碑を市有物でなくすことにより、これまでどおり友好的に交流できる」「新市長のお考えが前市長と変わらないなら、姉妹都市関係を解消せざるをえない」とし、9月末までに新市長の返答を求めている。返答次第で大阪市は姉妹都市関係を正式に解消する。

 像は中国系米国人らの民間団体が昨年9月にサンフランシスコ市内のチャイナタウンに建てた。碑文には「性奴隷にされた何十万人の女性」などとあり、吉村市長は「日本政府の見解と違う」と抗議していた。サンフランシスコ市の前市長は昨年11月、寄贈を受け入れる決議案に署名し、像と碑は市有化された。

出典:朝日新聞
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