アメリカのホワイトハウスは、史上初の米朝首脳会談となる来週12日に行われる米朝首脳会談をシンガポール南部のセントーサ島にある「カペラホテル」で開くと発表した。シンガポールはこれまでアメリカと北朝鮮の非公式協議が行われるなど、対話の舞台になってきた。北朝鮮と国交があり、アメリカとの関係も良好で、中立的であることが歴史的な会談の舞台にふさわしいと評価されたとみられる。「セントーサ島」はテーマパークなどがあるリゾートで、島に渡る橋を封鎖すれば警備がしやすいというメリットがあるという。
島にはマーライオンタワー、水族館など等、多くの観光施設がある他、第二次世界大戦でも使用されたシロソ砦がある。シロソ砦はセントーサ島最古の軍用建造物であり、現存する唯一の沿岸要塞でもある。洗練された都市というポジティブなイメージが強いシンガポールだが、植民地時代や第二次世界大戦での凄絶な記憶を残す史跡の暗部もある。1800年代に当時宗主国であったイギリスによって建設され、シンガポールの海の玄関口であるケッペル港の西の侵入口とそこに貯蔵されている石炭の守備を担っていた。第二次世界大戦時にシロソ砦の大砲は敵軍との交戦に期待された砦だった。その英国軍が設置した先鋭部隊と対峙したのは日本であった。しかし、そこまでは考えず、私はシンガポールに観光に行った際に、過去の戦争の実態は歴史として学ぶべきだと考えて、子供たちを伴ってシロソ砦も見学したことがあった。
大日本帝国軍と称していたころの1942年2月7日から2月15日にかけて、当時シンガポールは、連合軍初の合同司令部で、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア連合司令部(ABDA司令部, ABDACOM)の結節点であった。難攻不落と謳われたシンガポール要塞を、思わぬ方角から日本軍が襲ったので、10日足らずで攻略した。結果、イギリスが率いる軍としては歴史上最大規模の将兵が降参した。難攻不落の砦といわれたシンガポール陥落で、イギリス軍史上最大規模の兵士の降伏であったから、世界に衝撃を与えた。それは次のような言葉が残っていることにも表れていた。
フランス ド・ゴール将軍2/15の日記
「シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」
アメリカ歴史学者 ヘレン・ミアーズは、「アジア大陸及び英仏蘭の植民地における日本の最初の勝利は、土着民の協力者達の活動によって獲得されたものである。二,三の著しい例外はあるが、日本の緒戦の成功は、ほとんど戦いらしい戦いをせずに獲得された。アジアにおけるヨーロッパの『所有主』達は、日本の軍隊に追われるというよりも、むしろ土着民の敵愾心に抗しかねて引き上げた。われわれは『解放』の戦とよんだが、アジアに於ける戦争はヨーロッパのアジア再征服 − (恥ずべきことには)アメリカの援助を伴った − の戦であることが判明したのである」と評した。
当時のイギリス首相であったウィンストン・チャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評している。
英国と商売していた華僑は日本軍が来るのを喜ばなかったが、マレー人がゲリラとして日本軍に協力したという側面もあって、日本軍の勝利へ結びついた。シンガポールを占領し昭南島として統治した。その展示室を更に進むと、降伏の間(Surrender Chambers)となっている。この際の降伏は、1945年に日本が降伏したのだ。
先の戦争に大きくかかわってきて、アジア全体が戦場とした日本であったことを忘れて、観光客として足を踏み入れると何とも心苦しい。
そういうことは、セネガルに行った際も、現地の知り合いに、世界遺産だからとガレ島=奴隷貿易の史跡に行って、ダークツーリズムのありようと考えさせられた、経験があったが、その際の奴隷商人とは英国や米国であったろう。
中国・北京では、欧米列強の爪痕を記す巨石が置かれて、説明版が置かれていたのを見て、中国を戦場にして戦った日本だけが、彼の地に攻め入っていたわけではないと示していたのが分かった、が。
ソウル郊外の抗日記念館のありようも、アジアを開放する名目と搾取とが交錯した帝国日本との抗日運動を記念する歴史とを踏また記念館であった。
今後の国際社会にどう未来を描くか、政治家の思惑だけではなく、グローバルな学術研究が必要だと思う。
シンガポール政府は5日、このセントーサ島を厳重な警備を敷く「特別行事区域」に指定した。
シンガポール外務省は「会談によって朝鮮半島の平和に向けた見通しが前進することを願う」としている。