日本の映画監督、アニメーション演出家として知られる高畑 勲氏が5日に亡くなった。ご冥福を祈るとともに、氏が果たした日本アニメの功績を讃えたい。(以下、敬称略)
宮崎駿は東映動画(現・東映アニメーション)時代の後輩にあたる長い関係である。東映動画時代、組合活動を通じて宮崎に与えた思想的影響は少なくない。東映動画を離れて以降も共に作品を作り続け、演出面でも宮崎に影響を与えた。ただし、晩年は二人三脚で作品を作ることはなくなっていた。
高畑は『となりのトトロ』について、「子供たちは森にトトロがいる可能性を感じられるようになった」と評価している。また、宮崎が基本設計した「三鷹の森ジブリ美術館」を激賞し、その建築的意義を称えている。また、宮崎は、その三鷹の森ジブリ美術館で開催された「アルプスの少女ハイジ展」で、高畑の演出を評価しながら詳細な解説を行ったり、『千と千尋の神隠し』の制作の際には、視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていたという。これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑に教わったためである[18]。鈴木敏夫によると、宮崎が一番自分の作品を見せたい相手は高畑で、宮崎が見る夢にはいつも高畑しか出てこないと話したことがあるという。
宮崎駿の映画は久石譲が『風の谷のナウシカ』以来、音楽を担当しているが、高畑が、まだ新進気鋭の作曲家にすぎなかった久石を、このとき決定したのが最初の出会いとなった。この起用に関して、当時無名の久石を起用することにレコード会社と製作会社が難色を示し、公開前年の夏から年末にかけて難航する事態となったが、高畑が防波堤となり反対意見を退けたという。
海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。場面設計だった宮崎駿、絵コンテを担当していた富野喜幸に与えた影響は大きい。『未来少年コナン』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎駿をアシストした。宮崎が監督する『風の谷のナウシカ』に参加しプロデューサーを務める。この『風の谷のナウシカ』が成功を収めたことから、宮崎はこの映画で得た資金を有意義に使いたいと考え、今度は高畑が監督する映画を製作しようと提案した。その結果、水の都福岡県柳川市の風情をとらえた映画『柳川堀割物語』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「二馬力」が製作を担当した。
しかし、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅を抵当に入れざるを得ない事態となった。困惑した宮崎は徳間書店の鈴木敏夫に相談し、『柳川堀割物語』の製作費を回収するには、新作アニメーション映画を製作しその収入で賄うしかないとの結論に至る。その後、宮崎と鈴木は新作映画『天空の城ラピュタ』の製作を目指し奔走することになる。
『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトは既に解散していたため、宮崎駿と鈴木敏夫は『天空の城ラピュタ』を制作してくれるアニメーションスタジオを探していた。そのとき、高畑が「ならいっそのことスタジオを作ってしまいませんか」と宮崎、鈴木らに提案した。これを受け、1985年、徳間書店が宮崎らの映画製作のためスタジオジブリを設立した。高畑も宮崎に請われてスタジオジブリに参加したが、高畑は「作り手は経営の責任を背負うべきではない」と主張し役員への就任を辞退した。
参照:Wikipedia
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