カズオ・イシグロが、本年ノーベル文学書に決まった。イシグロは「受賞は全く予想しておらず、驚いています。日本語を話す日本人の両親のもとで育ったので、両親の目を通して世界を見つめていました。私の一部は日本人です。今、世界はその価値やリーダーシップ、安全について不確実な時代を迎えています。この大きな受賞が、たとえささやかな形でも、この時代の善意や平和を後押しする力になることを願っています」とコメントを出した。
1954年、長崎市生まれ。日本名は石黒一雄。5歳の時に海洋学者の父の仕事の都合で一家でイギリスに移住し、英国で教育を受けに1978年にケント大学英文学科に入学、ギャップ・イヤーを取り、北米を旅行したり、音楽家になろうかとデモテープを制作しレコード会社に送ったりしていた。1980年にはイースト・アングリア大学大学院創作学科に進み、批評家で作家マルカム・ブラッドベリの指導を受け、小説を書き始めた。受賞作があった1983年、英国籍を取得した。86年、英国人女性と結婚、娘一人。
これまでに英国(=国際的英語圏)での文学賞を得て、知名度は日本でよりも高いくらいだった。82年の長編デビュー作「遠い山なみの光」で、王立文学協会賞を受賞。続く「浮世の画家」(86年)でも戦後の日本を舞台に、日本人を主人公に描いた。最初の2作は日本を舞台に書かれたものであるが、自身の作品には日本の小説との類似性はほとんどないと語っている。表紙に別人の写真を載せれば『日本の作家を思わせる』などという読者は誰もいないだろうと述べるほど、英文学である。谷崎潤一郎など多少の影響を与えた日本人作家はいるものの、むしろ小津安二郎や成瀬巳喜男などの1950年代の日本映画により強く影響されているとイシグロは語っている。日本を題材とする作品には、上記の日本映画に加えて、幼いころ過ごした長崎の情景から作り上げた独特の日本像が反映されている。1989年に国際交流基金の短期滞在プログラムで再来日し、大江健三郎と対談した際、最初の2作で描いた日本は想像の産物であったと語り、「私はこの他国、強い絆を感じていた非常に重要な他国の、強いイメージを頭の中に抱えながら育った。英国で私はいつも、この想像上の日本というものを頭の中で思い描いていた」と述べた。
イシグロの名を世界に広めたのは、英国で最も権威あるブッカー賞を受けた「日の名残り」(89年)だ。貴族につかえる執事の人生をつづり、英国を代表する作家になった。映画化され、アカデミー賞8部門にノミネートされた。カフカ的不条理に放り込まれたピアニストが主人公の「充たされざる者」(95年)、日中戦争下の上海を舞台にしたミステリー仕立ての「わたしたちが孤児だったころ」(00年)と新境地を開拓した。05年の「わたしを離さないで」は、臓器を提供するためにクローン技術で生まれた若者を主人公にし、大きな反響を呼んだ。「人間の本質とは何かを描きたかった」という。映画・ドラマ・舞台化された。
09年、初の短編集「夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」を発表。音楽家を目指したこともあるイシグロさんが、人生や愛の終わりとかなわぬ夢を描いた。15年の「忘れられた巨人」は、伝説の英雄アーサー王が死んだ後のイングランドで、竜が吐く霧のせいで記憶を失った老夫婦が旅をする。人種差別や戦争の記憶など、さまざまな記憶を想起させる作品。朝日新聞のインタビューに「夫婦の記憶の話であると同時に社会の記憶の物語でもある」と語った。
授賞理由は「人と世界のつながりという幻想の下に口を開けた暗い深淵を、感情豊かにうったえる作品群で暴いてきた」とされた。アカデミーのサラ・ダニウス事務局長は「ジェーン・オースティンとフランツ・カフカをまぜるとカズオ・イシグロになる。そこにマルセル・プルーストを少し加えなければいけない。彼は非常に誠実な作家で、彼自身の美学の宇宙を作り上げた」とたたえた。昨夏の英国の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票について、英紙に「怒り」を表明。国が分断されるとの危惧を訴えるなど政治的な発言もしていた。
■主な作品
・遠い山なみの光(1982年) 英・王立文学協会賞
・浮世の画家(1986年)
・日の名残(なご)り(1989年) 英・ブッカー賞
・わたしたちが孤児だったころ(2000年)
・わたしを離さないで(2005年)
・忘れられた巨人(2015年)