心理療法家の河合隼雄さんは、人間が幸福であると感じるためには2つの条件が必要であると考えていました。
一つは、自分の人生にきちんと向き合って生きるということ。
そしてもう一つは、自分を超える存在とつながっているという感覚があることだ、と。
自分を超越するものというのは、昔から神とか仏とかいわれているものかもしれません。
私の言葉でいえばサムシング・グレートですが、そういうものとつながらないと、なかなか人間は本当に幸せになれない気がします。
どんな人間も一人で生まれ、一人で死んでゆく。だから、生涯にわたって、何か無限のものにつながっているという事が安心感、人の幸せを左右する根本に必要だと考えられるのです。それには目に見えないものに価値を置いて、幸せを発見していくということになります。
人間は単に物質だけでは満たされないことは明白で、本当の生の充足をどうやって見つけていくかが大問題になっています。超高齢化を進む 日本がそのモデルを提示することができれば、日本は世界で役立つ国になれます。
人間はだれでも幸せを求めています。不幸を避けたい、死は不幸なことだと捉えてしまいます。
しかし、本当に幸せになるためには、死をどうとらえるか、どう死ぬかという問題を避けては行かれません。
ラテン語には「メメント・モリ」(memento mori)という警句があります。
それは「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味です。
死を意識することによって、今生きていることを実感する。永遠の生でないことを、必ず死があるとを思うとき、生の充実がある、ということです。古代ローマの時代「メメント・モリ」の趣旨は carpe diem(今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」ととらえていたのです。生死を戦い抜いて故郷に戻った古代ローマの将軍たちは、凱旋の行進で手を振りながら、従者にこの言葉を、叫ばせたのが始まりと言われます。それも、その後のキリスト教世界では違った意味を持つようになりました。天国、地獄、それによる魂の救済が重要視されることにより、死が意識の前面に出てきました。キリスト教的な芸術作品において、このテーマ「メメント・モリ」は、今生きてあることを実感するということよりは、天国と地獄のあることを強調する文脈で使用されるテーマになっていきます。いつか皆、死に直面することになることを忘れるな、キリスト教徒にとってそれは、かつての「死」への思いは「現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいもの」であること教えるようになり、徳を積み施すことこそが救いになるよう変化したということです。この意識の変遷は仏教世界にはもともとない、始まりから、「空」で虚しい死が第一義にあったからです。釈迦が生まれたのは、キリストよりも先であったことはその理由なのかもしれません。
いずれにせよ、人は死を忌み嫌われて、避けたい対象とされているのです。
ただ、昔の日本人は、自分を支えるものがある祖先があると信じていて、それを神様とか仏様と重ねあわせていました。今のように手術するような医術もなく、亡くなって当たり前でした。「お迎えがくる。仏さまになるんですわ」というようなおじいさんもいました。 しかし、行く先を知っているということが、その人を安心させていたのです。
どんなに長生きする時代になっても、人間は必ず死にます。これは絶対的真理です。 死を考えたうえでの人生観を持たない限り、人は不安を抱えて終わります。死をどうとらえるかが、重要になってきます。
私たちはこの世に生をうけたときから、死に向かって進んでいるわけですが、
生まれたばかり、十代、二十代では死に直面する事もありませんから、気づきにすらありません。
それが、人生後半になれば死はだんだんと身近なものとなり、我が身に避けられないと知る事になる。
「年を取るということは、あの世(神様)と近くなるということ。だから、神社やお寺のお役を受けるんだよ」と言った昔の人は当たり前に死を受け入れられました。寿命が延びて100才までとも、言われますが、どういう文脈であったにせよ、「自分が」いつか必ず死ぬことは避けては行けない、どう幸せを実感するか、徳を施すことがヒントのようです。