杉村楚人勧記念館にて 標記の記念展示を 下記の日程で行います
2017年3月7日(火曜日)から5月14日(日曜日)まで
血脇守之助は我孫子生れ、旅籠・かど屋(加藤家)の長男として生まれた。俊才の誉れ高く、18歳で白井村の相続者となることに決まり、養子になる。
新聞社に努めるうちに英字新聞の記事に目をとめ、歯科医の重要性に気づく。志を得て、医師試験に挑戦、免許を得ると巡回医療などを経て、会津で野口(当時の名は清作)に出会った。上京したら立ち寄るようにと声をかけると、その言葉を頼りに上京後は血脇のいる高山歯科学院にやってきた。医院長には反対されるが、自分の給料から、野口の寝食、仕事の面倒をみた。野口の天才ぶりに目を見張り、それからも結納金を使い込むなど破天荒に呆れることはありながらも、勉学、ついには留学・渡航の費用、あらゆる尻拭いの工面も助けた。借財をしてでも、多額の援助を拒まなかった血脇の助力は知られてしかるべきだ。そこで、ようやくアビスタ脇に建立された東京歯科医学専門学校の後輩が寄贈したという「血脇守之助先生を讃える巨大な碑」の理由に合点した。
血脇の生家は角松旅館のあたりで、かど屋が大光寺前あたりにあったというのであるから、旅館としての仕事柄つながりがあったのではないだろうか。角松旅館は、その以前は、松島楼と言われた頃に明治天皇の御座所になった来歴のある旅籠であったので、後に廃業しても角松という割烹旅館に継承されたのだという。角松に位置的には近いため、別荘の先駆者・嘉納治五郎も我孫子滞在時に利用し、「従善如流」の書額が残されているそう。謂れを伺うことも期待できるので、お食い初めの祝い事をと食事会をすることにした。何か、ご報告出来る事があれば、乞うご期待。
駅から近くて、風情のある割烹旅館が我孫子にあることをPRして、皆さまも、お知り合いの外国人のお友達の観光にもご案内ください。
つづき