シーボルトは、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となって来日したことは良く知られる。本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確であり、怪しまれたが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」「山オランダ人」と偽って、その場を切り抜けた。本来は干拓によってできた国であるオランダに山地は無いが、そのような事情を知らない日本人にはこの言い訳で通用した。エンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルグとの3人を「出島三学者」などと呼ぶことがあるが、奇妙なことに全員オランダ人ではなかった。来日した年の秋には『日本博物誌』を脱稿。
出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。また、日本茶の種子をジャワに送ったことにより同島で茶栽培が始まった。日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。
1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、蝦夷地や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友した。この年、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送る。徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられた。
1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。
1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る[2]。滞在中のアントワープで東洋学者のヨハン・ヨーゼフ・ホフマンと会い、以後協力者となる。翌1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、ウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる。同年、蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設[2]。ルートヴィヒ1世からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。
日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請する。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。
シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送した。シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰った。この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボルトの研究継続を経済的に助けた。こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残されている。また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に生物や風俗の絵図を多数描かせ、薬剤師として来日していたハインリヒ・ビュルゲルには、自身が追放された後も同様の調査を続行するよう依頼した。これらは西洋における日本学の発展に大きく寄与した。
日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksaと命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測している。楠本イネは、のちに日本初の女医となり、その子供に楠本高子(山脇たか)がいる。帰国後48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族出身の女性との間に設けた息子アレクサンダー・フォン・シーボルトは、シーボルト再来日時に同行している。1859年(安政6年)以来日本に滞在、イギリス公使館の通弁官(通訳)を務め、1867年(慶応3年)に徳川昭武らのフランス派遣(パリ万国博覧会のため)に同行している。次男ハインリヒ・フォン・シーボルト(別名小シーボルト)も日本に滞在し、日本で岩本はなと結婚して1男1女をもうけた。