東日本大震災から6年、それぞれの場での3月11日に何をしていたか、
そして 今、何を想うのかを振り返っていることでしょう。
次の内容は、地震が発生したときに、スペインの高校に留学していた日本人女子高生のもの。
震災2年後に、彼女が当時を振り返って綴った手記です。
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2011年の3月11日、私はスペインで高校生をしていました。
あの日は、現地の先生たちに朝から「日本で地震があったんだって?」と私に声をかけてきてくれました。
しかし、私は当時その地震がそこまで大規模なものだなんて夢にも思っておらずに、日本で地震が起こる事なんて日常茶飯事なのに。そんなことを思いながら、大丈夫大丈夫と適当に先生方に答えていました。
それほど、あの災害は私にとっては予想外なものでした。
あの日のことは、今でもよく覚えています。
5時間目の技術の時間に、机についていると先生が私に向かって手招きをしました。
なんだろうと思いながら呼ばれるままに向かうと、先生がPCを指差します。
Youtubeか何かを開いていたようですが、一面真っ赤に染まったそれが、一体なんの動画かすぐには分かりませんでした。
「大変なことになっているね」と先生が言い、初めて私は気がつきました。
動画には、日本語のテロップがついていました。そして見えるM8.0という文字。
画面の赤は、地震によって起きた火災の炎の色でした。
これは今日起こった地震のことなのだと分かると、頭から血の気が引いていったような気がします。
先生も思うことがあったのでしょう、PCを貸してくれたので、私はそれで震源地や現在の状況をなんとか探しました。もちろん日本語など打てないので、ローマ字を使ってです。
慣れない操作と出てこない情報にイライラしながらも、なんとか震源地が福島、そして現在の状況は私が想像していたより何倍もひどいものという事が分かりました。その日の授業は、一つも頭に入りませんでした。
私の実家は福岡なので、少なくとも家族は大丈夫だろうと思いながらも不安で不安で、授業が終わってから真っ先に携帯で家に電話をしてみました。
しかし当たり前ですが混線していて通じるはずもなく、不安でふらふらしながら家に帰ったのを覚えています。 結局家族は皆無事だったのですが、それを確認するまでは本当に生きた心地ではありませんでした。
数週間も経つと、被災地や物資不足となった首都以外の場所は大分落ち着いてきたように思われますが、一つ悲しい出来事がありました。 この頃からネットを通じて日本に住んでいる人たちと話していると、よく「海外にいて良かったね」言われるようになりました。 上記の言葉だけでも個人的にもやっとしていたのですが、中には「日本は放射能がヤバいからこのままそっちにいたほうがいいよ」とか「海外逃亡できて羨ましい」とまで言う人もいました。
この言葉らには、本当に涙が出るほどの怒りが沸きました。
私はその時までは想像もしたことも無かったのですが、海外にいる以上、日本の情報というものは自分に届くまでにかなりの時間がかかります。情報、例えば地震の規模だったり震源地だったりとそういった事もなのですが、我々海外に住む人たちは「地震が起こった」という日本にいればまず全国の人が数分で知るであろうことすら、数時間経つまで気づくことができないのです。 2年前、地震が起こったのが日本の午後3時前、スペイン時間に直すと朝8時ごろ。私がちょうど起き出す頃です。
ベッドから出た私は、その時日本で多くの人が地震の恐怖に耐えていただなんて欠片も考えずに朝ご飯を食べていました。 色々なところが火災に見舞われている中で、私は普通に学校に登校し、授業を受けていました。 たくさんの人が苦しみながら水に飲まれていた間、私は何も知らずにノートに落書きをしていました。
地震が起こったということが分かった時なによりも怖かったこと、それは「日本でとんでもないことが起きていた時に、知らなかったとはいえ自分はへらへらと笑っていた」ということです。 今回の地震の件は、自分の家族には何事もなかったので不謹慎ながらも良かったと言えますが、これから先、このようなことはまだまだ起こりうります。 極端な話、例えば日本が沈没したとして、その瞬間私はそれに気がつくことも出来ずに友達と笑いあっている可能性だって0ではないのです。
その事実が私にはどうしようも無く、怖くて恐ろしく感じました。
確かにいざ被災された方や日本にいた方の恐怖は私のものとは比べ物にならないかもしれません。
しかし私にとっては「情報が入ってこない」というのが本当に怖く、夜ベッドの中で上記のようなことを想像し不安でなかなか寝付けない日もありました。 なので現場にいなかったからと言って、あたかも私がラッキーと手放しに喜んでいるとでも思われているのかなあと思うと、とても悲しくなりました。
放射能がどうだ、地震がどうだと2年経った今でも色々と騒がれていることは多々ありますが、17日後に迫った帰国日が私にとっては楽しみでしょうがありません。 間違いなく日本は私の母国であり、故郷です。
災害後、ネットで色々な心温まる災害当時のエピソードを読み、日本人の団結力に深く感動しました。
そんな強靭な故郷を心から誇りに思うと共に、今でも震災の爪跡が残る日本に2年経った今だからこそ貢献できる形があるのではないかと思っています。 以上、私が2011年3月11日に起こった大震災を通し思ったこと、感じたことでした。
蛇足ですが、ちょうどその日から1年後の2012年3月11日、当時通っていたスペイン語教室から帰ろうとしていた時に、他のレベルのクラスにいるポルトガル人の子と知り合いました。その子が私に「知っている日本語の歌が一つある」と言い、歌ってくれた曲、それは坂本九の「上を向いて歩こう」でした。海外でもかなり有名なこの曲を彼女が知っているのは、そこまで不思議なことでは無いかも知れません。
それでも夕焼けの中で聴く彼女の歌声はどうにも私の胸を揺さぶり、世界は繋がっているのだなあと涙が零れてしまいました。
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私の娘の場合は、海外にいたのに選挙の手伝いに帰ってきてくれ、家の外に出ている時にいつにない地震の大揺れを経験しました。そのうちに、テレビで津波が押し寄せるさま、引き波によってさらに深くえぐられる事態を真のこととは受け入れられず見ていました。すると、次に原発が「大丈夫」かということになり、次々に今まで聞いたこともないような、放射能に関する単位や専門用語で、「ただちに」は分からない状況になりました。娘の海外の友人たちが、「日本は危ないから、海外に脱出するように」とメールをくれるのだと言って、国外のほうが騒然となっているというのを知りますが、日本では放射能のことはそれほど報道されず、したがって判断するにも海外の噂を真に受けるわけにもいかず、でした。それほど、国内の報道は規制をしかれていた、事実認識を国民に伝えないでいたのだと、今は思えます。
そして、変わったばかりの政権が変わった。
今、思うのは、ここ我孫子にいたけれど、ホットスポットの影響をいわれたけれど「ただちに影響はない」と言われた通りではあり、しかし、その後、何十年たったときに一人も影響が出ないかどうかは、当時の声明を出した人も実のところは分からないでいた、ということです。避けがたい不幸に遭遇するのは、滅多にないとタカをくくっていたのが、日本の中枢に近い場所=首都圏にありながら、おきたということです。自分たちの経験した事をどう受け止めて、落ち込むばかりでなく対処するか、それは、その時の自分の年齢、環境、によって違うのだろうと思う。
参照:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170311-00010002-storys-life