2017年秋に我孫子ゴルフ倶楽部で開催される「第50回日本女子オープンゴルフ選手権」の開催を記念したグッズの販売も開始された。日本女子オープン選手権競技は創設50回目という記念すべき大会であり、ワングリーンに改修され、2013にベストインターナショナルリノベーション受賞、新生我孫子ゴルフ倶楽部になって最初の公式競技となる。
名匠・赤星六郎氏が設計を手がけたコースとして知られ、地元からは世界に名を馳せた名ゴルファー・青木功を育てたとして親しまれ、市民と連携イベントとして久しい観桜会でのゴルフ場の散策で解放されるのも嬉しい。
我孫子は、江戸の頃には参勤交代、成田山詣で宿場町となり、大正初期には東京近郊の景勝地として認められ、講道館の祖・嘉納治五郎、朝日新聞の記者で随筆家として著名な杉村楚人冠が別荘をもっていた。不思議なことに、その甥である柳宗悦が叔父にあたる嘉納治五郎に誘われて、我孫子に住むことになり、白樺同人をに我孫子の素晴らしさを吹聴して、芸術家の拠点ができたのにもかかわらず、柳が誘ってバーナード・リーチが我孫子に窯をつくり後に世界的な陶芸家になって、ァビスタ脇に大きな記念碑が出来たほどには讃えられても、知られてもいない。
当時の染谷町長は、岡発戸の山林の一部を住宅地として開発する計画に行き詰まり、1929(昭和4)年、杉村楚人冠氏に相談した結果、ゴルフ場の建設をすすめられ我孫子ゴルフ倶楽部の計画となったといわれる。しかし、最初の計画は頓挫し、染谷氏は窮状を打開するため、別荘地の大御所・嘉納治五郎氏に事情を訴えて、その援助を依頼したといわれている。嘉納治五郎氏や杉村楚人冠氏の奔走により、東京ゴルフ倶楽部の森村市左衛門のはからいで熱心な会員で、元浅野造船所の重役であった加藤良氏をゴルフ場設立の責任者に推薦し、氏の献身的な働きで1931年には18ホールを完備し開場式にこぎ着けた。敗戦後はGHQに好評のゴルフクラブとなるなど、多くの歴史を刻んできたレジェンドのゴルフ場だ。
近年、米国の設計家ブライアン・シルバ氏と造形担当者のカイ・ゴルビー氏によって"自然のあるがまま"を生かした改修が施され、ワングリーンのコースに生まれ変わった。同コースでは、02年に日本シニアオープン、09年にも「日本女子オープン」が開催された。TVを通して、改修されたコースを全国のゴルフファンに見ていただく、また我孫子の紹介もされる貴重な機会となるので、我孫子市も秋に開かれる大会に最大級の協力をする。
開催日: 日本女子オープンゴルフトーナメント 9/28〜10/1