戦後モダニズム
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コンパクトシティー 少子高齢化 人口減少 都市の住まい方
鴨長明による鎌倉時代の随筆。日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後の『徒然草』、『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」とも呼ばれる。一丈四方(方丈)の狭い庵を結び隠棲した。彼が庵内から当時の世間を観察し、書き記した記録であることから「方丈記」と自ら名づけたのが本作品である。
乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論ともされる。安元3年(1177年)の都の火災、治承4年(1180年)に同じく都で発生した竜巻およびその直後の福原京遷都、養和年間(1181年〜1182年)の飢饉、さらに元暦2年(1185年)に都を襲った大地震など、自らが経験した天変地異に関する記述を書き連ねてあり、災害の中でどう人らしく生きるかの話でもある。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の書き出しで移り行くもののはかなさを語った後、同時代の災厄についての記述が続き、後半には自らの草庵での生活が語られる。
『国立西洋美術館』の本館の設計はル・コルビュジエによるが、彼の弟子である前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が実施設計・監理に協力し完成した。なお新館は前川國男(前川國男建築設計事務所)が設計した。
日本に返還(一部名画は未返還)される際の条件として、国立西洋美術館が建設されることになった。
ルコルビジェ、
CIAM(近代建築国際会議)で 第4回会議でル・コルビュジエらが提案したアテネ憲章(1933年)は、公開空地など、以後の都市計画理論に多大な影響を与えた。モダニズム建築(近代建築)の展開のうえで大きな役割を担った。1928年に始まり、1959年までに各国で11回開催された。
る・ダビタシオン
屋上プール
思想よりスタイル
1925年のパリ万国博覧会(いわゆるアールデコ博)では装飾のない『レスプリ・ヌーヴォー館』を設計し、アール・デコ装飾の展示館が並ぶ中、異彩を放った。また1922年のサロンドートンヌでは『300万人の現代都市』を、1925年にはパリ市街を超高層ビルで建て替える都市改造案『ヴォアザン計画』を、そして1930年には『輝く都市』を発表した。これらは低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとするもので、パリでは実現しなかったが、以降の都市計画の考え方に影響を与えた。