Eテレで、血脇守之助が野口英世の大恩人であることを、取りまとめていましたが、我孫子の人だったから惚れ込んで、尽くしてしまうという事があったのかと思ってみてました
彼自身「ナポレオンにできたのだから、私にもできる」と宣言。3時間しか睡眠を取らないで勉強したから驚きです。一方で、野口には放蕩好きな浪費家という困った側面もありました。恩師や友人を巧妙に口説いて再三にわたり多額の借金を重ねました。
野口は放蕩好きで、その度にピンチを救い続けたのは血脇守之助です。1896年に野口が借金して上京したにも関わらず、放蕩三昧ですぐにお金がなくなった時に、住むところを提供したのは血脇でした。
語学学習のための月謝4円を工面したのも血脇、日本医科大学へ通うために月15円のお金を工面したのも血脇さん。その上、この15円を一遍に渡すと野口が無駄使いする(遊興に使う)ため5円ずつ渡したというみっともないエピソードがあります。
1899年には、ペストの現地調査を行うために清に行く、そのための支度金96円(大金です!)を放蕩三昧で使い果たしました。これを救って清へ渡航させてやったのも血脇さん。このごろ、野口はアメリカへの留学を望んでいましたが、お金がありません。
そこで、斉藤ます子という女性と婚約してその持参金300円(!)をせしめ、そのお金で1900年にアメリカへ留学しました。野口は結局斉藤ます子と夫婦となるつもりはなくアメリカから戻りません。1905年、血脇が斉藤家に持参金を戻し、婚約は破棄されました。
野口は1900年にアメリカへ渡航してから28年に没するまで一度しか日本に帰国していませんが、そのたった一度の帰国は、年老いた母と再会を果たすためだったと言われていますが、自分でも海外での名声と裏腹に借金踏み倒し常習犯で、なかなか帰りにくかったのかもしれません。婚約した娘さんを5年も放置して、米国人の女性と結婚している、野口英世は「偉くなるのがあだ打ちだ!」と言ったと言われています。目的のためには手段を選ばずに何でもやる人だったのでしょう。
それでも、1922年(大正11年)、 血脇がアメリカを訪れたとき、野口は連日つきっきりで案内し、 血脇が講演する際には「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介。大統領にまでも会わせました。