シカゴの早熟な15歳の少女とキング牧師が握手した、これがヒラリー・クリントンにてつもない影響を与えたと話している。
そして「正義のための戦いに参加しなさい、世界が自分の周りで変わっていくのに居眠りしていてはいけないと、この牧師が訴えかけてくる。それを私は身を乗り出して聞いていました」と振り返った。
その集会に行くようクリントンを促したメソジスト教会のドン・ジョーンズ牧師も、クリントンに深い影響を与えた。一貫してメソジスト派のクリントンは、ジョーンズ牧師が2009年に死去するまで、親交を温め続け、追悼式では「行動する信仰という言葉の意味を教えてくれた」と牧師をしのんだ。
ヒラリーの政治信条は大学で変わった。
「頭は保守で心はリベラルというのは可能でしょうか?」 ヒラリーは当時、ドン・ジョーンズ牧師に尋ねたという。
女子大ウェルズリー大の卒業式で、卒業生代表として同級生や教師たちを前に答辞を述べたヒラリーは、主賓のエドワード・ブルック上院議員(共和党)が学生による政治的抗議運動を批判したことに、即興で情熱的に反論し、全国的に注目された。
イェール・ロースクールに入学すると、アーカンソー州出身の若いリベラル、ウィリアム・ジェファソン・クリントンと出会う。のちに大統領となる未来の伴侶となる人だ。その頃のヒラリーはすでに、若いころの保守主義を離れ、民主党支持者となっていた。
ヒラリーが友達の母親にビルを紹介した際には、「何があっても手放しちゃだめよ。男の子と一緒にいてあなたが笑うの、初めて見たわ」と耳打ちされたそうだ。
夫ビルが、州司法長官から州知事となり、政治的野心を実現していく傍らで、ヒラリーはローズ法律事務所に職を得て、ただちにパートナーに昇格した。州知事の年収は上限3万5000ドルと定められていたため、稼ぎが多いのはヒラリーの方だった。
地元出身ではなく、旧姓ロダムを使い続け、法廷弁護士としてのキャリアを持つヒラリーは、典型的な政治家の妻ではなく、それゆえに注目を集めた。
この間、クリントン夫妻は商品取引に投資して成功し、古くからの知人ジム・マクドゥーガルから不動産を購入した。これが、のちに大問題になる。
ビルは州知事として1980年に再選を阻まれたが、1982年にまた選ばれた。実家の姓を名乗り続ける事をやめ、ヒラリーは、「ヒラリー・ロダム・クリントン」と名乗るようになる。自伝「リビング・ヒストリー」でヒラリーは、「自分の旧姓を残すことより、ビルがまた知事になる方が大事だと決心した」と書いている。
アーカンソー州のクリントン政権で、ヒラリーは活発に活動した。任期終了を前に、ビルは大統領に出馬した。若い魅力的な二人は、夫婦というだけでなく、政治的なパートナーでもある関係が、マスコミの注目を浴びた。
夫妻に最初の危機がやってきたのは1992年1月、CBSテレビの報道番組「60ミニッツ」に出演して釈明している。ビルは、12年間の不倫は否定しつつも、夫婦関係を傷つける問題行動はあったと認め、その横でヒラリーは、「私は(カントリー歌手)タミー・ワイネットが歌うみたいに、ただ自分の男を支え続ける可愛い女としてここにいるのではなくて、私はこの人を愛して尊敬しているから、そしてこの人と私たちが一緒に乗り越えてきたことを尊重するから、ここにこうして座っているんです」と主張した。
11月3日にジョージ・H・W・ブッシュ大統領(ジョージ・W・ブッシュ大統領の父)を破り、ビルは大統領に当選。そして、ヒラリーはファーストレディになった。
そして、その後ファーストレディ経験者として初めて、公職に当選したのだ。「あえて挑戦するんですよ、ミセス・クリントン。あえて挑戦するんです」と、自伝『リビング・ヒストリー』でヒラリーは若い女子学生のバスケットボール選手の言葉をきっかけに、自分は出馬を決めた経緯を、ヒラリーはここでも書いている。
「これまでで何より決断するのが大変だったのは、ビルとの結婚を続けるかどうかと、ニューヨークから上院に出馬するかどうかだった」。
さらに、その知名度と野心によって、初の大統領候補として名前が浮上するようになった。しかし、女性であることへの抵抗と1990年代に相次いだスキャンダルが全国レベルでの評判に影を落とし、当時の世論調査では61%がヒラリー・クリントンは信頼できない、もしくは正直ではないとの反応に傾いていった。2008年、民主党候補者決定の際は接戦ではあったが、希望と変化を呼びかけるオバマのメッセージが人々の気持ちをとらえた。ヒラリーはこの時、61才になっていた。
オバマの大統領就任後、国務長官のポストに乞われ、固辞するも最終的に受諾、政治家としての手腕をふるった。オバマ政権の二期目、2016年に米国初の女性大統領候補として正式決定し、ヒラリー最後の大統領選に臨むことになった。