田部井進也さんは、立派に企業の代表をつとめられ、アウトドアスポーツなどを提案、推進する企業のようです。ホームページには『すべての人に楽しいアウトドアアクティビティを』とありました。
これも田部井淳子さん、政伸さんのお人柄あってかと思います。
田部井進也さんの自身のSNSの投稿より
山よりもっと高い、天に召された田部井淳子さん、その母への想いをご紹介させていただきたいと思います。
『2016年10月20日10:00 母が歩き続けることを止めました。
今まで世界中、色んなところを歩き続けた。
癌と戦い続けてきたので、ある程度覚悟は出来てましたが、こんなにも早く別れが来るとは思ってませんでした。数日前から体調が悪くなり、起き上がることもままならなくなり、父と姉と交互に付き添いながら面倒を見てきました。
この数日間は本当に本当に大事な時間を過ごせました。
末っ子で迷惑ばかりかけ、生まれた時から母が「田部井淳子」だったので、なかなか甘える時間がありませんでした。この数日は最高に甘えることができました。
母の歯磨きを手伝ったり、体を拭いてあげたりと凄く幸せな時間でした。母を独占できました。
旅立つ数日前、病室で2人きりになったとき、今まで思ってても言えなかったことをたくさん話しました。
その中で「かーさん、大好きだよ」と。
すると「お母さんも大好き。山よりも好き」と言ってくれました。
これが、母とまともに会話した最後でした。
今まで、散々苦労と心配をかけました。
親孝行らしいことをしてやることが出来ませんでしたが、こうした会話が最後にできて本当に良かったです。
旅立つ一週間くらい前だったと思います。寝ているときに夢でも見ていたのでしょうか、病室で仕事をしていると突然、
「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」
と両手をあげました。
「それじゃ、みんな集まって。おにぎり食べるよ」と。
その後、いっしょに登っていた人たちと話していたのでしょうか。
「別々のルートを行くのはダメ。絶対に一緒に行くよ」と。
夢の中まで山を歩いてました。本当に山が大好きな母でした。
2016年7月に「被災した東北の高校生の富士登山プロジェクト」で、富士山の元祖七合目(3010m)まで登って、頂上に向かう高校生たちを励まし・見送ったのが、母の長い長い登山人生の最後の登山となりました。
「山は順位を決めることがない。運動神経がないお母さんにとって、初めて行った山は凄く刺激的で楽しかった。」と話してくれました。
旅立つ前日、どうしても日程変更できない仕事があり福島へ向かいました。
朝一、病院に寄って顔を見て「福島に行ってくるね」と。
手を強く握りながら、コクっとうなずいてくれました。
ロッジで仮眠をとり、翌朝早朝にロッジを出発して、病院に到着したのが9:40。
母が旅立ったのが10:00。
母は私が来るのを待っててくれました。
旅立つ瞬間に立ち会えたこと、本当によかったです。
肉体としては、この世からいなくなったけれど、私の心の中にはずっと母は生き続けてます。
生前、母が3つのことをお願いしてきました。
約束を果たします。
・山や自然の楽しさ・素晴らしさを多くの人に知ってもらうようにします。
・東北の高校生の富士登山、目標の1000人までやりきります。
・父と姉を守り大切にします。
母が田部井淳子として歩んできた軌跡をたくさんの人に知ってもらいたいと思います。
40年以上前にヒマラヤに挑戦した女たちがいたことを。
たくさんの方々から、ご心配やお気遣いのメールやメッセージを頂き、ありがとうございました。
今後も変わらず、お付き合い頂ければと思います。
最後に、
母さん、ありがとう。
2016年10月22日
田部井進也』