2016年10月22日

労働者の働き方の変化 若者の貧困

 資本家と労働者という構造が変化している。ブルーカラーとホワイトカラーなどと誠しやかに言われた時代には労働運動、労働組合があった。かつては、長時間労働を強いられたり、低賃金で働らくことがないようにと、組合活動があった。メイデーの行進も今と違って、動員をかけられたからか、公然と大規模に練り歩いたものだった。国鉄のストがあり、バスや地下鉄のストまでもあった。ベースアップの交渉の一円に、粘りに粘るために労使交渉のあることは、電車が止まって会社にたどり着けないなどもおきていた。それが、今はみんな、ブラック企業で働くような事情に追い込まれる可能が出てきた。このところの相次ぐ、一流企業と言われていた会社の従業員が長時間労働に追い詰められて、人生を早めてしまう事件がおきている。

 他方、労者の置かれている現状の厳しさが、いまだに多くの人々の間で共有されていないことがおきている。「若者なんだから、努力すれば報われる」という主張など、ナンセンスである。 若者は働けば自立できる、働きさえすればまともな生活ができるという神話(労働万能説)が根強く存在している。上場企業へ入社できたり、公務員になれる人数はもともと決まっている。すべての人がまともな賃金を得られる職業を確保することは、もはや現実では不可能であるといってよい。

事実、働いてもまともな賃金が得られる保証がない職種も増えている。そして、その仕事はたいてい非正規雇用で、終身雇用ではないため、不安定な就労形態をとっている。賞与や福利厚生がない職場も多く、働いたからといって、生活が豊かにならないことが現在の労働市場で起こっているのだ。いわゆる「ワーキングプア問題」が注目されるようになってきた。働いても貧困が温存されてしまうのである。

これは何も本人が低学歴であったり、コミュニケーション能力が低いということに由来しているわけではない。大学を卒業しても、普通に働いて生計を維持することが急速に困難になっているのだ。

 労働社会学者の木下武男氏は、経済界や企業は、意図的に若者の雇用を崩壊させてきた経緯があることを指摘している。若者たちが働いても「しんどい」状況は、労働社会学者が指摘するように、大人たちによって"つくられた"のである。一部上場でもブラック企業ごとく、できないほどの残業で追い詰めている。普通に働きたいが、普通に働くことも許してもらえず、短期間で使い捨てにされてしまう。それによって、うつ病や精神疾患を発症してしまい、働けない状態に追いやられることも珍しくない。だから、「働けば何とかなる」という「労働万能説」はもはや通用しない。

 できるだけ早く労働するように、なかば「仕事は選ばなければ何でもある」と、労働に若者を駆り立てる。若者の一部は、望まない非正規雇用やブラック企業に長年、身を投じた揚げ句、「結局は報われない労働だった」と体を壊したり、二度とそうなりたくないと思っている場合が多い。だからこそ、働く先を選びたいのである。これはぜいたくでも何でもない当たり前の要求だろう。安心して働くことができない雇用が増え続けている中で、労働に対するインセンティブが湧いてこない若者たちが出てくるのも当然である。そして、彼らに強調しておかなければならないことだが、何でもいいからすぐに仕事に飛びつくことは、極力しないでほしい。

 そもそも社会保障が充実している他の先進国では、賃金に依存しなくても、ある程度暮らしていけるため、過酷な労働にはそれなりの対価が支払われるし、ひどい企業も淘汰されていく。たとえば、ブラック企業を辞めたが、すぐに仕事をしないと生活に困ってしまうので、急いで再就職をした別の企業も、またブラック企業であったという話はいくらでもある。じっくりと仕事を選び、準備をして余裕を持って就職をしてほしいし、その環境こそ整備していきたいものである。

そして、労働市場の劣化は、若者の労働意欲を奪っていく。どのように働いていくべきかを悩み、資格をいくつも取る人々、自己啓発に関する書籍を読みあさる人々などをよく見かける。本質的には、この労働市場の構造を変えずに、彼らの苦悩は消えないのにもかかわらず、である。

また、たとえ働かなくとも、若者たちには父母や祖父母がいるので、多少おカネに困ったとしても、家族が手を差し伸べてくれるのではないかという神話(家族扶養説)がある。しかし、家族の世帯員が縮小し、相互扶助機能は前例がないレベルまで弱まっているからだ。世帯年収も減少傾向にあり、若者の親世代や祖父母世代は、自分たちの生活だけで精一杯であろう。

 わたしは生活に困窮してしまった若者たちの相談を受けて、年間何十件も生活保護申請に同行する。NPO法人全体としては、なんと年間300件超(!)である。申請に行くと、福祉事務所職員は必ず、「頼れる家族はいませんか?」と聞く。しかし、家族が扶養できた事例には、残念ながら一件も出会っていない。若者が生活に困窮していたとしても、家族は頼れないのだ。奨学金を借りて大学に進学する学生の多くも、家族による学費負担や仕送りが十分に期待できない状況にある。雇用の不安定化や賃金、年金の減少、物価の高騰などで自分自身の生計を維持することがやっとだという世帯が一般的であるように思う。

また、悲しいことだが、家族がいても期待される機能が発揮できない。家族自体が自らの子どもを、搾取の対象とする事例もある。長年、児童虐待を受けてきたり、十分な養育や教育を家族から受けることができなかった若者の存在だ。家族の存在自体が温かいものではなく、若者本人に対して、害悪を与える存在として機能する場合もあるということだ。社会的には"毒親"などと評する論調もあるくらいである。

 あるいは、精神疾患を有する若者が実家で生活している場合、疾患に対する理解が不十分な両親が、就労をしきりに促すことによって、過大なストレスを生じるといった相談事例は後を絶たない。彼らには、「家族の支援をきっと受けられるから大丈夫だよ」などとは口が裂けても言えない。このような家族と別居して暮らしたいが、生計を維持できないから、自由な暮らしを阻害されている。これに対してどうしたらよいかと相談を受ける。すなわち、「実家から出られない若者」の悩みである。

さらに20歳を超えた成人に対して、家族がどこまで面倒を見るべきなのか、についても議論を進める必要がある。諸外国では当然であるが、成人後は生活や就労を政府や社会システムが保障しており、日本のような親が扶養をすることはない。「困ったら家族を頼る」ということが当たり前の社会でなくなることを示していきたいとも思う。

 つまり、困ったら家族がというのでは社会福祉や社会保障の機能を家族に丸抱えさせることにつながってしまう。これでは家族が共倒れの状況を招きかねず、家族扶養説は前近代の思想であると言えるだろう。


参照 東洋経済 10/17 
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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