水崎は、岐阜県出身、1915年に朝鮮のテグに開拓農民として入りました。大邱で測量技師として働き、干ばつや洪水に苦しむ農民のために灌漑用の貯水池を造ろうと、総督府の支援に私財を加えて1年余りした1924年9月、現在の寿城池を築造した。1939年に72歳で亡くなるまで地元の農業の発展に尽くしました。
亡くなる際に寿城池が見下ろせる所に埋めてほしいと遺言をのこしました。 水崎林太郎と大邱の縁は、ソ・チャンキョ(71)によって守り続けられていました。寿城池の築造当時、農地を寄付したソ・チャンキョの父が水崎林太郎の墓をずっと世話するようにと息子に依頼したからです。ソ・チャンキョは約8年前に地域の有志らと水崎林太郎の遺族らで韓日親善交流会をつくって墓を管理するようになりました。2000年からは寿城区庁に要請して4月7日に追悼式を行っています。日本人観光客らも寿城池を訪れるようになっています。 韓国の各地に、文禄・慶長の役で秀吉軍が破壊したとされる場所や植民地時代に日本が犯した過ちの痕跡が残されています。それらは歴史の事実であると受け止めるしかありませんが、両国民が歴史を「教科書」だけでなく、巡り歩いて対話しつつ、未来にむけていくことです。水崎ーソの親交が今後も多くの人に認識されるようにと願います。
