聖徳太子は「十七条憲法」・「冠位十二階」を制定し、日本の律令政治の基礎を築いた、一万円札に肖像画が残される。遣隋使を派遣して、大陸の文化を日本へ広く移入した事でも知られる。推古天皇の甥で、摂政であった聖徳太子が、当時政治の中心地であった飛鳥の地を離れ、601年に斑鳩宮(現在の法隆寺東院)を造営した。当時に、はるか大陸の彼方からの文化が、シルクロードを通って行き着いた終着点が奈良であった。その文化の反映は、法隆寺を中心とする仏教伝来の頃の数々の史跡に残されている。
同時に、仏教の布教に努め、自らも三経義疏(さんぎょうぎしょ。勝鬘、維摩、法華の三経典の解説書)を説いた。仏教を政治の中心に据えた斑鳩の地は、日本の政治と文化の中心に。奈良は、今ものどかな田園風景の中に太子ゆかりの古刹をはじめ、数多くの史跡が点在している。近年豪華な副葬品を伴った未盗掘の「藤ノ木古墳」が発見され、古代史の謎解きの上でも大きくクローズアップされた。
1993年、「法隆寺地域の仏教建造物」が世界遺産に登録された。その後、1995年に韓国の「石窟庵と仏国寺」が世界遺産(文化遺産)に登録された。石窟庵から約4キロメートルほど離れたところに仏国寺があり、遠くたどると斑鳩の里で歴史がつながるが、つまり、朝鮮半島から仏教がもたらされたと考えられる。
「日本の中のコリアを歩く」という市民活動があって、こうした歴史の痕跡を探して歩いて、再確認していこうというものだ。温故知新、文化のルーツをたどり、過去の事象を丁寧に見てみると豊かなイマジネーションを広げることができる。真摯に学びの秋にしたいと敬老の日を前に思う。
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