かつては夕張市か海士町かと言われたほど日本で最も財政事情が悪い町の1つだった。しかし、その町がいまや日本の地方自治体の模範生のように言われるまでになった。その理由は2002年に町長に就任した山内道雄さんの決死の覚悟が実現させたものだと言っても決して大げさではない。
過疎、少子高齢化に苦しめられている日本の地方の中で、隠岐郡海士町のように輝きを放っている市町村にはいくつかの共通点がある。その中で特に重要な3つの点を挙げるとすれば、1つは、リーダーの強い意志と行動力、2つ目は妥協のない財政削減、そして3つ目が苦しい中でも未来のために投資を怠らないことだ。この3つの条件とも、海士町は兼ね備えている。
しかし、海士町がほかの市町村と大きく違うのは4番目の理由においてである。よそ者を快く受け入れること――。新しい血が入ってこない限り、組織の発展も変革も難しい。しかし、できないわけでもない。日本の伝統文化の権化とも言うべき京都は、古くて革新的だ。京都という町が伝統を重んじる一方で、進取の気性に富んだ人々を受け入れる文化をまた一方の伝統として育んで、歴史をつむいできた。
過疎・離島のまち海士町で、その先頭にいるのが山内道雄町長だ。 山内町長は2002年に就任され現在は3期目、その前は町議会議員を6年務め、2期目の途中で町長選に。地元の商工会会長で、建設会社の社長に出馬を勧められたそうだ。いわばIターンのはしりで、島には親戚もおらず、最初の議員選では14議席のうち下から3番目で当選したところから始まったと言う。
海の恵みや山の恵み、数え切れない『郷土の恵み』をPRして、「ないものはない」と逆手にでた。コンビニエンスストアがない。ショッピングモールもない。本土から船で2、3時間かかる離島の暮らしは都市に比べ、確かに便利ではない。それにも関わらず、人口約2400人のうち、島外から移住してきた人は1割に及び、その多くが20代から40代の働き盛り。少子化で統廃合寸前だった高校にも、全国から生徒が入学し、2012年度から異例の学級増となっている。
離島の異変はそれだけではない。魚介の鮮度を保ったまま都市に出荷できる「CASシステム」を第三セクターに導入、豊富な海の幸を商品化して全国で人気に。「ふるさと海士」を立ち上げ、細胞組織を壊すことなく冷凍、鮮度を保ったまま魚介を出荷できる「CASシステム」という最新技術を導入した。海士町で一貫生産に成功したブランド「いわがき・春香」や、特産の「しろイカ」などを直接、都市の消費者に届けることがねらいだ。システムそのものは1億円しなかったが、建物まで含めて5億円が必要だった。「県議会はなんでそんなにお金がかかるのか、絶対に黒字にならないと批判されましたが、あれが海士町のものづくりの一大革命だった」と山内町長は振りかえる。
島で育てた隠岐牛やブランド化した「いわがき・春香」なども都市の市場で高い評価を得ている。現在、全国から視察が絶えない自治体となっているが、10年前は財政破綻や過疎化の危機にひんし、「島が消える」寸前だった。その窮状をどのように脱したのか。役場を「住民総合サービス株式会社」と位置づけ、大胆な行財政改革と産業創出に取り組んできた山内道雄町長に、“ないものはない離島にあるもの”について、次のような点を挙げた。
島民は、地域の人々とのあたたかい触れ合いを感じながら、シンプルながらも心豊かな暮らしに憧れる若者を受け入れ、手厚い政策を打ち出す。産業振興にも挑戦し続け、島外との交流も盛んな海士町へは、全国からの移住者も多数、Uターンを含む地元住民とIターン者とが協力し合って、地域活性化に取り組んでいるのだという。
山内町長は、「島の中だけで経済をまわしてもだめ。島の外からいかにお金を持ってくるか、それが大事です」と話す。「それまでは予算ありきで、国から補助金が下りて終わり。自ら役場が企画しなかった。これからの行政は、特に我々のように小さいところは、営業もやらないと」と、人口2400人のまちを合併ではなく、会社経営のごとく捉えて、次々に挑戦し、若者と共に明るい未来の次なる目標に向けて。離島のもう一つのウリが、島民の笑顔であると気づかせてくれる。出来そうもないことをやってしまえる力はどうやって培われたのだろうか。リーダーシップだけではあるまいと思う。