来月8日から、我孫子市の杉村楚人冠記念館で夏目漱石が杉村宛に出した書簡を初公開することになりました。漱石は朝日新聞社への入社を機に杉村と出会い、親交を深めました。
杉村は、終戦直前まで我孫子に在住、この地に没しました。大活躍したジャーナリストで、漱石とは英語の文法に及ぶ大議論をするほか、後に民俗学者として知られる柳田国男とも野鳥についての交流があるほど、各界の人々と付き合いが広い人物でした。当時には珍しい英語に堪能な杉村を朝日新聞社がスカウトしたという逸材でした。国際派ジャーナリストとして際立っての仕事ぶりは、日本初の世界一周ツアーを企画してそれに同行記者して関わり、大人気となる連載記事を書き綴ったことです。
杉村は我孫子に所有していた別荘がお気に入りで、ゴルフ場をつくることを進言したり、地域おこしにも一役買っていました。関東大震災(1923年)で都内の自宅が崩れ、我孫子に転入する際には自宅として住まうため、耐震設計に詳しい、神戸の旧トーアホテルの設計者であった下田菊太郎に依頼しました。地元の青年にも俳句を教える活動もして、地域の人との交流もつつがなくされました。
発見された書簡は、いずれも半紙に書かれている。1通目は1910年1月19日、漱石が楚人冠の長女麗子(うらこ)の死去を聞いたその日に送ったもの。楚人冠宛ての書簡ではこれまで、同月21日に出された麗子死去へのお悔やみが最も古いと考えられていた。
2通目は1912年12月24日、電話を引いたばかりの漱石がかけ方を聞くために送った書簡。電話番号の書き直しや、出社しないことを心配した杉村に「社へ出ぬ事は無精にて怒つてるにあらず(社へ出社しないことは怒っているのではありません)」などと心情を伝える心遣いが毛筆で書かれています。
2通とも市が楚人冠関連資料の調査を進める中で、杉村の遺族の一人から借用した資料から見つかりました。「漱石全集」には掲載の書簡に記録されたされたものとは別のものだと判明。楚人冠宛ての書簡を分類したファイルに長年保存されていたことなどから、真筆と判断された。
10月8日〜来年1月9日、同記念館で開かれる企画展「楚人冠と漱石〜新聞と文学と」で未公開書簡2通を初公開されます。夏目漱石没後100年を記念し、二人の交流を他の書簡や書幅などからわかって貴重なものです。
秋の行楽の予定に組み入れて、我孫子市杉村楚人冠記念館も巡っていただければと思います。
参照 千葉日報 8月29日