2016年08月03日

モンゴルは親日国

 日本の国技相撲は、モンゴルからやってきた力士が活躍するインターナショナルなスポーツになっている。白鳳や朝青龍に代表されるモンゴル力士は日本語も巧になって、コマーシャルにも登場して活躍している。

 外務省が現地の大使館で行った日本に関する世論調査(2004年実施)では、最も親しくすべき国はどこかとの回答に、日本と答えた人が最も多かったのがモンゴル37.4%で、次いでアメリカ35.1%、ロシア28.2%だった。いまやモンゴルでは、日本に対するイメージは「経済力・技術力の高い国」と言う点への評価が75.9%とダントツだった。

 モンゴルは、現在、外モンゴルと内モンゴルに別れている。内モンゴルは現在は中国の自治区となっている。チベット自治区同様民族問題を抱える中国国内にある。内モンゴルの住民の8割はモンゴル族だ。同じモンゴル族の国が別れてしまったのには、戦前の日本が関与していた。

 モンゴルは、13世紀後半にチンギス・ハーンによる帝国が築かれ、かつて中国を含むアジアの大半とロシアに至る広大な地域を支配した史上最大の帝国であった。しかし、日本へも襲撃を繰り返したが、ご存知のように帝国は弱体化し、崩壊した。

 他方、チベット仏教勢力と貴族階級が一緒になって満州に元が勢力をもつようになり、中央に影響を強めて、ついにモンゴル民族が清朝の体制に組みした。清朝は約300年間中国を支配した中国最後の王朝であり、「ラストエンペラー」の映画にもなった。清朝は香港をイギリスに渡すことになったアヘン戦争敗北以降、日本ではヨーロッパ列強の植民地になるのではないかとの危機感が充満していた。日清戦争で、朝鮮や台湾も失うことになり、満州国の樹立によって日本が大陸にも覇権を広げようとした。

 清朝は軍事力を強化し、人民軍に列強に対抗するよう呼びかけた。ところが、人民軍の矛先は列強から清朝政府に向けられるようになり、革命軍ができてしまうことになった。紆余曲折の後、清朝は最後の皇帝溥儀が退位し、革命派が国民党を結成して清朝を追いやることになった(辛亥革命、1911年)。ただ力はそこまでで、国を統一するまでには至らなかった。

 当然ながら、現在の中国の歴史は漢民族の観点から書かれている。そのため、漢民族以外の王朝が中国を支配した場合、その王朝のことを征服王朝と呼んでいる。清朝はまさにそのひとつで、満州族によって建てられた王朝だ。時々中国の写真や絵画で頭髪の中央から長く編んで垂れ流す弁髪を見るが、あれは満州族の風習で漢民族は清朝時代にそれに従わされていた。辛亥革命を起こした孫文は漢民族の出身で、モンゴルは漢民族の支配を恐れ、辛亥革命が起こると独立を宣言し漢民族の支配から逃れた。

 この時のことで、重要なのがモンゴルは部族内の対立からすでにモンゴル内で外モンゴルと内モンゴルに別れていたことだ。1917年、モンゴルが中国から離れると、隣の国のロシアでは革命が起こり、帝政ロシアを打ち破る革命がロシア全土に広がり、周辺諸国にも影響をもたらした。ロシアの反革命軍がモンゴルに降りてきて首都を占領するが、ソ連の支援をうけて臨時政府が樹立され、革命軍が勝利した。以降、モンゴルはモンゴル人民共和国として徹底したソ連追従の国になった。この時のモンゴルは外モンゴルだ。

 内モンゴルはの方は、外モンゴルと一緒に新しい近代国家建設に加わることができず、中途半端に中国に残る結果となってしまった。その原因は日本にある。ロシア革命の10年前に起きた日露戦争で、日本は一応の勝利を収めたが、その結果、日露協約が結ばれた。そこに密約があり、外モンゴルはロシアが、内モンゴルは日本の勢力範囲とするという不可侵条約が結ばれていたからだ。

 辛亥革命が上手くいかなかった満州では、日本が勢力を伸ばし満州国を建設することになる。辛亥革命によって追われた清朝最後の皇帝溥儀を担ぎ上げて傀儡政権を作り上げた。実質的に日本の植民地になるが、満州の近代化を進めた。

 日露戦争はロシアが、朝鮮にも進出してくるのではないかと恐れた日本が対抗するために起こした戦争だが、その戦争に日本が一応は勝利した。日本はロシアが満州に敷設していた長春・旅順間の鉄道を獲得することになった。日本は満州国を建設する26年前に、その鉄道を運用・管理する半官半民の国策会社・満鉄を設立していた。この会社は鉄道事業ばかりではなく採炭や製鉄も行うようになり、その時点で満州と内モンゴルの権益は日本経済にとってなくてはならない存在となっていた。

 ソ連を脅威とする関東軍と重工業を拡大したい日本の財閥との思惑が一致して、満州国は急発展をしていく。満鉄は1,100キロの鉄道から買収や建設を繰り返し規格を統一した鉄道網を1万キロ以上に拡大した。2億円で始まった資本金は16億円に膨らみ関連会社50社、従業員30万人を抱える一大コンツェルンになったとされる。

 大連には東洋一の埠頭が建設され、ダム建設、道路建設、橋梁建設も満州全土で行われた。都市建設も急ピッチで進められ、病院、保養院、電気や下水道も完備され、東洋で最初の水洗トイレもつくられた。農事試験所、地質研究所、製鉄研究所の研究施設も多く、農工業、鉱業の礎となった。これらすべては、満州国13年間のうちに行われた。

 治安の良さと経済発展で満州国は中国からの移民も多くなったが、第二次世界大戦で日本が敗れると満州国も消滅し、ソ連軍は産業施設を奪取したが、中国国内では満州争奪のために国民党と共産党が凄惨な内戦を繰り広げた。

 満州国は、表向きは日本・満州・漢・蒙古・朝鮮民族による「五族協和」をうたっていたが、実質的には日本の植民地だった。いまだに中国内で成しえない民族の統一だが、それを一瞬でも実現した感じを持つ人たちのはモンゴル人に多いという。

 最近の調査では、モンゴルには豊富な鉱物資源が眠っていると分かっている。それを採取して運搬する手段は、いまだに満鉄網であり、大連の港、鉄橋も現存するものが多いようで、日本の技術力の信頼度は、現代のハイテク産業ばかりでのものはなく、この時代から認識されてきたものだ。満州国が消滅した後も、一部のインフラは今も有効に働き、内モンゴルの経済発展に役立っているという。これらは、同じ民族の外モンゴルの人たちにも共感され、技術力への強い信頼につながっている。

 モンゴルと日本人が深かい関係をもっていた事を両国民が忘れかけている。戦後日本のあり方がそうさせたのだが、70年を経て新たに友好関係を築く時代が来ている。

posted by Nina at 06:58| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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