2016年08月31日

スカイツリーと虹

昨日、夕刻、東京の空に虹が見えたと携帯で添付メールいただきました。
明日は、防災記念日ですが、良いことが待ち受けているよう、祈ります。

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2016年08月30日

夏の渇水のあとは、台風到来

 異常気象がしょっちゅうとなると、それは常套化というのだろうか。

 市役所から、各議員あてに災害対策本部の設置、対処方法など等が日に何度も連日Faxで報告がくるようになった。浸水水位、被害家屋数などの連絡が来て、そして最後に対策本部が解除した時刻などが連絡されるが、途中でFax用紙が足りなくなってしまって、取り替える事になったくらいだ。

 被災地区の方に様子を聞くのも偲ばれるが、「実態を見に来てくれ!」との連絡いただく場合もある。しかし、一瞬の放水のようなどしゃ降りに行ってみた時は水も引いて、被災箇所は消毒の職員が右往左往という現場に出くわす事もあった。同じ地区でも一区画違うだけで、状況は全く違うし、それこそ今回は布佐は雨が降らなかったよ、という話まで!!!!ポンプを取り付けることになった水害地区は降らなくなり、水害対策で管を太いものに取り替えたら、ゲリラ豪雨には対応できなかったなど。実のところ、対策も自然相手ではなすすべもない、当該地の建設中の調整池が機能することが早く望まれる。

 しかし、今回の「Uターン台風」は初耳だ。その台風10号が今日、東北地方を直撃すると見られ、もし太平洋側に上陸すれば、統計開始(1951年)以来の事になるらしい。台風が接近すれば、前回と同様、暴風で木がなぎ倒されたり、道路が冠水するなどの災害が懸念される。東北はやはり他と違って心配なことは、福島第一原発の汚染水が溢れ出さないか、ということです。2013年10月21日、東京電力は台風27号接近にともない、前日に降った豪雨によって、汚染水を貯蔵していたタンクの周囲の堰から汚染水が漏れ出したことを発表した。これにより、海への放出が認められている国の基準値を超える高濃度のストロンチウムの流出が確認された。

 今回、台風10号の接近に備えて、東京電力は地下水の汲み上げ用ポンプの増設などの対策はとっているということだが、連続する台風に、地下水の水位も上がっていく。しかも、例年8月にふる1ヶ月分を超える雨量になる場所もあるとの予想があり、台風27号の時よりも被害は大きくなるかもしれず、心配は尽きない。我孫子のご近所でも、先日大雨でちょっと近所にでかけた帰りに、60センチも溜った親水箇所で動けなくなった84歳の女性が、幸い通りかかった知人に助けれたとの話を聞きいたばかり。こういう時は外出は控え、安全には十分に気をつけてお過ごしください。

 オリンピック誘致で、安倍首相は原発の事情はアンダーコントロールだと宣言したが、アベノミックス見直しを図るなどは、やはり手ごわい見えぬ敵が多いということだ。さらに、計画通りにいかないのが、国と東京電力は汚染水対策の切り札として原子炉建屋などの周囲に凍土壁の擁壁工事。いまだに凍結が完了せず、遮水効果に疑問が出ている。原子力損害賠償・廃炉等支援機構が7月に公表した「廃炉のための技術戦略プラン」に初めて原子炉建屋をコンクリートで覆う「石棺方式」が記載されたが、内堀雅雄・福島県知事は「石棺」という言葉が復興を諦めることと同義語だとして、「到底容認できない」と反発した。

 このように、5年以上経っても福島第一原発の後始末のメドも立っていない。しかし、予定通り(?)全国の原発を再稼動させようとの段階だ。復興予算は被災者の生活には東夷ところでばらまかれているとは、現地の声ですが、もはやマスコミからは聞こえす。岩手、宮城、福島の被災三県では今も、仮設住宅で暮らす被災者の方の数が今年2月現在で、5万7千人を超えていた。数年間の暫定的な施設として建てられた仮設住宅が、今回の大雨に耐えきれるのか。こんな時に、台風が東北を狙い撃ちするかのようにUターンするのを何ともできず、悔しい。そこで暮らす皆さんに大きな被害が出ないよう、くれぐれも用心、対処して台風一過となるようを心よりお祈り致します。
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2016年08月29日

マーケティングでは、強みをセールスしてこそ!

昨今のマーケティングの重要課題は、顧客の関心(アテンション)の奪い合いです。 経済が成熟化した結果、多数の商品が市場に溢れるようになってきたからです。 競合とは明確に違うことを行い、顧客に強く印象づけることが求められるのです。(嶋田毅 『NBA 100の基本』東洋経済新報社)

 スティーブ・ジョブズは 「美しい女性を口説こうと思った時、ライバルの男がバラの花を10本贈ったら、君は15本贈るかい?そう思った時点で君の負けだ」と言った。ジョブズは更に「ライバルが何をしようと関係ない。その女性が本当に何を望んでいるのかを、見極めることが重要なんだ」とも言った。

 マーケティングでは、ポジショニング(差別化イメージ)が非常に重視され、近年特にその意味合いが大きくなってきていますが、その理由も結局は同じことです(なお、マーケティングでいうポジショニングは、戦略論のポジショニングとは意味が異なり、顧客の頭の中に、競合とは違う明確な差異化イメージを植えつけることです)。

 ライバルとは異なる明確な差異化軸を打ち出し、成功した例にシルク・ドゥ・ソレイユがあります。
彼らは通常のサーカスとは一線を画し、動物を使った曲芸は行いません。

 その代わりに、芸術性の高いパフォーマンスを全面に打ち出し、オペラやロックなども積極的に取り入れています。それが彼らを唯一無二の存在にし、世界中で人気を博すことにつながっているのです。この例からもわかるように、ターゲットとポジショニング、その街のコンセプト、提供価値は表裏一体のものであり、密接に連関していることが必要条件です。

逆にいえば、これらがバラバラだと、やってくる人、消費者も混乱し、その品物や観光地が市場で地位を築くことはできません。 想定顧客を明確にイメージした上で、彼らの頭の中に強烈な差異化したイメージを作ることが大事です。

 ライバルと同じ土俵の上に乗ってはダメということだ。 つまり同じ土俵に乗った途端、力と力の勝負、血で血を洗う壮絶な消耗戦に突入する。しかし、戦うフィールド(土俵)が違えば、勝ち負にならないし、戦いにもならない。そのためには、相手が何を望んでいるのかを知ること。 全てのサービス産業の基本はそこにある。行政サービスは、勝敗ではなく、戦わずして勝つ道、つまり強みを打ち出せるかどうかだ。

 流山市では、子育て世代を取り込むために、マーケティング課を創設した。流山市マーケティング課によると、「母になるなら、流山市。」のキャッチコピーで宣伝をはじめたのは、2010年度。背景には、高齢者を支える次世代の人口を増やしたいという事情がある。流山市に限らず、多くの自治体が抱える少子高齢化の危機感だ。「首都圏に住んでいる、30代?40代前半の共働きファミリーに定住してもらいたい」と、ターゲットを絞った。2016年のアンケートでは、転入者の34%がこの広告を知っていた。市財産活用課では土地を大々的い売り出している。肝心の子育て政策、教育の受け皿は充足しているのかと心配がされる・・・。

 他方、常磐線沿線の我孫子市は、首都圏でも東葛地区の人口増地区だと言われる中で、人口減が止まらない。沿線地区は新線、新道が開発されて、都内へのアクセスが良くなったからなのだが、我孫子以東の取手市と共に団塊の世代のベットタウンで一挙に人口増となったことの裏返しの影響と思われる。

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2016年08月28日

我孫子市浸水防止工事の助成制度のご案内

都市型水害といわれることが増えてきました。河川堤防のそばでなくとも、大雨により住宅、店舗、事務所、駐車場等に浸水被害を受けることも珍しくありません。そのため、浸水被害の軽減を図るために行なう浸水防止工事に助成がされます。

助成の対象となる経費
(1) 給湯器、エアコン、温水器等の設備機器のかさ上げ工事(機器本体の交換を除く。)
(2) 駐車場のコンクリート、砂利等によるかさ上げ工事
(3) 建物基礎部のかさ上げ工事又は敷地の盛土工事
(4) 玄関先、店舗内、事務所内その他の室内外の床面のかさ上げ工事
(5) 住宅等(この要綱の施行の日以後に設置された地下又は半地下方式の駐車場を除く。)、の出入口又は敷地内に防水板その他浸水を防ぐ設備の設置工事(設置工事に伴う内外壁の防水措置、コンクリート布設、ブロック積などを含む。)
(6) 敷地内への浸水を防ぐためのブロック壁の設置工事その他改修工事
※ 販売目的で所有する建物又は土地に係るものを除く。
※ 自己において浸水防止工事をした場合は、使用した物品及び資器材の購入に要した費用とする。

助成対象となる工事の経費(対象工事が複数ある場合は合算)の2分の1で、30万円を限度

工事実施前に助成申請手続きが必要です。
年度内に浸水防止工事の完了が見込まれること。
(ただし、工事などの状況により2年間を限度に継続して行なうことも可能。この場合も1年目に実施した分と2年目に実施した分の合計は、30万円が限度)
助成を受けた年度の翌年から3年間を経過すると新たな申請ができます。


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2016年08月27日

おせっかいのススメ

高橋恵 一般社団法人おせっかい協会会長の『笑う人には福来る』文響社に、福を呼べる人は、もともとラッキーなのではなく、幸福を呼びやすい行動を積み重ねている人」だということが書いてありました。
だから、「楽しい顔をすれば楽しいことが起きるし、よく笑う人のところには、必ず良いことが起こる」、というのです。

早い話がおせっかいの進め、それは、「見返りを求めない、立場も人種も関係ない、ただただ相手のことを思った親切な行動」です。 英語では「randome act of kindness」、ランダムに(相手や場所は関係なく)行う親切な行動と言うのだそうです。アラブ世界でいうところの喜捨でしょう。

難しくなくて、仰々しいことをするのでもありません。
つまりは、「人のために出来る何かをしてみよう」という実践です。

困っていそうな人がいれば声をかける、仕事や恋愛で悩んでいるなら誰かを紹介してあげる、美味しいものがあれば分けてあげる。もちろん、何かを元気よく声をかけて、場の雰囲気をよくしようとすることだって立派なおせっかいです。

これをしたら、喜んでくれるかもしれない。こんなことをしたら、もっと喜んでくれるかもしれない。
そんなことをワクワク考えながら、自分でできそうなことはすぐにやる。

そうしてその人がちょっとでも笑顔になってくれると、こちらの心も体も満たされていくような感覚を得られます。ふしぎと、身体が燃えてくるのを感じるようになるのです。
で、循環がよくなるのか、ちょっとくらいの体調の悪さや眠気は吹き飛んでいきます。

おせっかいを人にすすめるのは、「幸福はじっと待っていたらやってこない!」からです。
人のために何かをしてあげたいと思う気持ちから生まれた行動が人生に転機を与えてくれます。

人のために何かしてあげたい、と起こした行動が積み重なっていくと、だんだんと向こうから自分のほうにやってくる。いつか、そんな瞬間が訪れるのだと経験者がいうのですから、それをおせっかいにお知らせしなくてはと思う。

もちろん、自分がしたことのすべてが相手のためになるわけではありません。
相手に伝わらないことだってありますし、時には迷惑に思われてしまうこともあるでしょう。
しかし、それでいい!それでもいいのです。

一つひとつのことに一喜一憂せず、自分の気持ちを外に分けてあげる。
そんなことを続けていると、どこかのタイミングでおもしろいことが起きてきます。
たとえば、久しぶりに会いたいなぁと思っている人がいると、思いがけない場所でその人と出会う。
行ってみたいなぁと思っていた場所に、誰かが急に誘ってくれる。
久々に食べたいなぁと思っていたものを、誰かが差し入れしてくれる(しかも、そういうときはみんなが同じものを持ってくる!)。そんなことが頻繁に起こるようになるのです。

どんなときも心に何を思うかが大事で、人に笑顔を与えていれば、自然と幸運に恵まれるようになります、とのこと。試してみる価値大いにあり。





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2016年08月26日

観光というソフトな新文明開化、 女性が平成維新のヒロインになってこそ

岡山県は官民挙げて、幕末の陽明学者山田方谷の生涯をNHKの大河ドラマ化にと目指しているという。
苦学しながらも、山田方谷は藩校の筆頭教授に任命されるまでになると、その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、地域教育に尽くし、一民間教育者として亡くなったのだという、ふるさとの偉人というわけだ。

その生涯をオリジナル曲で表現し、公演する取り組みを始めたたのが、作曲家・ピアニスト山地真美さん。
しかも、彼女は岡山大学法学部出身という異色の音楽家。そこで後輩の岡大生、岡山県が彼女を応援し、岡山独自の新時代音楽文化を創る取り組みがはじまっている!

後輩たち、岡山大学の学生達の若いパワーと一緒になって、どんな地域文化が出来上がるのか。岡山は、実は日本のデニム生地の主要生産地。海外からもオーダーが入るほど、今では日本のデニムの聖地だそう。彼女は、デニムを使ったステージ衣装で演奏もする、岡山観光大使でもある。新たな岡山の魅力が生まれるクラウドファンディングという賛同寄付を募るという、アイデアウーマン。みんなが楽しく参加するコミュニティーを一緒に創り上げるという経験が体感できるようにしている、地域リーダーだ! 



千葉県は、一早く、女性知事を誕生させる県民パワーがおきた。けれど、ツイッターのない時代であったこともあって、広い土地柄で地域格差が如実になって、県議会にまとまって物申すまでにはならなかった・・・・
新都知事選で言及されたオリンピックについても、新都知事は巧みなメディア戦略で、今後は世界にも発信するのだろう。期待は、東京オリンピック2020年に向けて 我孫子のチャンスを作り出せるかどうかだ。それには、若い人たちが地域への想いを甦らすものがないと始まらない。女性たちが魅力発信を思い立ったとき、新に輝きだすのではないか。
 


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2016年08月25日

24日に閣議決定<慰安婦支援>財団へ10億円拠出へ

 政府は24日、韓国政府が元慰安婦を支援するために設立した「和解・癒やし財団」に対する10億円の拠出を閣議決定する。複数の政府関係者が23日、明らかにした。日韓の懸案だった慰安婦問題の解決に向け、速やかに手続きを進める必要があると判断した。24日午後に岸田外相が尹外相と会談し、伝達する予定。

 日韓両政府は昨年末、韓国の財団設立と日本の資金拠出を柱とする慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」で合意。韓国政府は7月末に財団を設立していた。両政府は今月12日、財団の事業内容について大筋で合意しており、日本政府は閣議決定を受けて10億円を速やかに拠出する。

 財団の支援は元慰安婦や遺族への一定額の支給を軸に検討するが、日本政府は1965年の日韓請求権協定で賠償問題は解決済みとの立場で、医療や介護などを目的とした支援を想定している。


出典:
毎日新聞 8月24日【田所柳子】
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2016年08月24日

知られざる花火師の古今物語

花火は夏の大輪の花だ。
 「一両が花火間もなき光かな」其角

この句からも、花火が好まれた様子がわかる。花火を舟で風流に眺めたり、餅や酒、あるいは冷やし瓜などを売る小舟が数多くあり、これらの物売り舟を「うろうろ舟」といったそうだ。江戸の花火は、両国の川開きのとき、享保18年(1733)5月28日からの歴史といわれている。そのきっかけとなったのが前の年、享保17年に起こった大飢饉だった。この年、西日本一帯で、いなごの大群が発生するなど全国的な凶作となったほか、江戸市中にコロリ(コレラ)が流行して多くの死者を出した。これを重くみた幕府(8代将軍吉宗)は、翌享保18年5月28日にその尉霊と悪病退散を祈って、隅田川において水神祭を挙行した。この折、両国橋畔の料理屋が公許を得て、同日川施餓鬼を行い、花火を上げたという。これ以降、川開き初日に花火を打ち上げるのが恒例となった。

 各国の花火が王侯貴族の楽しみに王宮から観覧するのが通常で、どこから見ても美しいという庶民の楽しみに、まあるく上げるのは日本の特色だという。そのために花火師たちが切磋琢磨してきて、今や海外でもその技が求められるようになっている。

江戸花火師の6代目鍵屋弥兵衛が打ち上げた花火は20発内外であったと記録があり、その費用は舟宿と両国あたりの茶店などから出された。 当時の花火について随筆『柴の1本』 には「しだれ柳に大桜、天下泰平文字うつり、流星、玉火に牡丹や蝶や葡萄に火車や是は仕出しの大からくり、提灯、立傘御覧ぜよ、火うつりの味わい仕(つかまつ)ったり」と書いてある。 いずれにせよ、立花火が主流で、上空に上がる流星が呼び物になったと思われる。この川開き花火に刺激されたのか、隅田川沿いに屋敷をもつ大名たちは、お抱えの火術家、砲術家に花火を上げさせて楽しむようになった。これら火術家が編み出したのが、いわゆる「のろし花火」だった。のちに、花火師ものろしからヒントを得て、大花火を上げるようになった。 水神祭から始まった両国の花火は、やがて「橋上の一道、人群り混雑し、梁橋たわみ動いて、みるみるまさに傾き陥んとする」 (『江戸繁昌記』)といった賑わいを呈すようになり、江戸の夏を楽しむ庶民の風物詩になっていった。

その花火師の一人が、“ベルリンの壁”を崩壊させた日本人花火師に世界が賞賛「教科書に載らない英雄だ」と評価されるようになったのは、1987年、当時のドイツはベルリンの壁で分断されていた時代だ。
佐藤勲氏は創造花火の顔となり、昭和54年には西ドイツ・ボン、昭和58年には西ドイツ・ジュッセルドルフ、昭和62年には西ドイツ・西ベルリンとジュッセルドルフで花火を打ち上げている。

西ベルリンで行われたベルリン市制750年祭典で7000発の花火が夜空を彩った花火は、日本の花火師:佐藤勲さん等が打ち上げたものだ。 中でも冷戦時代の西ベルリンで、打ち上げ前日の記者会見の場で「ベルリンの地上には壁はありますが、空に壁はありません。日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西のお方も東のお方も楽しんでください」と語った。この言葉は翌日“空に壁はない”と西ドイツの新聞の一面を飾った。

東西のドイツ国民が空に咲く花を一緒にみて、希望をつなぐきっかけになった。極東アジアから、もたらした庶民のアイデア、花火を皆でみる・・・。その2年後、1989年にベルリンの壁は崩壊した。

佐藤勲氏は明治43年に秋田の大曲で生まれる。
昭和32年から大曲の花火に関わり、昭和37年から平成8年まで大会委員長、大会顧問を歴任。「花火は丸いもの」といった従来の概念にとらわれない創造花火の生みの親であり、昭和38年念願であった通産大臣賞を創設し、大曲の花火の権威を一段と高めた。また、海外でも積極的に花火を打ち上げ、国内外に大曲の花火を広く紹介した。平成元年秋田県文化功労賞受賞。

因みに、現在の日本三大花火大会とされるのは、長岡(102万人)、土浦(80万人)、そして大曲(80万人)ということだ。


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2016年08月23日

オリンピックは国際スポーツ・メッセなのか

 日本政府がエリート選手の競技力向上のため、五輪関連予算を40%増の103億円に増やしたことはリオで実を結んだ。日本勢は今回、欧州諸国が強いカヌーと、世界的な人気種目のテニスでも銅メダルを1個ずつ獲得するなど、まんべんなく多くの種目でメダルを獲得した。バドミントン女子ダブルスで金メダルを獲得した日本の“タカ・マツ”ペアの監督は韓国人、卓球は中国人指導者を招聘した。逆に、欧米や南米諸国は、日本から柔道指導者らを招き入れ、レベルアップしていた。

 人口が日本の半分に満たない約4950万人の韓国だが、1988年のソウル大会以降、2004年アテネ大会を除いて韓国のメダルの数が日本を上回っていた。今大会でも“お家芸”のテコンドーで「金」を続出するなど、ゴルフ女子でも、朴仁妃が5打差の“ぶっちぎり”で金メダルを獲得。世界の最強ゴルファーが集まる米国の女子ツアーでも、韓国出身のゴルファーが上位を独占し、米視聴者が“TV離れ”を起こすほど強い。スポーツ予算をかけることは、如実に成果が表れるということだ。

 自らを高めたいトップ選手が、メダルの色にこだわる気持ちももっともだが、マスコミは自由と平等と平和をめざし個人と団体で純粋に競い合うスポーツの祭典の趣旨こそ、協調すべきだ。教育者・嘉納治五郎は百年前に命がけで、東京オリンピック誘致の活動にも成功し、IOC委員会より帰国する船上で急逝することになった。その後、歯車は狂いだし、日本は戦争一辺倒に傾き、スポーツ予算などはかけられないとせっかくの東京開催も反故にした。

 戦後、嘉納治五郎との友情を忘れないでいたブランデージがIOC会長になったこともあって、東京オリンピックが実を結ぶ。スポーツという国際舞台の場を得て、敗戦国日本は、ようやく若者たちの晴れやかな表情を世界に発信した。欧米中心のオリンピックが、それ以外の場で初めて開催された。本来、国家間のメダル争いの場ではないはずが、このところはメダルの個数を争い、スポーツ産業が製品を売り込むメッセの色合いが強くなった。お金がかかる選手育成がでもあるから、致し方ない部分だ。今回より、難民たちに参加のチャンスが与えられたのは、一縷の光ではあったが、それをどれあけとりあげたか、そこにも感動する場面や出来事があったはずだ。間もなく、パラリンピックが開催される。クーベルタンや嘉納治五郎が目指したスポーツの大儀を今一度ふりかえって欲しいものだ。国家間の優劣争いで終始するならモッタイナイお金のかけ方だ。




 
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2016年08月22日

With a little help from our friends to Tokyo

リオのオリンピックの閉会式のセレモニーでポルトガル語の「OBRIGADO」、日本語の「ARIGATO」が続く。共通点はスペルに「RIO」が入る演出だった。期間中、ブラジル、北朝鮮、中国、韓国、ジャマイカなど等の世界中の鍛え抜かれたアスリートの身体が躍動するのをみてきた。戦争やテロで怯えなければならない21世紀ではなくなるよう、四年後の再会が未来の人類の歩みにつながるように、祈りたい!!

9月7日からはパラリンピックがスタートする。
 障がいを抱えながら闘う世界のアスリート達の熱戦に
 引き続き注目し、応援して行きましょう!


With a little help from my friends


Grammy 2014 The Night That Changed America




https://youtu.be/9inpiIQdSj0
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2016年08月21日

力技を競った女子たちを地球サイズの視点でサポート

 前回、ロンドン五輪では、日本が獲得した金メダル7個のうち、4個を占めた女子レスリング。同じ格闘技でも、男子が史上初の金メダル0、女子もわずか1個に終わった柔道に対し、なぜ日本のレスリングはこんなにも強いのか?とまで言われるようになった。
 
JOC副会長でもあるレスリング協会の福田会長が、トレーニングセンター長を務めていることも大きいという。「女らしく、男らしく」など、どう考えているのかと問えば、それより個性を大事にしろ!と言われそうだ。やりたい意欲を引き上げる、それこそが能力を生かすことに繋がる。

 東京・北区に2008年、374億円を投じて完成した味の素ナショナルトレーニングセンターは、各競技ごとに超近代的な練習施設が完備している。JOC(日本オリンピック委員会)関係者によれば、このセンターを最もよく利用しているのはレスリングである。代表クラスの合宿はもちろんのこと、2番手・3番手の選手や、ジュニア世代の合宿も多い。
 
 また、こうした最新の練習環境での厳しい合宿を行なう一方、女子は新潟・十日町、男子は長野・菅平で、山や坂道などを使ったナチュラルトレーニングも継続している。身体能力や技術だけでなく、精神面も鍛えられる環境作りが、それは『八田イズム』から受け継がれている。

 1988年ソウル五輪を最後に遠ざかっていた男子も24年ぶりに金メダリストが生まれ、『レスリング王国』は完全復活した。日本レスリングがこれまで獲得した五輪金メダルの数は、柔道を抜いて、日本一の競技団体となる勢いだ。

【1】 伝統の『八田イズム』

 強さの秘密を問われたら、レスリング関係者は口をそろえて、真っ先にこの点を挙げる。金メダル0と惨敗した1960年ローマ五輪からわずか4年、日本は東京五輪で金メダル5個を獲得。一躍、レスリング王国となったのだが、その礎を築いた第3代日本レスリング協会会長の八田一朗だ。

「負けた理由を探すな」「左右とも利き手にしろ」「夢の中でも勝て」「マスコミを味方にしろ」「ベン(便所)学の勧め」など、八田の強化策は独自かつユニークであり、厳しかった。しかし、その内容は合理的でもあり、その教えは現代でも脈々と生きている。

【2】 福田会長の『国際性』

 八田イズムの第一継承者であり、それをさらに昇華させ、国際性を高めて現役選手たちに伝えているのが、現協会会長の福田富昭だ。国際レスリング連盟副会長も務める福田は、世界における日本の発言権を強め、国際交流を推進していった。さらに、世界選手権などの国際大会を国内で数多く開催し、毎年のように世界各国での合宿も敢行した。

 また、選手たちを積極的に海外遠征させる一方、「来る者は拒まず」という姿勢で、いつでも各国から選手を受け入れ、日本代表合宿にも参加させてきた。そのため日本選手は、ジュニア時代から外国人選手に対する苦手意識がなくなり、海外でも存分に力を発揮できているという、グローバルな対応を早くから強いていたということだ。能力開花が著しいだけの理由はやっぱりあったのだ。

 それにしても、女子選手の試合後にみせる笑顔が美しい。強くなりたいと言う意思と努力、サポート体制、女性が輝く、スポーツ王国になれば、いつまでたっても女性が議会の少数でいる日本の体質改善も進みそうだと期待する。 2020年へGO!



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2016年08月20日

憲法は誰が書いたのか

 8月15日、ジョセフ・バイデン米副大統領がペンシルベニア州スクラントンで開かれた民主党大統領候補のヒラリー・クリントン氏の集会に初めて参加、そこで行った演説には「日本国憲法」に関する重要発言が含まれていた

 しかし、今もってこの重大発言に対する反応が日本国内で殆どないのは不思議だ。

共和党大統領候補のドナルド・トランプ氏はかつてインタビューの中で「日本が在日米軍駐留経費を全額負担しないと言うのであれば、日本は自力で国を守るべきだ。そのために核兵器を保有するというのであれば、それはそれで結構だ」といった趣旨のこと語った。それを念頭に置いて、バイデン副大統領は次のように述べた。

「トランプ氏は、私たちが書いた日本の憲法で(日本は)核兵器保有国にならないことを理解していない」

正確を期するために原文に当たってみる。「Does he not understand we wrote Japan’s constitution to say they couldn’t be a nuclear power?」
―― バイデンは「私たち(米国)が書いた」と述べている。

 たとえ政治集会での発言だとしても、現職の米国福大統領が「私たちが日本国憲法を書いた」と表現するのは極めて異例というか、僭越というか、公的な発言としてみると困惑を招くものだ。
drafted(下書きした)というのでなく、wrote(書いた)と明言している。
「じゃあ、傀儡政府だったのか」ということにもなりかねない。つまり、日本国憲法の制定を巡る大論議に再び火を付ける重大発言といえる。

それを受けた形で、米紙ウォールストリート・ジャーナルのピーター・ランダーズ東京特派員は17日付の同紙で、(同発言が)日本国内に戦争放棄を謳った現行憲法改正論を惹起しつつあるとも報じている。

 ところが不思議なことはあるもので、国内メディアは、護憲派からバイデン発言に対して強い反発があったとも聞かない。安倍首相のような改憲派から「占領軍の押し付け憲法」をいよいよ変えるべしとの強気コメントも見当たらない。

 安倍晋三首相はまごうことなき憲法改正論者である。その根底には、日本の戦争放棄を謳った憲法9条の成立過程について、連合軍最高司令部(GHQ)から押し付けられたものであるとの認識にもとづいている。なにぶん安倍首相の敬愛する祖父・岸信介元首相の強い影響だといわれ、世間もしっている事実だ。

 その経緯は、今夏刊行の『吉田茂と岸信介―自民党・保守二代潮流の系譜』(安井浩一郎・NHKスペシャル取材班著。岩波書店)に詳しい。安井ディレクターは、岸信介氏が1948年12月に巣鴨プリズンから釈放されてから53年4月に政界復帰するまでの期間、故郷・山口県田布施町に隠遁していた当時の後援会小冊子に岸発言が収録されていることを発掘、単行本化するに当たって同書にこう紹介している。

「憲法は云ふまでもなく独立国の拠つて以て立つ根本法である。現行の憲法が占領下に於て時の占領軍の最高司令官から押し付けられたものであり、原文が英語で書かれた翻訳憲法であることは今日では公知の事実である。斯くの如き憲法を持つて居る独立国は古今東西に其の例を見ざるところである。」(原文ママ)

 まさに岸信介氏は議席を得た後の54年3月、当時の自由党内に発足した憲法調査意会の初代会長に就任する前から「現行憲法はマッカーサー=GHQの押し付け」という認識を抱いていたのだ。そして、安倍首相はそれを継承している山口県民だ(?)。岸は満州国総務庁次長、から戦犯被疑者としての獄中、そして無罪放免後、極東御裁判をみつめつつ、政治界に君臨するまでになる。沖縄本土復帰によりノーベル平和賞を得た佐藤栄作は養子先の姓。

麻生首相の朋友とされる麻生太郎元首相は、言わずとしれた吉田茂の孫にあたり、自由民権派の泰君・大久保利通につながる家系だ。吉田首相は「国民自らが戦争の放棄を願った」その結果を憲法にしたと主張したのだ。

 両雄引き合うところはあるものの、「安倍1強」の自民党内の保守派・改憲派から今回のバイデン発言に関してのコメントがまったく聞えてこないのは、マスコミの怠慢なのか、一体全体なぜなのか。

 理由があるとしたら、先の天皇陛下の「お気持ち」表明に込められた生前退位の問題が、事実上の政治イシューとなったからだ。憲法に触れる皇室典範の処理をどうするか、即時答えをだすことができない?

 当面、日本国憲法の成立を巡る「神学論争」を避けたいというのが、安倍官邸の本音なのだろう。
 9月下旬召集の臨時国会で改憲論議をするため、皇室典範改正・生前退位問題の議論を分離して臨むことにして、改憲へGO!かもしれない。


参照:現代ジャーナル(歳川 隆雄)
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2016年08月19日

史上最強の霊長類女子の汗と涙

女子レスリング53キロ級の吉田沙保里(33)は、世界大会16連覇と個人戦206連勝は「霊長類最強の男」アレクサンドル・カレリンを抜いていたので「霊長類最強の女」となっていた。リオのオリンピックでは、選手団主将の重責を担ったが銀メダルであった為連勝記録は打ち止めとなった。

力強く、大きく見えるが157センチ。津市の公式プロモーションビデオでは、清純な愛らしい歌声を披露している。周りから愛される人柄を感じさせる郷土の誇りと讃えられているのもうなづける。たぶんに兄弟、家族、わけても父親・英勝さんの愛情と檄にガッツリ応えて、泣き笑いしてきたのだろう。間もなく34歳、アスリートに厳しい年齢の壁をよくぞ、鍛え抜いて精一杯人生を闘ってきたのかと思う。後輩の女子が目ざした姿が貴女だったから金メダルが続出した、そのことに金メダルだろう。澤選手のお母さんのように、吉田選手のお母さんも、蹴ったり、打ち倒したりする競技でも、温かく娘を見まもる素敵な女性だったのだろう。好きな事を一番サポートしてくれ、つまらない事で人を出し抜くなんてことより、「やりたいことを精いっぱいやりなさい。」と人生を後押ししてくれていた。それって、同性の中で最強のサポーターだ。だから、あんなにきれいなレスリングの後輩たち、キラキラした目で慕われ、辛い修行に耐えて力をつけるお手本になれたのだろうかなと思えた。

練習好きの貴女は、また誰に言われなくても練習場で黙々とトレーニングをしていることでしょう。
ファイトする貴女を止められない事を周囲はしっている、それだけの努力をして、それだけの才能があるからです。園遊会の着物姿もとても似合っていましたし、号泣する沙保理さんもいるんだなって知って、なんだか安心しました。

1982年(昭57)10月5日、三重県津市生まれ。3歳の時に、父の指導でレスリングを始める。04年アテネ、08年北京、12年ロンドン五輪で女子55キロ級3連覇。1912年に国民栄誉賞を受賞。見栄県特別民栄誉賞。津市特別市民栄誉賞。津市は市内に建設する総合スポーツ施設の名称にその名を冠することを決定。

01年12月の全日本選手権3位決定戦で伊調馨に勝ってスタートした。08年と12年のW杯で敗れているが、いずれも体重2キロオーバーまで認められる団体戦。個人競技の連勝は柔道・山下泰裕の203連勝が有名だが、これは団体戦の引き分け7(レスリング団体戦は引き分けなし)をはさんだもので、純粋な連勝は68。

◆レスリング世界大会優勝回数5傑◆

<1>吉田沙保里(日本=女子55、53キロ級) 16(五3、世13)
<2>カレリン(ロシア=グレコローマン130キロ級) 12(五3、世9)
<2>伊調馨(日本=女子63、58キロ級) 12(五3、世9)
<4>メドベジ(ソ連=フリー97、100キロ超級) 10(五3、世7)
<5>サイキエフ(ロシア=フリー74キロ級) 9(五3、世6)
<5>小原日登美(日本=女子51、48キロ級) 9(五1、世8)
※五=五輪、世=世界選手権

◆レスリング世界大会連覇数5傑◆
<1>吉田沙保里(日本=女子55、53キロ級) 16(2002年〜)
<2>カレリン(ロシア=グレコローマン130キロ級) 12(1988〜99年)
<3>ベログラゾフ(ソ連=フリー57キロ級ほか) 8(1980〜88年)
<4>ハダーチェフ(ソ連=フリー90キロ級) 7(1986〜92年)
<4>伊調馨(日本=女子63キロ級) 7(2002〜08年)
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2016年08月18日

8月15日は朝鮮半島の解放記念日

韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は15日の日本統治からの解放記念日の演説で北朝鮮に呼びかけた。
「北韓(北朝鮮)当局の幹部たちとすべての北韓住民の皆さん!」。
 南北が統一すれば「どんな差別と不利益もなく同等な扱いを受けられる」「自分の力量を思う存分発揮し、幸福を追求できる」。「核と戦争の恐怖が消えて、人間の尊厳が尊重される新しい統一時代を開くことに賛同してください」と訴えた。

これは、北朝鮮の当局者や住民を、金正恩(キム・ジョンウン)委員長と区別することで、北朝鮮内部で正恩氏を孤立させる狙いなのだろう。北朝鮮では外交官のエリート層まで脱北が広がり、香港で7月に開かれた「国際数学オリンピック」に参加していた18歳の男子生徒が香港の韓国総領事館に逃げこみ韓国に亡命を申請したと地元メディアが報じた。朴氏の訴えは北まで届くだろうか。

参照:日経新聞8/17(ソウル=峯岸博)
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2016年08月17日

国際的にも高い評価をうけた二人の女性

戦前、湯浅年子が東京女子高等師範学校を卒業した1931年当時、日本で女性が学べる大学は、北海道大学、東北大学、東京文理科大学、広島文理科大学、九州大学に限られた。湯浅は東京文理科大学へと進学した。物理学の分野では日本で最初の女子大学生であった。

1934年に大学を卒業すると、湯浅は東京文理科大学の副手となった。また、1935年に東京女子大学講師、1937年には東京女子高等師範学校の助教授となった。しかし湯浅は、自分は教職には向いていないと感じた。また、研究面においても、当時は女性の地位が低く、思うような研究ができなかった。さらに研究分野である分光学の将来性に対しても、行き詰まりを感じていた。そのような状況の中、湯浅は大学の図書室でキュリー夫妻の人工放射能に関する論文を読み、大きな感銘を受けた。

そして、フランスで夫妻のもとで研究を行いたいと心に決めた。当時フランス外務省では、年に数名の留学生を2年間フランスに招き入れる制度があったため、湯浅はこれに応募した。1938年に受けた試験では、筆記では合格したが、口頭試験で落選した。しかし翌年の試験ではトップの成績で合格を果たし、留学が認められた。フランス渡航の間近になって第二次世界大戦が勃発、さらには父親が胃がんの診断を受け、余命1年を宣告された。そのため一時は渡航を諦めたが、自分の病名を知らされていない父は、「たとえ思うような研究生活ができなくても、外国へ行って外から自国をみることは見解をひろめることになるから」と留学を勧めた。そのため、湯浅はフランスへ渡ることを決心した。

フランスへ渡った湯浅はラジウム研究所を訪れた。しかし研究所はすでに軍の管理下にあり、外国人が入るのは非常に難しかった。湯浅は研究所に入れてもらえるよう、外務省などを通じて何度も交渉を行った結果、イレーヌ・ジョリオ=キュリーやポール・ランジュバンの協力を得て、コレージュ・ド・フランス原子核化学研究所のフレデリック・ジョリオ=キュリーのもとで研究できるようになった。

真摯に研究に取り組むことのできる研究所の環境や、研究で行き詰った時に頼りになるジョリオ教授の存在などに湯浅は喜びを感じ、後に「祖国で経験したことのない魂の自由さを味わった」と記している。しかし、ドイツ軍はフランスへの進撃を開始し、パリの研究所は危険な状況となった。湯浅はフレデリック・ジョリオ=キュリーの勧めで、いったんボルドーへと避難した。しかし研究を行うことができないボルドーでの生活に耐えられなくなった湯浅は、研究所で爆弾の下に死んでもかまわないから呼び戻してほしいとジョリオに願い出て、5月31日にパリへと戻った。

6月、パリがドイツ軍の占領下におかれると研究所は一時閉鎖されたが、9月に、ドイツ人との共同研究をすることなどの条件のもとで再開された。湯浅はジョリオの指導のもと、霧箱を使用して原子核崩壊の際のエネルギーや運動量の変化を調べる実験を行った。1941年には渡仏後初めての論文を発表した。

1941年1月、父が死去した。湯浅は大使館を通じてその情報を3月に知った。しかしこのときジョリオから、日本に帰らずにここで研究を続けるよう言われたため、湯浅はフランスに留まった。また、若いころに父を亡くしたイレーヌ・ジョリオからは慰めの言葉を受け、父親であるピエール・キュリーの伝記を手渡された。その中にあるピエールの言葉「どんなことが起ころうとも、そしてたとえ魂のない身体になったとしても、やはり研究を続けなければならないだろう」は、その後の湯浅の励みになった。1943年には学位論文を提出し、理学博士となった。

日本はドイツと同盟を結んでいたため、戦争が続くにつれてフランス国内における日本人の立場は微妙なものになっていった。そのため1944年8月、大使館の要請による日本人の引き揚げが始まり、湯浅もベルリンへ移動した。なんとか研究を続けたい湯浅はドイツ内での研究場所を探し、そして、オットー・ハーンのもとで研究できる許可を得た。しかし出発直前になって、当時ハーンのいたタイルフィンゲンにも戦線が近づいているとの報告を受けた。そのため、ハーンの元での研究はかなわず、代わりにハーンの紹介により、ダーレムにあるベルリン大学付属第一物理学研究所のクリスチャン・ゲルツェン教授のもとで12月から研究を行った。さらに空襲がはげしくなると、ベルリンの研究所も危なくなり、1945年4月には研究所を離れなければならなくなった。5月、ドイツ軍が降伏すると、湯浅はベルリンからモスクワに送られ、そこから日本へと送還された。

帰国した湯浅は、空襲を受けた祖国の風景を見てショックを受けた。さらに母も重い病にかかっており、年子が帰国して間もなくの7月23日に死去した。湯浅は東京女子高等師範学校(1949年からお茶の水女子大学)に助教授として復職し、疎開先の長野県に移り住んだ。8月6日に広島に新型爆弾が落とされたとのニュースを聞いた時は、それが原子爆弾であることに気付き、翌日には、核分裂などに関する授業を行った。

終戦後、湯浅は東京に戻った。住む場所が無かったため、東京女子高等師範学校の校舎で寝泊まりをしながら、次の研究について考えをめぐらした。フランスにいる時、湯浅はイレーヌ・ジョリオから、日本にラジウム研究所を作るよう提案されており、マリー・キュリーが測定した標準ラジウム塩を手渡されていた。そのため、湯浅はイレーヌの期待にこたえるべく、日本でのラジウム鉱石のありかを調査しはじめた。また、湯浅は、ベルリンから持ち帰ったβ線分光器を使って、βスペクトルの研究を行おうと、理化学研究所の仁科芳雄のもとを訪れ、準備を進めていた。ところが11月25日、GHQの手により理化学研究所のサイクロトロンなどの実験器具が破壊されたため、これらの実験計画はかなわなくなってしまった。

当初の実験計画は行き詰ったが、この頃の湯浅は講義や研究のほかに、講演や執筆活動などの分野にも取り組み、多忙な日々を過ごした。ヨーロッパで最先端の研究を行ってきた湯浅の体験は当時の日本には貴重なものであったため、数々の依頼が舞い込んだ。さらに湯浅は、日本はフランスと比べて科学における女性の地位が低いことを嘆き、女性と科学の問題に対しても深くかかわるようになった。

1949年、フレデリック・ジョリオ=キュリーから「ご無事をよろこぶ。再び研究を始めましょう」という電報が届いたのをきっかけに、湯浅は再びパリに渡り研究を再開した。中断した5年間の遅れを取り戻すのには苦労したが、やがてβ崩壊の研究などで成果を上げ、国際会議でも講演するようになった。

湯浅はお茶の水女子大からの出張という扱いでパリで研究していたが、1952年には出張期限が切れたため、以後は休職という形でパリに留まった。1955年にはその休職期間も切れたため、湯浅は日本に戻るか大学を退職してパリで研究員となるかの選択を迫られた。日本からは帰国を促す手紙も寄せられ、湯浅は悩んだが、研究を継続させるためにパリに残ることに決めた。そして1955年10月に、今まで研究を行っていたCNRS(フランス国立中央科学研究所)の研究員となった。

湯浅の研究は進み、1957年には主任研究員となった。一方で、1956年にはイレーヌ・ジョリオ=キュリー、1958年にはフレデリック・ジョリオ=キュリーが死去し、湯浅は深く悲しんだ。1959年、湯浅の研究室は、新しくできたオルセー原子核研究所へと移動した。ここでも湯浅は研究の他に、日本からの留学生の対応、国際会議への参加など、多忙を極めるようになった。

1967年、東京で開かれた原子核国際会議に参加するため、18年ぶりに日本に帰国した。この帰国をきっかけに、日本の研究者とCNRSとの間の交流が盛んになった。また、湯浅に対する日本の科学雑誌などへのエッセイの依頼も増えるようになっていった。1974年、湯浅は65歳となった。CNRSの定年は研究長以外は65歳と定められていた。湯浅の実績は研究長となるのに十分なものだったが、当時のCNRSの人員縮小政策のために研究長になることができなかった。そこでCNRSの計らいで、湯浅は特例で名誉研究員となり、定年後も研究を続けられるようになった。

1976年、「永年にわたるフランスでの学究生活」と「日仏文化交流に貢献した」ことに対して、日本の紫綬褒章が贈られた。柳兼子は、この年にパリに滞在して私的なコンサートを開き、そこには湯浅年子も顔をみせて、兼子を称賛したという。

1977年、原子核構造国際会議に出席するため、10年ぶりに日本に帰国した。湯浅は手術後の体調が思わしくなく、食事を満足にとることもままならない状態だった。その不調ぶりはは傍目からも分かる程度であったため、久しぶりに湯浅に再会した日本の友人を心配させた。

フランスに戻ってからは、実験の他に、日仏共同研究の計画にも取り組んだ。日仏共同研究の実施には困難な点が多く、湯浅は日本の担当者と電話や手紙で何度もやり取りを行った。体調は1979年ごろからますます悪化していったが、共同研究が実現できなくなってしまうからと、入院は断固拒否し、食事療法などで対処しようとしていた。知人の手によりパリ郊外の病院への入院の手続きがとられた。入院後、湯浅の体調は急激に悪化し、2月1日には危篤状態となった。

一方、日仏共同研究はその前日にフランス政府から正式な許可を得ることができた。東大原子核研究所教授の坂井光夫は渡仏した際にそれを伝えるため、2月1日に病院に駆け付けた。坂井が湯浅に、フランス政府の許可が得られたことを知らせると、意識を失っていたかに見えた湯浅は目をあけてうなずき、何かを言おうとして口を動かした。そして同日の午後4時25分に70歳の生涯を閉じた。

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2016年08月16日

日本政府の抵抗にあった女性の権利、GHQが押し切って立法

憲法9条についてはマッカーサーの押しつけではとの憶測が晴らされてきて、日本の政治家たちが反省を込めて、新憲法に武器の放棄と平和を主張したことが立証されてきました。むしろ、外の力が加わらなければ、日本国憲法第24条に女性の権利を尊重する男女平等は書き込むことはならなかったでしょう。それほど、日本、というかアジア、欧米でも女性の権利を憲法の条文に書き入れることは画期的でした。

憲法第24条は、「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」について述べています。知る人ぞ知るであったが、秘されていたのが、近年の男女共同参画の意識から女性たちの認識が進み公的にも知られるようになって、若い研究者であったベアテ・シロタ・ゴードンさんの尽力が知られてきたのです。

日本国憲法の成立とベアテさんの草案

日本の敗戦後、1946年に、ポツダム宣言に従ってGHQから憲法改正を命じられた時、日本政府が大日本国憲法とほとんど変わらない案を出したので、民主的な内容に変えていくようにGHQが草案を作り提示したことが知られてきました。

特にベアテさんは、幼いときから日本の女性の抑圧された状況を見聞して、日本語も十分に理解していたので男女平等の条項を任されました。教育も選挙権もない、日本女性を無能との規定におさめていた事情もよく知っていました。彼女は「女性と子どもが幸せにならなければ、日本は平和にならないと思った」と懸命に調査をして女性が不利にならない状況をつくろうとしたのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)下の家制度と女性の無権利状態

大日本帝国憲法下の明治民法では、「戸主」を頂点とする家制度が定められていました。戸主権は長男が相続し、女性と長男以外の男性は差別されました。結婚は家と家の間のもので、決められてしまう事も珍しくありませんでした。結婚した女性は、一切の決定権を持たない「無能力者」として扱われ、自分の財産も持てず、選挙権もありませんでした。妻妾同居も資産家の主にはあたりまえの観さえ世間にはありました。子どもへの教育権もなく、学校では、ですから母親が来るのに「父兄会」と言っていました。母親は父や兄(長男)の代理にすぎなかったからです。

女性の権利条項に反対した日本政府

日本政府は平和条項についっては突合せが進みましたが、むしろ日本政府が最も強く反対したのが、国体と言われた象徴天皇と、控えめであるべき女性に権利の付与などしては、日本の伝統慣習を壊してしまうと強い抵抗がおきました。日本政府は「日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌はない。日本女性には適さない」と政府は抵抗したが、GHQによってベアテさんの書いた第24条が支持されて女性の権利が書き込まれました。

日本国憲法草案が新聞で発表されると、日本国民の多くはこれを歓迎しました。そして戦後初の普通選挙で、立候補する女性も出て、初の投票権を得て女性議員を含む国会となっての審議がされる、日本国憲法は成立しました。

第24条【家族生活における個人の尊厳と両性の平等】
@ 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
A 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 「婚姻は両性の合意のみに基づ」く。それは、戸主同士の合意によって成立した戦前の結婚と180度違う規定でした。また、家族の尊厳と両性の平等が規定されたことにより、男性と女性、長男とそれ以外の子どもも平等となりました。この条項は、法の下の平等を定めた第14条と並んで、男女の平等を保障するものとなりました。しかし、その後の長引く民法改正論議に見られるように、選択的夫婦別姓や、婚姻外の子どもの平等など、未解決の問題はまだ残されています。

参考文献:1945年のクリスマス ベアテ・シロタ・ゴードン 柏書房
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2016年08月15日

手賀沼観光施設誘導方針(案) へパブリックコメントを募集中!

平成28年7月22日(金曜日)から8月22日(月曜日)まで手賀沼観光施設誘導方針(案)」についての意見募集(パブリックコメント) がされている。

今後、 我孫子新田地区において、企業や個人事者よる展開に基づき、手賀沼その もを活用する施設や観光客てなため促し、手賀沼そのもを活用する施設や観光客てなため施設を誘導施設を誘導していきます。 あわせ 手賀沼を活用した花火大会や水上アクティビィティ、イベ ントの 充実 や、舟運など水上交通の や、舟運など水上交通の拡充、手賀沼遊歩道、レンタサイクルの遊歩道延伸の働 きかけなどの取り組みを進め ていき ます。これ により、相乗効果を生み出して多くの交流人口の呼び込み、さらなる 流人口の呼び込みをめざしていきます。 また、 一般的に 市街化調整区域では、 この方針 で誘導す る施設として位置付けた建築物 、例えば、保育園病院特別養護老人ホーム資材置き場の管理棟 学校、農業従事者の住宅 施設、、一定の 要件を満たすもを満たすものになっています。 この方針でめざす観光振興の目的にそぐわない施設もありうることから、既存の土地利用への配慮も含め 、さらに具体的な 内容を地区計画て積極的に推進していくこと します。

みなさまのの意見を反映します。

市のホームページのほか、以下の場所でも閲覧できます。
1.商業観光課
2.行政情報資料室(市役所本庁舎1階)
3.各行政サービスセンター
4.生涯学習センターアビスタ
5.湖北地区公民館
6.あびこ市民プラザ
7.各近隣センター
8.市民図書館湖北台分館および布佐分館
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2016年08月14日

71周年非核平和祈念式典 

毎年、8月の終戦記念日前に手賀沼公園で非核平和祈念式典が行われる。今年は、13日午前中に行われた。
丁度、本年は米国大統領が初めて広島の地を訪れ、被ばくして亡くなられた犠牲者に額ずいた。最初の一歩まで71年もかかったが、こうした非核平和への敷居を超えてこそ、次に進むのだと思うが不穏な動きも世界中におきているので諦めては、それこそ終わりだ。

これまでは被爆者の会が中心になって、非核平和への灯を絶やさずにと活動されたが、それも高齢化が迫る問題としてあった。そこで、式典の継続を市と一体になって考えて欲しいとの要望があって、非核平和都市宣言の上に、平和条例の制定を陳情で提出、継続審査、再審査した。ようやく議会が陳情を採択するところになったものの、それだけではことは進まず、議案を提案するところに進ままねば目的は達せられない。議員提案することは、当時、まだ議会では難しい状況があって、せっかく市民運動で提出されたものが形無しになってしまうことも考えられた。時間はかかったが、市長の交代のタイミングで審議が進み、今や星野市長の手厚い政策となって進展中だ。こうして毎年に参加者が増えてくるのは、やはり政策として取り組めるかどうかは大きいとつくづく思う。

一つのテントが今回は4張りになり、テントから人があふれるほどになった。暑くもなくの曇天とそよ風に吹かれて、これまでに見えていたお顔が減ってきたのは少しさみしいが、若い人の間に関心が高まってきたのは、市民委員会の地道な準備と中学生派遣の継続の成果だと思う。

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2016年08月13日

新資料:憲法九条は自主憲法

  憲法9条は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相が提案したという学説を補強する新たな史料を見つけた堀尾輝久・東大名誉教授に、発見の意義などを聞いた。 (東京新聞8月12日 by北條香子、安藤美由紀)

 −なぜ、書簡を探したのか。

 「安倍政権は、戦争放棄の条文化を発意したのはマッカーサーという見解をベースに改憲を訴えている。マッカーサー連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官が高柳賢三・憲法調査会長の質問に文書で回答したのは知っていたが、何月何日に回答が来て、どういう文脈だったのか分かっておらず、往復書簡そのものを探し出そうと思った」

 −書簡発見の意義は。

 「マッカーサーは同じような証言を米上院や回想録でもしているが、質問に文書で明確に回答したこの書簡は、重みがある」

 −二項も、幣原の発案と考えていいのか。

 「一項だけでは(一九二八年に締結され戦争放棄を宣言した)パリ不戦条約そのもの。往復書簡の『九条は幣原首相の先見の明と英知』、幣原の帝国議会での『夢と考える人があるかもしれぬが、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、後方から付いてくる』などの発言を考えると、二項も含めて幣原提案とみるのが正しいのではないか」

 −幣原がそうした提案をした社会的背景は。

 「日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も『もう戦争は嫌だ』と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な九条に結実したと考えていい」

 −今秋から国会の憲法審査会が動きだしそうだ。

 「『憲法は押しつけられた』という言い方もされてきたが、もはやそういう雰囲気で議論がなされるべきではない。世界に九条を広げる方向でこそ、検討しなければならない」



 <ほりお・てるひさ> 1933年生まれ。東大名誉教授、総合人間学会長。教育学、教育思想。東大教育学部長、日本教育学会長、日本教育法学会長などを歴任した。著書に「現代教育の思想と構造」「教育を拓く」など。

 <たかやなぎ・けんぞう> 1887〜1967年。法学者。成蹊大学初代学長。専攻は英米法。22年に東大教授となり、東京裁判で日本側弁護団のリーダー格を務めたとされる。帝国議会貴族院議員として46年、憲法審議に関わった。57年に憲法調査会長に選ばれ、憲法の再検討に当たった。
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2016年08月12日

中国船、領海での切迫した事情

中国漁船が11日、沖縄県石垣市の尖閣諸島沖の公海上で、ギリシャ船籍の貨物船と衝突した。ようやく中国は、翌日になって漁船沈没の遭難者を日本の海保が救助して、無事に送還させたことを報道し、中国当局も賞讃したというのが報道された。相変わらず中国は海域沿いで、多数の漁船を出して目に余る不信行為を繰り返してきていた。不信行為に対して、紳士的に国際法を護っている日本の善意にたいして行動を改める中国に変わって欲しいものだ。

日本の外務省は6日にも、東シナ海の尖閣諸島(中国名:魚釣島)の接続水域で中国の漁船約230隻と海警局の船6隻を確認し、中国側に抗議したと発表していた。これほどの多くの中国漁船が同接続水域に入るのは異例。海警局の船のうち、3隻は武装していたという。

外務省のアジア大洋州局長は同日午前、在日中国大使館の公使に対し、領海内に入らず、接続水域からも退去するよう求めた。さらに、一方的に緊張を高める行為だとして強く抗議した。

日本が中国に抗議をするのは2日連続。前日は中国の漁船と海警船が同時に尖閣周辺の日本の領海内に入ったとして、外務省の事務次官が中国大使を呼んで抗議した。

尖閣諸島をめぐっては、日本側は領土問題は存在しないとの立場を取る一方、中国側は領有権を主張している。


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2016年08月11日

みんなのために

 今日から、「山の日」という旗日が加わった、前回海の日の制定以来20年ぶりとのこと。オリンピックに朝夕、テレビにくぎ付けで応援の状況をみこしての、祝日の追加なのかもしれない。
 
 前回のオリンピックでは、元ビートルズのPaul McCartneyが、キーボードに向かって名曲をメドレーで歌った。そういえば、ジョンレノン夫人となったオノ・ヨーコもアテネ・オリンピックでメッセージをしていたし、IMAGINE 演奏された。彼女は非核平和の活動、日本の災害にたいしても激励を続けてきている。ベビーブーマーの覚え麗しいビートルズだが、今回のリオ・オリンピックは娘のステラ(マッカートニー)が英国選手団のデザイナーとして活躍しているということで、素敵なデザイナーになって現代の英国デザインを盛り立てている。

 もちろん、ビートルズの曲は、群馬でも、我孫子でも、あっちこち自治体の着メロにもなっている。兎に角世界中で今も、歌によって世界を友和的につなごうできるのは歌やスポーツだ。ISの兵士たちは、音楽もスポーツも女性の人権を考える環境にない教育なのだろう。ジョン・レノンはテロリストが暗躍する時代など、想像していなかったかもしれない・・・。国境や領海など関係なく、牙を向けて世界を恐怖に陥れる指導者が出てきた。All YOU NEED IS LOVE を世界初の同時中継の際に歌ったのがジョンだ。彼は、ミュージシャンであり、歌で愛のある世界を構築しようとした思想家だとも言える。かつて、ベトナム戦争反対運動に取り組んで、常にメッセージを送り、100万人の集会を呼びかけらっれる人物の一人として、入国規制を受けていたとすら、噂され、その直後の射殺であったため「暗殺」と言われてもきた。

 かたや、Sir Paul と呼ばれれるようになった、四人のうちの一人は今も音楽活動でも、子育てパパとしても現役74歳だ。素晴らしい曲をつくり、ファンの前でエネルギッシュに歌って、やすみなくギター、ピアノで演奏する。ついには、オバマ大統領列席のホワイトハウスで「ガーシュイン賞」を受賞(2010)して、ミッシェル夫人の前でMICHELLを歌った。

 たまたま日本公演2015の動画がアップされていたのを見つけた。それまでの公演と違うのは、日本語がうまくなっていたことだった。エンターテイナーとしても、さすがだ。「ひさしぶり、ブドーカン!」、「日本語ガンバリマス、でも英語のほうが上手です」、「みんな、ありがとう」、「男性だけ、女性だけ」などと言って、一緒に歌ったりする。みんなで楽しめる工夫をする努力家な面をもっている人だと、録画をみるだけで、みんなが満足していたことが分かってた。

 なにぶん、3時間近いステージを70歳を過ぎているなんて感じさせない、休みなく立って歌い続けける。菜食主義者なのに、元気のパワーはどこからくるのだろうか!?天才は、何歳になっても努力することが出来る人種なんですね。健康な姿を世界中の舞台の上で見せて、一時間以上を歌ってわかせる、来てよかったと思わせるエネルギーを全員に送り続ける素晴らしい!!「次の歌は、リンダの為に書きました」、次の曲は「Jhonに」「George に」などと言いながら、大画面いっいっぱいに生前のメンバーを映す。

 MCも自分で日本語でしてしまう、それも老眼を掛けずに!!! 来日コンサート最後の日だと言って、「Tokyo サイコー!」とフィナーレに向けていく、世界最高のショーマンだ。武器を手に世界を配下にしようという勢力に、友情や親愛の情を耳にして、つまらない武器は放棄して欲しい。そうImagine、願いたい All My Loving, I will send to you♪ みんなのために歌うマッカートニー卿の動画をご紹介したい。

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2016年08月10日

291万票の内訳と追い風のわけ

公明党支持層のうち63%が同党推薦の増田氏に投じたが、31%は小池氏に流れた。鳥越俊太郎氏を推薦した民進党の支持層では、56%が鳥越氏に投票したが、30%は小池氏に一票を託した。増田、鳥越両氏は組織を固めきれず、政党推薦なしで臨んだ小池氏が票を奪う形となった。無党派層でも、増田氏は23%、鳥越氏は19%の得票にとどまった。

 年代別の投票先を見ると、全ての年代で小池氏が最も支持を集めた。30代〜40代で5割を超えたのをはじめ、幅広く浸透した。男女別でも、男性の49%、女性の45%が小池氏に投じた。

小池氏はJR十条駅前での街頭演説で、「むちゃくちゃひどいことを言われるのに慣れている。だからこそ都知事に通って、『女は聞き分けがいい』『女は使い勝手がいい』などとは思わせない」と反論。

 党都連は党推薦の増田寛也氏以外を応援した場合に除名を含む処分の方針を示したが、強硬な引き締め策が小池氏の追い風に。同党の若狭勝衆院議員や地元の豊島、練馬両区の同党区議らが「除名覚悟」で支援すると、「『弱い者いじめは許せない』と支持が広がった」(陣営関係者)。

 選挙戦では「女性リーダー」のイメージを前面に出し、「東京大改革」を掲げた。舛添要一前知事が公私混同疑惑などで辞職したことを踏まえ、都政の透明化をアピール。「女性活躍のために」と待機児童解消を訴え、都有地を活用した保育所増設などを主張した。2階建て通勤電車の導入や残業ゼロ、首都直下地震に備えた無電柱化、ペット殺処分ゼロのほか外国人参政権の導入反対なども訴えて保守層の支持拡大も図った。

 陣営は無党派層への浸透を重視。告示直後からフェイスブックなどのSNSでイメージカラーの緑色を身につけた支援活動を呼びかけると、街頭演説では日を追って緑色のタオルなどを持って聴き入る有権者が増えた。支援した区議は「自分たちのやり方で戦ったのが良かった」。

「党や組織を超えて参加いただき、勝利につながった」。小池氏は当選を決めた後のインタビューで語り、同党都議らとの今後の関係について「都民ファーストで考える」と述べ、改善への転換を示唆した。

 選挙期間中、増田氏支持の石原慎太郎・元都知事が「厚化粧の女」と発言。これに反発した女性に支持が広がったのではないか、とテレビのインタビューで問われると、「エールをいただいた結果になった」と答えた。ひいきの引き倒しとか、褒め殺しという諌めがあったが、今回のは 「おヤジ東風」だったという事のようだ。

参照:7月31日 時事ドットコム
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2016年08月09日

マラソン、猫の恩返し

オリンピック入場行進、日本の後にカンボジア代表選手団6名の一人として手を振る猫ひろしがいた。

そもそもは、出演したTV番組がきっかけとなり、2008年にフルマラソンに初挑戦、その時のタイムが3時間48分57秒だった。更に、2009年、堀江貴文がインターネットでやっていた番組に呼ばれたのがきっかけだったという。そこでは「国籍を変えてオリンピックに出る」という話が出た。番組の関係者は冗談で言っていたが、本人は「カンボジアなら五輪代表になれるかも」と思った。そこから、所属事務所の関係者や応援してくれる仲間が盛り上がり、カンボジアの観光相や五輪委も「観光振興やスポーツの活性化になる」と後押ししてくれた。猫がカンボジア国籍を取得したのは11年。しかし、国籍取得からの期間が短いため規定によりカンボジア代表の選定にいたらかなった。当時34歳、それでも「年齢のことは考えず、とにかく毎日30キロ走ろう」と真剣に思ったという。

1年のうち4カ月はカンボジアで練習した。現地で話されるクメール語を勉強し、日常会話はできるようになった。お笑いのステージを終えた後、重さ約10キロのリュックを背負って横浜から東京まで30キロ以上を走ったり、深夜1時から明け方まで走ったり。

もっともオリンピックの出場にはIAAF(国際陸上競技連盟)が定めている標準記録を超えることが必要。 そこで、国内情勢や地域性などにより十分な練習環境を整えられない国や地域には、オリンピックに出場出来るよう考慮された特別救済枠が存在する。 陸上競技の場合、男女各一名がいずれかひとつずつの競技に出場できるというもので、そこを狙ったのだ。カンボジアはスポーツという点では下位の国で、陸上競技の参加標準記録をクリアする選手が出てこないため、陸上競技全体での特別参加枠”1名”をマラソンに使っていた。猫が挑まなければ、現地の選手が出場できたのだろう。新興国の有力選手が他国に帰化して、優勝をさらうということがあるが、それでもラオスやブルネイでは「陸上競技に出ない」ので、そういう意味での選択となったのだろう。しかし、カンボジアには猫ひろしより良い記録を持ったマラソン選手がいた。その選手の記録を上回わるほどの練習を積んだ。 フルマラソン初挑戦から7年で、年齢的にもマラソン全盛期は超えているにも関わらずタイムを1時間20分も縮めたのは、人は目的を持つと強いということの証明だ。

15年2月の東京マラソンは2時間27分48秒で自己ベストを更新(女子トップの福士加代子は、2時間22分17秒)。今年5月のカンボジアでのリオ五輪代表選考レースで優勝して出場を決めた。日本男子タイム一流の目安となる2時間10分以内も今までのアップ率で行けば夢のタイムでは無い。公務員ランナーが注目されたが、お笑い芸人ランナーが活躍するのも日本人観光誘致策になるとしたら、カンボジア代表となった事へ、もはやギャグではなく「猫の恩返し」に期待したい。

マラソン 放映日程
女子  14日(日)午後9時から
男子  21日(日)午後9時半から
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2016年08月08日

参院選挙と投票率、これからの民主主義

参院選を総括すると、原発事故の影響を抱える福島と、米軍基地問題が深刻な沖縄の2県では自民党は参議院での議席がゼロになった。

 どちらの県にも、戦後、自民党政権が中心になって進めてきた政策が、「理不尽な不利益」をもたらしたと考える住民が多くいる点で共通している。政府と地方自治体の考え方が鋭く対立する象徴的な場所でもある。しかも、議席を失ったのが、福島で岩城光英法相、沖縄で島尻安伊子沖縄・北方相と、現職閣僚2氏だった。
前回までの参院選の歴史で現職閣僚が落選したのは、自民党の橋本竜太郎内閣の大木浩環境庁長官(1998年)と、民主党と国民新党の連立政権だった菅直人内閣の千葉景子法相(2010年)の2度しかない。2閣僚の同時落選は極めて異例だ

若者が5割に届かなかったものの、13年の20歳〜24歳の投票率は31.18%だったのだから、高かったと見てもいい。初めての選挙の投票率を「発射台」と位置づけ、その後、年齢を重ねるに連れた投票率の変化を追っていくと、発射台が高かった年代の人ほど、高齢になってからの投票率がより高くなる傾向がある(参照:『選挙と骨粗しょう症〜50年後の民主主義を殺さないために』)。19歳の投票率が18歳に比べて低かったのは、進学に伴う引っ越しなどで、居住地と住民票のある場所が異なり、投票に行きにくかったという事情が指摘されている。19歳の意識が低かったと断じることはできないし、ほぼ4割の投票率も、発射台としてはまずまずだ。

 諸外国では1970年代に投票年齢の引き下げが相次ぎ、多くの国で全体の投票率が下落した。今回、10代の若者の参加が全体の投票率を押し下げるマイナス要因にはならなかったという意味で、日本は「成功例」に数えてもいい。発射台が高かったことで、今後の投票率向上にも期待が持てる。

 一方で、投票率をめぐり、その向上を図るあまり、大事なことが置き去りにされたような気もした。期日前投票の拡大の副作用だ。

 前回を300万人以上上回る約1599万人、有権者の15%が期日前投票を利用し、全体の投票率は選挙区選で約54%と、前回より2ポイント上昇した。1995年(選挙区選で約45%)のように、投票率が5割を割るような選挙では正当性を疑いたくもなるから、投票率向上の取り組み自体には一定の効果をもたらしているといえる。

 しかし、期日前投票は公示日翌日から可能なため、早めに済ませてしまうと、その後でどれだけ大きな出来事があっても、それを加味しての投票はできない。今回は公示直後に英国の国民投票で欧州連合(EU)からの離脱派が多数を占めて世界経済に激震を与える出来事など、微妙な世相を感知するには期日前投票は不利になる。

 選挙運動ができる17日間(今回は18日間)が、候補者の人柄や見識を見極めるのに十分な時間なのかという疑問もある。組織、政党の話だけで、あるいは印象だけで人を選んでいては、ここでも「損をするのは有権者ばかり」ということになりかねない。選挙のあり方そのものにも、課題を突きつけられたように思える


参照:読売オンライン
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2016年08月07日

真田丸 朝鮮出兵のその後

NHKドラマ「真田丸」で秀吉の老いゆく姿がリアルに演じられて話題です。
秀吉軍による文禄・慶長の役で朝鮮から連れてこられた人たちがいました。いわゆる人も、戦利品の時代で、日本で作ることのできない陶磁器の名品は朝鮮渡来のものでした。多数の陶工が連れ去られ、伊万里(佐賀)にも連行された。日本国内を自由に移動できず、 鍋島家の領内を移動することができただけです。

他方、朝鮮王室の陶磁器製作所「分院(プノン)」を舞台に、朝鮮初の女性沙器匠をモデルに作られた韓流ドラマ 「불의 여신 정이」(邦題「火の神ジョンイ」)が民放で放送中です。このヒロインには、実話モデルがあり、陶工“有田焼の母”として賞讃されるペクパソン(百婆仙)ということです。

はじめ、連れてこたれた直後、陶工たちは武雄に窯を構え、その後、有田で良質の陶土が発見されたことから、 有田に本拠を移しました。 武雄も有田も佐賀県内で、鍋島藩領だったところです。その朝鮮人陶工の頭領が亡くなって、陶工の夫と一緒に倭国に連行された彼女は、一族を率いて、有田町の稗古場(ひえこば)へと移住し、そこで窯をひらきました。後に“有田焼の母”と言われているようになる女性です。現在も有田では百婆仙を“有田陶業の祖”として称えているほどで、当時、朝鮮から来た陶工たちの中でも、特に優れた技術を持っていたため、指導者として崇められたのです。その業績を称え、有田町の報恩寺境内には、百婆仙の碑が建てられたほど。ちなみに、この名前・百婆仙は、敬称だということです。平均寿命の短かった当時、96歳まで長寿を保ったことから、その子孫が、その姿が温厚で、彼女を敬愛してこう呼んだ名前だそうで、実は本名は不明だそうです。

朝鮮の王様の窯元ですから、そこで頭領になる人々は血の滲むような努力を重ねて、研鑽をつんでいた、その様子をドラマは描いています。日本のやきものは画期的な飛躍を遂げたが、こうした先進産業の技術者をつれてきて、従事させた。つまり、日本の焼き物文化は、朝鮮から多大なる影響を受けた・・・という話は、学校でも歴史の授業で習いますが、こうして実在した人物が、望郷の念と異国で死を迎える悲しみも想像されます。有田焼の誕生とその後の発展があったのは、まさに百婆仙をはじめとする朝鮮陶工の貢献があったからですね。

真田丸を通して、英雄にも老いがくること、韓流歴史ドラマでは、朝鮮の文化や、人々の暮らしを幅広く知ってもらえそうです。百婆仙と有田焼をめぐる物語には、日本においても新たな日韓関係解決のヒントが隠されているような気がします。

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2016年08月06日

リオ五輪が始まる

 初の南米でのリオデジャネイロ・オリンピックが開催された。入場行進では、いろいろな事が紹介された。前回のロンドンオリンピックの英国代表のユニホームはステラ・マッカートニーさん(元ビートルズのポールが父親)のデザインだとの説明もあった。日本選手団は338人で前回より50人超で日本選手団としては最大となった。ロシアはドーピングの問題で389人の予定を271人に絞った。初のオリンピック名誉賞、キプチョゲ・ケイノさん(ケニア、マラソン金メダル)、スポーツを通し子供たちの教育に貢献した。「未来の人類のために教育によって若者を育てていきたい。平和と愛によって世界の絆をつくると信じている、皆さんも力を合わせていきましょう。」とのメッセージが発表された後、開会宣言がされた。子供の貧困が日本でも問題化している昨今、人類の未来を考えるという機会にもなりそうだ。膨大な金額に膨らむオリンピック予算についても、小池都知事が次回開催地としてのフラッグセレモニーで姿をみせるというので、象徴的な存在になっていきそうだ。

 パキスタン代表のシャーフセイン・シャー選手(23=筑波大卒)は、日本育ち日本で学んだ。父親について日本の2歳で来日。幼稚園に上がると同時に柔道を始め、高時代には世界ジュニア選手権に出場するなど頭角を現した。筑波大3年時には世界選手権(ロシア・チャビリンスク)の代表にも選ばれている。リオでは開会式の旗手も務め、柔道男子100キロ級に出場する。

 父親はソウル五輪 ボクシングミドル級代表・パキスタン史上初の銅メダリスト、その後、日本でトレーナーに転身、名ボクサーのセコンドを務め生計を立てている。パキスタンの英雄で、去年ドキュメンタリー映画も制作された。

 シャーフセイン選手は、今年3月に大学を卒業したが就職先が見つからず、現在はフリーの立場。練習場所の確保すら難しく、これまでは母校や警視庁、父親が関係する民間ジムなど、場所を替えて稽古やトレーニングを積んできた。パキスタンでは柔道の第一人者的存在で、五輪出場を果たしながら、政府からの強化費など資金面でのバックアップは一切なし。しかも、パキスタンオリンピック委員会が手続きを怠ったため同行する予定だった日本人コーチは現地入りできず、本番は文字通り孤軍奮闘。敬虔なイスラム教徒で、五輪期間と重なるラマダン(断食)時期を1カ月先延ばしして臨む。母国の子ども達が夢を描けるスポーツ選手として成果をもたらしたいという。柔道男子100キロ級は大会7日目、日本時間11日夜から予選が始まる。

 シャーフセインとは対照的に、日本代表は実業団や大学など恵まれた環境で稽古を積んでいる選手ばかり。男女とも全階級で金メダル取りが期待される。
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2016年08月05日

有難くない話

 年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)による5兆3千億円の運用損が影響し、厚生年金と国民年金の2015年度決算(時価ベース)をあわせると3兆2458億円の赤字だと公表された。赤字は5年ぶりで、過去3番目の規模。しかし、累積黒字から考えるとまだまだ太っ腹にみていける。

 厚生年金は2兆7448億円の赤字だった。期間を区切ってみたGPIFによる赤字は約5兆円といわれたが、保険料率の引き上げなどで前年度より3兆8509億円多い収入があり、赤字幅を縮めた。国民年金は約5009億円の赤字で、GPIFによる運用損約3千億円と被保険者の減少による3261億円の保険料収入の減少などが響いた。それぞれの収入のうち、給付に使わなかった計2兆3793億円はGPIFの積立金に繰り入れられた。 

 一方、国家公務員共済は、15年10月以降、制度が変わったため、通期の運用実績は残されていないし、昨年2月、運用比率をGPIFと同じにする方針が決定されたが、ある“カラクリ”を潜ませ、結果的にはリスクを回避できた。もっとも国家公務員の年金を支える「国家公務員共済」は安全運用で損益は出していたないがトータルでは、GPIFの運用益には及ばない。

 個人で選べない部分がある、運用側はしっかり確実に累積で黒字を保持していただきたい。

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2016年08月04日

打ってよし、投げてよし、走ってよし

メジャー通算3000安打まで残り「2」と迫っているイチローに対して、メジャーのトレード期限の8月1日(同8月2日)がきたので、プレーオフをにらんで球団の動きが全米各地で活発化。東海岸の代理人関係者によれば「マーリンズにはイチロー(42)をトレードして欲しいという申し込みが殺到しているという。

メジャーの野手には日本のプロ野球界とは比較にならないほど高い「年齢の壁」が存在する。どれだけ本塁打を量産しようが、35歳前後を境に見事なくらいパタッと需要がなくなる。それはイチローの契約にも反映されている。昨年、オファーしたのはマーリンズ1球団だった。

詳しくみると、年齢にして34〜38歳までのシーズン(08〜12年)の年俸は約17億円だったが、39〜40歳のシーズン(13〜14年)は約6.5億円にダウン。41歳で迎えた昨年は約2億円、今年も同額だ。イチローは「年齢の壁」ではくくれない「規格外」なヒット数だとすれば、42歳にしてもオファーが来るのも凄い。どこで、残り「2」を打つか、オリンピック中なのか後か、ともかく注目だ。
posted by Nina at 00:00| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月03日

モンゴルは親日国

 日本の国技相撲は、モンゴルからやってきた力士が活躍するインターナショナルなスポーツになっている。白鳳や朝青龍に代表されるモンゴル力士は日本語も巧になって、コマーシャルにも登場して活躍している。

 外務省が現地の大使館で行った日本に関する世論調査(2004年実施)では、最も親しくすべき国はどこかとの回答に、日本と答えた人が最も多かったのがモンゴル37.4%で、次いでアメリカ35.1%、ロシア28.2%だった。いまやモンゴルでは、日本に対するイメージは「経済力・技術力の高い国」と言う点への評価が75.9%とダントツだった。

 モンゴルは、現在、外モンゴルと内モンゴルに別れている。内モンゴルは現在は中国の自治区となっている。チベット自治区同様民族問題を抱える中国国内にある。内モンゴルの住民の8割はモンゴル族だ。同じモンゴル族の国が別れてしまったのには、戦前の日本が関与していた。

 モンゴルは、13世紀後半にチンギス・ハーンによる帝国が築かれ、かつて中国を含むアジアの大半とロシアに至る広大な地域を支配した史上最大の帝国であった。しかし、日本へも襲撃を繰り返したが、ご存知のように帝国は弱体化し、崩壊した。

 他方、チベット仏教勢力と貴族階級が一緒になって満州に元が勢力をもつようになり、中央に影響を強めて、ついにモンゴル民族が清朝の体制に組みした。清朝は約300年間中国を支配した中国最後の王朝であり、「ラストエンペラー」の映画にもなった。清朝は香港をイギリスに渡すことになったアヘン戦争敗北以降、日本ではヨーロッパ列強の植民地になるのではないかとの危機感が充満していた。日清戦争で、朝鮮や台湾も失うことになり、満州国の樹立によって日本が大陸にも覇権を広げようとした。

 清朝は軍事力を強化し、人民軍に列強に対抗するよう呼びかけた。ところが、人民軍の矛先は列強から清朝政府に向けられるようになり、革命軍ができてしまうことになった。紆余曲折の後、清朝は最後の皇帝溥儀が退位し、革命派が国民党を結成して清朝を追いやることになった(辛亥革命、1911年)。ただ力はそこまでで、国を統一するまでには至らなかった。

 当然ながら、現在の中国の歴史は漢民族の観点から書かれている。そのため、漢民族以外の王朝が中国を支配した場合、その王朝のことを征服王朝と呼んでいる。清朝はまさにそのひとつで、満州族によって建てられた王朝だ。時々中国の写真や絵画で頭髪の中央から長く編んで垂れ流す弁髪を見るが、あれは満州族の風習で漢民族は清朝時代にそれに従わされていた。辛亥革命を起こした孫文は漢民族の出身で、モンゴルは漢民族の支配を恐れ、辛亥革命が起こると独立を宣言し漢民族の支配から逃れた。

 この時のことで、重要なのがモンゴルは部族内の対立からすでにモンゴル内で外モンゴルと内モンゴルに別れていたことだ。1917年、モンゴルが中国から離れると、隣の国のロシアでは革命が起こり、帝政ロシアを打ち破る革命がロシア全土に広がり、周辺諸国にも影響をもたらした。ロシアの反革命軍がモンゴルに降りてきて首都を占領するが、ソ連の支援をうけて臨時政府が樹立され、革命軍が勝利した。以降、モンゴルはモンゴル人民共和国として徹底したソ連追従の国になった。この時のモンゴルは外モンゴルだ。

 内モンゴルはの方は、外モンゴルと一緒に新しい近代国家建設に加わることができず、中途半端に中国に残る結果となってしまった。その原因は日本にある。ロシア革命の10年前に起きた日露戦争で、日本は一応の勝利を収めたが、その結果、日露協約が結ばれた。そこに密約があり、外モンゴルはロシアが、内モンゴルは日本の勢力範囲とするという不可侵条約が結ばれていたからだ。

 辛亥革命が上手くいかなかった満州では、日本が勢力を伸ばし満州国を建設することになる。辛亥革命によって追われた清朝最後の皇帝溥儀を担ぎ上げて傀儡政権を作り上げた。実質的に日本の植民地になるが、満州の近代化を進めた。

 日露戦争はロシアが、朝鮮にも進出してくるのではないかと恐れた日本が対抗するために起こした戦争だが、その戦争に日本が一応は勝利した。日本はロシアが満州に敷設していた長春・旅順間の鉄道を獲得することになった。日本は満州国を建設する26年前に、その鉄道を運用・管理する半官半民の国策会社・満鉄を設立していた。この会社は鉄道事業ばかりではなく採炭や製鉄も行うようになり、その時点で満州と内モンゴルの権益は日本経済にとってなくてはならない存在となっていた。

 ソ連を脅威とする関東軍と重工業を拡大したい日本の財閥との思惑が一致して、満州国は急発展をしていく。満鉄は1,100キロの鉄道から買収や建設を繰り返し規格を統一した鉄道網を1万キロ以上に拡大した。2億円で始まった資本金は16億円に膨らみ関連会社50社、従業員30万人を抱える一大コンツェルンになったとされる。

 大連には東洋一の埠頭が建設され、ダム建設、道路建設、橋梁建設も満州全土で行われた。都市建設も急ピッチで進められ、病院、保養院、電気や下水道も完備され、東洋で最初の水洗トイレもつくられた。農事試験所、地質研究所、製鉄研究所の研究施設も多く、農工業、鉱業の礎となった。これらすべては、満州国13年間のうちに行われた。

 治安の良さと経済発展で満州国は中国からの移民も多くなったが、第二次世界大戦で日本が敗れると満州国も消滅し、ソ連軍は産業施設を奪取したが、中国国内では満州争奪のために国民党と共産党が凄惨な内戦を繰り広げた。

 満州国は、表向きは日本・満州・漢・蒙古・朝鮮民族による「五族協和」をうたっていたが、実質的には日本の植民地だった。いまだに中国内で成しえない民族の統一だが、それを一瞬でも実現した感じを持つ人たちのはモンゴル人に多いという。

 最近の調査では、モンゴルには豊富な鉱物資源が眠っていると分かっている。それを採取して運搬する手段は、いまだに満鉄網であり、大連の港、鉄橋も現存するものが多いようで、日本の技術力の信頼度は、現代のハイテク産業ばかりでのものはなく、この時代から認識されてきたものだ。満州国が消滅した後も、一部のインフラは今も有効に働き、内モンゴルの経済発展に役立っているという。これらは、同じ民族の外モンゴルの人たちにも共感され、技術力への強い信頼につながっている。

 モンゴルと日本人が深かい関係をもっていた事を両国民が忘れかけている。戦後日本のあり方がそうさせたのだが、70年を経て新たに友好関係を築く時代が来ている。

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2016年08月02日

ウルフと呼ばれた力士:千代の富士

 日本の国技といわれる相撲の華やかな一時期をつくった力士だった、千代の富士・九重親方が東京都内の病院で死去した。61歳。北海道福島町出身。

 元横綱・朝青龍のドルゴルスレン・ダグワドルジ氏(35)はツイッターで「悲しい悲しいな涙が止まらない…憧れの力士、角界の神様、横綱たちの横綱よ〜〜悲しいな」「親方よ 夏にモンゴルに来てイトウ釣る約束は?悲しいな涙」(原文ママ)と悼んだ。

 日曜日のつくし野お祭りでも、町会役員の方の話に上ったのは、都知事選の結果より、千代の富士の訃報だった。人々の胸に、相撲人としては小柄な体を鍛え上げ「ウルフ」と称され、当時の相撲界をしょって立つ、見事な技を見せて、人々をうならせた頼もしい綱姿が去来したようだった。

 スポニチに寄せた、元横綱貴乃花の弔文が目にとまった。心技体を鮮やかに具現した印象に残る名横綱でだった。その一文をブログに紹介して、千代の富士を懐かしく振り返って惜しみたい。

         = = = =
 
 時が過ぎ去るのは無常にも早いものです。入門したての私は離れた場所から横綱・千代の富士関を遠目に拝見していたのを昨日のように感じております。現役時代には胸をお借りし、鋼の肉体に額を恐る恐る当てたことも忘れていません。まだ下積み時代に横綱から“早く上に上がってこい”と激励のお言葉を賜ったことも忘れていません。

 本日、巡業初日の猛暑のなかに悲報が訪れたことは過ぎ去りし日の残酷な夏をも感じています。少年時代の夏の思い出が一気に消えたかのようで、幼い頃の童心が風に吹かれて浮遊してしまったかのようです。

 今年3月の理事長選挙の際にも、私のような若輩者に人生を懸けてお守りいただけたことは生涯の誇りとなります。九重親方と最後にお話ししたことを鮮明に覚えています。かたくなな私の心を抱きしめてくださいました。人知れずご苦労を抱えてこられた勇気。心の広い方だと改めて痛感した瞬間でした。北の湖前理事長も、九重親方も、父である初代・貴ノ花も肉眼ではそのお姿が見えなくなり、私の心は暗闇に迷い込んだかのようです。むなしく、寂しいです。

 今はご遺族に哀悼の意をささげております。その思いはこれからも何ら私の心は変わりません。 貴乃花光司
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

初の女性都知事誕生への反応

関東地方も梅雨明けとともに、本格的暑さが続いています。
熱中症の注意も必要しなければなりませんね。
さて、都知事選の結果、続々とメールが・・・

神奈川の女性から、Sent: Sunday, July 31, 2016 11:11 PM
 東京では初めての女性知事の誕生、
米国ではガラスの天井を破ったと注目のヒラリー・クリントンが民主党の大統領候補になるなど、
 女性の力 が発揮される時代になってきた。
 応援にいった我孫子の市長選、「海津の乱」は振るわなかったけれど、何か潮目を変えたのでは。
 米国の女性たちもガラスシーリングに悩まされてきたけど、いよいよ名実ともに活躍できる時代が来る。
 それには、女性が働いて、経済力が必要だという思いをますます強くしている今日この頃。


都内の男性から、2016年8月1日 0:13
 本日の東京都知事の選挙結果は、私として非常に喜んでいます。
 男女平等の社会で、たまには女性の都知事が出ても当然です。
 私は心から女性都知事当選を祝います。
 しかし、彼女の政治生活は多難だと思いますが、我孫子のことも応援しますよ。
 それでは、明日からカリフォルニア、シリコンバレイに九日帰着まで出かけてきます。

米国の女性から、2016-08-01 1:37 GMT+09:00
I am so happy to hear that you are FANTASTIC email!! Congratulations!!
My younger sister served in the city council for her town, Roswell, New Mexico (the UFO capital of the world - ha ha!) for 14 years. She was Mayor pro temp also. She brought forth some good things. Women do have a different view of the world. And, because we carry our children for nine months, we do seem to understand that peace is important! Of course, our sons can be the same if we raise them that way! My son is. Loving, peaceful, treats his daughters as important as his son!!

We would love to come to Japan.Let me know your domicile - your home address. Perhaps I will do some research and see if we can come and see you. It would be fun to see you at your doctoral graduation!!!

Lots of hugs and we will keep in touch much more than before!

政党推薦のない小池百合子氏に無党派層や与野党支持者ら幅広い一票が集まった。
支持政党はない小池氏、「主張が白黒はっきりしているので、リーダーとしての素質がある」と小池氏に。「様々な圧力を、小池さんははね返す力があるんじゃないか」

他に、小池氏を選んだ理由を「野党への腹いせという気持ちが大きかった」と語る。鳥越氏のために立候補を取りやめた宇都宮健児氏を応援するつもりでいた。「政策よりも、名前が勝てそうだからと候補者を決めた過程が、どうしても納得いかなかった」

などなど、エトセトラ
変える事を嫌う人もいるが、三度目の正直で変えたいと思った人が、女性を選択したということではないだろうか。悪くなるばかりじゃ嫌だと、市民の半分が選挙に行き、その4割以上が変えることを選択した。

posted by Nina at 03:13| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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