戦前、湯浅年子が東京女子高等師範学校を卒業した1931年当時、日本で女性が学べる大学は、北海道大学、東北大学、東京文理科大学、広島文理科大学、九州大学に限られた。湯浅は東京文理科大学へと進学した。物理学の分野では日本で最初の女子大学生であった。
1934年に大学を卒業すると、湯浅は東京文理科大学の副手となった。また、1935年に東京女子大学講師、1937年には東京女子高等師範学校の助教授となった。しかし湯浅は、自分は教職には向いていないと感じた。また、研究面においても、当時は女性の地位が低く、思うような研究ができなかった。さらに研究分野である分光学の将来性に対しても、行き詰まりを感じていた。そのような状況の中、湯浅は大学の図書室でキュリー夫妻の人工放射能に関する論文を読み、大きな感銘を受けた。
そして、フランスで夫妻のもとで研究を行いたいと心に決めた。当時フランス外務省では、年に数名の留学生を2年間フランスに招き入れる制度があったため、湯浅はこれに応募した。1938年に受けた試験では、筆記では合格したが、口頭試験で落選した。しかし翌年の試験ではトップの成績で合格を果たし、留学が認められた。フランス渡航の間近になって第二次世界大戦が勃発、さらには父親が胃がんの診断を受け、余命1年を宣告された。そのため一時は渡航を諦めたが、自分の病名を知らされていない父は、「たとえ思うような研究生活ができなくても、外国へ行って外から自国をみることは見解をひろめることになるから」と留学を勧めた。そのため、湯浅はフランスへ渡ることを決心した。
フランスへ渡った湯浅はラジウム研究所を訪れた。しかし研究所はすでに軍の管理下にあり、外国人が入るのは非常に難しかった。湯浅は研究所に入れてもらえるよう、外務省などを通じて何度も交渉を行った結果、イレーヌ・ジョリオ=キュリーやポール・ランジュバンの協力を得て、コレージュ・ド・フランス原子核化学研究所のフレデリック・ジョリオ=キュリーのもとで研究できるようになった。
真摯に研究に取り組むことのできる研究所の環境や、研究で行き詰った時に頼りになるジョリオ教授の存在などに湯浅は喜びを感じ、後に「祖国で経験したことのない魂の自由さを味わった」と記している。しかし、ドイツ軍はフランスへの進撃を開始し、パリの研究所は危険な状況となった。湯浅はフレデリック・ジョリオ=キュリーの勧めで、いったんボルドーへと避難した。しかし研究を行うことができないボルドーでの生活に耐えられなくなった湯浅は、研究所で爆弾の下に死んでもかまわないから呼び戻してほしいとジョリオに願い出て、5月31日にパリへと戻った。
6月、パリがドイツ軍の占領下におかれると研究所は一時閉鎖されたが、9月に、ドイツ人との共同研究をすることなどの条件のもとで再開された。湯浅はジョリオの指導のもと、霧箱を使用して原子核崩壊の際のエネルギーや運動量の変化を調べる実験を行った。1941年には渡仏後初めての論文を発表した。
1941年1月、父が死去した。湯浅は大使館を通じてその情報を3月に知った。しかしこのときジョリオから、日本に帰らずにここで研究を続けるよう言われたため、湯浅はフランスに留まった。また、若いころに父を亡くしたイレーヌ・ジョリオからは慰めの言葉を受け、父親であるピエール・キュリーの伝記を手渡された。その中にあるピエールの言葉「どんなことが起ころうとも、そしてたとえ魂のない身体になったとしても、やはり研究を続けなければならないだろう」は、その後の湯浅の励みになった。1943年には学位論文を提出し、理学博士となった。
日本はドイツと同盟を結んでいたため、戦争が続くにつれてフランス国内における日本人の立場は微妙なものになっていった。そのため1944年8月、大使館の要請による日本人の引き揚げが始まり、湯浅もベルリンへ移動した。なんとか研究を続けたい湯浅はドイツ内での研究場所を探し、そして、オットー・ハーンのもとで研究できる許可を得た。しかし出発直前になって、当時ハーンのいたタイルフィンゲンにも戦線が近づいているとの報告を受けた。そのため、ハーンの元での研究はかなわず、代わりにハーンの紹介により、ダーレムにあるベルリン大学付属第一物理学研究所のクリスチャン・ゲルツェン教授のもとで12月から研究を行った。さらに空襲がはげしくなると、ベルリンの研究所も危なくなり、1945年4月には研究所を離れなければならなくなった。5月、ドイツ軍が降伏すると、湯浅はベルリンからモスクワに送られ、そこから日本へと送還された。
帰国した湯浅は、空襲を受けた祖国の風景を見てショックを受けた。さらに母も重い病にかかっており、年子が帰国して間もなくの7月23日に死去した。湯浅は東京女子高等師範学校(1949年からお茶の水女子大学)に助教授として復職し、疎開先の長野県に移り住んだ。8月6日に広島に新型爆弾が落とされたとのニュースを聞いた時は、それが原子爆弾であることに気付き、翌日には、核分裂などに関する授業を行った。
終戦後、湯浅は東京に戻った。住む場所が無かったため、東京女子高等師範学校の校舎で寝泊まりをしながら、次の研究について考えをめぐらした。フランスにいる時、湯浅はイレーヌ・ジョリオから、日本にラジウム研究所を作るよう提案されており、マリー・キュリーが測定した標準ラジウム塩を手渡されていた。そのため、湯浅はイレーヌの期待にこたえるべく、日本でのラジウム鉱石のありかを調査しはじめた。また、湯浅は、ベルリンから持ち帰ったβ線分光器を使って、βスペクトルの研究を行おうと、理化学研究所の仁科芳雄のもとを訪れ、準備を進めていた。ところが11月25日、GHQの手により理化学研究所のサイクロトロンなどの実験器具が破壊されたため、これらの実験計画はかなわなくなってしまった。
当初の実験計画は行き詰ったが、この頃の湯浅は講義や研究のほかに、講演や執筆活動などの分野にも取り組み、多忙な日々を過ごした。ヨーロッパで最先端の研究を行ってきた湯浅の体験は当時の日本には貴重なものであったため、数々の依頼が舞い込んだ。さらに湯浅は、日本はフランスと比べて科学における女性の地位が低いことを嘆き、女性と科学の問題に対しても深くかかわるようになった。
1949年、フレデリック・ジョリオ=キュリーから「ご無事をよろこぶ。再び研究を始めましょう」という電報が届いたのをきっかけに、湯浅は再びパリに渡り研究を再開した。中断した5年間の遅れを取り戻すのには苦労したが、やがてβ崩壊の研究などで成果を上げ、国際会議でも講演するようになった。
湯浅はお茶の水女子大からの出張という扱いでパリで研究していたが、1952年には出張期限が切れたため、以後は休職という形でパリに留まった。1955年にはその休職期間も切れたため、湯浅は日本に戻るか大学を退職してパリで研究員となるかの選択を迫られた。日本からは帰国を促す手紙も寄せられ、湯浅は悩んだが、研究を継続させるためにパリに残ることに決めた。そして1955年10月に、今まで研究を行っていたCNRS(フランス国立中央科学研究所)の研究員となった。
湯浅の研究は進み、1957年には主任研究員となった。一方で、1956年にはイレーヌ・ジョリオ=キュリー、1958年にはフレデリック・ジョリオ=キュリーが死去し、湯浅は深く悲しんだ。1959年、湯浅の研究室は、新しくできたオルセー原子核研究所へと移動した。ここでも湯浅は研究の他に、日本からの留学生の対応、国際会議への参加など、多忙を極めるようになった。
1967年、東京で開かれた原子核国際会議に参加するため、18年ぶりに日本に帰国した。この帰国をきっかけに、日本の研究者とCNRSとの間の交流が盛んになった。また、湯浅に対する日本の科学雑誌などへのエッセイの依頼も増えるようになっていった。1974年、湯浅は65歳となった。CNRSの定年は研究長以外は65歳と定められていた。湯浅の実績は研究長となるのに十分なものだったが、当時のCNRSの人員縮小政策のために研究長になることができなかった。そこでCNRSの計らいで、湯浅は特例で名誉研究員となり、定年後も研究を続けられるようになった。
1976年、「永年にわたるフランスでの学究生活」と「日仏文化交流に貢献した」ことに対して、日本の紫綬褒章が贈られた。柳兼子は、この年にパリに滞在して私的なコンサートを開き、そこには湯浅年子も顔をみせて、兼子を称賛したという。
1977年、原子核構造国際会議に出席するため、10年ぶりに日本に帰国した。湯浅は手術後の体調が思わしくなく、食事を満足にとることもままならない状態だった。その不調ぶりはは傍目からも分かる程度であったため、久しぶりに湯浅に再会した日本の友人を心配させた。
フランスに戻ってからは、実験の他に、日仏共同研究の計画にも取り組んだ。日仏共同研究の実施には困難な点が多く、湯浅は日本の担当者と電話や手紙で何度もやり取りを行った。体調は1979年ごろからますます悪化していったが、共同研究が実現できなくなってしまうからと、入院は断固拒否し、食事療法などで対処しようとしていた。知人の手によりパリ郊外の病院への入院の手続きがとられた。入院後、湯浅の体調は急激に悪化し、2月1日には危篤状態となった。
一方、日仏共同研究はその前日にフランス政府から正式な許可を得ることができた。東大原子核研究所教授の坂井光夫は渡仏した際にそれを伝えるため、2月1日に病院に駆け付けた。坂井が湯浅に、フランス政府の許可が得られたことを知らせると、意識を失っていたかに見えた湯浅は目をあけてうなずき、何かを言おうとして口を動かした。そして同日の午後4時25分に70歳の生涯を閉じた。