2016年05月28日

時代が、評価を変えるとき

1928年6月14日、チェ・ゲバラはアルゼンチン第二の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれる。
未熟児として生まれ肺炎を患い、2歳のとき重度の喘息と診断された。しかしラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を生涯苦しめた。ボリビアの闘争で銃殺刑(39歳)となったが、その後、政権が代わり、キューバとボリビアの合同捜索隊により、死後30年にして遺骨がボリビアで発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。遺体は霊廟に葬られた。特にボリビアでは「イゲラの聖エルネスト」と呼ばれ聖人同然の扱いである。ゲバラが最期を迎えた小学校は現在記念館として開放されている。

1948年 ブエノスアイレス大学医学部に入学、アレルギーの研究を志す。
1950年 北部アルゼンチンをモペッドで単独走破。1952年 南米旅行の最終地点ベネズエラのカラカスで、アルベルトと別れ帰国して医学部を卒業することを決意。1953年 通常6年の課程を3年で終え、医師免許を取得。ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、ボリビアで農地改革の現実を目撃。それまで虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けた。その後ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン時代のポプリスモ(社会主義とする見方もある)政権下のグアテマラに行き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くとともに、1955年 イルダ・ガデアと結婚。イルダ・ガデアの紹介で亡命キューバ人と知り合う。
1954年 グアテマラ政権がクーデターで倒され、怒りとともにメキシコに亡命。
1956年 長女イルディタ誕生。メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加することを承諾。政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。グランマ号(10人乗りのヨットに82人)でキューバに上陸(12月2日)、以後25ヶ月間におよぶゲリラ戦に従軍。
1957年 反乱軍第2軍(75名)の指揮官(少佐)、少佐の階級章(一つ星)をつけた黒のベレー帽は後年チェのシンボルマークとなる。ベレーには上下を逆にした騎兵章(交差したサーベル)を付ける事もあった。
1959年 バティスタが国外逃亡しキューバ革命成立。キューバの国立銀行総裁に就任。イルダ・ガデアと正式に離婚し、志願して来たのを迎え入れて以来副官同然だった同志、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと結婚し4児をもうける。アジア・アフリカの親善大使として来日、12日間滞在した。

このとき、大阪の視察の際に、広島が遠くない事を知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後に、予定を変更してオマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使を伴って全日空機で岩国空港に飛んだ。広島県職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れたほか、広島県庁を来訪し、当時の広島県知事だった大原博夫と会談]。娘のアレイダ・ゲバラも2008年5月に原爆死没者慰霊碑に訪れている。このとき、広島市の原爆資料館を訪問し、「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と語っていた。

気さくな人柄、勤勉で勉強家だった彼は、農民たちにも、やあ(スペイン語で「チェ」)と気軽に声をかけてて、合言葉のようになっていたため、彼の名称になったという。
posted by Nina at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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