2016年05月12日

ある日本人・禹長春

禹長春は父親が乙未事変(朝鮮国王王妃閔妃暗殺事件)に参加した軍人・禹範善。範善が日本に亡命し日本人女性・酒井ナカと結婚、日本で生まれたのが禹長春でした。出生地については広島説と東京赤坂説とがあり、育ったのは広島県呉市。父の範善は、1903年11月24日、禹が6歳の時にかつて閔妃に仕えていた高永根に呉で暗殺されました。 (以下、敬称省略)

父(範善)の行動のため、当初は厳しい目もあったが、現在ではその功績により李方子と並んで韓国では大変に高く評価されている人物です。禹は、広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高校)を卒業。数学が得意で京都帝国大学工科大学(工学部)を目指し旧制高校進学を希望しましたが、朴泳孝の支援で学費を支給する朝鮮総督府から東京帝国大学農科大学(農学部)実科への進学を指示されそれに従いました。1919年に同校を卒業。

卒業後は農林省西ヶ原農事試験所(東京都北区西ヶ原)に就職。朝顔の遺伝研究などに没頭した。1924年、隣家の家庭教師が縁で新潟県出身の日本人女性・渡辺小春と結婚。当時の状況から父の恩人で朝鮮人亡命者を支援していた須永家に養子に入った。生まれてくる子供達は日本名を名乗らせ日本人として育てる決意をした。それ以降、日本名の須永長春となります。

1926年、埼玉県鴻巣試験地(鴻巣市)転任。ナタネの研究を主に行ったが、この頃発見したペチュニアの全八重の作出法(完全八重咲き理論)を元に坂田商会(現サカタのタネ)創業者・坂田武雄がこれを事業化し会社を拡大させた。また1936年には、論文「種の合成」で東京帝国大学より農学博士号を取得。しかし、農学博士となっても技手止まりのままの不満からか、1937年同社を退社。タキイ種苗の瀧井治三郎が京都府乙訓郡長岡町(現長岡京市)に新設した研究農場の場長に迎えられ、京都に移りました。

1945年、終戦のあと同社を退社。韓国で禹の呼び寄せ運動が起こる。当時の韓国は政治的大混乱や地方から都市への人口流入などの問題で食糧が不足、農家は種子、肥料などの不足で甚大な被害を受けていました。この頃、韓国は国民の80%が農業に従事していた。また日韓併合時代の韓国では米や麦など日本人の主食の増産に重点が置かれ、日本にとって重要性の無い大根や白菜などの蔬菜は放置されたため、韓国の人達にとって欠かせないキムチの材料をまともに作れない状況にありました。このような状況下でタキイ種苗の同僚だった金鐘が「今の韓国に来て種子の問題を解決してくれる人は禹長春しかいない」と声を上げると、韓国政府・国民挙げての大きな運動となったということです。1950年、日本生まれの禹は韓国語を話せなかったが韓国行きを決意、妻と子供を日本に残し、単身渡韓した。52歳の時でした。

李承晩大統領の強い支援も受け、韓国農業科学研究所所長に就任し各地の農村を視察。韓国に渡った翌1950年、朝鮮戦争が勃発。中央園芸技術院(国立試験場)院長に就任した1953年には、最愛の母死すの報を受け、日本帰国を大統領にまで嘆願したが、帰国は叶わないませんでした。李承晩大統領は禹を帰すと再び韓国に戻らないのでは、と懸念し出国許可を下ろさなかったといわれます。日本語しか話せず、状況は非常に困難でしたが、1957年頃には大根や白菜は自給態勢を整えるまでに持っていきました。済州島近辺を蜜柑の大生産地としたのです。大統領からの農林大臣(農林部長官)就任要請も請けずに、この後、稲と稲の裏作に農家にとって収益の大きい馬鈴薯の研究にひたすら没頭しましたが、1959年、ソウルのメディカル・センターに入院するようになりました。胃と十二指腸潰瘍の手術後に病状を悪化させ、同年8月10日没する。韓国に来て9年のことでした。享年61歳。

亡くなる直前に韓国政府は禹に大韓民国文化褒章を贈った。大韓民国文化褒章は韓国国民にとって最高の名誉です。葬儀は国葬に準じる社会葬として行われました。9年間でしたが、韓国農業は禹の弟子達によってその後発展しました。白菜などの種子の自給体制を確立したため「韓国近代農業の父」あるいは「キムチの恩人」として有名で、韓国の道徳教科書に載っており、韓国国民で禹博士を知らない人はいないくらいだという。種無しスイカの発明者と言われることもある。種無しスイカは日本の遺伝学者・木原均による発明だが、禹が育種学とは何かを分かってもらおうと種無しスイカを作り、人々の前でスイカを切ったところ、種の無いスイカに人々は仰天し「禹先生が種無しスイカを作った」→「発明した」と一人歩きして今日に至るという逸話が残っているということです。釜山にちいさな記念館があり、その功績にしてはあまりにもささやかなものだという韓国人もいるという事です。NHKスペシャル「ある日本人・禹長春」というタイトルで、KBSとNHKの共同制作(1991年2月に放送)がもとになり、近年は舞台化もされているということです。禹教授には6人の子供がおり、うち四女・朝子さんは京セラ創業者・稲盛和夫の夫人です。

昨年6月22日は、日韓国交正常化50周年となって、国交正常化当時、年間1万人だった両国間の人の往来は、年間500万人にまで増え、両国は重要な隣国同士となりました。最も利害を共有する国です。日韓はこれまで安全保障を含む様々な側面で相互依存関係を深めてきました。日韓両国民間の相互理解と交流は飛躍的に深化し、昨年末は日韓合意文書を交わしました。

posted by Nina at 00:00| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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