2015年09月25日

『海鳴りの日々』、 戦後の機雷掃海の忘れてはならない事実

 毎週金曜日の夕方に続いてきた国会前デモだった。シルバーウイーク前の18日に法案成立となった。ホルムズ海峡での機雷掃海について、海自の任務を集団的自衛権で対応させようとのためにも安保関連法整備が必要と政府は強調したのである。今後、国民の理解が広まるように努力し、平和な国際社会へ向けるなどと安倍首相は頭をさげた。国民の関心、若い世代の意識の高まり、これまで積み重ねたことは大事なプロセスであるから、国民にも安心できる説明責任をさらに今後に果たしていただきたい。 

 実際、調べてみれば、海自の機雷掃海能力は世界でも屈指のレベルにあるといわれる。なぜなら、 終戦直後、日本の周辺海域は旧日本軍が防御のために敷設した機雷5万5000個に加え、大陸からの物資や食料を遮断する米軍の対日飢餓作戦でまかれた機雷1万2000個とで埋め尽くされていた処理をしなければならなかったからだという。

 これを取り除くため、主要航路の掃海活動を重ね、約7000個の機雷を処分した。昭和60年までの間、79人の殉職者を出している。現在でも港湾工事前の潜水調査や磁気探査で残存機雷が発見されることがあり、その都度、海自は粛々と処分している。
国内での機雷掃海訓練は青森県の陸奥湾などで年4回実施されるが、本物の機雷を使い、実際の爆破処理を行うのは硫黄島での訓練が唯一だ。

 平成3年には、湾岸戦争終結後のペルシャ湾に海自は掃海派遣部隊を送り込んだ。当時はすでに他国海軍が掃海活動を実施中で、遅参した海自の掃海部隊には掃海活動が最も難しく、危険な区域が割り当てられた。 過酷な条件にもかかわらず、海自は34個の機雷を処分。各国から高い評価を得た。安倍首相が「日本は高い掃海能力を持っている」と胸を張るゆえんだ。

 こうした事情を振り返るには、初代海上保安庁長官として日本の掃海艇を出動させた大久保武雄(1903年-1996年)ついて触れなくてはならない。 1939年(昭和14年)4月、航空局の国際課長だった大久保は、山本五十六海軍中将から爆撃機を借り受け、日本政府代表としてイランへの親善飛行を行い、イラン皇太子の御結婚式に出席する要職にもついた。1941年(昭和16年)、第二次世界大戦の直前にはポルトガル領チモールとの航空交渉のため、日本政府代表としてチモールに飛ぶ外交にも関わる人物であった。

 1945年(昭和20年)8月5日、広島の中国海運局長に赴任し翌6日、宇品の陸軍船舶司令部との交渉のために、広島を7時に発つ。それからわずか1時間15分後の8時15分、原爆が投下された。中国海運局は、爆心地からおよそ710メートルの距離にあり、建物は骨組みと外郭を残して全焼し、中国海運局の職員19名が死亡した。大久保は、その後毎日爆心地にある警備本部に通っていたため二次被爆しており、 原爆死没者名簿にも登録されている。

 そこで、1948年(昭和23年)5月、戦中戦後の国内外の諸問題を解決した手腕を認められて、海上保安庁設立と同時に初代長官に任命されたのだ。さらに、1950年(昭和25年)3月、昭和天皇が四国巡幸のため船で瀬戸内海を渡ることになった際には、海上保安庁掃海隊の総力をあげた突貫作業の末、巡幸までに無事に機雷の掃海を完了した。ところが、同年、朝鮮戦争が始まった。すると、10月2日にアメリカ海軍極東司令部参謀副長アーレイ・バーク少将に呼ばれ、 「掃海艇を残らず対馬海峡地域に集合させて元山沖の機雷掃海を援助し、 仁川の敷設機雷の後始末を支援するよう」要請された。吉田茂首相の承認の下、日本占領にあたっていた連合国軍の指示に従い、10月16日に海上保安庁は掃海部隊を編成した。しかし、これは戦地での掃海活動は戦争行為を構成する作戦行動であった。

 朝鮮水域における本格的掃海は、未だ我が国が占領下にあった時期のことであり、日本としては平和条約締結の前で、国際的にも微妙な立場にあったのでこの掃海は秘密裏に行われた。後に事実が明るみに出ると、当時の国会において、憲法上の兼ね合いから国会承認もなしに掃海艇を派遣していた問題となった。

 日本は掃海艦艇33隻を派遣し、29個の機雷を処分した。このときの献身的な掃海活動が連合国の対日不信を解き、日本の早期独立の一助になったともいわれ、朝鮮戦争に伴う国連軍への協力として実施した次の掃海がある。

  ・朝鮮水域における本格的掃海    昭和25年10月10日〜昭和25年12月6日
  ・朝鮮水域における試航船掃海    昭和25年11月18日〜昭和27年6月30日
  ・東京湾及び佐世保港外の日施掃海 昭和25年 7月16日〜昭和28年9月15日

  大久保は、1978年(昭和53年)、 朝鮮戦争に参加した機雷掃海隊のことを思い、触雷し犠牲となって亡くなった若き掃海隊員のことを思い、歴史に事実を残さなければと、1978年(昭和53年)9月、当時のことを綴った『海鳴りの日々 ― かくされた戦後史の断層』を海洋問題研究会より出版。国内外に大反響を起し、NHKテレビは『日本特別掃海隊朝鮮戦争秘央』として特集を組んで数回放映した。

 国会議員として要職につくなどの他、1987年(昭和62年)4月、日本伝統俳句協会の創立に尽力、副会長にも就任の経歴があった。勲一等瑞宝章授与の際に、「この栄光は私一人のものではない」と機雷掃海隊のことを思い、「春惜しむ 慶びごとに 召されても」の句を詠み、手記を発表したのだった。

 こうした戦後の安全な航行をふくめての努力は多く語られずにいた。矢継ぎ早の法案で、強行採決では国民の危惧を高めるばかりでいた。さらに、南スーダンでの国連平和維持活動、2015年2月末までだった派遣期間を6カ月延長し、2015年8月末までにすることを決めたが、国連が南スーダン派遣団の期間を2015年11月まで延長したことに伴う措置にともなって、2016年2月末までにすることを決定していた。これら、国会での審議の過程を今後はさらに平明に伝える努力をして頂くことは大事だ。

最近放映の「池上彰の憲法ってなんだろうSP」での解説が視聴(−48分まで)できます
http://txbiz.tv-tokyo.co.jp/ikegami/vod/post_97480/?code=f9o1prWECeY221Q_

posted by Nina at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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