日米安保は、いわゆる日米同盟の根幹をなす条約であり、条約には日米地位協定が付属している。形式的には1951年(昭和26年)に署名され翌1952年(昭和27年)に発効した旧安保条約の失効により、あらたな条約として締約批准されたが、実質的には安保条約の改定とみなされている。この条約に基づき、占領時と同様に米軍の日本駐留を引き続き認め、沖縄の占領状況も継続された。60年安保条約、新安保条約などともいわれる。新・旧条約を特段区別しない場合の通称は日米安全保障条約、日米安保条約との表記し、核の持ち込み、様々な密約があったことも囁かれ、最近で常に国防の通信が占領後から傍受される制度のまま来ていたことも知られるようになっている。ウイキリーク暴露以前から、日本の情報が米国に入手される構造は知る人ぞ知るということであり、オバマ大統領の陳謝の上に現在も調査中だとされる。
このいきさつを振り返ると第二次岸信介内閣で、新日米安全保障条約のために衆議院の会期延長と条約批准案の単独採決をおこなった。この直後の1960年(昭和35年)6月7日、朝日新聞に「岸信介君に与える」と題した手記を発表したのが、故郷山口の旧友・我妻栄(であり、この岸信介首相の退陣を促した文書の影響もあり、条約批准書交換の日の1960年6月23日、岸内閣は総辞職した。
岸信介(のぶすけ)は、当時に満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣(第56・57代)などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。
東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任。建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ2キ3スケ(=名前の樹と介(スがつく人物で、筆頭は東条英機)の一人として、満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人ともA級戦犯容疑者として逮捕された。鮎川・岸の2人は不起訴となったが、東條・星野・松岡の3人は起訴された。東京裁判において、松岡は公判中に病死し、東條には死刑、星野には終身刑の判決が下った(星野は後に釈放)。鮎川義介・岸信介・松岡洋右の間には姻戚関係もある。旧姓佐藤、ノーべル平和賞を得た佐藤栄作は実弟。安倍信三の祖父にあたる。
戦中の東條内閣では、商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望される人物となっており、開戦時の重要閣僚であったことから極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留された。しかし、即時停戦講和を求めて東条内閣を閣内不一致で倒閣した最大の功労者であることなどの事情が考慮されて不起訴のまま釈放された。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、東西冷戦の時期において、米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともにそれも解除される。
吉田茂と対立して派閥を除名、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。すると石橋内閣にて外務大臣に就任、首班石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職となると、後任の内閣総理大臣に指名、当時としては党内の決まりが宴会できまるなどの密室性のなかで、政界の金と闇将軍がうごくといわる時代をつくっていった。日米安保体では、60年安保を制して戦後の米従属関係を揺るぎなくした一方で、首相退任後も政界に影響力を持ち、吉田内閣時のGHQによる押しつけ憲法だとの説から自主憲法制定運動を牽引した。
当時にも新条約では集団的自衛権を前提とした(形式としては)双務的体裁を採用しており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力することを規定した。新安保条約はその期限を10年とし、以後は締結国からの1年前の予告により一方的に破棄出来ると定めた。締結後10年が経過した1970年(昭和45年)以後も一度も破棄されず、55年体制の政治バランスと所得倍増経済の戦後復興で、沖縄の占領はつづき、彼の地では米ドルが使われた。
沖縄へのビザの必要な外地の悲哀を受けるまま、地位協定の条件より厳しい、米兵の違法も治外法権に守られて、沖縄の人心の安全も図りにくい状況が続いていた。新安保条約は、同時に締結された日米地位協定によりその細目を定めていあが、日米地位協定では日本がアメリカ軍に施設や地域を提供する具体的な方法を定めるほか、その施設内での特権や税金の免除、兵士・軍属などへの裁判権などを定めていた。
旧安保条約が締結された当時、日本の独自防衛力は事実上の空白状態であり、米国の要請で警察予備隊の創設が1950年(昭和25年)された。同年に朝鮮戦争が勃発しており、1952年(昭和27年)10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組されて発展的解消をした。当然ながら、沖縄基地の米軍は朝鮮半島に日常茶飯事に出撃しており、アメリカは出撃拠点ともなる後方基地の安全と補給を確実にするためにも日米安保体制は継続すべき必然性があった。沖縄県の在日米軍基地が日本の国土面積に占める割合は1割以下だが、在日米軍基地面積の7割以上(ただし自衛隊との共用地を除いた米軍専用地の割合)が沖縄県に集中しており、在日米軍基地近隣の騒音問題、住宅街隣接は他国にない危険性があると長年の指摘である。
1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が停戦したが、その後もベトナム戦争とひきつづき東西の冷戦構造のもとで、日本は韓国・中華民国(台湾)と共に、陸軍長官ロイヤルの唱えた「封じ込め政策」に基づく反共主義の砦、防波堤として、ソ連・中華人民共和国・北朝鮮に対峙してきた。軍事的にだけではなく、経済、政治において米国が風を引けば日本は肺炎になるとも揶揄される米国追従を、特に世界のなかに認識されてきた。そのため、日本の社会科の歴史は近現代史は、実際には授業で詳細に取り上げられることはないままだった。留学先の米国で、原爆を落とした国をどう思うかと聞かれて、絶句した日本人学生は、投下した相手が米国だとは学ぶことがなく、また中国に留学していた学生は、夏休みにホームステイ先で、中国を植民地にしていた日本兵が多数の殺戮を行ったことを初めて知って懺悔の気持ちに泣きじゃくったという、認識のずれも知られてきた。教科書問題、政治家の舌禍事件もたびたび取り上げられるが、戦犯と言われる多くが国家の中枢に帰り咲いていることは、様々な不本意な発言の元凶となっていたと思われる。
岸・佐藤兄弟は、ともかく、平和憲法を遵守を建前に、沖縄を日本に返還、かつ侵略戦争の愚を認めていたのである。孫にあたる安倍首相は、どのような賢明な指示を出したのか、70年談話が閣議決定後に明らかにされる。
参照:
Wikipedia
(歴史解釈は一つでなく、ご自身でも様々な角度で情報精査ください)