2015年08月05日

千の風になって(沖縄バージョン)

 沖縄戦のことを思い浮かべると 三線(さんし)の響きを聞きながら戦争の歴史を思うと深い。
 外国語のように聞こえるから不思議だ。

 先月5日、沖縄県の琉球大学や名桜大学の学長を務めた東江康治(あがりえやすはる)さんが、肝臓がんのため那覇市内の病院で死去した。86歳だった。

 太平洋戦争末期の沖縄戦で鉄血勤皇隊として動員され、米軍の攻撃で右胸を撃ち抜かれたが、一命を取り留めた。当時、自身と同様に米国生まれの兄が米兵として沖縄に入り、敵味方に分かれた兄弟としても知られた。戦後、米政府の援助で米国に留学。教育心理学が専門で、1984〜90年に琉球大学長。同県名護市の名桜大の設立に携わり、94〜00年に初代学長を務めた。平和論の講座を設けるなど平和教育に力を入れた。05年に瑞宝重光章を受章した。

 この兄弟の実はTVドラマになった。助監督が、2時間のドラマですべてを描こうとすれば、きれいごとになる。ぼくたちは「切り口」だけをきちんと作ればいい。あとは見た人がどう感じるかだ、と。

 子どもが生まれたとき、日本が世界中に戦禍をひろげた戦争のことをどう伝えられるか、日本の一般人の多くの被害と共に加害者であったことを考えなくてはならない。」

 戦後70年。そう聞くと、那覇市で暮らす祖父の世代は「生き残っているのが申し訳ない」などという事がしばしばだった。そうした方の手記があったので、紹介してみたい。
                     ◇
 1945年3月末、祖父のふるさと、慶良間(けらま)諸島・慶留間(げるま)島に米軍が上陸した。当時15歳だった祖父はそこで三つ上の姉の首をしめかかった。ヤシの葉をひも代わりに自分の首をしめもした。米軍に捕まる前に死ななければいけない、と。

 沖縄戦の体験を一度だけ話してくれた祖父。この70年、どんな思いで過ごしてきたんだろう。ずっと罪悪感、傷を抱えたまま。どれだけ苦しんできたんだろう。祖父を通じて感じ取れる痛みが、わたしが唯一感じ取れる戦争の事実。その痛みがわたしにとっての沖縄戦なんだと思う

     

 那覇市で生まれ、高校卒業まで過ごした。戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」や、たくさんの女学生が亡くなった「ひめゆりの塔」など、本島南部の戦跡には小さいころから親に連れられて行きた。

 学校でも沖縄戦のことは身近でした。6月23日の慰霊の日が近づくと、校内で写真展がある。「白旗の少女」や、ぼろぼろの着物をきた老婆がガマからでてくる姿。遺体が折り重なった写真。本当に衝撃で、夜になるのが怖くなってしまうほどだった。

 でも、近くで暮らす祖父の戦争体験は知りませんでした。学校で沖縄戦のことを知り、祖父にも聞きたかったけど、切り出せなかった。家庭で戦争の話がでそうになると、祖父はきまって席を外し、どこかへいってしまう。そんな姿を見て、口に出してはいけない話題なんだ、と感じた。

 初めて体験を聞く機会がおとずれたのは上京して7年ほどたった2007年。沖縄戦の集団自決をめぐる歴史教科書の記述が問題になっているときだった。ニュース番組のリポーターをしていて、ディレクターの何げない提案をうけて祖父に話を聞かせてほしいと頼むと、引き受けてくれた。

 祖父のふるさと、慶留間島に初めて渡り、15歳のときの体験を聞きました。

 3月26日に島に米軍が上陸。山へ逃げ、壕に入ろうとすると3人の住民が倒れていた。「早く死ななければいけない」。そう思った祖父は姉と2人、「自決」を決め、姉の首をしめた。自分の首は、ヤシの葉をヒモ代わりにしてしめ、木にくくりつけて首をつろうともした。でも、2人とも死にきれなかった。

 米軍の捕虜になれば、目はえぐられ、耳をそぎ落とされる。捕まる前に死を選ばなければいけない――そう信じ込んでいた、と。その後、出会った住民に、みんなが生きていることを知らされ、正気に戻っていったそうです。

 それから60年以上たって起きた教科書問題。沖縄戦の事実が書きかえられようとしている、という危機感から祖父は話すことを決めたそうです。そして「生き残っていることが申し訳ない」と涙を流しました。

 命のつながりを初めて実感する思いでした。祖父が生き残ってくれたからこそ、わたしの親がいて、わたしがいる。沖縄では「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」とよくいうけれど、本当にそうなんだなと。

 祖父の体験を初めて聞いてから7年。沖縄に帰るたびに耳が遠くなっていく祖父をみると、聞き逃したことがないか、話しておきたいことはないか、と焦る気持ちがあります。

 先祖が眠るお墓に親族であつまるシーミー(清明祭)にでた今年4月も、祖父の顔をじっと見つめた。いまなら聞けるかなあ。やっぱり聞けないなあ。実際、おばが戦争の話をきりだすと、祖父は黙り込んでしまった。それでも、祖父の話は必ずもう一度聞こうと思っている。

 生き残ったことへの後悔について。これからの日本に対して、私たちの世代に対して。祖父はいま何を望むのか。このままお別れしてしまったらすごく後悔すると思う。こんどは取材ではなく、自分のためにビデオを手にもって向き合いたい。子どもや孫ができたとき、それがすごく力強いメッセージになると思うから。祖父が教えてくれたことを伝えていくことなら、わたしにもきっとできる

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「千の風になって」の沖縄バージョンです。
沖縄の40代以上の方なら、ほとんど理解できるらしいが、普通に聞いたら外国語のようだ。
それでも、方言の良さは伝わってくる、アクセス件数は50万回に近い。
奄美の言葉も島一つ違うと、隣の島と年寄り同士で意思疎通が不可能、だったりするらしい。
薩摩語も独立した言語じゃないけれど、暗号代わりに使われた位に標準語と違うのだとか。
沖縄の人々が捨て石となって、当時を耐え忍んだことを忘れてはならない。





「さとうきび畑」も沖縄戦の惨さを歌にしたものだが。、んな書き込みがあった・・・・
「私は平和主義ですけれど、日本が蹂躙され、奴隷にされるくらいなら、戦わないというほどお人好しではありません。その意味で私は軍国主義者です・・・・」などとは、現代の掲示板での書き込みだ

>この歌は誤った歴史認識を基に作られた駄作の何物でも無い。
>「むかし海のむこうからいくさがやってきた?」

 むろん丹念に過去を遡り、歴史の教訓として「正確に学ばなければ」なりません。
大日本帝国だけが、日本の盾になって沖縄の人々に自死を迫ったのか?
米兵が女子供構わず皆殺しにした事も事実だ。

「鬼畜米英」と言い、そんな言葉に騙された当時の日本人を愚かだったと言えば言える
しかし、サイパンで日本軍が玉砕後バンザイクリフで自決された方々の資料を見れば
女子供構わず皆殺し・夫の前で強姦など本当にあった。
「死んだほうがマシだ」と追い詰められ、飛び降りていったのもまた悲しい事実だろう。

 ソ連参戦後も満州国から逃げてきた圧倒的多数の女性が強姦されたり、自殺したりした。
特攻、ひめゆり隊など、沖縄戦で死された方々の望みは
日本人が奴隷的な扱いを受けず、正義を貫く為に自らの命を捧げました。

 ヤマトンチュー(本州住民)の意向に翻弄され続けたウチナンチュウ(沖縄住民)は、方言を捨て、言語を標準語に統一する強制される教育がされた、まっとう本省から扱われるようになるため、戦争に積極的に協力するよう学校から地域から一致していた。土人扱いされていたのも、今では考えられないが、差別意識は沖縄の人へも向けられていた。朝鮮人、台湾人、中国人と、どれほど違うか、日本人であろうとした沖縄の人々。

 当時の言葉は、歌のさわりをきいても相当なものだから、言葉を矯正するために、日本人として認められる努力は痛ましいほどだったろう。

 柳宗悦が沖縄言語論争に声を上げた経緯を調べてみると、当時の日本人の驕りというのも半端ではなかった。それは、一等国となるための必死の目標だったから、当時の人からすれば、見下す文化、人種もあったわけだった。反省する必要があるのは、もちろん日本だけではいけない、帝国主義の悪夢に酔いしれていた列強と言われた国々が、どう総括してきたか、それを学術的に証明した欧米人がいるとは聞いたことはない。

 でも、今の若者たちには救いがある。
大人たちのカラクリを見抜く知恵と愛は持ち得る賢さ、分断されてきた言葉を統合するITの手段を使えるようになっているからだ。

 自分の家族の為に戦うために銃を向けられるのは、憎しみを増幅される教育を受けるからだ、恐怖は無知から起こるという。虐殺の起きたカンボジア、ミャンマー、ベトナムなどの戦争を考えてきて、21世紀にミサイルが日本海の周り落ちてくるから、迎撃するなどなどを言い出す人たちに、何発を東京を外して撃ってきて、その場合に千葉に落とすとか想定してみて、そういう事態を防ぐために抑止力をもつのだという。

 ほんとだろうか、そういうことで拉致被害者が返ってくるのだろうか、もっと21世紀の外交力、教育、芸術、学術交流などを駆使すべきだろうに。絶対に、そんなことで反映した国はないというのは、歴史が証明している。日本が300年の平和を黒船に破られるまで、世界に類をみない太平の世に大衆文化が醸成した。それが、日本民芸館を設立する柳宗悦が認めた「民の美」だということができる。

 そして、西洋をまねて戦争で狂った時代に進んでみて、何を得たのか、どれほどのものを破壊して失ったのだろうか、戦争をするだけの資源を持つことがない国は、豊かな海と緑なす山河を与えられて、災害の危機に力を合わせて助け合っていくことを学んできた。それを戦争に向けるときには神(お上)の命だといってきたのだから、それ以上の言い訳が出てこない以上、もう絶対に政治家によって、後方支援などとごまかされていけないないのではないか。

 憲法解釈に手を貸して、この国の願いを変えようとする政治家は国民の為にというが、自分が戦争の指揮をしそこなった人の子孫として、政治家に姿を変えている人もいるいるだからだ。自分たちがある知恵を使えば、玉よりも届くことを実証するのが21世紀の人類の務めだ。抑止力というまがいモノにごまかされちゃいけない。暑いけど、沖縄はもっと暑かった。










posted by Nina at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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