民主党の岡田克也代表と維新の党の松野頼久代表は31日、国会内で会談し、政策や選挙で協力する枠組みを今国会閉幕後に設置することで合意した。両党の合流を含む野党再編も視野に入れる。
一方、地域政党「大阪維新の会」幹事長の松井一郎大阪府知事は、同会を母体とする新党を10月下旬に発足させる考えを明らかにした。
民主、維新両党の協力の枠組みは、来年夏の参院選や次期衆院選をにらみ、双方の候補者が共倒れになるのを防ぐとともに、政策を一致させて「野合」批判をかわす狙いがあるという。岡田、松野両氏は、安全保障関連法案の成立阻止に向け、野党共闘を強化するということで、共産、社民、生活各党にも週内の党首会談を呼び掛けることで、一致したという。一強(自民+公明)多弱という、すっきりしないバランスのとりようがない秤しかない状況で、国民はさすがにそっぽばかりも向いていられないのに、手がてがないまま目眩がしそうな展開だ。
両者の会談後、岡田氏は維新との協力の枠組みについて「自民党に対抗するため、野党勢力の結集に協力していくことを確認した」と記者団に説明。安保法案への対応に関しては「重要な局面にきているから野党間で協力していく」と述べた。松野氏も「自民党に対抗するためにあらゆる分野で連携していく」と語ったので、噂の域だった合流も可能性があるのかもしれない。
一方、維新の真の立役者だった橋下大阪市長は、ついに維新を離党し、10月1日に新党構想を正式発表し、同月下旬に発足させる考えを周辺に伝えている。これに関し、松井氏は31日、府庁で記者団に「代表が言っているようなスケジュール感になる」と認めた。大阪は、府知事も市長も8月最後の日に早くも秋風の疾風を起こして、政治の再編をもくろんでいる。お笑い好きの多い大阪は、政治という民主主義のありようを再度問い直すために挑戦をし続けるようである。
参照:時事通信 8月31日
2015年08月31日
2015年08月30日
30日の全国行動、平和法案NO!
30日、小雨交じりの国会周辺には、主催者発表で12万人の参加者が集まり、当初の目標の10万人を2万人も超える結果となりました。今回は全国各地でも集会、デモが呼びかけられ、それに応じての行動が起きました。ツイッター、スマホ世代がの学生たちは、少子化であってもスマートに連携し、「民主主義ってなんだ!」と行動です。たとえば「ヤング ピース アクション IN 柏」という中央学院大学の学生たちも行動を呼びかけしました。午後3時半から豊四季台近隣センターで弁護士を講師に勉強会、その後午後6時から柏西口第一公園をスタート 柏駅周辺では午後6時15分〜45分ころまではスピーチという行動計画で、その姿を柏駅で目にした方もいたとおもいます。これほどの熱いうねりをメディアでは、取り上げていない感じですが、各地での報道ぶりはどうなのでしょうか。
全国では、30日だけで250カ所を超える地域で、集会、デモ、パレード、リレートーク、宣伝などの開催が予定されており、前日の29日や9月初旬の行動計画を含めると、主催者の呼びかけに応えて行われる諸行動は370カ所を超えました。
今回、国会デモで注目される学生団体・SEALDsです。その中心メンバーでもある沖縄県宜野湾市出身の元山仁士郎さん(国際基督教大学4年生)は、終戦記念日の今月15日、沖縄県の学生を中心に「SEALDs琉球」を発足させ、国会前でスピーチを行い、安保法案に次のような反対の声を上げました。
「70年間残念ながら沖縄はアメリカの戦争に加担し続けてきました。朝鮮戦争、湾岸戦争、イラク・アフガン戦争、嘉手納基地、辺野古の基地を前線基地として使用されてきました。安保法制が今から成立されると、沖縄が日本の戦争にますます加担することになります。今も、辺野古や高江だけでなく、奄美諸島、宮古、八重山諸島には、自衛隊の基地が建設されています。これ以上、沖縄を日本を戦争に加担させない。命を奪いたくない、子どもを失いたくない。そういう声を、国会前でもそして沖縄でも、集会、アピールを行います」
一方、岡山で開催された「戦争法案を廃案へ!街宣&パレード」の主催者によれば、これまでの抗議行動は300人規模の参加者で行われていたが、この日は500人まで達したとのこと。いろんな層の人が、各地で小さいながらも声を上げて、それが大きな流れになってきているのではないか。岡山だけでも同じように5ヵ所位(岡山市、倉敷市、真庭市、新見市、玉野市)で頑張っています。地方の方にも波及しているので、これが大きな流れになっているのです。ちなみに昨日は安倍総理の地元・山口県内の9カ所で同時多発デモが行われたそうです。「安倍晋三から平和を守れ」「安倍晋三から日本を守れ」と雨の中、山口県民の方々が、声をあげたというのです。
※2015/08/29 【山口】8.29やまぐちアクション 安保法制反対県内一斉デモ ―下関地区(動画)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/260370
11日以降の動向で、仮に法案が通ったとしても、廃案にしていく運動とか、憲法裁判をするとか、次のアクションが提起されていく動きが予想されます。選挙だけでなく、議会での審議・多数決も民主主義のプロセスです。議案を出すのは政権運営を任された当事者、多数与党が審議したことが決定される前提では、オカシナことになる。だから違法であれば、司法に訴える。ということになるが、できることならば、国民の意向をしっかりと反映して、反対の声にも応じて、憲法改正の手続きの中で進めていくのが、私たちが望むことなの、急ぐばかりにみえる現政権のやり方にも、11日以降の手続きに民意を反映するのであれば齟齬が生じないと思います。また、この流れの中で、(来年の)参議院選でできるだけ反対勢力を結集して、(同法案に)反対する議員を通していく動きも出てきてます。
もちろん、政治家ばかりでなく、学者、文化人も声をあげているのが今回めだってきています。音楽家の坂本龍一さんは中咽頭がんの治療から、今月初めに仕事に復帰したばかりでしたが、30日には国会前の行動にやってきました。小説家の森村誠一さん、瀬戸内寂聴さんなど、老若男女が国会前でマイクで声を発してきました。海津にいなは、ご近所さんや留学生を伴って何度か国会デモに加わりました。坂本さんは、SEALDsの前身SASPLの時代から若者たちにエールを送ってきた一人です。坂本さんの若者に向けたスピーチは、行動を起こしてきたことへの感謝を伝え、スピーチが終わるとSEALDsの中心的メンバーの肩に手を置き、まるで次の世代に何かを託しているかのようなシーンが展開したとの事がメールで伝えれられてきたのでご紹介です。
※【スピーチ全文掲載】坂本龍一がSEALDsと初対面!ーー民主主義、憲法の精神を取り戻すこの運動は『マグナ・カルタ』『フランス革命』に匹敵する〜12万人が結集した
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/260709
全国では、30日だけで250カ所を超える地域で、集会、デモ、パレード、リレートーク、宣伝などの開催が予定されており、前日の29日や9月初旬の行動計画を含めると、主催者の呼びかけに応えて行われる諸行動は370カ所を超えました。
今回、国会デモで注目される学生団体・SEALDsです。その中心メンバーでもある沖縄県宜野湾市出身の元山仁士郎さん(国際基督教大学4年生)は、終戦記念日の今月15日、沖縄県の学生を中心に「SEALDs琉球」を発足させ、国会前でスピーチを行い、安保法案に次のような反対の声を上げました。
「70年間残念ながら沖縄はアメリカの戦争に加担し続けてきました。朝鮮戦争、湾岸戦争、イラク・アフガン戦争、嘉手納基地、辺野古の基地を前線基地として使用されてきました。安保法制が今から成立されると、沖縄が日本の戦争にますます加担することになります。今も、辺野古や高江だけでなく、奄美諸島、宮古、八重山諸島には、自衛隊の基地が建設されています。これ以上、沖縄を日本を戦争に加担させない。命を奪いたくない、子どもを失いたくない。そういう声を、国会前でもそして沖縄でも、集会、アピールを行います」
一方、岡山で開催された「戦争法案を廃案へ!街宣&パレード」の主催者によれば、これまでの抗議行動は300人規模の参加者で行われていたが、この日は500人まで達したとのこと。いろんな層の人が、各地で小さいながらも声を上げて、それが大きな流れになってきているのではないか。岡山だけでも同じように5ヵ所位(岡山市、倉敷市、真庭市、新見市、玉野市)で頑張っています。地方の方にも波及しているので、これが大きな流れになっているのです。ちなみに昨日は安倍総理の地元・山口県内の9カ所で同時多発デモが行われたそうです。「安倍晋三から平和を守れ」「安倍晋三から日本を守れ」と雨の中、山口県民の方々が、声をあげたというのです。
※2015/08/29 【山口】8.29やまぐちアクション 安保法制反対県内一斉デモ ―下関地区(動画)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/260370
11日以降の動向で、仮に法案が通ったとしても、廃案にしていく運動とか、憲法裁判をするとか、次のアクションが提起されていく動きが予想されます。選挙だけでなく、議会での審議・多数決も民主主義のプロセスです。議案を出すのは政権運営を任された当事者、多数与党が審議したことが決定される前提では、オカシナことになる。だから違法であれば、司法に訴える。ということになるが、できることならば、国民の意向をしっかりと反映して、反対の声にも応じて、憲法改正の手続きの中で進めていくのが、私たちが望むことなの、急ぐばかりにみえる現政権のやり方にも、11日以降の手続きに民意を反映するのであれば齟齬が生じないと思います。また、この流れの中で、(来年の)参議院選でできるだけ反対勢力を結集して、(同法案に)反対する議員を通していく動きも出てきてます。
もちろん、政治家ばかりでなく、学者、文化人も声をあげているのが今回めだってきています。音楽家の坂本龍一さんは中咽頭がんの治療から、今月初めに仕事に復帰したばかりでしたが、30日には国会前の行動にやってきました。小説家の森村誠一さん、瀬戸内寂聴さんなど、老若男女が国会前でマイクで声を発してきました。海津にいなは、ご近所さんや留学生を伴って何度か国会デモに加わりました。坂本さんは、SEALDsの前身SASPLの時代から若者たちにエールを送ってきた一人です。坂本さんの若者に向けたスピーチは、行動を起こしてきたことへの感謝を伝え、スピーチが終わるとSEALDsの中心的メンバーの肩に手を置き、まるで次の世代に何かを託しているかのようなシーンが展開したとの事がメールで伝えれられてきたのでご紹介です。
※【スピーチ全文掲載】坂本龍一がSEALDsと初対面!ーー民主主義、憲法の精神を取り戻すこの運動は『マグナ・カルタ』『フランス革命』に匹敵する〜12万人が結集した
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/260709
2015年08月29日
瞑想で週末にリセット
今、欧米の企業では「瞑想」がブームとなっているといいます。 名前をあげるとビル・ゲイツ、ヒラリー・クリントン、ゴア元副大統領、ビートルズのメンバー、クリント・イーストウッド、ソニー創設者の井深大、京セラ創設者の稲盛和夫などがあげられます。
人間は考える事によって膨大な量の酸素を消費し、それによって疲労感、ストレスなどを溜めてしまいます。瞑想は脳波をアルファ波にし、脳の中に『脳内麻薬』を自然に出すことで、リセットさせるのです。
実のところ私達は、毎日5万回以上の思考をしていると言います。脳は、体の酸素の3割を消費すると言いますから、思考を続けることは、 体の酸素を大量に消費し続けることを意味します。 小さな事、大きな事含めると、それだけの数に思考が分散して、そうした思考は酸素を消費し、負のスパイラルに入りかねません。
私たちの思考のメカニズムは、次々に考えが忙しくなると、時に呼吸が浅くなります。 すると、酸素供給が少なくなり、酸素利用は増え続け、脳の酸欠を起こします。こんな時、ちょっと心と体の 休憩を、瞑想という形でとることは、頭の回復にとても役に立ちます。
瞑想での呼吸は、ゆっくりと深く 呼吸をします。できれば20秒くらいかけて、ゆっくりと、体中から二酸化炭素をはき出します。 こうして、ゆっくり息を吐ききると、息を吸うのは自然に入ってきます。こうした、意識したゆったりとした 呼吸を続けるだけでも、体には良いエネルギー回復になります。
瞑想の本質は人類愛なのだそうーです。地球上の存在を感じること、ひとりの人間としてあるがままの自然体でいること、それを深く実感していくと愛につながるのだと思います。瞑想はそのかけがえない体験を私たちに与えて、豊かな気持ちにしてくれます。
私たちは一人で生きているわけではなく、生かされています。命そのものが与えられてはじまっている、そのことにあらわされると思うのですが、人間も動植物、岩、砂、風、元素にいたるすべての存在・生命がかけがえないものです。
窓際で少しだけ窓を開けるなどして、できれば自然を感じられる環境で行うとさらに効果的です。私たちは人工物にいつもかこまれていますが、瞑想をしながら改めて自然の力を感じ、自分の存在をみつめる時間は、貴重な時間となるはずです。
日常はせわしなく、現実は時に厳しいかもしれません。だから、週末には、私たちが私たちの本質を忘れないために、本来のあるがままの自分に帰るために瞑想という方法をとりいれると有効です。
人間は考える事によって膨大な量の酸素を消費し、それによって疲労感、ストレスなどを溜めてしまいます。瞑想は脳波をアルファ波にし、脳の中に『脳内麻薬』を自然に出すことで、リセットさせるのです。
実のところ私達は、毎日5万回以上の思考をしていると言います。脳は、体の酸素の3割を消費すると言いますから、思考を続けることは、 体の酸素を大量に消費し続けることを意味します。 小さな事、大きな事含めると、それだけの数に思考が分散して、そうした思考は酸素を消費し、負のスパイラルに入りかねません。
私たちの思考のメカニズムは、次々に考えが忙しくなると、時に呼吸が浅くなります。 すると、酸素供給が少なくなり、酸素利用は増え続け、脳の酸欠を起こします。こんな時、ちょっと心と体の 休憩を、瞑想という形でとることは、頭の回復にとても役に立ちます。
瞑想での呼吸は、ゆっくりと深く 呼吸をします。できれば20秒くらいかけて、ゆっくりと、体中から二酸化炭素をはき出します。 こうして、ゆっくり息を吐ききると、息を吸うのは自然に入ってきます。こうした、意識したゆったりとした 呼吸を続けるだけでも、体には良いエネルギー回復になります。
瞑想の本質は人類愛なのだそうーです。地球上の存在を感じること、ひとりの人間としてあるがままの自然体でいること、それを深く実感していくと愛につながるのだと思います。瞑想はそのかけがえない体験を私たちに与えて、豊かな気持ちにしてくれます。
私たちは一人で生きているわけではなく、生かされています。命そのものが与えられてはじまっている、そのことにあらわされると思うのですが、人間も動植物、岩、砂、風、元素にいたるすべての存在・生命がかけがえないものです。
窓際で少しだけ窓を開けるなどして、できれば自然を感じられる環境で行うとさらに効果的です。私たちは人工物にいつもかこまれていますが、瞑想をしながら改めて自然の力を感じ、自分の存在をみつめる時間は、貴重な時間となるはずです。
日常はせわしなく、現実は時に厳しいかもしれません。だから、週末には、私たちが私たちの本質を忘れないために、本来のあるがままの自分に帰るために瞑想という方法をとりいれると有効です。
2015年08月28日
安保法制、11日まで成立のゆくへ
参院で審議中の安全保障関連法案の採決日程の調整が大詰めを迎えている。30日には、全国同時デモが予定され、毎金曜夕刻のデモも勢いづく気配だ。一方、政府・与党は、来月11日までの成立を目標としているが、野党との修正協議などもあり、日程的に厳しくなっている状況だ。さらに、来月30日に任期満了を迎える自民党総裁選についても法案審議への影響を避けなければならず、慎重な判断を迫られている。
安倍内閣支持率32%、安保法案について、安倍首相は「本当にやむを得ない場合は事後承認」で行くと答弁するようになって、これほどの民意無視は許されるのかと識者からの声が多くあがるようになっている。
安倍晋三首相は26日、自民党の谷垣禎一幹事長、野田毅総裁選管理委員長、公明党の山口那津男代表と首相官邸で相次いで会談。谷垣氏は記者団に「参院の情勢を報告した」と語った。
安保法案に衆院で再議決可能となる「60日ルール」が適用できるのは来月14日以降。だが、参院自民幹部は「参院の存在意義に関わる」と適用しない考え。公明党の山口代表は25日の記者会見で、「60日未満で結論を出すのが参院のあるべき姿だ」と踏み込み、直近の週末の来月11日までの成立が望ましいとの見方を示した。
しかし、11日までに与党が目標とする審議時間に達するかは微妙な情勢だ。衆院の特別委の審議時間は116時間に上ったが、参院では礒崎陽輔首相補佐官の「法的安定性発言」などが響き、現在まで計約63時間。目標の100時間を超えるのは来月中旬ごろにずれ込む見込みだ。
さらに与党は来年の参院選をにらみ、世論の反発を受けやすい強行採決を避ける思惑があり、野党の要求に丁寧に応じる姿勢を示している。維新の党が提出した対案や元気、次世代、改革が提案予定の修正案を審議すれば、ペースが鈍る可能性もある。「今後も順調に審議が続く保証はない。来月11日までの採決は現実的ではない」(参院自民幹部)との声も上がっている。
一方、谷垣氏は26日、首相との会談前に参院自民党の溝手顕正会長と国会内で会い、安保法案だけでなく総裁選日程についても意見交換した。総裁選が安保審議の行方を複雑にしているからだ。
同党は当初、「来月8日告示、20日投開票」を想定していた。だが、法案成立前に選挙戦となれば審議が混乱する恐れがある。このため党内では「14日告示、26日投開票」の案も浮上する。それでも安保審議が遅れれば総裁選日程と重なる可能性がある。
ただし、今のところ、首相のほかに立候補表明はない。参院自民幹部は「無投票ならば、早めに総裁選を終わらせた方が審議に影響は出ない」と指摘。首相の再選決定後に参院で審議を続ける可能性を示唆した。
◇政府・与党が想定する今後の政治日程
8月28日 自民党が総裁選日程を決定
維新の党の対案について修正協議開始?
9月8日 自民党総裁選告示?
11日 参院での安全保障関連法案の採決?
14日 安保関連法案が憲法の「60日ルール」で衆院再可決が可能に
20日 総裁選(8日告示なら)
27日 国会会期末
28日 安倍首相が国連総会で演説?
参照:
毎日新聞 8月26日
安倍内閣支持率32%、安保法案について、安倍首相は「本当にやむを得ない場合は事後承認」で行くと答弁するようになって、これほどの民意無視は許されるのかと識者からの声が多くあがるようになっている。
安倍晋三首相は26日、自民党の谷垣禎一幹事長、野田毅総裁選管理委員長、公明党の山口那津男代表と首相官邸で相次いで会談。谷垣氏は記者団に「参院の情勢を報告した」と語った。
安保法案に衆院で再議決可能となる「60日ルール」が適用できるのは来月14日以降。だが、参院自民幹部は「参院の存在意義に関わる」と適用しない考え。公明党の山口代表は25日の記者会見で、「60日未満で結論を出すのが参院のあるべき姿だ」と踏み込み、直近の週末の来月11日までの成立が望ましいとの見方を示した。
しかし、11日までに与党が目標とする審議時間に達するかは微妙な情勢だ。衆院の特別委の審議時間は116時間に上ったが、参院では礒崎陽輔首相補佐官の「法的安定性発言」などが響き、現在まで計約63時間。目標の100時間を超えるのは来月中旬ごろにずれ込む見込みだ。
さらに与党は来年の参院選をにらみ、世論の反発を受けやすい強行採決を避ける思惑があり、野党の要求に丁寧に応じる姿勢を示している。維新の党が提出した対案や元気、次世代、改革が提案予定の修正案を審議すれば、ペースが鈍る可能性もある。「今後も順調に審議が続く保証はない。来月11日までの採決は現実的ではない」(参院自民幹部)との声も上がっている。
一方、谷垣氏は26日、首相との会談前に参院自民党の溝手顕正会長と国会内で会い、安保法案だけでなく総裁選日程についても意見交換した。総裁選が安保審議の行方を複雑にしているからだ。
同党は当初、「来月8日告示、20日投開票」を想定していた。だが、法案成立前に選挙戦となれば審議が混乱する恐れがある。このため党内では「14日告示、26日投開票」の案も浮上する。それでも安保審議が遅れれば総裁選日程と重なる可能性がある。
ただし、今のところ、首相のほかに立候補表明はない。参院自民幹部は「無投票ならば、早めに総裁選を終わらせた方が審議に影響は出ない」と指摘。首相の再選決定後に参院で審議を続ける可能性を示唆した。
◇政府・与党が想定する今後の政治日程
8月28日 自民党が総裁選日程を決定
維新の党の対案について修正協議開始?
9月8日 自民党総裁選告示?
11日 参院での安全保障関連法案の採決?
14日 安保関連法案が憲法の「60日ルール」で衆院再可決が可能に
20日 総裁選(8日告示なら)
27日 国会会期末
28日 安倍首相が国連総会で演説?
参照:
毎日新聞 8月26日
2015年08月27日
「笑い」、ハッピースイッチ
喜劇王と言われたチャーリー・チャップリンに、次の言葉があります。
−−人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。
人生を「悲劇」として見るか、「喜劇」として見るかによって、生き方は全く変わってきます。
失敗や、嫌なこと、ツイてないことが起きてしまった時は、当初は、悲劇のように思ってしまい落ち込んだりもするが、長い時間が経てば、それを笑えることができるようにもなることがあるのです。
そこで、この世も「お笑い(喜劇)を見ているように」楽しむという前提力で生きてみたらどうでしょう。
そうしたら、むやみに腹もたたず、楽しむように出来事をとらえて、腹を立てず人の話を聞けるでしょう
それくらい、人生を喜劇とみる前提力があるかないかで、とらえ方が変わってしまう。つまり、考え方、生き方で、自分次第ということです。
たとえば、「自分ひとりが頑張っているような気になって、周りは眼中にない。何さまだと思ってるの?生意気な態度で腹が立つ」と思う人もいますが、もっともなことより、楽しむ前提力を持てたらなら、「もしかして、いま、見栄張ってるぅ〜?」とか、笑って軽口を叩くと、肩をいからせてるより、脳が活性しそうです。
とんがってないで、「あ、悪いネエ、ちょっとくらい見栄張らせてよ〜」とボケをいれて返えす、「ま、いいかァ♪」 などと受け手が漫才のように会話ができたら そのほうが面白くないでしょうか?
しかし、お笑い系でない多くの人にはとにかく「楽しむ」という前提がないのです。
ほとんどの人がマジになって、キレるから、世の中が怖い事件になるのですね(笑)
米国のような銃社会でないことがせめてもです。
笑いには、実は心をひとつにする力がある、笑いは立場を消してしまうから…。
愛と同じように、すべての境界線を消し去るのが、笑いの効果です。
自分というものが価値が消えてしまうのが面白くなくて笑えない、まじめすぎる人が日本人には多いのではないか。過ぎたるは及ばざるなり。そこで、ちょっと考えてみてください。
自分の立場やメンツに固執して、誰にも心を開かない人生って、つまらないし、寂しいものです。
だからこそ、みなさんには、どんなことでも笑う、楽しむという「笑いの前提力」をつけてみてほしいのです。生まれてきた窮境の目的は「楽しむ」ため。
酸いも辛いもすべてを味わいつくして、どんな時も、どんなことも「楽しむ」ためにあるのが人生だと気楽に構える。そんなふうに腹がすわると、それまで機能していなかった心が動き出し、「愉快脳」が働き始めます。
人間は怒ったり強いストレスを感じると、脳からノルアドレナリンという強い毒性を持っている物質が分泌されてしまいます。いつも前向き、笑顔でいるなら、自分の体の中からベーターエンドルフィンなどの物質を作り出され、それによって自分自身の心身に癒しと元気を与えてくれます。最近の研究で、笑にそうした効果が期待できると分かってきました。白血球の一つであるリンパ球でがん細胞や細菌に感染した細胞を死滅させ、がん細胞の殺し屋として有名なナチュラルキラー細胞が活性化されます。また、モルヒネの数倍もの鎮痛作用と快感作用のあるベーターエンドルフィンのホルモンが大量に分泌されると分かっています。 脳が刺激されて神経へ伝わり、そこで免疫機能ホルモンが分泌されます。
それでは、無理して笑う作り笑いはどうなるか、実は作り笑いでも同じように身体が活性化され、ナチュラルキラー細胞の働きが活発になるそうです。もちろん、無理矢理笑うのではなく、自然に喜んだりするほうが何倍も効果があります。つまり、楽しもう、笑おうと思うときは、心で感じようとして、「前頭葉」が働き始め、活路を見出していける面白い状況になります。
そこに、目的意識や、「〜したいな」という羨望、憧れ、期待、希望など、自分の心を動かす材料がそろうと、心にスイッチが入ります。ついに、魂に躍動感が出てきて、笑顔、ユーモア、前向きな気持ちがあふれてくるのです。これを「ハッピースイッチ」と呼んでいます。もし全人類がこのハッピースイッチを入れられるようになれば、地球はたちまち「愛の星」に変わるでしょう。ハッピースイッチが入ると、生きることが楽しくなります。なにを見ても笑顔になれます。
つらい経験、悲しい思いすらも、「自分にとって必要なもの」と受け止めることができるようになります。
そのためにも、「笑う前提力」を大切にしていきましょう。
たとえば、西洋が男性神が最高神とされますが、日本はアマテラスオオミカミ、女性神が最高神であり、世界でも珍しいことです。そのアマテラスが、弟の神様の処遇に機嫌をそこね、天の岩戸にお隠れになったとき、八百万の神々が合議してなさったことは、アマテラス抜きで、大声で笑ってどんちゃん騒ぎをしたことでした。この期に及んで呆れるというか、想像すると笑える光景ですが、自分をのけ者にしてみんなで面白がっているのはなんだろうか、と天の岩戸を少し開いて覗き見た時、神様たちはここぞとばかりに戸を押し開いてアマテラスを引っ張り出して、もうお隠れにならないようにと懇願して、この世の明かりが戻ったというのです。
どうも神さまは、明るく笑って楽しく過ごしている人が好き。
人生は喜劇だと思って生きていれば、楽しいこと、笑うことを日々見つけることができるというご託言ではないでしょうか。
まずは、鏡に向かって、「イー、スマイル」の練習、「あら、きょうはなかなか美人」とか、「お、今日はいける、いいね!」と自分に魔法をかける、すると、まんまと脳が反応してくる。このスイッチが朝からはいってくると、活き活きしてきますョ。奥様、旦那様、それこそ、子供や友達にもにっこりさせる笑顔を振りまいて周りをあかるくする 「イーマジック」をかけてみてください。脳は朝から騙されるかどうか、社会実験です!
参照;
『あなたのなかの やんちゃな神さまとつきあう法』サンマーク出版
−−人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。
人生を「悲劇」として見るか、「喜劇」として見るかによって、生き方は全く変わってきます。
失敗や、嫌なこと、ツイてないことが起きてしまった時は、当初は、悲劇のように思ってしまい落ち込んだりもするが、長い時間が経てば、それを笑えることができるようにもなることがあるのです。
そこで、この世も「お笑い(喜劇)を見ているように」楽しむという前提力で生きてみたらどうでしょう。
そうしたら、むやみに腹もたたず、楽しむように出来事をとらえて、腹を立てず人の話を聞けるでしょう
それくらい、人生を喜劇とみる前提力があるかないかで、とらえ方が変わってしまう。つまり、考え方、生き方で、自分次第ということです。
たとえば、「自分ひとりが頑張っているような気になって、周りは眼中にない。何さまだと思ってるの?生意気な態度で腹が立つ」と思う人もいますが、もっともなことより、楽しむ前提力を持てたらなら、「もしかして、いま、見栄張ってるぅ〜?」とか、笑って軽口を叩くと、肩をいからせてるより、脳が活性しそうです。
とんがってないで、「あ、悪いネエ、ちょっとくらい見栄張らせてよ〜」とボケをいれて返えす、「ま、いいかァ♪」 などと受け手が漫才のように会話ができたら そのほうが面白くないでしょうか?
しかし、お笑い系でない多くの人にはとにかく「楽しむ」という前提がないのです。
ほとんどの人がマジになって、キレるから、世の中が怖い事件になるのですね(笑)
米国のような銃社会でないことがせめてもです。
笑いには、実は心をひとつにする力がある、笑いは立場を消してしまうから…。
愛と同じように、すべての境界線を消し去るのが、笑いの効果です。
自分というものが価値が消えてしまうのが面白くなくて笑えない、まじめすぎる人が日本人には多いのではないか。過ぎたるは及ばざるなり。そこで、ちょっと考えてみてください。
自分の立場やメンツに固執して、誰にも心を開かない人生って、つまらないし、寂しいものです。
だからこそ、みなさんには、どんなことでも笑う、楽しむという「笑いの前提力」をつけてみてほしいのです。生まれてきた窮境の目的は「楽しむ」ため。
酸いも辛いもすべてを味わいつくして、どんな時も、どんなことも「楽しむ」ためにあるのが人生だと気楽に構える。そんなふうに腹がすわると、それまで機能していなかった心が動き出し、「愉快脳」が働き始めます。
人間は怒ったり強いストレスを感じると、脳からノルアドレナリンという強い毒性を持っている物質が分泌されてしまいます。いつも前向き、笑顔でいるなら、自分の体の中からベーターエンドルフィンなどの物質を作り出され、それによって自分自身の心身に癒しと元気を与えてくれます。最近の研究で、笑にそうした効果が期待できると分かってきました。白血球の一つであるリンパ球でがん細胞や細菌に感染した細胞を死滅させ、がん細胞の殺し屋として有名なナチュラルキラー細胞が活性化されます。また、モルヒネの数倍もの鎮痛作用と快感作用のあるベーターエンドルフィンのホルモンが大量に分泌されると分かっています。 脳が刺激されて神経へ伝わり、そこで免疫機能ホルモンが分泌されます。
それでは、無理して笑う作り笑いはどうなるか、実は作り笑いでも同じように身体が活性化され、ナチュラルキラー細胞の働きが活発になるそうです。もちろん、無理矢理笑うのではなく、自然に喜んだりするほうが何倍も効果があります。つまり、楽しもう、笑おうと思うときは、心で感じようとして、「前頭葉」が働き始め、活路を見出していける面白い状況になります。
そこに、目的意識や、「〜したいな」という羨望、憧れ、期待、希望など、自分の心を動かす材料がそろうと、心にスイッチが入ります。ついに、魂に躍動感が出てきて、笑顔、ユーモア、前向きな気持ちがあふれてくるのです。これを「ハッピースイッチ」と呼んでいます。もし全人類がこのハッピースイッチを入れられるようになれば、地球はたちまち「愛の星」に変わるでしょう。ハッピースイッチが入ると、生きることが楽しくなります。なにを見ても笑顔になれます。
つらい経験、悲しい思いすらも、「自分にとって必要なもの」と受け止めることができるようになります。
そのためにも、「笑う前提力」を大切にしていきましょう。
たとえば、西洋が男性神が最高神とされますが、日本はアマテラスオオミカミ、女性神が最高神であり、世界でも珍しいことです。そのアマテラスが、弟の神様の処遇に機嫌をそこね、天の岩戸にお隠れになったとき、八百万の神々が合議してなさったことは、アマテラス抜きで、大声で笑ってどんちゃん騒ぎをしたことでした。この期に及んで呆れるというか、想像すると笑える光景ですが、自分をのけ者にしてみんなで面白がっているのはなんだろうか、と天の岩戸を少し開いて覗き見た時、神様たちはここぞとばかりに戸を押し開いてアマテラスを引っ張り出して、もうお隠れにならないようにと懇願して、この世の明かりが戻ったというのです。
どうも神さまは、明るく笑って楽しく過ごしている人が好き。
人生は喜劇だと思って生きていれば、楽しいこと、笑うことを日々見つけることができるというご託言ではないでしょうか。
まずは、鏡に向かって、「イー、スマイル」の練習、「あら、きょうはなかなか美人」とか、「お、今日はいける、いいね!」と自分に魔法をかける、すると、まんまと脳が反応してくる。このスイッチが朝からはいってくると、活き活きしてきますョ。奥様、旦那様、それこそ、子供や友達にもにっこりさせる笑顔を振りまいて周りをあかるくする 「イーマジック」をかけてみてください。脳は朝から騙されるかどうか、社会実験です!
参照;
『あなたのなかの やんちゃな神さまとつきあう法』サンマーク出版
2015年08月26日
『花火』が象徴する、お笑いの時代
我孫子の花火、手賀沼花火大会も、この花火大会が根付いた始まりはかっぱ祭りだったそうですが、その祭りも終わり、夏休みも残すところ数日です。
「花火」といえば、今もって注目されるのは、純文学界の評価が高まって、ついには芥川賞を受賞した『花火』です。ベストセラーの売り上げが急加速で羨ましがられるピース・又吉はお笑い芸人です。もはや、お笑いを軽くみてはいられない。又吉直樹先生を、お笑いのピースだとは鼻で笑う者はありません。「お笑い」には、人の感情の機微を取り込んで、苦界を乗り切る人の知恵でもあり、ユーモアのセンスです。だから、海津にいなは落語が好き、笑点が好き、家ではダジャレを言いすぎてひんしゅくですが、笑って人生はなんぼかと思います。人生は悲劇よりは喜劇であってほしい、です。
この頃、司会業を難なくこなすお笑い芸人も少なくありません。東日本大震災以降の番組は、お笑いの芸人抜きでは成り立たない感になりました。戦後の暗い時代を明るくしたのは「リンゴの唄」だったと言われ、ラジオを聞いて、歌で慰められたのです。今はスマホでテレビなども見る、映像に訴える時代となっています。見て楽しませ、それなりの角が立たない反論や多少とも見識、知識量も持ち合わせた信頼感も要求されます。そのお笑い界のトップに立つのが、北野たけしです。
浅草のストリップ劇場の漫才からスタートしたと言われるものの、司会、俳優、映画監督、作家として、世界が認めるアーティスト、異彩です。
最近は、医大、東大や京大卒、ハーバード大学卒のお笑い芸人もいるくらいで、視聴者、市民社会の背景も多種多彩、バラエティーに富んでいるのです。あのAKB48、嵐にしても、若い世代のファンがとはかぎらない幅広い年齢層のファンがいるのです。
同じように政治家でも、男の有権者によって当選する時代ではありません。文化が混合、混在する時代になってきています。それだけ複雑、多様な社会になってきているのです。女性の細やかな気付き、センスがビジネスに繋がるというのも最近の傾向です。本が売れなくなった、活字離れが言われて久しいが、小説だろうが、ビジネス書であろうが、スピリチュアル本であろうが、もてはやされる作家はおり、彼ら、彼女らはある意味、何でも話のネタを提供でき、講演やセミナーで大勢のファンを集められ、いまの時代の要求をキャッチできているのです。新たな分野を開拓して、挑戦するタイプこそが、時代に生き残っていけるのだろうと思います。
参照:
櫻井秀勲 『多才力』東京堂出版
「花火」といえば、今もって注目されるのは、純文学界の評価が高まって、ついには芥川賞を受賞した『花火』です。ベストセラーの売り上げが急加速で羨ましがられるピース・又吉はお笑い芸人です。もはや、お笑いを軽くみてはいられない。又吉直樹先生を、お笑いのピースだとは鼻で笑う者はありません。「お笑い」には、人の感情の機微を取り込んで、苦界を乗り切る人の知恵でもあり、ユーモアのセンスです。だから、海津にいなは落語が好き、笑点が好き、家ではダジャレを言いすぎてひんしゅくですが、笑って人生はなんぼかと思います。人生は悲劇よりは喜劇であってほしい、です。
この頃、司会業を難なくこなすお笑い芸人も少なくありません。東日本大震災以降の番組は、お笑いの芸人抜きでは成り立たない感になりました。戦後の暗い時代を明るくしたのは「リンゴの唄」だったと言われ、ラジオを聞いて、歌で慰められたのです。今はスマホでテレビなども見る、映像に訴える時代となっています。見て楽しませ、それなりの角が立たない反論や多少とも見識、知識量も持ち合わせた信頼感も要求されます。そのお笑い界のトップに立つのが、北野たけしです。
浅草のストリップ劇場の漫才からスタートしたと言われるものの、司会、俳優、映画監督、作家として、世界が認めるアーティスト、異彩です。
最近は、医大、東大や京大卒、ハーバード大学卒のお笑い芸人もいるくらいで、視聴者、市民社会の背景も多種多彩、バラエティーに富んでいるのです。あのAKB48、嵐にしても、若い世代のファンがとはかぎらない幅広い年齢層のファンがいるのです。
同じように政治家でも、男の有権者によって当選する時代ではありません。文化が混合、混在する時代になってきています。それだけ複雑、多様な社会になってきているのです。女性の細やかな気付き、センスがビジネスに繋がるというのも最近の傾向です。本が売れなくなった、活字離れが言われて久しいが、小説だろうが、ビジネス書であろうが、スピリチュアル本であろうが、もてはやされる作家はおり、彼ら、彼女らはある意味、何でも話のネタを提供でき、講演やセミナーで大勢のファンを集められ、いまの時代の要求をキャッチできているのです。新たな分野を開拓して、挑戦するタイプこそが、時代に生き残っていけるのだろうと思います。
参照:
櫻井秀勲 『多才力』東京堂出版
2015年08月25日
中国経済の世界への大影響
ダウ平均株価が588ドルも下落した24日のニューヨーク株式市場の様子が引き金になって、東京市場は取引開始とともに売り注文が殺到するパニック状態に陥りました。
このところ、涼しくなってホッとするかと言えば、気温がぐっと下がって長袖では秋風が寒くも感じ、この暴落には驚きました。株の購入をしていない人でも、ニュースが気になったと思います。株価を注視してる人の中には、腰を抜かした年金生活者もいたろうかと思います。
25日の東京株式市場は取引開始と同時に売り注文が殺到、日経平均株価は一気に800円近く値下がり。半年ぶりに1万8000円を割り込み、ひけてみれば、1万7806円と今年2番目の下げ幅を記録し、6営業日続けての下落でした。
こうした動きは海外の株式市場にも波及し、先週から「世界同時株安」の様相を呈し、世界大恐慌の引き金となった1929年10月24日(「暗黒の木曜日」)の株の暴落にちなんで、欧米などではすでに「暗黒の月曜日」と呼ばれているとか。
さすがに中国人民銀行(中央銀行)は、追加の金融緩和を決定しました。政策金利である銀行の貸し出しと預金の基準金利を0.25%引き下げると同時に、市中銀行から強制的に預かる資金の比率を示す預金準備率を0.5%引き下げるようです。大規模な金融緩和で景気の安定に努めるようです。
※「中国が追加金融緩和 利下げと預金準備率下げ同時決定」日経新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM25H7S_V20C15A8000000/
この状況についての分析は、識者のいくつかの見方が出います。
大手証券会社の情報部長は「連日大幅安となっているが、かなり「陰の極」に来ている。米ダウ.DJIの下落率が2010年のギリシャ・ショックや11年の米国債格下げのときと同程度となっているほか、VIX指数.VIXも10年、11年以来の40超えとなっている。日本株では今日にも東証1部の騰落レシオ(25日平均)が70%以下となりそうで、底入れを示唆している。いったんはリバウンド局面を迎えそうだ」。そこで、「もっとも、過去の傾向をみると安値から3分の1程度の戻りにとどまり、その後、数カ月は安値圏で乱高下しそう。焦点となっている米利上げについては米ジャクソンホール会議や米雇用統計など、中国経済については政策効果が出てくる9月の中国経済指標などを見極める必要があり、これらをひとつひとつ確認しながら相場は徐々に落ち着きを取り戻すだろう」との国内の反応予想のようです。
※「世界株安に歯止めかかるか、金融市場の行方は:識者こうみる」ロイター通信
http://bit.ly/1Eg4sBZ
フランスのマクロン経済相は昨日、「(中国の)経済成長は大幅に鈍化するだろう」「今後6〜8カ月、中国は非常に困難な状況となるだろう」と指摘。米国での利上げについては「これらを受け、FRBのイエレン議長は9月には利上げに踏み切らないと予想する。そもそも議長にその意向はなかったが、これで完璧な名目ができた」と話しました。
※「中国経済、半年間は大幅鈍化 米利上げは最速で12月=仏経済相」(ロイター)
http://bit.ly/1V79l4z
「中国嫌い」で有名な2016年米大統領選の共和党最有力候補であるドナルド・トランプ氏は「私はずっと、中国にアメリカの雇用が奪われていると言ってきた。われわれの金が奪われているのだ。気をつけないとやられてしまう。自覚が必要だ。誰もそれをわかっていない」との考えを示しました。「中国嫌い」を前面に出して自分の支持を訴えるツイートがされている。
なにぶん「下落のあとには、反騰はつきもの」です。このあと、反動できっと跳ね上がる局面は必ずあるもの。過去に学んで各国の政府も介入するのは当然です。どこの国も中国政府の動きを注視しているのは、それだけ、中国経済の存在が大きいことであり、経済の相互依存が進んでいるからです。日本との規模比較をしても抜かれているのだから、6月の下落に続き、再びの続落、中国こけたら世界経済皆こけただけは避けなくてはいけないのです。日本にも中国の経済成長を半ば嫉妬混じりに、「いずれ中国バブルは破裂し、それまでだ」などと言っている中国嫌い(そして韓国嫌い)の人が少なからずいますが、我が身が可愛ければ、この際に隣人も平穏であれかしと、「大人の気づき」になって欲しいと思うところです。
このところ、涼しくなってホッとするかと言えば、気温がぐっと下がって長袖では秋風が寒くも感じ、この暴落には驚きました。株の購入をしていない人でも、ニュースが気になったと思います。株価を注視してる人の中には、腰を抜かした年金生活者もいたろうかと思います。
25日の東京株式市場は取引開始と同時に売り注文が殺到、日経平均株価は一気に800円近く値下がり。半年ぶりに1万8000円を割り込み、ひけてみれば、1万7806円と今年2番目の下げ幅を記録し、6営業日続けての下落でした。
こうした動きは海外の株式市場にも波及し、先週から「世界同時株安」の様相を呈し、世界大恐慌の引き金となった1929年10月24日(「暗黒の木曜日」)の株の暴落にちなんで、欧米などではすでに「暗黒の月曜日」と呼ばれているとか。
さすがに中国人民銀行(中央銀行)は、追加の金融緩和を決定しました。政策金利である銀行の貸し出しと預金の基準金利を0.25%引き下げると同時に、市中銀行から強制的に預かる資金の比率を示す預金準備率を0.5%引き下げるようです。大規模な金融緩和で景気の安定に努めるようです。
※「中国が追加金融緩和 利下げと預金準備率下げ同時決定」日経新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM25H7S_V20C15A8000000/
この状況についての分析は、識者のいくつかの見方が出います。
大手証券会社の情報部長は「連日大幅安となっているが、かなり「陰の極」に来ている。米ダウ.DJIの下落率が2010年のギリシャ・ショックや11年の米国債格下げのときと同程度となっているほか、VIX指数.VIXも10年、11年以来の40超えとなっている。日本株では今日にも東証1部の騰落レシオ(25日平均)が70%以下となりそうで、底入れを示唆している。いったんはリバウンド局面を迎えそうだ」。そこで、「もっとも、過去の傾向をみると安値から3分の1程度の戻りにとどまり、その後、数カ月は安値圏で乱高下しそう。焦点となっている米利上げについては米ジャクソンホール会議や米雇用統計など、中国経済については政策効果が出てくる9月の中国経済指標などを見極める必要があり、これらをひとつひとつ確認しながら相場は徐々に落ち着きを取り戻すだろう」との国内の反応予想のようです。
※「世界株安に歯止めかかるか、金融市場の行方は:識者こうみる」ロイター通信
http://bit.ly/1Eg4sBZ
フランスのマクロン経済相は昨日、「(中国の)経済成長は大幅に鈍化するだろう」「今後6〜8カ月、中国は非常に困難な状況となるだろう」と指摘。米国での利上げについては「これらを受け、FRBのイエレン議長は9月には利上げに踏み切らないと予想する。そもそも議長にその意向はなかったが、これで完璧な名目ができた」と話しました。
※「中国経済、半年間は大幅鈍化 米利上げは最速で12月=仏経済相」(ロイター)
http://bit.ly/1V79l4z
「中国嫌い」で有名な2016年米大統領選の共和党最有力候補であるドナルド・トランプ氏は「私はずっと、中国にアメリカの雇用が奪われていると言ってきた。われわれの金が奪われているのだ。気をつけないとやられてしまう。自覚が必要だ。誰もそれをわかっていない」との考えを示しました。「中国嫌い」を前面に出して自分の支持を訴えるツイートがされている。
なにぶん「下落のあとには、反騰はつきもの」です。このあと、反動できっと跳ね上がる局面は必ずあるもの。過去に学んで各国の政府も介入するのは当然です。どこの国も中国政府の動きを注視しているのは、それだけ、中国経済の存在が大きいことであり、経済の相互依存が進んでいるからです。日本との規模比較をしても抜かれているのだから、6月の下落に続き、再びの続落、中国こけたら世界経済皆こけただけは避けなくてはいけないのです。日本にも中国の経済成長を半ば嫉妬混じりに、「いずれ中国バブルは破裂し、それまでだ」などと言っている中国嫌い(そして韓国嫌い)の人が少なからずいますが、我が身が可愛ければ、この際に隣人も平穏であれかしと、「大人の気づき」になって欲しいと思うところです。
2015年08月24日
まだまだ続く、国会前の国民の声
お盆休みをはさみ、国会での審議が、再開されました。安保法制に関する国会でのやりとり、政府の回答は
質問に対し、のらりくらりと論点をずらした返答をする。最近、発覚した自衛隊の内部資料については、安倍政権は、なぜ外部流出したのか、という話題にそらしていこうとの意図です。
ーーーーーーーーーー
(※)自衛隊の内部資料に関する記事はこちら!!
・2015/08/12 「自衛隊が米軍の指揮下に入るのは間違いない」――“調整メカニズム”で「軍軍間」協力!?
秘密文書で発覚した「独立と主権を蔑ろにする異常な対米従属」小池晃議員に岩上安身が訊く!
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/257515
・【安保法制国会ハイライト】防衛省が「8月に法案成立」を前提に運用計画検討!? 自衛隊を「軍」と明記!? 内部資料を小池晃議員が暴露!「まさに戦前の軍部の独走」
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/257593
13:00〜「『戦争法案の廃案を求める宗教者・門徒・信者』8・24全国集会記者会見と緊急アピール集会」
視聴URL: http://iwj.co.jp/channels/main/channel.php?CN=4
※戦争法案に反対し、8月24日に行われる、全国の宗教者・門徒・信者による国会前抗議祈念行動に関する記者会見と緊急アピール集会を中継します。
日本全国で、連日、戦争法案に反対する抗議行動が開催されています。今まで抗議行動の多くは、お休みの週末に開催されている、というイメージでしたが、今は平日も休日も関係なく、日々、多くの抗議行動が開催されています。私が生まれてから26年間、こんなことは初めてだと思うのですが、どうでしょうか。
「『戦争法案』を葬ろう 8月20日 院内集会 〜講師:姜尚中さん(東京大学名誉教授)〜
「戦争をさせない1000人委員会」と「立憲フォーラム」が主催する集会です。
http://www.ustream.tv/recorded/71228295
7月16日に安保関連法案が衆議院を通過しました。この法案は、立憲主義を放棄し、民主主義を根本から揺るがすもので、学生たちの未来にも大きくかかわる問題となってきます。こうしたことを見過ごせないと考えた獨協大学の教職員有志は、特別委員会で強行採決がなされた先週7月15日に国会前の抗議集会に参加しました。その後、参加したメンバーを呼びかけ人とする声明文を作成しました。この声明文に、8月5日時点で教員128名、職員54名、元職員10名、計192名の方から賛同をいただき、呼びかけ人15名を含めると207名となりました。広い意味での獨協関係者(在学生、卒業生、父母)からもご賛同をいただいています。今後もさらに多くのみなさまのご賛同をいただければとの要請です。
声明文はこちら!!・・・【声明文#6】安全保障関連法案の強行採決に抗議し、同法案の廃案を求める獨協大学教職員有志( http://iwj.co.jp/wj/open/statement006 )
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自分の教え子たちの未来が戦争のあるものにしてはいけない、という切実な気持が各大学から伝わってきます。
安保関連法案のすみやかな廃案を求める島根大学 大学人アピール
http://iwj.co.jp/wj/open/statement009
安保法制に反対する筑波大学有志の会
http://iwj.co.jp/wj/open/statement008
安保関連法案廃案を求める岩手県の大学関係者・研究者・弁護士有志
http://iwj.co.jp/wj/open/statement007
安全保障関連法案の強行採決に抗議し、同法案の廃案を求める獨協大学教職員有志
http://iwj.co.jp/wj/open/statement006
特定秘密保護法に反対する牧師の会
http://iwj.co.jp/wj/open/statement005
恵泉女学園大学(川島堅二学長と教職員有志一同)
http://iwj.co.jp/wj/open/statement002
「東京大学人、緊急抗議集会」実行委員会
http://iwj.co.jp/wj/open/statement001
質問に対し、のらりくらりと論点をずらした返答をする。最近、発覚した自衛隊の内部資料については、安倍政権は、なぜ外部流出したのか、という話題にそらしていこうとの意図です。
ーーーーーーーーーー
(※)自衛隊の内部資料に関する記事はこちら!!
・2015/08/12 「自衛隊が米軍の指揮下に入るのは間違いない」――“調整メカニズム”で「軍軍間」協力!?
秘密文書で発覚した「独立と主権を蔑ろにする異常な対米従属」小池晃議員に岩上安身が訊く!
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/257515
・【安保法制国会ハイライト】防衛省が「8月に法案成立」を前提に運用計画検討!? 自衛隊を「軍」と明記!? 内部資料を小池晃議員が暴露!「まさに戦前の軍部の独走」
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/257593
13:00〜「『戦争法案の廃案を求める宗教者・門徒・信者』8・24全国集会記者会見と緊急アピール集会」
視聴URL: http://iwj.co.jp/channels/main/channel.php?CN=4
※戦争法案に反対し、8月24日に行われる、全国の宗教者・門徒・信者による国会前抗議祈念行動に関する記者会見と緊急アピール集会を中継します。
日本全国で、連日、戦争法案に反対する抗議行動が開催されています。今まで抗議行動の多くは、お休みの週末に開催されている、というイメージでしたが、今は平日も休日も関係なく、日々、多くの抗議行動が開催されています。私が生まれてから26年間、こんなことは初めてだと思うのですが、どうでしょうか。
「『戦争法案』を葬ろう 8月20日 院内集会 〜講師:姜尚中さん(東京大学名誉教授)〜
「戦争をさせない1000人委員会」と「立憲フォーラム」が主催する集会です。
http://www.ustream.tv/recorded/71228295
7月16日に安保関連法案が衆議院を通過しました。この法案は、立憲主義を放棄し、民主主義を根本から揺るがすもので、学生たちの未来にも大きくかかわる問題となってきます。こうしたことを見過ごせないと考えた獨協大学の教職員有志は、特別委員会で強行採決がなされた先週7月15日に国会前の抗議集会に参加しました。その後、参加したメンバーを呼びかけ人とする声明文を作成しました。この声明文に、8月5日時点で教員128名、職員54名、元職員10名、計192名の方から賛同をいただき、呼びかけ人15名を含めると207名となりました。広い意味での獨協関係者(在学生、卒業生、父母)からもご賛同をいただいています。今後もさらに多くのみなさまのご賛同をいただければとの要請です。
声明文はこちら!!・・・【声明文#6】安全保障関連法案の強行採決に抗議し、同法案の廃案を求める獨協大学教職員有志( http://iwj.co.jp/wj/open/statement006 )
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自分の教え子たちの未来が戦争のあるものにしてはいけない、という切実な気持が各大学から伝わってきます。
安保関連法案のすみやかな廃案を求める島根大学 大学人アピール
http://iwj.co.jp/wj/open/statement009
安保法制に反対する筑波大学有志の会
http://iwj.co.jp/wj/open/statement008
安保関連法案廃案を求める岩手県の大学関係者・研究者・弁護士有志
http://iwj.co.jp/wj/open/statement007
安全保障関連法案の強行採決に抗議し、同法案の廃案を求める獨協大学教職員有志
http://iwj.co.jp/wj/open/statement006
特定秘密保護法に反対する牧師の会
http://iwj.co.jp/wj/open/statement005
恵泉女学園大学(川島堅二学長と教職員有志一同)
http://iwj.co.jp/wj/open/statement002
「東京大学人、緊急抗議集会」実行委員会
http://iwj.co.jp/wj/open/statement001
2015年08月23日
この頃の国会の内外
多くの国民による反対の声にも関わらず、再稼働された鹿児島県の九州電力川内原発1号機。その川内原発で、早速トラブル発生です。
九州電力によると、川内原発1号機で20日、発電に使った蒸気を冷やして水に戻す「復水器」と呼ばれる設備に異常があることを示す警報機が鳴り、九州電力が調べたところ、塩分の濃度が通常より高いことが分かった、とのこと。
蒸気を冷やすために取り込んでいる海水が、復水器の中に混ざりこんだことが原因と見られるということです。九州電力は、今のところ原発の運転に問題はなく、発電、送電は続けるとしています。
再稼働してすぐのトラブルということもあり、近隣の住民の不安は強まっていることでしょう。東京電力福島第一原発事故の例からも分かる通り、原発はひとたびシビアアクシデントを起こせば、破局的な事態に立ち至ります。はっきりいって、生活における電気は十分足りているわけです。将来的な企業の国際競争力にかてなくなるという大企業寄りの懸念が政権の運営において影響している見えます。
そして、川内原発に関して気になるのは、「噴火警戒レベル4(避難準備)」に引き上げられた桜島の動きです。鹿児島地方気象台によれば、一昨日も、桜島では小規模な噴火が観測されたといいます。
万が一桜島が噴火し、火砕流が直接、川内原発に到達するまでに至らなくとも、火山灰でベントのフィルターが詰まるようなことがあれば、大変です。原発の中で高熱を発する核燃料は、すぐに取り出すことができません。なにしろ冷却に5年かかります。
川内原発1.2号機では、264本の燃料棒を束ねた集合体が各157体も使われています。これだけの核燃料を、桜島が噴火してからでは、冷却させて、すべて抜き出し、運搬することなど到底不可能です。
それだけではありません。原発には「テロのリスク」などが伴います。安倍政権は「中国や北朝鮮の軍事力の脅威」をしきりに指摘し、その上で、集団的自衛権の行使を求めていますが、逆に川内原発が再稼働したことで注目され、例えば中国や北朝鮮などの弾道ミサイルの標的になって、撃ち込まれたらどうなるのでしょうか?
原発廃止に熱意をもやす山本太郎議員が国会の質疑で明らかにしたように、政府はこうしたリスクが現実になったときに、どんな被害が出て、どんな手立てを打つべきか、何ら考えていないのが明白になっただけです。日本列島に原発で取り囲んで、最終処分場も決められないまま、さらに国民を危険に巻き込みかねない集団的自衛権の行使容認や歴史認識問題などで他国との緊張を悪化させているので、非常に危険な事情だと言わざるをえません。
更に、最近の国会内の審議では自衛隊内部文書をめぐって紛糾が続いています。国会前では毎週金曜日、夕刻のお勤め帰りの時間帯を中心に、国会前で「民主主義って何だ!」「立憲主義って何だ!」と訴えるSEALDsのコールが各年齢層に広がってきました。30日(日)は、お天気もデモ日和のようです。我孫子から一直線にGO!です。
九州電力によると、川内原発1号機で20日、発電に使った蒸気を冷やして水に戻す「復水器」と呼ばれる設備に異常があることを示す警報機が鳴り、九州電力が調べたところ、塩分の濃度が通常より高いことが分かった、とのこと。
蒸気を冷やすために取り込んでいる海水が、復水器の中に混ざりこんだことが原因と見られるということです。九州電力は、今のところ原発の運転に問題はなく、発電、送電は続けるとしています。
再稼働してすぐのトラブルということもあり、近隣の住民の不安は強まっていることでしょう。東京電力福島第一原発事故の例からも分かる通り、原発はひとたびシビアアクシデントを起こせば、破局的な事態に立ち至ります。はっきりいって、生活における電気は十分足りているわけです。将来的な企業の国際競争力にかてなくなるという大企業寄りの懸念が政権の運営において影響している見えます。
そして、川内原発に関して気になるのは、「噴火警戒レベル4(避難準備)」に引き上げられた桜島の動きです。鹿児島地方気象台によれば、一昨日も、桜島では小規模な噴火が観測されたといいます。
万が一桜島が噴火し、火砕流が直接、川内原発に到達するまでに至らなくとも、火山灰でベントのフィルターが詰まるようなことがあれば、大変です。原発の中で高熱を発する核燃料は、すぐに取り出すことができません。なにしろ冷却に5年かかります。
川内原発1.2号機では、264本の燃料棒を束ねた集合体が各157体も使われています。これだけの核燃料を、桜島が噴火してからでは、冷却させて、すべて抜き出し、運搬することなど到底不可能です。
それだけではありません。原発には「テロのリスク」などが伴います。安倍政権は「中国や北朝鮮の軍事力の脅威」をしきりに指摘し、その上で、集団的自衛権の行使を求めていますが、逆に川内原発が再稼働したことで注目され、例えば中国や北朝鮮などの弾道ミサイルの標的になって、撃ち込まれたらどうなるのでしょうか?
原発廃止に熱意をもやす山本太郎議員が国会の質疑で明らかにしたように、政府はこうしたリスクが現実になったときに、どんな被害が出て、どんな手立てを打つべきか、何ら考えていないのが明白になっただけです。日本列島に原発で取り囲んで、最終処分場も決められないまま、さらに国民を危険に巻き込みかねない集団的自衛権の行使容認や歴史認識問題などで他国との緊張を悪化させているので、非常に危険な事情だと言わざるをえません。
更に、最近の国会内の審議では自衛隊内部文書をめぐって紛糾が続いています。国会前では毎週金曜日、夕刻のお勤め帰りの時間帯を中心に、国会前で「民主主義って何だ!」「立憲主義って何だ!」と訴えるSEALDsのコールが各年齢層に広がってきました。30日(日)は、お天気もデモ日和のようです。我孫子から一直線にGO!です。
2015年08月22日
日本の習わし、「国誉め」
『世界が日本に夢中なワケ』(宝島社)に、ボビー・ジュードさんが中学校で英語講師をしている頃の話がありました。
陸上部員たちが一礼してからグラウンドに入っていくのを見て、なにしているのか意味がわからなかった、相手もいないのだからお辞儀だとは考えずに、走る前のストレッチかと本気で思っていたそうです。まさか、その場所にお辞儀するという事が思いもよらない。でも日本では、場所にも道具にも、よくお辞儀をしたいると、気づくようになりました。
サッカーの国際試合を見ていると、国旗掲揚で国旗にお辞儀、グランドにお辞儀、試合が終わって相手チームやお客さんにお辞儀して、またグラウンドにお辞儀。「日本にはいろんなものに神様が宿っている」を思い出せば、なるほど〜!と思います。グラウンドにもスタジアムにも柔道や剣道の道場にも、野球のバットにもグローブにもサッカーボールにも神様がいると考える。だからお辞儀もするし、大事に使う。
それこそ、日本の家には仏壇があって、自分が会ったこともないおじいちゃんのおじいちゃんのそのまたおじいちゃんみたいな人まで「ご先祖様」として大切にするのも、アメリカにはない文化です。ある日、私が菓子折りを持って知り合いの家に行ったら、菓子折りがいったん消えたんです。
だけど、子どもたちが「食べた〜い!」ってねだったら、お母さんが「じゃあ、おじいちゃんに挨拶してもらって来なさい」と言ったんですね。え、おじいちゃん、おるん? 私、まだ会ってないけど?と思ったら、仏壇にいらっしゃった!ので、驚いたというのです。
いただきものはまず仏壇に供える。 毎日、お水や白いご飯を取り替える。
ご先祖様を身近に感じられる習慣ですよね。
「お盆やお彼岸でご先祖さまのお迎えやお見送りまでする!本当に身近な存在!」
スポーツ選手が、自分がお世話になるグラウンドや、道場や競技場に文句を言うということは、自分の努力を棚にあげて、周りのせいにしていることだからだ。これは、自分の所属する学校や、会社、自宅、車や、愛用する道具すべてにおいても言えること。だからこそ、自分の大切な「場」に対して、感謝をこめて礼をする。
「国誉め」という神事があるそうです。これは古代、ある国に任命された役人が一番最初にやった仕事。
その国がどんなに素晴らしいかを褒めたたえるその行為が神事になる。
例えば、千葉県に住んでいて千葉の悪口を言っている人」などは、国誉めができていない。
古来より、日本では自分の住む場所を誉めた。 自分の長くいる場所をけなしたり、悪口や愚痴を言ったら、運は逃げていく。
それは、自分のご先祖に対しての想いと同じだというのです。 目に見えない多いなる支援に対して礼をつくすことは、結局は自分を大事にすることでもある。なぜなら、先祖を敬う姿を自分の子供たちは見ているから、それは連綿として続き、やがてはそれは自分にかえってくる。 昔から、日本では山や川、草木にもことごとくみな、仏性(神)が存在すると思われていた。
我・孫・子(われまごこ)を大事に思う、それは国誉めと同じ要領です。足りないところは直せばいい、しかし、足りてるところも思いつかず、国誉めができない市民ばかりだとしたら、とうてい発展はありえまい。誇れるわが街、楽しくなる街であるように、皆様と共に知恵をしぼりたいです。
今まで、我孫子を誉めた人の中で、もっとも印象的な言葉をいったのは、柳宗悦です。海津にいなは、「我孫子は、地上でもっとも美しい処のひとつだ」と思ったとい話を知って、あの柳宗悦(美学者、思想家としても世界的な評価が、むしろ21世紀になって高まっている)がそういったのだから、いかほどだろうかと、今、我孫子を見直し、研究調査を論文に纏めています。完成したら、是非、読んでください!?
陸上部員たちが一礼してからグラウンドに入っていくのを見て、なにしているのか意味がわからなかった、相手もいないのだからお辞儀だとは考えずに、走る前のストレッチかと本気で思っていたそうです。まさか、その場所にお辞儀するという事が思いもよらない。でも日本では、場所にも道具にも、よくお辞儀をしたいると、気づくようになりました。
サッカーの国際試合を見ていると、国旗掲揚で国旗にお辞儀、グランドにお辞儀、試合が終わって相手チームやお客さんにお辞儀して、またグラウンドにお辞儀。「日本にはいろんなものに神様が宿っている」を思い出せば、なるほど〜!と思います。グラウンドにもスタジアムにも柔道や剣道の道場にも、野球のバットにもグローブにもサッカーボールにも神様がいると考える。だからお辞儀もするし、大事に使う。
それこそ、日本の家には仏壇があって、自分が会ったこともないおじいちゃんのおじいちゃんのそのまたおじいちゃんみたいな人まで「ご先祖様」として大切にするのも、アメリカにはない文化です。ある日、私が菓子折りを持って知り合いの家に行ったら、菓子折りがいったん消えたんです。
だけど、子どもたちが「食べた〜い!」ってねだったら、お母さんが「じゃあ、おじいちゃんに挨拶してもらって来なさい」と言ったんですね。え、おじいちゃん、おるん? 私、まだ会ってないけど?と思ったら、仏壇にいらっしゃった!ので、驚いたというのです。
いただきものはまず仏壇に供える。 毎日、お水や白いご飯を取り替える。
ご先祖様を身近に感じられる習慣ですよね。
「お盆やお彼岸でご先祖さまのお迎えやお見送りまでする!本当に身近な存在!」
スポーツ選手が、自分がお世話になるグラウンドや、道場や競技場に文句を言うということは、自分の努力を棚にあげて、周りのせいにしていることだからだ。これは、自分の所属する学校や、会社、自宅、車や、愛用する道具すべてにおいても言えること。だからこそ、自分の大切な「場」に対して、感謝をこめて礼をする。
「国誉め」という神事があるそうです。これは古代、ある国に任命された役人が一番最初にやった仕事。
その国がどんなに素晴らしいかを褒めたたえるその行為が神事になる。
例えば、千葉県に住んでいて千葉の悪口を言っている人」などは、国誉めができていない。
古来より、日本では自分の住む場所を誉めた。 自分の長くいる場所をけなしたり、悪口や愚痴を言ったら、運は逃げていく。
それは、自分のご先祖に対しての想いと同じだというのです。 目に見えない多いなる支援に対して礼をつくすことは、結局は自分を大事にすることでもある。なぜなら、先祖を敬う姿を自分の子供たちは見ているから、それは連綿として続き、やがてはそれは自分にかえってくる。 昔から、日本では山や川、草木にもことごとくみな、仏性(神)が存在すると思われていた。
我・孫・子(われまごこ)を大事に思う、それは国誉めと同じ要領です。足りないところは直せばいい、しかし、足りてるところも思いつかず、国誉めができない市民ばかりだとしたら、とうてい発展はありえまい。誇れるわが街、楽しくなる街であるように、皆様と共に知恵をしぼりたいです。
今まで、我孫子を誉めた人の中で、もっとも印象的な言葉をいったのは、柳宗悦です。海津にいなは、「我孫子は、地上でもっとも美しい処のひとつだ」と思ったとい話を知って、あの柳宗悦(美学者、思想家としても世界的な評価が、むしろ21世紀になって高まっている)がそういったのだから、いかほどだろうかと、今、我孫子を見直し、研究調査を論文に纏めています。完成したら、是非、読んでください!?
2015年08月21日
唯一、特攻拒否を貫いた飛行部隊があった
「戦争をしたくない」と言うと国を守るために命を捨てるくらいの愛国心がないのかと非難されたのが先の戦争に向かう時代の雰囲気であった。戦争に協力しない態度は「非国民」と言われたり、全体主義におちいるムードが作られた。帰る燃料をもたず飛行機での特攻隊だけでなく、舟で敵に突撃する天回(人間魚雷)は最初の特攻兵器)であった。民間人には幼児も子供も巻き添えに自決を促し、日本人として死ぬことをいとわない行為を戦争遂行者は強要した。こうした事が分かってきたのは戦後になってからだった。
本年は70周年の時期でもあって、なかなか知られない戦争秘話が紹介されたりもした。下記もその一つだったので、国会前のデモの毎週夕方の金曜日、紹介しておきたいと思う。
敗色が濃厚となった太平洋戦争末期、海軍上層部が推し進める無謀な体当たり攻撃「特攻」を公然と拒み、ただ一つ、終戦まで通常戦法を貫いた航空部隊があった。夜間攻撃を専門とする「芙蓉部隊」だ。整備員らを含め総勢1000人もの隊員を統率したのは、美濃部正という29歳の少佐だった。
死を回避するかのような言動を異端視し、「1億玉砕」「1億総特攻」といった空虚で無責任な精神論が幅を利かせていた当時の日本。正攻法で戦う信念を曲げず、科学的思考と創意工夫で限界に挑んだ軍人がいたことは、まさに奇跡と言うほかない。
芙蓉部隊は、海軍の戦闘804、812、901の3飛行隊によって1945(昭和20)年1月に静岡県藤枝基地で再編成された夜間戦闘機(夜戦)部隊を総称したもので、基地から仰ぎ見る富士山の別名(芙蓉峰)にちなんで名付けられた。
美濃部元少佐の手記や元隊員らが編んだ部隊史によると、発足時点で2人乗りの艦上爆撃機「彗星」60機、1人乗りの戦闘機「零戦(ゼロ戦)」25機を保有。米軍の沖縄進攻に伴い、主力部隊は鹿児島県の鹿屋基地、さらには岩川基地に移動し、終戦までに出撃回数81回、出撃機数は延べ786機に上った。
この間、戦艦、巡洋艦、大型輸送船各1隻を撃破したほか、沖縄の米軍飛行場大火災6回(うち1回は伊江島飛行場に揚陸された艦載機600機の大半を焼く)、空母群発見6回、撃墜2機など、特攻をしのぐ戦果を上げる一方、47機が未帰還となり、戦死搭乗員は76人に達した。
福岡県小郡市に住む坪井晴隆さん(89)は、芙蓉部隊の最年少パイロットとして沖縄戦に参加した。階級は下士官の一つ手前の飛行兵長(飛長)。美濃部少佐の指揮下に入る前には、特攻志願の願書を提出した経験を持つ。18歳になったばかりでした。もう私たちを外地に出す余裕はなかったんでしょうね。帝都防衛が任務で、B29を迎撃する夜戦隊にいました。ここで出会ったのが彗星です。
迷いました。まだ18でしょ。田舎にいる母のことなど、一日中あれこれ考えました。だんだん他のやつのことが気になりましてね。もうみんな願書を出したんじゃないか。自分だけ出してないんじゃないかと。さんざん迷った末、願書に階級と氏名を書きました。
直属の上司である分隊士は、荒木孝さんという学徒出身の中尉です。京都の舞鶴出身で、24、5歳だったでしょうか。私たちを非常にかわいがってくれた人です。その荒木中尉の部屋をノックしました。夜の11時ごろです。
「坪井参りました」
「何だ今頃」
「これ持ってきました」
そしたら、いきなり怒鳴られたんです。
「貴様、後顧の憂いのない人間じゃないだろ。お母さんはどうなる!」
私の差し出した願書を、荒木さんは自分のポケットにねじ込みました。その時、荒木さんの目からボロッと涙がこぼれ落ちたんです。もう、びっくりしました。叱られたのも意外だったし、どうして荒木さんが泣くんだろうと。何が何だか分からなくなり、私も泣き出してしまいました。2人で大泣きしました。あの晩のことは忘れることができません。
翌45(昭和20)年2月初めに藤枝の芙蓉部隊に転勤しました。フィリピン航空戦でやられて内地に帰ってきた部隊が中心で、それに私たちをプラスして再結成されたと聞きました。3飛行隊のうち、私の所属は戦闘812飛行隊です。各隊とも搭乗員はパイロットと偵察員合わせて100人くらいおったでしょうか。
全体を指揮する美濃部少佐は30歳前の方でしたが、とにかく異彩を放っていました。頭の回転が速く、弁舌が巧みというか、説得力があるんです。美濃部さんとしては、藤枝で盛り返して、もういっぺんフィリピンに向かいたかったんだと思います。ただ、もうその頃は米軍の沖縄進攻の機運が強まっていました。
「昼は戦果より損害の方が大きい。昼は寝て、夜間攻撃でいく」というのが美濃部さんの方針でした。米軍とは兵力が違いますからね。主力機に彗星を採用したのも美濃部さんの発案です。それまでの夜戦隊は「月光」という双発機を使っていたんですが、旧式で使い物にならなかったんです。
彗星は当時としては珍しい水冷エンジンで、構造が緻密で整備が面倒だったから整備員に嫌われていました。それで稼働率が落ちていたのを、「それなら俺が使う」と美濃部さんが引き取ったんです。私は厚木の夜戦隊で彗星の経験があったから目を付けられたんだと思います。
坪井さんの回想によると、芙蓉部隊も特攻隊に編成されたらしいといううわさが一時流れ、隊内が騒然としたことがあったという。しかし、このうわさは間もなく否定され、隊員たちの動揺は収まった。
45(昭和20)年2月末、千葉県・木更津基地の第3航空艦隊司令部で、連合艦隊主催の次期作戦会議が開かれた。議題は「沖縄方面に敵進攻時の迎撃作戦、連合艦隊方針及び各部隊戦闘部署について」。第3、第10航空艦隊の幕僚と、その指揮下の部隊長、飛行長ら約80人が出席した。美濃部少佐は最若輩で末席にいた。
この会議で、海軍首脳部が示した沖縄戦での全機特攻方針に美濃部少佐が強硬に反対。芙蓉部隊だけは特攻編成から除外され、通常攻撃を続けることになったのだ。
「木更津からカンカンになって藤枝に帰ってきた美濃部さんが、われわれ搭乗員を集めて『俺は貴様らを特攻では絶対に殺さん!』と言ったのをはっきり覚えています。すごいことを言う人だなあと思いましたね。普通の指揮官とは全く違っていました」と坪井さんは語る。
「よその隊からは、とんでもない奴らだとか、いろんなことを言われたらしいです。臆病者?美濃部さんのことをですか?それはないんじゃないですか。臆病などとは対極の方でしたから。そんなことを言う人がいたとしたら、それは自分の臆病を隠すためだったと思いますね。3人の飛行隊長も美濃部さんには心酔していました」
それにしても、一介の前線指揮官が公式の会議で軍全体の方針に反旗を翻すことなど、普通では考えられないことだ。最悪の場合、軍法会議で抗命罪に問われ、極刑に処せられてもおかしくない。いったい、どんなやりとりがあったのか。
99(平成11)年5月、美濃部元少佐の死後2年目に私家版として刊行され、関係者だけに配布された手記「大正っ子の太平洋戦記」から、会議の模様をつづった部分を次項で引用する。
最後の一戦というのに、部隊長、艦隊司令部はいつどこで指揮官先頭に立つのか?比島(フィリピン)戦同様、若者たちのみけしたてて、また上層部だけが逃げる心算なのだろう。
GF(連合艦隊)首席参謀・黒岩少将の説明「敵沖縄進攻の迎撃戦は、菊水作戦と呼称、全力特攻とする。今や航空燃料は月1機当たり15時間分(通常60時間以上)に枯渇している。搭乗員の練度は低下、必死特攻にのみ勝機を求め得る。台湾方面から1AF、南九州から5AF、これに3AF、10AFを投入して、南北から敵を挟撃、一挙撃滅する....
《芙蓉部隊を指揮した美濃部元少佐の手記から》
しかし、私の頭には、マリアナ戦に備えた戦闘316飛行隊が、GFの不認識ゆえにマリアナ、硫黄島で空母夜襲の能力を抹殺され、迎撃戦に空しく全滅したこと。比島戦レイテ決戦の敵の対空砲火、戦闘機の重層配備、優れたレーダー戦の中に、散華した特攻600余機の若き命をもってしても敗退したGFの無策、天皇に対しての比島敗戦責任は誰が負うているのか?比島戦の敗因及び敗戦責任はどのようになっているのか?
練習機までつぎ込んだ、戦略、戦術の幼稚な猪突でほんとに勝てると思っているのか。降伏なき皇軍には、今や最後の指揮官先頭、全力決戦死闘して天皇及び国民におわびする時ではないか。
訓練も行き届かない少年兵、前途ある学徒兵を死突させ、無益な道連れにして何の菊水作戦か。海軍伝統の楠公精神はいずこにありや。将軍、幕僚の突撃時期の説明は不明瞭であった。
(注)「楠公精神」は南北朝時代の武将楠木正成が唱えた「滅私奉公」「七生報国」などの精神。「菊水」も楠木正成の紋所に由来する。
末席から立ち上がっていた。ミッドウェー作戦会議(昭和17年4月岩国基地)以来2度目の、GF作戦案に対する批判であった。
「全力特攻、特に速力の遅い練習機まで繰り出しても、十重二十重のグラマンの防御網を突破することは不可能。特攻の掛け声ばかりでは勝てないのは比島戦で証明済み」。GF参謀は、末席の若造、何を言うかとばかり色をなした。
「必死尽忠の士4000機、空を覆うて進撃するとき、何者がこれを遮るか。第一線の少壮士官の言とも思えぬ」。敗北思想の卑怯者と言わんばかり。
満座の中で臆病者とばかりの一喝。相手は今を時めくGF首席参謀黒岩少将。私はミッドウェー作戦以来のGF作戦の無策、稚拙を嫌というほど体験してきた。この黒岩参謀こそ、その元凶であった。
開戦以来3年余、誰よりも多く弾幕突破、敵至近の最前線で飛び続けてきた。後方にあって、航空戦の音痴幕僚に何が分かる。軍命は天皇の命令とはいえ、よもや大御心は、かかる無策非情の作戦を望んでおわしますはずがない。
馬鹿の一つ覚えの猪突攻撃命令には、もう我慢がならない。レイテの逆上陸タ号作戦に対しても、陛下のご懸念をごまかして強行、あの惨敗。このような海軍から規律違反で抹殺されようとも引き下がれない。
「今の若い搭乗員の中に死を恐れる者はおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるには、それだけの成算と意義が要ります。死に甲斐のある戦果を上げたいのは当然。精神力一点ばかりの空念仏では心から勇んで立つことは出来ません。同じ死ぬなら、確算ある手段を立てていただきたい」
「それならば、君に具体策があると言うのか」
私はあぜんとした。GF参謀ともあろう者が一飛行隊長に代案を求めるとは。その結果、芙蓉部隊は特攻編成から除外、夜襲部隊として菊水作戦に参加することになった。GF司令部も、3AF意見、大西中将、故有馬司令官の軍令部への意見具申、および何よりも隊員の凄まじい熱意と成果に、異例の変更をしたらしい。
《芙蓉部隊を指揮した美濃部少佐のその後についても、最後に触れておく。》
美濃部少佐は終戦後も残務整理や進駐軍による接収準備のため岩川基地にとどまり、10月に復員した。公職追放が解除されると、請われて航空自衛隊の創設に参加。要職を歴任し、70(昭和45)年7月に最高位の空将で退官した。
「政治家、役人、ジャーナリスト、国民世論の軍事音痴に振り回され、魅力のない職場であった」という自衛隊勤務。ただ一つの誇りは、「二度と侵略戦争をしない」ため、祖国自衛のみに限定する兵器体系と装備を厳守したことだという。
晩年はがんと闘いながら、97(平成9)年6月に81歳で亡くなるまで、特攻や戦争の意味を自問し続けた。遺稿となった手記『大正っ子の太平洋戦記』では、愚劣な作戦に執着し、特攻命令という「統率の外道」を乱発した軍上層部を痛烈に批判。「これだけ負け続け、本土決戦とは何事か。皇軍統帥部高官たちは天皇に上奏、これ以上戦うも勝算ありませんと切腹しておわびすべき時期である」とまで記している。
その美濃部氏も戦争の最末期、米軍の南部九州進攻時の作戦計画を作成するよう命じられ、ひそかに芙蓉部隊の玉砕計画を立てていた。海軍兵学校出身のパイロットを中心に編成した特攻部隊を自ら率い、米軍に体当たり攻撃を仕掛けるというものだった。
1989(平成1)年8月に記した別の手記『特攻の嵐の中で揺らいだ指揮官としての私』では、その計画を「私の限界であった」と告白。「平成時代の人々の中には、特攻でなくってよかったとか、特攻隊員はかわいそうであったと片付ける人が多い」と指摘した上で、「特攻の是非は単純には決し難い」とも述べている。
「私には特攻攻撃を指揮する自信がなかった」―。美濃部氏が確信していたのは、「人間がその生命を絶つのは、罪人以外は自らの意思、本人の納得のもとに行われるべきである」ということだけだった。
遺稿の最終章は、戦後の日本人に対する苦言が続く。「平和、非戦を叫ぶのみで、飽くなき経済繁栄飽食を求め、30億余の貧困飢餓民族への配慮、対策、思いやりに具体策不十分」。独善的に願望を唱えるだけなら、「撃滅せよ、必勝を期す」という戦時中の軍部の命令と同じだと言い切っている。
アジア諸国との関係も含め、太平洋戦争の敗北を「日本人の独善性の過ち」と捉えた遺稿は、こう結ばれている。「天を恐れ、常に慎ましさを忘れないでほしい」
出典(部分省略にて、時事ドットコムより紹介):
http://www.jiji.com/jc/v4?id=fuyou201508b0006
本年は70周年の時期でもあって、なかなか知られない戦争秘話が紹介されたりもした。下記もその一つだったので、国会前のデモの毎週夕方の金曜日、紹介しておきたいと思う。
敗色が濃厚となった太平洋戦争末期、海軍上層部が推し進める無謀な体当たり攻撃「特攻」を公然と拒み、ただ一つ、終戦まで通常戦法を貫いた航空部隊があった。夜間攻撃を専門とする「芙蓉部隊」だ。整備員らを含め総勢1000人もの隊員を統率したのは、美濃部正という29歳の少佐だった。
死を回避するかのような言動を異端視し、「1億玉砕」「1億総特攻」といった空虚で無責任な精神論が幅を利かせていた当時の日本。正攻法で戦う信念を曲げず、科学的思考と創意工夫で限界に挑んだ軍人がいたことは、まさに奇跡と言うほかない。
芙蓉部隊は、海軍の戦闘804、812、901の3飛行隊によって1945(昭和20)年1月に静岡県藤枝基地で再編成された夜間戦闘機(夜戦)部隊を総称したもので、基地から仰ぎ見る富士山の別名(芙蓉峰)にちなんで名付けられた。
美濃部元少佐の手記や元隊員らが編んだ部隊史によると、発足時点で2人乗りの艦上爆撃機「彗星」60機、1人乗りの戦闘機「零戦(ゼロ戦)」25機を保有。米軍の沖縄進攻に伴い、主力部隊は鹿児島県の鹿屋基地、さらには岩川基地に移動し、終戦までに出撃回数81回、出撃機数は延べ786機に上った。
この間、戦艦、巡洋艦、大型輸送船各1隻を撃破したほか、沖縄の米軍飛行場大火災6回(うち1回は伊江島飛行場に揚陸された艦載機600機の大半を焼く)、空母群発見6回、撃墜2機など、特攻をしのぐ戦果を上げる一方、47機が未帰還となり、戦死搭乗員は76人に達した。
福岡県小郡市に住む坪井晴隆さん(89)は、芙蓉部隊の最年少パイロットとして沖縄戦に参加した。階級は下士官の一つ手前の飛行兵長(飛長)。美濃部少佐の指揮下に入る前には、特攻志願の願書を提出した経験を持つ。18歳になったばかりでした。もう私たちを外地に出す余裕はなかったんでしょうね。帝都防衛が任務で、B29を迎撃する夜戦隊にいました。ここで出会ったのが彗星です。
迷いました。まだ18でしょ。田舎にいる母のことなど、一日中あれこれ考えました。だんだん他のやつのことが気になりましてね。もうみんな願書を出したんじゃないか。自分だけ出してないんじゃないかと。さんざん迷った末、願書に階級と氏名を書きました。
直属の上司である分隊士は、荒木孝さんという学徒出身の中尉です。京都の舞鶴出身で、24、5歳だったでしょうか。私たちを非常にかわいがってくれた人です。その荒木中尉の部屋をノックしました。夜の11時ごろです。
「坪井参りました」
「何だ今頃」
「これ持ってきました」
そしたら、いきなり怒鳴られたんです。
「貴様、後顧の憂いのない人間じゃないだろ。お母さんはどうなる!」
私の差し出した願書を、荒木さんは自分のポケットにねじ込みました。その時、荒木さんの目からボロッと涙がこぼれ落ちたんです。もう、びっくりしました。叱られたのも意外だったし、どうして荒木さんが泣くんだろうと。何が何だか分からなくなり、私も泣き出してしまいました。2人で大泣きしました。あの晩のことは忘れることができません。
翌45(昭和20)年2月初めに藤枝の芙蓉部隊に転勤しました。フィリピン航空戦でやられて内地に帰ってきた部隊が中心で、それに私たちをプラスして再結成されたと聞きました。3飛行隊のうち、私の所属は戦闘812飛行隊です。各隊とも搭乗員はパイロットと偵察員合わせて100人くらいおったでしょうか。
全体を指揮する美濃部少佐は30歳前の方でしたが、とにかく異彩を放っていました。頭の回転が速く、弁舌が巧みというか、説得力があるんです。美濃部さんとしては、藤枝で盛り返して、もういっぺんフィリピンに向かいたかったんだと思います。ただ、もうその頃は米軍の沖縄進攻の機運が強まっていました。
「昼は戦果より損害の方が大きい。昼は寝て、夜間攻撃でいく」というのが美濃部さんの方針でした。米軍とは兵力が違いますからね。主力機に彗星を採用したのも美濃部さんの発案です。それまでの夜戦隊は「月光」という双発機を使っていたんですが、旧式で使い物にならなかったんです。
彗星は当時としては珍しい水冷エンジンで、構造が緻密で整備が面倒だったから整備員に嫌われていました。それで稼働率が落ちていたのを、「それなら俺が使う」と美濃部さんが引き取ったんです。私は厚木の夜戦隊で彗星の経験があったから目を付けられたんだと思います。
坪井さんの回想によると、芙蓉部隊も特攻隊に編成されたらしいといううわさが一時流れ、隊内が騒然としたことがあったという。しかし、このうわさは間もなく否定され、隊員たちの動揺は収まった。
45(昭和20)年2月末、千葉県・木更津基地の第3航空艦隊司令部で、連合艦隊主催の次期作戦会議が開かれた。議題は「沖縄方面に敵進攻時の迎撃作戦、連合艦隊方針及び各部隊戦闘部署について」。第3、第10航空艦隊の幕僚と、その指揮下の部隊長、飛行長ら約80人が出席した。美濃部少佐は最若輩で末席にいた。
この会議で、海軍首脳部が示した沖縄戦での全機特攻方針に美濃部少佐が強硬に反対。芙蓉部隊だけは特攻編成から除外され、通常攻撃を続けることになったのだ。
「木更津からカンカンになって藤枝に帰ってきた美濃部さんが、われわれ搭乗員を集めて『俺は貴様らを特攻では絶対に殺さん!』と言ったのをはっきり覚えています。すごいことを言う人だなあと思いましたね。普通の指揮官とは全く違っていました」と坪井さんは語る。
「よその隊からは、とんでもない奴らだとか、いろんなことを言われたらしいです。臆病者?美濃部さんのことをですか?それはないんじゃないですか。臆病などとは対極の方でしたから。そんなことを言う人がいたとしたら、それは自分の臆病を隠すためだったと思いますね。3人の飛行隊長も美濃部さんには心酔していました」
それにしても、一介の前線指揮官が公式の会議で軍全体の方針に反旗を翻すことなど、普通では考えられないことだ。最悪の場合、軍法会議で抗命罪に問われ、極刑に処せられてもおかしくない。いったい、どんなやりとりがあったのか。
99(平成11)年5月、美濃部元少佐の死後2年目に私家版として刊行され、関係者だけに配布された手記「大正っ子の太平洋戦記」から、会議の模様をつづった部分を次項で引用する。
最後の一戦というのに、部隊長、艦隊司令部はいつどこで指揮官先頭に立つのか?比島(フィリピン)戦同様、若者たちのみけしたてて、また上層部だけが逃げる心算なのだろう。
GF(連合艦隊)首席参謀・黒岩少将の説明「敵沖縄進攻の迎撃戦は、菊水作戦と呼称、全力特攻とする。今や航空燃料は月1機当たり15時間分(通常60時間以上)に枯渇している。搭乗員の練度は低下、必死特攻にのみ勝機を求め得る。台湾方面から1AF、南九州から5AF、これに3AF、10AFを投入して、南北から敵を挟撃、一挙撃滅する....
《芙蓉部隊を指揮した美濃部元少佐の手記から》
しかし、私の頭には、マリアナ戦に備えた戦闘316飛行隊が、GFの不認識ゆえにマリアナ、硫黄島で空母夜襲の能力を抹殺され、迎撃戦に空しく全滅したこと。比島戦レイテ決戦の敵の対空砲火、戦闘機の重層配備、優れたレーダー戦の中に、散華した特攻600余機の若き命をもってしても敗退したGFの無策、天皇に対しての比島敗戦責任は誰が負うているのか?比島戦の敗因及び敗戦責任はどのようになっているのか?
練習機までつぎ込んだ、戦略、戦術の幼稚な猪突でほんとに勝てると思っているのか。降伏なき皇軍には、今や最後の指揮官先頭、全力決戦死闘して天皇及び国民におわびする時ではないか。
訓練も行き届かない少年兵、前途ある学徒兵を死突させ、無益な道連れにして何の菊水作戦か。海軍伝統の楠公精神はいずこにありや。将軍、幕僚の突撃時期の説明は不明瞭であった。
(注)「楠公精神」は南北朝時代の武将楠木正成が唱えた「滅私奉公」「七生報国」などの精神。「菊水」も楠木正成の紋所に由来する。
末席から立ち上がっていた。ミッドウェー作戦会議(昭和17年4月岩国基地)以来2度目の、GF作戦案に対する批判であった。
「全力特攻、特に速力の遅い練習機まで繰り出しても、十重二十重のグラマンの防御網を突破することは不可能。特攻の掛け声ばかりでは勝てないのは比島戦で証明済み」。GF参謀は、末席の若造、何を言うかとばかり色をなした。
「必死尽忠の士4000機、空を覆うて進撃するとき、何者がこれを遮るか。第一線の少壮士官の言とも思えぬ」。敗北思想の卑怯者と言わんばかり。
満座の中で臆病者とばかりの一喝。相手は今を時めくGF首席参謀黒岩少将。私はミッドウェー作戦以来のGF作戦の無策、稚拙を嫌というほど体験してきた。この黒岩参謀こそ、その元凶であった。
開戦以来3年余、誰よりも多く弾幕突破、敵至近の最前線で飛び続けてきた。後方にあって、航空戦の音痴幕僚に何が分かる。軍命は天皇の命令とはいえ、よもや大御心は、かかる無策非情の作戦を望んでおわしますはずがない。
馬鹿の一つ覚えの猪突攻撃命令には、もう我慢がならない。レイテの逆上陸タ号作戦に対しても、陛下のご懸念をごまかして強行、あの惨敗。このような海軍から規律違反で抹殺されようとも引き下がれない。
「今の若い搭乗員の中に死を恐れる者はおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるには、それだけの成算と意義が要ります。死に甲斐のある戦果を上げたいのは当然。精神力一点ばかりの空念仏では心から勇んで立つことは出来ません。同じ死ぬなら、確算ある手段を立てていただきたい」
「それならば、君に具体策があると言うのか」
私はあぜんとした。GF参謀ともあろう者が一飛行隊長に代案を求めるとは。その結果、芙蓉部隊は特攻編成から除外、夜襲部隊として菊水作戦に参加することになった。GF司令部も、3AF意見、大西中将、故有馬司令官の軍令部への意見具申、および何よりも隊員の凄まじい熱意と成果に、異例の変更をしたらしい。
《芙蓉部隊を指揮した美濃部少佐のその後についても、最後に触れておく。》
美濃部少佐は終戦後も残務整理や進駐軍による接収準備のため岩川基地にとどまり、10月に復員した。公職追放が解除されると、請われて航空自衛隊の創設に参加。要職を歴任し、70(昭和45)年7月に最高位の空将で退官した。
「政治家、役人、ジャーナリスト、国民世論の軍事音痴に振り回され、魅力のない職場であった」という自衛隊勤務。ただ一つの誇りは、「二度と侵略戦争をしない」ため、祖国自衛のみに限定する兵器体系と装備を厳守したことだという。
晩年はがんと闘いながら、97(平成9)年6月に81歳で亡くなるまで、特攻や戦争の意味を自問し続けた。遺稿となった手記『大正っ子の太平洋戦記』では、愚劣な作戦に執着し、特攻命令という「統率の外道」を乱発した軍上層部を痛烈に批判。「これだけ負け続け、本土決戦とは何事か。皇軍統帥部高官たちは天皇に上奏、これ以上戦うも勝算ありませんと切腹しておわびすべき時期である」とまで記している。
その美濃部氏も戦争の最末期、米軍の南部九州進攻時の作戦計画を作成するよう命じられ、ひそかに芙蓉部隊の玉砕計画を立てていた。海軍兵学校出身のパイロットを中心に編成した特攻部隊を自ら率い、米軍に体当たり攻撃を仕掛けるというものだった。
1989(平成1)年8月に記した別の手記『特攻の嵐の中で揺らいだ指揮官としての私』では、その計画を「私の限界であった」と告白。「平成時代の人々の中には、特攻でなくってよかったとか、特攻隊員はかわいそうであったと片付ける人が多い」と指摘した上で、「特攻の是非は単純には決し難い」とも述べている。
「私には特攻攻撃を指揮する自信がなかった」―。美濃部氏が確信していたのは、「人間がその生命を絶つのは、罪人以外は自らの意思、本人の納得のもとに行われるべきである」ということだけだった。
遺稿の最終章は、戦後の日本人に対する苦言が続く。「平和、非戦を叫ぶのみで、飽くなき経済繁栄飽食を求め、30億余の貧困飢餓民族への配慮、対策、思いやりに具体策不十分」。独善的に願望を唱えるだけなら、「撃滅せよ、必勝を期す」という戦時中の軍部の命令と同じだと言い切っている。
アジア諸国との関係も含め、太平洋戦争の敗北を「日本人の独善性の過ち」と捉えた遺稿は、こう結ばれている。「天を恐れ、常に慎ましさを忘れないでほしい」
出典(部分省略にて、時事ドットコムより紹介):
http://www.jiji.com/jc/v4?id=fuyou201508b0006
2015年08月20日
首相談話への学者、専門家の所見がほぼ網羅、市民・若者パワーが効力!!
8月初旬、既知である女子大教授から、学者としての所見を皆様と政府に明らかにし、専門家の社会的責任を果たし、また関係する諸外国の方々にもその内容を知って頂きたいと、以下の内容を添付したメールが来ていました。首相談話の内容を熟考して頂きたいと8項目を列挙し、纏められた文書は、7月半ばから署名を募っていき、結果的に8項目はほぼ網羅された内容になったのですから、改めて市民の力は無為ではなく、政府に伝える努力をすれば、聞く耳も目ももっていると言えるかもしれません。
関心もよせず、仕方がないと思うだけでは、より良い知恵は生まれません。声を出す勇気、動き出す勇気、声を掛け合う努力、皆の国として誇れる未来を作り上げるとの意思を持つことは、よりよき国を「未来の君たちに残す」伝言でもあります。
70年前の戦禍、多数の非業の死を遂げた物言わぬ人々から、私たちは「戦争をしない」、「平和」、「核兵器のない社会」など等の想いを遺言として受け取りました。今を生きる私たちが、暑い中でも、寒い時でも、正しく導くのは自分たちの意思だと表明しなくて、次の時代に伝わりません。現政権を支持をしていない人々が、国政を預かる最大与党より多いのが現状です。しかし、独裁を良しとしていない、安倍内閣であれば国民の声に耳を傾けるはずです。「民主主義とは何だ!」と学生たちが問うています。「民主主義はコレダ!」とデモに参加して、ツイートしています。岸政権の時の惨事を起こさないよう、国会の周りには警察官が多数配備されていますが、どなたも優しい表情で「気をつけてください」と事故を起こさないように、注意を払ってくれています。1960年の安保とは、明らかに違います。思い思いの手製プラカードやうちわを持った団塊の世代は多いですが、企業・組織の団体旗はほぼ見受けられません。代わって、ラップのリズムが刻まれ、高校生が混じり、子供の手を引く人、外国人の姿、学者たちまでもが、声を上げて語ります。「今の若いもんは、大したもんだ。しゃべりがウマい。英語も混じる」という、雰囲気です。
今回の女子大の署名の仕方は、非常にシンプルで協力しやすい方法でしたので、ご参考にご紹介します。
クリックしてご覧くださいましたら幸いです(署名にはカイヅニイナの名前も)。
74名の学者による声明.pdf
2015年8月10日 12:11 mari nakami :
::::::::::::::
皆様:
猛暑が続いておりますが、その後、お元気でいらっしゃいますか?
安保法案に反対する清泉女子大有志の会のHPを立ち上げました。
次をご覧いただき、ご署名くださると幸いです。
http://rafaela-maria.wix.com/funoki
Nakami
関心もよせず、仕方がないと思うだけでは、より良い知恵は生まれません。声を出す勇気、動き出す勇気、声を掛け合う努力、皆の国として誇れる未来を作り上げるとの意思を持つことは、よりよき国を「未来の君たちに残す」伝言でもあります。
70年前の戦禍、多数の非業の死を遂げた物言わぬ人々から、私たちは「戦争をしない」、「平和」、「核兵器のない社会」など等の想いを遺言として受け取りました。今を生きる私たちが、暑い中でも、寒い時でも、正しく導くのは自分たちの意思だと表明しなくて、次の時代に伝わりません。現政権を支持をしていない人々が、国政を預かる最大与党より多いのが現状です。しかし、独裁を良しとしていない、安倍内閣であれば国民の声に耳を傾けるはずです。「民主主義とは何だ!」と学生たちが問うています。「民主主義はコレダ!」とデモに参加して、ツイートしています。岸政権の時の惨事を起こさないよう、国会の周りには警察官が多数配備されていますが、どなたも優しい表情で「気をつけてください」と事故を起こさないように、注意を払ってくれています。1960年の安保とは、明らかに違います。思い思いの手製プラカードやうちわを持った団塊の世代は多いですが、企業・組織の団体旗はほぼ見受けられません。代わって、ラップのリズムが刻まれ、高校生が混じり、子供の手を引く人、外国人の姿、学者たちまでもが、声を上げて語ります。「今の若いもんは、大したもんだ。しゃべりがウマい。英語も混じる」という、雰囲気です。
今回の女子大の署名の仕方は、非常にシンプルで協力しやすい方法でしたので、ご参考にご紹介します。
クリックしてご覧くださいましたら幸いです(署名にはカイヅニイナの名前も)。
74名の学者による声明.pdf
2015年8月10日 12:11 mari nakami :
::::::::::::::
皆様:
猛暑が続いておりますが、その後、お元気でいらっしゃいますか?
安保法案に反対する清泉女子大有志の会のHPを立ち上げました。
次をご覧いただき、ご署名くださると幸いです。
http://rafaela-maria.wix.com/funoki
Nakami
2015年08月19日
国会議事堂10万人、全国100万人大集会(8/30)の呼び掛け
「連休を越せば世論は沈静化する」という政府・与党の目論見は外れました。異常気象が続く、長雨、記録的高温が続いても、国会前のデモは7.26には約2万5000人、7.28日比谷大集会には約1万5000人もの市民、学生が参加しています。安保法制の都合のいい解釈に疑問を持たれるようになると新聞各社の調査でも政権の支持率が急降下しました。このところは、70年談話の効果で支持率は回復基調を見せていますが、アベノミックスに合意を取り付けきたころと、今、憲法の課題にまでその手が及び後世にまで影響があるのでは納得できない人々が多いという事です。
夏休みも、国会前デモは継続しています。そして8月最後の日曜日である8月30日に、下記のように大行動っが呼びかけられています。国会周辺を10万人以上、また、全国各地で100万人同時行動をとの呼び掛けです。全国総がかりの民パワーで、戦争法案廃案によって、民主主義が国民の手にあるのだということを、守り抜こう!との呼び掛けですが、皆様のところへもメール、ツイッターなどで繋がっているでしょうか。
※全国で一斉に声をあげます。(国会議事堂周辺に来られない方、 下記の時刻には、全国で一斉にコールを!)
14:00
15:00
15:55
呼び掛けの詳細は下記HPに ↓
http://sogakari.com/?p=633
夏休みも、国会前デモは継続しています。そして8月最後の日曜日である8月30日に、下記のように大行動っが呼びかけられています。国会周辺を10万人以上、また、全国各地で100万人同時行動をとの呼び掛けです。全国総がかりの民パワーで、戦争法案廃案によって、民主主義が国民の手にあるのだということを、守り抜こう!との呼び掛けですが、皆様のところへもメール、ツイッターなどで繋がっているでしょうか。
※全国で一斉に声をあげます。(国会議事堂周辺に来られない方、 下記の時刻には、全国で一斉にコールを!)
14:00
15:00
15:55
呼び掛けの詳細は下記HPに ↓
http://sogakari.com/?p=633
2015年08月18日
戦後70年、アーカイブス
このところメールで、デモに参加してきたという話が舞い込んできます。安保法制の議論の中心は憲法9条です。今日は、憲法の議論について書いたメールも届きました。今年は、特に「終戦の日」という言葉の重みを感じつつ、海津にいな はネットに配信される記録を動画でを観たり、資料を読むことが増えています。
8月10日、参議院議員会館にて中東研究者105人が安保法案反対のアピール声明を出しました。
法案が成立すれば、自衛隊が派遣される先は石油のでもとの中東地域です。「これまで欧米諸国と一線を画し、戦争に加担せず、中東への民生支援を続けてきた日本が築いた信頼関係を、安保法案は崩壊させる」と学者たちは懸念を表明しました。安倍首相の発言および行為(寄付)の直後に、湯川さん、後藤さん両氏の拘束・身代金要求・殺害に発展した事は無関係ではありません。中東における日本の立場を180度転換する今回の法案が、どれだけ日本をリスクに晒すのかと専門家多数が指摘しているのです。
憲法9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書かれています。
憲法のこの部分に関しては、GHQの意向が大きかったとされますが、男女平等の項と合わせて、米国の指導が強くあったのでしょう。ポツダム宣言において、天皇制の存続が確認されており、それがあったため受諾になり玉音放送、終戦へと続いた言われています。
その後、米国の朝鮮戦争、ベトナム戦争への介入などは自衛隊は米国と共同の軍事訓練などを進め、本格的な防衛力として陸海空は拡充されてきました。調査機関によると日本の軍事予算、軍事力は世界9位とのことです。かなりの軍事力を持つものの、専守防衛の装備ですから、攻撃型空母と原子力潜水艦を持てないので9位にとどまっているとのことです。特に海軍力は英国に次いで4位とのことです。ちなみに中国は6位、韓国は10位です。もっとも、安保法案を肯定的な見方をする人には、「嫌韓、嫌中」が意識としてあることも考えられます。それがゆえに安倍政権を支持し、安倍政権が提案する法案は、対中韓に押しがきくと賛成するという思考回路になってやしいないでしょうか。外交力より、まずは軍備による防衛力となっていくと、これまでの平和バランスを崩しいきます。
確かに、中国、韓国は徴兵制があり、日本の場合は徴兵はされず、戦力ではないという公式見解できていました。集団的自衛権の範囲、安保法制の内容については日本会議が深く関係する内閣とその支持するナショナリストな人々が領海、領空問題、ミサイル攻撃などへの懸念が耳に入りやすいですが、そうした脅威を感じる相手とは少なくとも外交ルートという手段があります。実際に、これまで日本人をターゲットにして身代金の要求、殺害がおこした「イスラム国」の動きは、安倍首相の言動にも注視して事を起こしていた感も否めません。つまり、接触は極めて難しい相手であって、ここを刺激するほうへ舵をきれば、距離的・心理的には遠いとはいえ、日本人、企業がターゲットになる可能性は東アジアの比でなく高まります。だから、学者たちから緊急アピールがされたのです。
東アジアばかりに目を向けさせて、いまにもミサイル攻撃にさらされると国民に例示して、迎撃する米艦が撃沈されないように護衛しなくてはならないから、安保法制を整備すると説明していますが、日本のこれまでの平和憲法の解釈をかえることが危険レベルをあげる可能性もあることから目をそらせています。このように国民に、本質を理解させず、コンセンサスができていないのです。せっかく培った世界へ平和を発信してきた国として70年来たのに、欧米の報道機関も訝しく見るようになっているのが、BBCなど海外メディアの内容からわかります。国民にじっくり考える時間を与えず、支持率を横目に、参院も通過できると進めて、既成事実化していやしないでしょうか。公明を抱き合わせて与党多数のこの時だから、「決めれれる時だから、決める」になっていないでしょうか。
18日の読売新聞の世論調査では、安倍内閣支持率が45%に回復、支持しないと同数になっています。政党支持率は、自民が37%ですが、一番高い回答は支持できる政党がない 39%です。野党が頼りにならず、たった3%の支持である公明と合わせて、40%になるという民主主義の多数支配の構図です。こんな時に国民の命とこれまでに培ってきた平和国家としての敬意を危うくする法案が成立するとは、国民投票で問うのは既成事実の追認だけとならないでしょうか。
特に近年は、自衛隊のPKO活動にも参加が多くなり、イラク戦争、アフガン戦争にも限定的ですが後方支援をしています。一応、ここまでは個別自衛権で合憲ということになっています。ソマリヤ沖の海賊対策では、日本は海賊対処法に基づいて09年から護衛艦とP3C哨戒機を派遣し、13年にはCTF151に加わり、その司令官を今月23日までは海上自衛隊の海将補が務めているというのですが、そんな事情が進んでいるとは私たちは知りません。ソマリヤの隣国のジブチには海上自衛隊の基地もあります。どんどん増やさなくてはならなくなるのでしょう。欧米諸国の武力行使と一体化した日本とみられると、これまで友好的に付き合ってきたアラブ諸国でしたが、増設される基地によって過激派に狙われるリスクが増え、そこでテロが一度でも起きれば、日本においてもセキュリティに対して膨大な税金が発生することになりやしないでしょうか。
集団自衛権を核とした現在の安保法制ですが、政治家のみならず、国民もこの現状について、しっかりと審議の過程を把握し、我が国の未来にむけて、議会の多数をとれば終わるのではなく、国民総議論を巻き起こする必要があります。
政治、外交をリードする安倍首相は、歴代の首相にないほどの速攻で憲法の心根を変革しようとしています。安倍内閣の主要閣僚はほとんど日本会議の支援者といわれる所以ですが、ナショナリストの勢力の歴史認識、再軍備の在り方を模索するようでは、国民は受け入れ難いでしょう。
この後、どこまで拡大解釈するか分からないという危惧がされますので、デモに向かう人々が年齢、性別にかかわらず幅広くなってきているのだと思われます。
・中東研究者105人が安保法案に反対するアピールを発表
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=ZiPrkgGdcr0
・日本国憲法第9条
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC9%E6%9D%A1
・警察予備隊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E4%BA%88%E5%82%99%E9%9A%8A
・警察予備隊違憲訴訟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E4%BA%88%E5%82%99%E9%9A%8A%E9%81%95%E6%86%B2%E8%A8%B4%E8%A8%9F
・砂川事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
Countries Ranked by Military Strength (2015)
http://www.globalfirepower.com/countries-listing.asp
・世界の海軍ランキング トップ10
http://matome.naver.jp/odai/2136679404229671901
・主要国の軍事費をグラフ化してみる(2015年)
http://www.garbagenews.net/archives/2258794.html
・日本会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0
8月10日、参議院議員会館にて中東研究者105人が安保法案反対のアピール声明を出しました。
法案が成立すれば、自衛隊が派遣される先は石油のでもとの中東地域です。「これまで欧米諸国と一線を画し、戦争に加担せず、中東への民生支援を続けてきた日本が築いた信頼関係を、安保法案は崩壊させる」と学者たちは懸念を表明しました。安倍首相の発言および行為(寄付)の直後に、湯川さん、後藤さん両氏の拘束・身代金要求・殺害に発展した事は無関係ではありません。中東における日本の立場を180度転換する今回の法案が、どれだけ日本をリスクに晒すのかと専門家多数が指摘しているのです。
憲法9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書かれています。
憲法のこの部分に関しては、GHQの意向が大きかったとされますが、男女平等の項と合わせて、米国の指導が強くあったのでしょう。ポツダム宣言において、天皇制の存続が確認されており、それがあったため受諾になり玉音放送、終戦へと続いた言われています。
その後、米国の朝鮮戦争、ベトナム戦争への介入などは自衛隊は米国と共同の軍事訓練などを進め、本格的な防衛力として陸海空は拡充されてきました。調査機関によると日本の軍事予算、軍事力は世界9位とのことです。かなりの軍事力を持つものの、専守防衛の装備ですから、攻撃型空母と原子力潜水艦を持てないので9位にとどまっているとのことです。特に海軍力は英国に次いで4位とのことです。ちなみに中国は6位、韓国は10位です。もっとも、安保法案を肯定的な見方をする人には、「嫌韓、嫌中」が意識としてあることも考えられます。それがゆえに安倍政権を支持し、安倍政権が提案する法案は、対中韓に押しがきくと賛成するという思考回路になってやしいないでしょうか。外交力より、まずは軍備による防衛力となっていくと、これまでの平和バランスを崩しいきます。
確かに、中国、韓国は徴兵制があり、日本の場合は徴兵はされず、戦力ではないという公式見解できていました。集団的自衛権の範囲、安保法制の内容については日本会議が深く関係する内閣とその支持するナショナリストな人々が領海、領空問題、ミサイル攻撃などへの懸念が耳に入りやすいですが、そうした脅威を感じる相手とは少なくとも外交ルートという手段があります。実際に、これまで日本人をターゲットにして身代金の要求、殺害がおこした「イスラム国」の動きは、安倍首相の言動にも注視して事を起こしていた感も否めません。つまり、接触は極めて難しい相手であって、ここを刺激するほうへ舵をきれば、距離的・心理的には遠いとはいえ、日本人、企業がターゲットになる可能性は東アジアの比でなく高まります。だから、学者たちから緊急アピールがされたのです。
東アジアばかりに目を向けさせて、いまにもミサイル攻撃にさらされると国民に例示して、迎撃する米艦が撃沈されないように護衛しなくてはならないから、安保法制を整備すると説明していますが、日本のこれまでの平和憲法の解釈をかえることが危険レベルをあげる可能性もあることから目をそらせています。このように国民に、本質を理解させず、コンセンサスができていないのです。せっかく培った世界へ平和を発信してきた国として70年来たのに、欧米の報道機関も訝しく見るようになっているのが、BBCなど海外メディアの内容からわかります。国民にじっくり考える時間を与えず、支持率を横目に、参院も通過できると進めて、既成事実化していやしないでしょうか。公明を抱き合わせて与党多数のこの時だから、「決めれれる時だから、決める」になっていないでしょうか。
18日の読売新聞の世論調査では、安倍内閣支持率が45%に回復、支持しないと同数になっています。政党支持率は、自民が37%ですが、一番高い回答は支持できる政党がない 39%です。野党が頼りにならず、たった3%の支持である公明と合わせて、40%になるという民主主義の多数支配の構図です。こんな時に国民の命とこれまでに培ってきた平和国家としての敬意を危うくする法案が成立するとは、国民投票で問うのは既成事実の追認だけとならないでしょうか。
特に近年は、自衛隊のPKO活動にも参加が多くなり、イラク戦争、アフガン戦争にも限定的ですが後方支援をしています。一応、ここまでは個別自衛権で合憲ということになっています。ソマリヤ沖の海賊対策では、日本は海賊対処法に基づいて09年から護衛艦とP3C哨戒機を派遣し、13年にはCTF151に加わり、その司令官を今月23日までは海上自衛隊の海将補が務めているというのですが、そんな事情が進んでいるとは私たちは知りません。ソマリヤの隣国のジブチには海上自衛隊の基地もあります。どんどん増やさなくてはならなくなるのでしょう。欧米諸国の武力行使と一体化した日本とみられると、これまで友好的に付き合ってきたアラブ諸国でしたが、増設される基地によって過激派に狙われるリスクが増え、そこでテロが一度でも起きれば、日本においてもセキュリティに対して膨大な税金が発生することになりやしないでしょうか。
集団自衛権を核とした現在の安保法制ですが、政治家のみならず、国民もこの現状について、しっかりと審議の過程を把握し、我が国の未来にむけて、議会の多数をとれば終わるのではなく、国民総議論を巻き起こする必要があります。
政治、外交をリードする安倍首相は、歴代の首相にないほどの速攻で憲法の心根を変革しようとしています。安倍内閣の主要閣僚はほとんど日本会議の支援者といわれる所以ですが、ナショナリストの勢力の歴史認識、再軍備の在り方を模索するようでは、国民は受け入れ難いでしょう。
この後、どこまで拡大解釈するか分からないという危惧がされますので、デモに向かう人々が年齢、性別にかかわらず幅広くなってきているのだと思われます。
・中東研究者105人が安保法案に反対するアピールを発表
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=ZiPrkgGdcr0
・日本国憲法第9条
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC9%E6%9D%A1
・警察予備隊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E4%BA%88%E5%82%99%E9%9A%8A
・警察予備隊違憲訴訟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E4%BA%88%E5%82%99%E9%9A%8A%E9%81%95%E6%86%B2%E8%A8%B4%E8%A8%9F
・砂川事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
Countries Ranked by Military Strength (2015)
http://www.globalfirepower.com/countries-listing.asp
・世界の海軍ランキング トップ10
http://matome.naver.jp/odai/2136679404229671901
・主要国の軍事費をグラフ化してみる(2015年)
http://www.garbagenews.net/archives/2258794.html
・日本会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0
2015年08月17日
現状認識で「日韓友好」の原点回帰は可能だ
今年は日韓国交正常化50年の年、戦後70周年談話(安倍談話)について、朴大統領が物足りなさを取り上げながらも、歴代内閣の歴史認識継承の面で肯定的な評価をしたと、日本メディアは「朴大統領が就任後、公の場で安倍首相の歴史認識を制限付きでも肯定的に評価したのは非常にまれなことで、対日関係の改善を推進する姿勢を明らかにした」との見方もあった。
西岡力教授(東京基督教大学)によれば、現在の韓国人の反日感情の原因は日本統治時代の記憶ではない。なぜなら、反日感情は統治時代を経験していない若い世代ほど高いからだと指摘。1977年に韓国に留学したが、統治時代を知る年長者の日本に対する感情は、独立を奪われていた悔しさが半分、日本から入った大衆文化などへの懐かしさが半分混在していたという。
日本の朝鮮統治は「同化政策」、すなわち朝鮮人は民族性を捨てて日本民族になればよいというレイシズムが貫かれていた。しかし、新羅の統一以来、千数百年、統一王朝の下で形成された民族性を抹殺することは不可能だった。同等に扱うという「善意」は表向きで、朝鮮の人々に逆に作用したていったのはなりゆきだ。
一方、日本の統治は近代文明をもたらした。金洛年・東国大学教授の研究によると、1910〜40年に経済は年平均3・7%成長し、人口は年平均1・3%増えたとする。さらに独立後の韓国は、日本時代に導入された近代化の諸要素を用いて国造りを進めた。
1965年、日韓基本条約を結んだ朴正煕大統領も「植民統治の収奪、ことに太平洋戦争で数十万の韓国人をいけにえにした日本は、永久に忘れることのできない怨恨を韓国人に抱かしめている」と反日感情を隠さなかったが、北朝鮮と背後にあるソ連、中国との対決に勝つため、自由主義陣営の日本と協力する必要性を認めた。前年6月3日、ソウル中心部では、「韓日交渉を中止せよ」「屈辱外交を許すな」「売国奴を殺せ」
と、催涙弾が飛び交う中、大学生ら1万5千人以上が集結し、治安当局と衝突を繰り返した。夜、戒厳令を布告したのは当時の大統領・朴正煕だった。朴正煕が主導した軍事クーデターの中心人物の一人である金鍾泌は今年、韓国紙への寄稿で、日韓国交正常化を「(クーデターに続く)第2の革命だった」と振り返っている。
朝鮮戦争(50〜53年)で壊滅的打撃を受けた韓国経済は最貧国の水準となっていた。「近代化のための資金を何としても捻出しなければならなかったのだ」と金氏は言う。朴正煕の命を受けて秘密交渉に当たった金鍾泌であったが、中央情報部(KCIA)の初代部長を務めた金は「反日より、“用日”こそ困難な道である」という話をよく朴と交わし、日本を用いて経済発展の道を探り、日韓国交正常化へ向けた。1962年に始まった経済開発5カ年計画は莫大な資金を必要としていたからだ。
朴正煕政権は条約で解決した過去の歴史問題を外交に持ち込むことはなかった。しかし、日本が朝鮮総連などの韓国の安保を脅かす活動を取り締まらなかった結果、74年、日本をテロ基地とした大統領夫人暗殺事件が起きると、韓国では反日感情が爆発し、朴正煕政権は日韓断交さえ検討した。この時こそ日韓関係は最悪だった。
全斗煥政権の反日も当初は、日本が自由主義陣営に属しながら応分の軍事費負担をしていないというものだった。当時の自民党政権と外務省は安保経済協力を拒否していた。その渦中の82年、日本マスコミの誤報から教科書事件が起きた。全政権は経済協力資金を得る便法としてそれを使った。中国共産党と日本の反日マスコミと韓国の反共政権の連携というおかしな構造がこの時にできた。歴史認識問題を外交交渉にのせるという歪んだ構造がここで生まれた。
92年、やはり日本の反日マスコミの誤報により突然、外交問題化した慰安婦問題でも、盧泰愚政権は日本からの技術移転を求める交渉の道具としてこれを使うことを決め、宮沢喜一首相の訪韓での謝罪劇が生まれた。
この歴史観に立つから、冷戦で共産陣営が敗北しても、韓国内の北朝鮮の独裁政権に従属する「従北派」は力を拡大し、2012年の大統領選挙では、従北派との連立を公約した左派候補が48%の支持を得た。そのため朴槿恵大統領はこの歴史観と正面から戦うことができないまま、反日外交を続けているのだと概観する。
心配なのは、むしろ日本人の嫌韓だと西岡教授は指摘する。韓国の反日の背後にある政治工作を見ず、互いの合意点への議論が拡散して、纏まろうとしないからだ。しかし、韓国が米国と同盟である以上、日本は安保において韓国と同じ船に乗っている。北朝鮮の独裁政権を共通の問題として、歴史観や領土問題などをお互いに譲歩し合う50年前に両国の先人が築いた日韓友好の原点に戻ることは十分可能だと主張する。すでに韓国内の自由統一を目標としている健全な保守勢力は、そのような立場から日韓関係の改善を提起していると西岡教授は語った。
参照:
産経ニュース 6月18日
西岡力教授(東京基督教大学)によれば、現在の韓国人の反日感情の原因は日本統治時代の記憶ではない。なぜなら、反日感情は統治時代を経験していない若い世代ほど高いからだと指摘。1977年に韓国に留学したが、統治時代を知る年長者の日本に対する感情は、独立を奪われていた悔しさが半分、日本から入った大衆文化などへの懐かしさが半分混在していたという。
日本の朝鮮統治は「同化政策」、すなわち朝鮮人は民族性を捨てて日本民族になればよいというレイシズムが貫かれていた。しかし、新羅の統一以来、千数百年、統一王朝の下で形成された民族性を抹殺することは不可能だった。同等に扱うという「善意」は表向きで、朝鮮の人々に逆に作用したていったのはなりゆきだ。
一方、日本の統治は近代文明をもたらした。金洛年・東国大学教授の研究によると、1910〜40年に経済は年平均3・7%成長し、人口は年平均1・3%増えたとする。さらに独立後の韓国は、日本時代に導入された近代化の諸要素を用いて国造りを進めた。
1965年、日韓基本条約を結んだ朴正煕大統領も「植民統治の収奪、ことに太平洋戦争で数十万の韓国人をいけにえにした日本は、永久に忘れることのできない怨恨を韓国人に抱かしめている」と反日感情を隠さなかったが、北朝鮮と背後にあるソ連、中国との対決に勝つため、自由主義陣営の日本と協力する必要性を認めた。前年6月3日、ソウル中心部では、「韓日交渉を中止せよ」「屈辱外交を許すな」「売国奴を殺せ」
と、催涙弾が飛び交う中、大学生ら1万5千人以上が集結し、治安当局と衝突を繰り返した。夜、戒厳令を布告したのは当時の大統領・朴正煕だった。朴正煕が主導した軍事クーデターの中心人物の一人である金鍾泌は今年、韓国紙への寄稿で、日韓国交正常化を「(クーデターに続く)第2の革命だった」と振り返っている。
朝鮮戦争(50〜53年)で壊滅的打撃を受けた韓国経済は最貧国の水準となっていた。「近代化のための資金を何としても捻出しなければならなかったのだ」と金氏は言う。朴正煕の命を受けて秘密交渉に当たった金鍾泌であったが、中央情報部(KCIA)の初代部長を務めた金は「反日より、“用日”こそ困難な道である」という話をよく朴と交わし、日本を用いて経済発展の道を探り、日韓国交正常化へ向けた。1962年に始まった経済開発5カ年計画は莫大な資金を必要としていたからだ。
朴正煕政権は条約で解決した過去の歴史問題を外交に持ち込むことはなかった。しかし、日本が朝鮮総連などの韓国の安保を脅かす活動を取り締まらなかった結果、74年、日本をテロ基地とした大統領夫人暗殺事件が起きると、韓国では反日感情が爆発し、朴正煕政権は日韓断交さえ検討した。この時こそ日韓関係は最悪だった。
全斗煥政権の反日も当初は、日本が自由主義陣営に属しながら応分の軍事費負担をしていないというものだった。当時の自民党政権と外務省は安保経済協力を拒否していた。その渦中の82年、日本マスコミの誤報から教科書事件が起きた。全政権は経済協力資金を得る便法としてそれを使った。中国共産党と日本の反日マスコミと韓国の反共政権の連携というおかしな構造がこの時にできた。歴史認識問題を外交交渉にのせるという歪んだ構造がここで生まれた。
92年、やはり日本の反日マスコミの誤報により突然、外交問題化した慰安婦問題でも、盧泰愚政権は日本からの技術移転を求める交渉の道具としてこれを使うことを決め、宮沢喜一首相の訪韓での謝罪劇が生まれた。
この歴史観に立つから、冷戦で共産陣営が敗北しても、韓国内の北朝鮮の独裁政権に従属する「従北派」は力を拡大し、2012年の大統領選挙では、従北派との連立を公約した左派候補が48%の支持を得た。そのため朴槿恵大統領はこの歴史観と正面から戦うことができないまま、反日外交を続けているのだと概観する。
心配なのは、むしろ日本人の嫌韓だと西岡教授は指摘する。韓国の反日の背後にある政治工作を見ず、互いの合意点への議論が拡散して、纏まろうとしないからだ。しかし、韓国が米国と同盟である以上、日本は安保において韓国と同じ船に乗っている。北朝鮮の独裁政権を共通の問題として、歴史観や領土問題などをお互いに譲歩し合う50年前に両国の先人が築いた日韓友好の原点に戻ることは十分可能だと主張する。すでに韓国内の自由統一を目標としている健全な保守勢力は、そのような立場から日韓関係の改善を提起していると西岡教授は語った。
参照:
産経ニュース 6月18日
2015年08月16日
政治:強か(したたか)に、逞しく、凛としてある為に ー正しく、自ら学ぶー
一月末にドイツの元大統領ヴァイツゼッカー氏が亡くなり、彼の「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」という言葉が、朝日新聞などにも繰り返し取り上げられた。
この言葉は、ドイツ降伏四十年(1985年)の際にヴァイツゼッカー氏が行った演説の一節だが、当時も今もこの言葉は賞讃される。特に中韓の新聞はドイツはこんなに誠実に反省しているが、日本は反省が不十分と引き合いにだされる。しかし、その人たちがこのヴァイツゼッカー演説を読んだことがあるのか、というと疑問も抱く。全文(日本語)は、海津にいなブログにも掲載しているので、是非ご覧になっていただきたい。
http://kaizublog.seesaa.net/article/288818943.html
* *
ドイツ連邦議会というこの言葉は、ナチスドイツによるユダヤ人迫害、大量虐殺(ホロコースト)に触れた項目に登場する。ヴァイツゼッカー氏は、「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、ということはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります」と述べ、ナチスの犯罪はヒトラーを筆頭とする少数の犯罪者によるもので、だからドイツ人全体の罪ではないと言う。当時子供だったり、まだ生まれていなかったドイツ人には「罪」はない。罪はないが、ドイツ人は「過去に対する責任を負わされている」。その責任とはナチス犯罪という「過去」を「心に刻む」ことであるとし、そのために過去に目を閉ざしてはならないという文脈で、「過去に目を閉ざす者は……」と語られる。
つまり、冒頭の一節はドイツが行った戦争ではなく、ナチスの犯罪について語ったものだということである。実際、ヴァイツゼッカー演説でも「歴史の中で戦いと暴力に巻き込まれる」こと(つまり戦争)はどの国にも起こり得るが、「ユダヤ人という人種をことごとく抹殺する」ことは「無比」の犯罪だと、まったく別の次元のものだとして語られている。
* *
むろん、戦前の日本はナチス犯罪のような人種迫害や民族抹殺とは違うのであるが、東京裁判でのシナリオはナチス犯罪を裁いた「人道に対する罪」でいわゆるA級戦犯を起訴しようとした。しかし、そうした事実は発見できず、判決は「人道に対する罪」自体を取り上げなかった。簡単に、ヴァイツゼッカーの演説を日本の戦争犯罪の謝罪を促すのに援用するのは間違いだと言える。
戦後の処理についても日独は対照的である。日本はサンフランシスコ講和条約をはじめ、各国との間で条約を取り交わし、戦争賠償について誠実に清算を行ってきた。一方、ドイツは冷戦下、東西に分かれており戦争の賠償は事実上棚上げされ、各国との講和条約や正式な賠償協定は結ばれなかった。一方で、ドイツは十兆円を超える戦後補償を行ってきたが、それはすべて人種や宗教を理由とした虐殺や迫害、つまり戦争で侵攻していった先での殺戮とは無関係のナチス犯罪に対してであった。むしろ、国内問題に使ったとも言えれば言える。
ドイツの賠償問題は未解決だと主張される余地は残されているわけで、最近、債務危機にあるギリシャがドイツに戦争賠償を要求するという報道がなされたが、それこそ賠償されていないことを理由に要求する事実に適っているとは言える。
* *
その意味で、ヴァイツゼッカー演説は日本の中韓への賠償問題には、あまり参考にならないのだ。もちろん興味深い部分もある。それは戦争に触れた部分である。弁護士であった彼は、言葉を慎重に選んではいるが、第二次大戦の開戦の際、ソ連も「自らの利益のために」ポーランドに侵攻したと言い、ヒトラーの台頭を英仏が放置したことについては「無実とは言いかねる」というチャーチルの言葉を引用し、戦後に起こった東欧からのドイツ人追放に対しては「(ドイツ人は)不正にさらされた」と指摘する。
これは、日本の首相が、対米演説のなかで、日米開戦は日本にも責任があるが米国にも一端の責任があると主張し、かつ満洲でのソ連の蛮行やシベリア抑留に触れることにも等しい。ナチス犯罪に対して、戦後にうまれたものにまで罪はないが、それでも国民としての責任はあると言い、一方で戦争に対しては巧に戦勝国の非も、公然と指摘する。ヴァイツゼッカー演説に学ぶとすれば、この「強か(したたかさ)」だ。
参照:
日本政策研究センター所長 岡田邦宏 『明日への選択』平成27年3月号
この言葉は、ドイツ降伏四十年(1985年)の際にヴァイツゼッカー氏が行った演説の一節だが、当時も今もこの言葉は賞讃される。特に中韓の新聞はドイツはこんなに誠実に反省しているが、日本は反省が不十分と引き合いにだされる。しかし、その人たちがこのヴァイツゼッカー演説を読んだことがあるのか、というと疑問も抱く。全文(日本語)は、海津にいなブログにも掲載しているので、是非ご覧になっていただきたい。
http://kaizublog.seesaa.net/article/288818943.html
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ドイツ連邦議会というこの言葉は、ナチスドイツによるユダヤ人迫害、大量虐殺(ホロコースト)に触れた項目に登場する。ヴァイツゼッカー氏は、「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、ということはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります」と述べ、ナチスの犯罪はヒトラーを筆頭とする少数の犯罪者によるもので、だからドイツ人全体の罪ではないと言う。当時子供だったり、まだ生まれていなかったドイツ人には「罪」はない。罪はないが、ドイツ人は「過去に対する責任を負わされている」。その責任とはナチス犯罪という「過去」を「心に刻む」ことであるとし、そのために過去に目を閉ざしてはならないという文脈で、「過去に目を閉ざす者は……」と語られる。
つまり、冒頭の一節はドイツが行った戦争ではなく、ナチスの犯罪について語ったものだということである。実際、ヴァイツゼッカー演説でも「歴史の中で戦いと暴力に巻き込まれる」こと(つまり戦争)はどの国にも起こり得るが、「ユダヤ人という人種をことごとく抹殺する」ことは「無比」の犯罪だと、まったく別の次元のものだとして語られている。
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むろん、戦前の日本はナチス犯罪のような人種迫害や民族抹殺とは違うのであるが、東京裁判でのシナリオはナチス犯罪を裁いた「人道に対する罪」でいわゆるA級戦犯を起訴しようとした。しかし、そうした事実は発見できず、判決は「人道に対する罪」自体を取り上げなかった。簡単に、ヴァイツゼッカーの演説を日本の戦争犯罪の謝罪を促すのに援用するのは間違いだと言える。
戦後の処理についても日独は対照的である。日本はサンフランシスコ講和条約をはじめ、各国との間で条約を取り交わし、戦争賠償について誠実に清算を行ってきた。一方、ドイツは冷戦下、東西に分かれており戦争の賠償は事実上棚上げされ、各国との講和条約や正式な賠償協定は結ばれなかった。一方で、ドイツは十兆円を超える戦後補償を行ってきたが、それはすべて人種や宗教を理由とした虐殺や迫害、つまり戦争で侵攻していった先での殺戮とは無関係のナチス犯罪に対してであった。むしろ、国内問題に使ったとも言えれば言える。
ドイツの賠償問題は未解決だと主張される余地は残されているわけで、最近、債務危機にあるギリシャがドイツに戦争賠償を要求するという報道がなされたが、それこそ賠償されていないことを理由に要求する事実に適っているとは言える。
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その意味で、ヴァイツゼッカー演説は日本の中韓への賠償問題には、あまり参考にならないのだ。もちろん興味深い部分もある。それは戦争に触れた部分である。弁護士であった彼は、言葉を慎重に選んではいるが、第二次大戦の開戦の際、ソ連も「自らの利益のために」ポーランドに侵攻したと言い、ヒトラーの台頭を英仏が放置したことについては「無実とは言いかねる」というチャーチルの言葉を引用し、戦後に起こった東欧からのドイツ人追放に対しては「(ドイツ人は)不正にさらされた」と指摘する。
これは、日本の首相が、対米演説のなかで、日米開戦は日本にも責任があるが米国にも一端の責任があると主張し、かつ満洲でのソ連の蛮行やシベリア抑留に触れることにも等しい。ナチス犯罪に対して、戦後にうまれたものにまで罪はないが、それでも国民としての責任はあると言い、一方で戦争に対しては巧に戦勝国の非も、公然と指摘する。ヴァイツゼッカー演説に学ぶとすれば、この「強か(したたかさ)」だ。
参照:
日本政策研究センター所長 岡田邦宏 『明日への選択』平成27年3月号
2015年08月15日
戦後70周年を思いながら
植西聡 『やる気のコツ』(自由国民社)に、アドラー心理学の考え方の一つに、「原因を問わない」というのがあります。たとえば、物理学や化学では、「なぜこのような結果になったのか。この原因は何か」ということを追求することが重要な要素となっています。しかし、アドラー心理学は違います。
下手に原因追究を始めると、人生の大切な目的を見失うことになるのです。そのために生きる意欲を失っていくことになりがちなのです。ですから、アドラーは、「原因を問うのではない。解決策を見つけ出すことに全力を傾けるべきだ」と主張するのです。
たとえば、ケンカをしたとします。お互いに、「あなたがそういうことを言うからケンカになったんじゃない」「違う。あなたの性格が悪いから、ケンカになったのよ」と言い合います。しかし、そんなふうにケンカになった「原因」を追究し合っていても無益なのです。 言い争いがますます激しくなっていって、「もうあなたの顔なんて見たくない。絶交だ」というところまでいきかねません。
この時に大切なのは、「ケンカになったら原因を追究する」ことではなく、「どうすれば仲直りできるか。どうすれば今後、もっといい関係でいられるかといった解決策を見つけ出す」ことなのです。つまり、過去より未来を重視するのです。
また、何かに失敗した時、人は、「私が悪かったから、このような結果になったのだ」と反省します。もちろん、反省することは悪いことではありません。ただし、反省することには、いいものと悪いものがあることを知っておくほうが賢明です。
「いい反省」とは、解決策を見つけ出すためにする反省です。
「悪い反省」とは、原因を追究するためにする反省です。
つまり、「私のどこが悪かったから」という反省ばかりしていても、あまり意味がないのです。
自分への自信が失われ、やる気を失っていくだけで、非生産的な精神状態に陥っていくと思います。
むしろ、「今回の失敗で、損失をもっと少なくする方法は何か。どうすれば今回の失敗を挽回できるのか」という解決策を見つけ出すためにする反省の仕方をするほうが、ずっと生産的です。
そして、思想家の唐木順三は、「自省、つまり自分自身の内にうまくいかない原因を追究するような反省の仕方をしていると、底なしの泥沼にはまっていく」という言葉を残しています。「これが悪かった」と考えた上で、「こうすれば良くなる」と考える反省の仕方が大切だというのです。
70回目の終戦記念日の今日、15日、我孫子市非核平和記念式典が行われ、市内中学校代表26人が挨拶をして、広島の平和の灯を分火してもらった報告があって、点火がされた。核のない世界が実現するまでこの灯は点火され続ける。
過去はどうやっても変えられない。 変えられないことを、いくら悔やんでも、嘆いても、変わることはない、これは現実だ。未来に向けての反省をし、これからできることを考え実行するしかない。
「原因を問うのではなく、解決策を見つけ出すことに全力を傾けること」、だからこれからのことなら打つ手は無限、解決策を探す人間関係や外交をしていかなくては、21世紀の未来は築けない。
同日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で正午前から開かれ、天皇、皇后両陛下、遺族ら約7000人が参列した。安倍晋三首相は式辞で「戦争の惨禍を決して繰り返さない」と不戦を誓った。天皇陛下は、おことばで「さきの大戦に対する深い反省」について初めて言及された。未来へむけて解決していくのが反省であって、過去はどうしようも変えられない、世界共通認識で一歩一歩、70年から先を平和にむけて英知を絞っていく、決意の時だ。
下手に原因追究を始めると、人生の大切な目的を見失うことになるのです。そのために生きる意欲を失っていくことになりがちなのです。ですから、アドラーは、「原因を問うのではない。解決策を見つけ出すことに全力を傾けるべきだ」と主張するのです。
たとえば、ケンカをしたとします。お互いに、「あなたがそういうことを言うからケンカになったんじゃない」「違う。あなたの性格が悪いから、ケンカになったのよ」と言い合います。しかし、そんなふうにケンカになった「原因」を追究し合っていても無益なのです。 言い争いがますます激しくなっていって、「もうあなたの顔なんて見たくない。絶交だ」というところまでいきかねません。
この時に大切なのは、「ケンカになったら原因を追究する」ことではなく、「どうすれば仲直りできるか。どうすれば今後、もっといい関係でいられるかといった解決策を見つけ出す」ことなのです。つまり、過去より未来を重視するのです。
また、何かに失敗した時、人は、「私が悪かったから、このような結果になったのだ」と反省します。もちろん、反省することは悪いことではありません。ただし、反省することには、いいものと悪いものがあることを知っておくほうが賢明です。
「いい反省」とは、解決策を見つけ出すためにする反省です。
「悪い反省」とは、原因を追究するためにする反省です。
つまり、「私のどこが悪かったから」という反省ばかりしていても、あまり意味がないのです。
自分への自信が失われ、やる気を失っていくだけで、非生産的な精神状態に陥っていくと思います。
むしろ、「今回の失敗で、損失をもっと少なくする方法は何か。どうすれば今回の失敗を挽回できるのか」という解決策を見つけ出すためにする反省の仕方をするほうが、ずっと生産的です。
そして、思想家の唐木順三は、「自省、つまり自分自身の内にうまくいかない原因を追究するような反省の仕方をしていると、底なしの泥沼にはまっていく」という言葉を残しています。「これが悪かった」と考えた上で、「こうすれば良くなる」と考える反省の仕方が大切だというのです。
70回目の終戦記念日の今日、15日、我孫子市非核平和記念式典が行われ、市内中学校代表26人が挨拶をして、広島の平和の灯を分火してもらった報告があって、点火がされた。核のない世界が実現するまでこの灯は点火され続ける。
過去はどうやっても変えられない。 変えられないことを、いくら悔やんでも、嘆いても、変わることはない、これは現実だ。未来に向けての反省をし、これからできることを考え実行するしかない。
「原因を問うのではなく、解決策を見つけ出すことに全力を傾けること」、だからこれからのことなら打つ手は無限、解決策を探す人間関係や外交をしていかなくては、21世紀の未来は築けない。
同日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で正午前から開かれ、天皇、皇后両陛下、遺族ら約7000人が参列した。安倍晋三首相は式辞で「戦争の惨禍を決して繰り返さない」と不戦を誓った。天皇陛下は、おことばで「さきの大戦に対する深い反省」について初めて言及された。未来へむけて解決していくのが反省であって、過去はどうしようも変えられない、世界共通認識で一歩一歩、70年から先を平和にむけて英知を絞っていく、決意の時だ。
2015年08月14日
戦争孤児の救済策はあってなしのごとくだった
70年前。たくさんの子どもたちが空襲などの戦禍で親を突然奪われた。過酷な戦後を生き抜き、小さな目で社会の現実を見つめた。消えていった無数の幼い命の代わりに、重い過去を伝える元戦争孤児たちがいる。
「はよ逃げるんやっ」
焼夷(しょうい)弾の嵐で天井が崩れかけた防空壕(ごう)から強く外へ押し出された。その時の必死な表情が、最後に目にした母の顔となった。
1945年6月5日の神戸大空襲。山田清一郎さん(80)=埼玉県小鹿野町=の母は、崩壊した防空壕に埋もれた。父は3月の空襲で失っており、山田さんは10歳で孤児となった。
「ここに母ちゃんがいる」と思うと離れられず、2日間ほど防空壕の前に座り込んだ。空腹に耐えかねて食べ物をあさり、また戻る。その繰り返しだった。
終戦後も頼る人はいなかった。「拾うか、もらうか、盗むか」。それしか生きる道はなかった。弁当を食べている人の前に手を出す。屋台の客の食べ残しにとびつく。残飯もすくって食べた。
三ノ宮駅近くの焼け跡に壊れた大きな金庫があった。数人の仲間と寝泊まりした。冬場は寒さをしのぐため、汽車に無賃乗車して、行き先もわからぬ車内で眠った。「狩り込み」と呼ばれる取り締まりで捕まったこともある。悪臭がする浮浪児を職員は「一匹、二匹」と数え、裸にしてホースで水をかけた。「ばい菌の塊」「野良犬と同じ」と言われた。なぜ浮浪児になったか、わかっているはずなのに。母の顔を思い出し、涙がこぼれた。
一つ年下のアキラという少年がいた。大阪と神戸の空襲で母と祖母を亡くし、出征した「父ちゃん」が帰る日を待ちわびていた。兄弟のようにいつも一緒だった。
ある日、元町駅近くの店から2人でトマトを盗んだ。店の人に追われ、人混みを抜けて通りに出た瞬間、走ってきた車にアキラがひかれた。車の下でピクリとも動かない。即死だった。真っ赤な血が路上に広がり、つぶれたトマトが転がっていた。
運転していた米兵は、アキラをシートにくるんで車に乗せ、走り去った。声を出すこともできなかった。「アキラを思い出すから、わたしは今もトマトを食べることができません」
46年秋。仲間と一緒に無賃乗車で東京に向かった。母のいた防空壕跡の土をポケットに詰めこんで。
上野駅の地下道に新聞をしいて寝た。同じような子がたくさんいた。新聞売りやモク拾い(たばこの吸い殻集め)などの「仕事」もした。同年代の子が学校に通う姿をみても、何も感じなくなっていた。
残飯にあたり、自らも含め数人が腹痛で転げ回ったこともある。栄養失調による衰弱死や凍死も含め「地下道で子どもが死ぬのは珍しいことではなかった」。名古屋から来た少年が地下道で命を落とした。死の間際、「母ちゃん、母ちゃん」と小さな声で呼んでいたのが忘れられない。
■「戦争は心をゆがめる」、講演で体験語る
今年7月16日。秩父市立吉田中学校で開かれた講演会で、山田さんは生徒たちに戦争孤児の体験を語っていた。
空襲の残酷さもアキラの死も、ありのままに。最後に、受け取る人のない「母への手紙」を読み上げた。
「ありがとう、お母さん。あなたの子どもはここまで生きてきました」
長野県の孤児施設に入り、13歳で3年ぶりに小学校に通った。孤児への差別や偏見は根強かったが、「馬鹿にされたくない」と耐えた。定時制高校をへて23歳で夜間大学に進学。30を超すアルバイトをしながら学び、卒業後、27歳で中学校の教員になった。母やアキラに「ここまで生きてきたよ」と言いたい。その思いが支えだった。
浮浪児だった過去は妻子にも詳しく語ってこなかった。講演などで積極的に伝えるようになったのは、19年前に退職した後のことだ。
本当に混乱した状況では自分と家族を守るので精いっぱい。子ども一人で焼け跡に取り残されていても誰も目を向けない。戦時の人の心の冷たさが今も胸に刻まれている。
「戦争は心をゆがめる。生き残った子どもにも生涯消えない傷を残す」。「野良犬」と呼ばれながら生き抜いた一人の戦争孤児の思いだ。(編集委員・清川卓史)
◇
■戦後の孤児12万人超 公的支援行き渡らず
厚生省(現・厚生労働省)が48年に実施した一斉調査によると、沖縄県を除く全国の孤児総数は12万3511人だった。内訳は、空襲などによる戦災孤児が2万8248人、国外からの引き揚げ中などに親を失った引き揚げ孤児が1万1351人、病死などによる一般孤児が8万1266人などとなっている。
政府は45年9月、養子縁組あっせんなどを柱とする「戦災孤児等保護対策要綱」を決定。文部省(現・文部科学省)は学童疎開中に孤児になった児童らを対象に「合宿教育所」を各地に設けた。だが、街頭には浮浪児があふれ、一部の民間施設は私財を投じて救済に奔走した。
戦争孤児問題に詳しい立教大学の前田一男教授(日本近代教育史)は「国の孤児救済策は形だけはあったが、実際はほとんど機能しなかった。施設不足も深刻で食糧事情や待遇も劣悪。多くの孤児に公的支援は届かなかった」と指摘。「自己責任で生きることを強いられ、犯罪まがいの行為に手を染めるしかなかった孤児もいた」とも語った。
出典:
朝日新聞 7月28日
「はよ逃げるんやっ」
焼夷(しょうい)弾の嵐で天井が崩れかけた防空壕(ごう)から強く外へ押し出された。その時の必死な表情が、最後に目にした母の顔となった。
1945年6月5日の神戸大空襲。山田清一郎さん(80)=埼玉県小鹿野町=の母は、崩壊した防空壕に埋もれた。父は3月の空襲で失っており、山田さんは10歳で孤児となった。
「ここに母ちゃんがいる」と思うと離れられず、2日間ほど防空壕の前に座り込んだ。空腹に耐えかねて食べ物をあさり、また戻る。その繰り返しだった。
終戦後も頼る人はいなかった。「拾うか、もらうか、盗むか」。それしか生きる道はなかった。弁当を食べている人の前に手を出す。屋台の客の食べ残しにとびつく。残飯もすくって食べた。
三ノ宮駅近くの焼け跡に壊れた大きな金庫があった。数人の仲間と寝泊まりした。冬場は寒さをしのぐため、汽車に無賃乗車して、行き先もわからぬ車内で眠った。「狩り込み」と呼ばれる取り締まりで捕まったこともある。悪臭がする浮浪児を職員は「一匹、二匹」と数え、裸にしてホースで水をかけた。「ばい菌の塊」「野良犬と同じ」と言われた。なぜ浮浪児になったか、わかっているはずなのに。母の顔を思い出し、涙がこぼれた。
一つ年下のアキラという少年がいた。大阪と神戸の空襲で母と祖母を亡くし、出征した「父ちゃん」が帰る日を待ちわびていた。兄弟のようにいつも一緒だった。
ある日、元町駅近くの店から2人でトマトを盗んだ。店の人に追われ、人混みを抜けて通りに出た瞬間、走ってきた車にアキラがひかれた。車の下でピクリとも動かない。即死だった。真っ赤な血が路上に広がり、つぶれたトマトが転がっていた。
運転していた米兵は、アキラをシートにくるんで車に乗せ、走り去った。声を出すこともできなかった。「アキラを思い出すから、わたしは今もトマトを食べることができません」
46年秋。仲間と一緒に無賃乗車で東京に向かった。母のいた防空壕跡の土をポケットに詰めこんで。
上野駅の地下道に新聞をしいて寝た。同じような子がたくさんいた。新聞売りやモク拾い(たばこの吸い殻集め)などの「仕事」もした。同年代の子が学校に通う姿をみても、何も感じなくなっていた。
残飯にあたり、自らも含め数人が腹痛で転げ回ったこともある。栄養失調による衰弱死や凍死も含め「地下道で子どもが死ぬのは珍しいことではなかった」。名古屋から来た少年が地下道で命を落とした。死の間際、「母ちゃん、母ちゃん」と小さな声で呼んでいたのが忘れられない。
■「戦争は心をゆがめる」、講演で体験語る
今年7月16日。秩父市立吉田中学校で開かれた講演会で、山田さんは生徒たちに戦争孤児の体験を語っていた。
空襲の残酷さもアキラの死も、ありのままに。最後に、受け取る人のない「母への手紙」を読み上げた。
「ありがとう、お母さん。あなたの子どもはここまで生きてきました」
長野県の孤児施設に入り、13歳で3年ぶりに小学校に通った。孤児への差別や偏見は根強かったが、「馬鹿にされたくない」と耐えた。定時制高校をへて23歳で夜間大学に進学。30を超すアルバイトをしながら学び、卒業後、27歳で中学校の教員になった。母やアキラに「ここまで生きてきたよ」と言いたい。その思いが支えだった。
浮浪児だった過去は妻子にも詳しく語ってこなかった。講演などで積極的に伝えるようになったのは、19年前に退職した後のことだ。
本当に混乱した状況では自分と家族を守るので精いっぱい。子ども一人で焼け跡に取り残されていても誰も目を向けない。戦時の人の心の冷たさが今も胸に刻まれている。
「戦争は心をゆがめる。生き残った子どもにも生涯消えない傷を残す」。「野良犬」と呼ばれながら生き抜いた一人の戦争孤児の思いだ。(編集委員・清川卓史)
◇
■戦後の孤児12万人超 公的支援行き渡らず
厚生省(現・厚生労働省)が48年に実施した一斉調査によると、沖縄県を除く全国の孤児総数は12万3511人だった。内訳は、空襲などによる戦災孤児が2万8248人、国外からの引き揚げ中などに親を失った引き揚げ孤児が1万1351人、病死などによる一般孤児が8万1266人などとなっている。
政府は45年9月、養子縁組あっせんなどを柱とする「戦災孤児等保護対策要綱」を決定。文部省(現・文部科学省)は学童疎開中に孤児になった児童らを対象に「合宿教育所」を各地に設けた。だが、街頭には浮浪児があふれ、一部の民間施設は私財を投じて救済に奔走した。
戦争孤児問題に詳しい立教大学の前田一男教授(日本近代教育史)は「国の孤児救済策は形だけはあったが、実際はほとんど機能しなかった。施設不足も深刻で食糧事情や待遇も劣悪。多くの孤児に公的支援は届かなかった」と指摘。「自己責任で生きることを強いられ、犯罪まがいの行為に手を染めるしかなかった孤児もいた」とも語った。
出典:
朝日新聞 7月28日
2015年08月13日
再燃する、日米の不都合な真実
日米安保は、いわゆる日米同盟の根幹をなす条約であり、条約には日米地位協定が付属している。形式的には1951年(昭和26年)に署名され翌1952年(昭和27年)に発効した旧安保条約の失効により、あらたな条約として締約批准されたが、実質的には安保条約の改定とみなされている。この条約に基づき、占領時と同様に米軍の日本駐留を引き続き認め、沖縄の占領状況も継続された。60年安保条約、新安保条約などともいわれる。新・旧条約を特段区別しない場合の通称は日米安全保障条約、日米安保条約との表記し、核の持ち込み、様々な密約があったことも囁かれ、最近で常に国防の通信が占領後から傍受される制度のまま来ていたことも知られるようになっている。ウイキリーク暴露以前から、日本の情報が米国に入手される構造は知る人ぞ知るということであり、オバマ大統領の陳謝の上に現在も調査中だとされる。
このいきさつを振り返ると第二次岸信介内閣で、新日米安全保障条約のために衆議院の会期延長と条約批准案の単独採決をおこなった。この直後の1960年(昭和35年)6月7日、朝日新聞に「岸信介君に与える」と題した手記を発表したのが、故郷山口の旧友・我妻栄(であり、この岸信介首相の退陣を促した文書の影響もあり、条約批准書交換の日の1960年6月23日、岸内閣は総辞職した。
岸信介(のぶすけ)は、当時に満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣(第56・57代)などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。
東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任。建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ2キ3スケ(=名前の樹と介(スがつく人物で、筆頭は東条英機)の一人として、満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人ともA級戦犯容疑者として逮捕された。鮎川・岸の2人は不起訴となったが、東條・星野・松岡の3人は起訴された。東京裁判において、松岡は公判中に病死し、東條には死刑、星野には終身刑の判決が下った(星野は後に釈放)。鮎川義介・岸信介・松岡洋右の間には姻戚関係もある。旧姓佐藤、ノーべル平和賞を得た佐藤栄作は実弟。安倍信三の祖父にあたる。
戦中の東條内閣では、商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望される人物となっており、開戦時の重要閣僚であったことから極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留された。しかし、即時停戦講和を求めて東条内閣を閣内不一致で倒閣した最大の功労者であることなどの事情が考慮されて不起訴のまま釈放された。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、東西冷戦の時期において、米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともにそれも解除される。
吉田茂と対立して派閥を除名、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。すると石橋内閣にて外務大臣に就任、首班石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職となると、後任の内閣総理大臣に指名、当時としては党内の決まりが宴会できまるなどの密室性のなかで、政界の金と闇将軍がうごくといわる時代をつくっていった。日米安保体では、60年安保を制して戦後の米従属関係を揺るぎなくした一方で、首相退任後も政界に影響力を持ち、吉田内閣時のGHQによる押しつけ憲法だとの説から自主憲法制定運動を牽引した。
当時にも新条約では集団的自衛権を前提とした(形式としては)双務的体裁を採用しており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力することを規定した。新安保条約はその期限を10年とし、以後は締結国からの1年前の予告により一方的に破棄出来ると定めた。締結後10年が経過した1970年(昭和45年)以後も一度も破棄されず、55年体制の政治バランスと所得倍増経済の戦後復興で、沖縄の占領はつづき、彼の地では米ドルが使われた。
沖縄へのビザの必要な外地の悲哀を受けるまま、地位協定の条件より厳しい、米兵の違法も治外法権に守られて、沖縄の人心の安全も図りにくい状況が続いていた。新安保条約は、同時に締結された日米地位協定によりその細目を定めていあが、日米地位協定では日本がアメリカ軍に施設や地域を提供する具体的な方法を定めるほか、その施設内での特権や税金の免除、兵士・軍属などへの裁判権などを定めていた。
旧安保条約が締結された当時、日本の独自防衛力は事実上の空白状態であり、米国の要請で警察予備隊の創設が1950年(昭和25年)された。同年に朝鮮戦争が勃発しており、1952年(昭和27年)10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組されて発展的解消をした。当然ながら、沖縄基地の米軍は朝鮮半島に日常茶飯事に出撃しており、アメリカは出撃拠点ともなる後方基地の安全と補給を確実にするためにも日米安保体制は継続すべき必然性があった。沖縄県の在日米軍基地が日本の国土面積に占める割合は1割以下だが、在日米軍基地面積の7割以上(ただし自衛隊との共用地を除いた米軍専用地の割合)が沖縄県に集中しており、在日米軍基地近隣の騒音問題、住宅街隣接は他国にない危険性があると長年の指摘である。
1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が停戦したが、その後もベトナム戦争とひきつづき東西の冷戦構造のもとで、日本は韓国・中華民国(台湾)と共に、陸軍長官ロイヤルの唱えた「封じ込め政策」に基づく反共主義の砦、防波堤として、ソ連・中華人民共和国・北朝鮮に対峙してきた。軍事的にだけではなく、経済、政治において米国が風を引けば日本は肺炎になるとも揶揄される米国追従を、特に世界のなかに認識されてきた。そのため、日本の社会科の歴史は近現代史は、実際には授業で詳細に取り上げられることはないままだった。留学先の米国で、原爆を落とした国をどう思うかと聞かれて、絶句した日本人学生は、投下した相手が米国だとは学ぶことがなく、また中国に留学していた学生は、夏休みにホームステイ先で、中国を植民地にしていた日本兵が多数の殺戮を行ったことを初めて知って懺悔の気持ちに泣きじゃくったという、認識のずれも知られてきた。教科書問題、政治家の舌禍事件もたびたび取り上げられるが、戦犯と言われる多くが国家の中枢に帰り咲いていることは、様々な不本意な発言の元凶となっていたと思われる。
岸・佐藤兄弟は、ともかく、平和憲法を遵守を建前に、沖縄を日本に返還、かつ侵略戦争の愚を認めていたのである。孫にあたる安倍首相は、どのような賢明な指示を出したのか、70年談話が閣議決定後に明らかにされる。
参照:
Wikipedia
(歴史解釈は一つでなく、ご自身でも様々な角度で情報精査ください)
このいきさつを振り返ると第二次岸信介内閣で、新日米安全保障条約のために衆議院の会期延長と条約批准案の単独採決をおこなった。この直後の1960年(昭和35年)6月7日、朝日新聞に「岸信介君に与える」と題した手記を発表したのが、故郷山口の旧友・我妻栄(であり、この岸信介首相の退陣を促した文書の影響もあり、条約批准書交換の日の1960年6月23日、岸内閣は総辞職した。
岸信介(のぶすけ)は、当時に満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣(第56・57代)などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。
東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任。建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ2キ3スケ(=名前の樹と介(スがつく人物で、筆頭は東条英機)の一人として、満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人ともA級戦犯容疑者として逮捕された。鮎川・岸の2人は不起訴となったが、東條・星野・松岡の3人は起訴された。東京裁判において、松岡は公判中に病死し、東條には死刑、星野には終身刑の判決が下った(星野は後に釈放)。鮎川義介・岸信介・松岡洋右の間には姻戚関係もある。旧姓佐藤、ノーべル平和賞を得た佐藤栄作は実弟。安倍信三の祖父にあたる。
戦中の東條内閣では、商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望される人物となっており、開戦時の重要閣僚であったことから極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留された。しかし、即時停戦講和を求めて東条内閣を閣内不一致で倒閣した最大の功労者であることなどの事情が考慮されて不起訴のまま釈放された。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、東西冷戦の時期において、米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともにそれも解除される。
吉田茂と対立して派閥を除名、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。すると石橋内閣にて外務大臣に就任、首班石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職となると、後任の内閣総理大臣に指名、当時としては党内の決まりが宴会できまるなどの密室性のなかで、政界の金と闇将軍がうごくといわる時代をつくっていった。日米安保体では、60年安保を制して戦後の米従属関係を揺るぎなくした一方で、首相退任後も政界に影響力を持ち、吉田内閣時のGHQによる押しつけ憲法だとの説から自主憲法制定運動を牽引した。
当時にも新条約では集団的自衛権を前提とした(形式としては)双務的体裁を採用しており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力することを規定した。新安保条約はその期限を10年とし、以後は締結国からの1年前の予告により一方的に破棄出来ると定めた。締結後10年が経過した1970年(昭和45年)以後も一度も破棄されず、55年体制の政治バランスと所得倍増経済の戦後復興で、沖縄の占領はつづき、彼の地では米ドルが使われた。
沖縄へのビザの必要な外地の悲哀を受けるまま、地位協定の条件より厳しい、米兵の違法も治外法権に守られて、沖縄の人心の安全も図りにくい状況が続いていた。新安保条約は、同時に締結された日米地位協定によりその細目を定めていあが、日米地位協定では日本がアメリカ軍に施設や地域を提供する具体的な方法を定めるほか、その施設内での特権や税金の免除、兵士・軍属などへの裁判権などを定めていた。
旧安保条約が締結された当時、日本の独自防衛力は事実上の空白状態であり、米国の要請で警察予備隊の創設が1950年(昭和25年)された。同年に朝鮮戦争が勃発しており、1952年(昭和27年)10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組されて発展的解消をした。当然ながら、沖縄基地の米軍は朝鮮半島に日常茶飯事に出撃しており、アメリカは出撃拠点ともなる後方基地の安全と補給を確実にするためにも日米安保体制は継続すべき必然性があった。沖縄県の在日米軍基地が日本の国土面積に占める割合は1割以下だが、在日米軍基地面積の7割以上(ただし自衛隊との共用地を除いた米軍専用地の割合)が沖縄県に集中しており、在日米軍基地近隣の騒音問題、住宅街隣接は他国にない危険性があると長年の指摘である。
1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が停戦したが、その後もベトナム戦争とひきつづき東西の冷戦構造のもとで、日本は韓国・中華民国(台湾)と共に、陸軍長官ロイヤルの唱えた「封じ込め政策」に基づく反共主義の砦、防波堤として、ソ連・中華人民共和国・北朝鮮に対峙してきた。軍事的にだけではなく、経済、政治において米国が風を引けば日本は肺炎になるとも揶揄される米国追従を、特に世界のなかに認識されてきた。そのため、日本の社会科の歴史は近現代史は、実際には授業で詳細に取り上げられることはないままだった。留学先の米国で、原爆を落とした国をどう思うかと聞かれて、絶句した日本人学生は、投下した相手が米国だとは学ぶことがなく、また中国に留学していた学生は、夏休みにホームステイ先で、中国を植民地にしていた日本兵が多数の殺戮を行ったことを初めて知って懺悔の気持ちに泣きじゃくったという、認識のずれも知られてきた。教科書問題、政治家の舌禍事件もたびたび取り上げられるが、戦犯と言われる多くが国家の中枢に帰り咲いていることは、様々な不本意な発言の元凶となっていたと思われる。
岸・佐藤兄弟は、ともかく、平和憲法を遵守を建前に、沖縄を日本に返還、かつ侵略戦争の愚を認めていたのである。孫にあたる安倍首相は、どのような賢明な指示を出したのか、70年談話が閣議決定後に明らかにされる。
参照:
Wikipedia
(歴史解釈は一つでなく、ご自身でも様々な角度で情報精査ください)
2015年08月12日
「戦争ダメ」言えない、戦争へ向かう時代の法律
70年前に終わった戦争は様々な教訓を残した。その一つが自由に考え、語り、表現することの大切さだった。戦時下では、不用意な言動を慎まないと危険思想として逮捕、拷問などを受ける人は、少なくなかったとされる。当地に住まいをもった柳宗悦夫妻にも、論文の発禁処分にあうことがあった。思想問題で帝大大学教授が逮捕、免職ともなった森戸事件も、夫妻が我孫子を去る前年(1920)に起きていた。
安全保障関連法案など現状ををどうとらえるのか、大阪で存命の106歳、西川治郎さんのインタビューがある。
■激しい拷問を受けた経験
――西川さんは、白樺の人々が我孫子にきた1914年の5年前(1909)に、今の三重県南伊勢町に生まれた。
8人きょうだいの6番目に生まれました。三男で、13歳のときに丁稚(でっち)奉公に出た大阪の商店主がクリスチャン。15歳で洗礼を受け、「将来は牧師になりたい」と思っていました。
――洗礼の翌年の25(大正14)年、治安維持法が施行。軍部が国政に影響を及ぼすようになり、31(昭和6)年には満州事変が勃発する。
中国への侵略戦争を容認してしまい、世の中がおかしくなっていると思いました。だが、特高(特別高等警察)に逮捕・拷問されるのが怖くて、公の場で「戦争反対」なんて言える雰囲気じゃありませんでした。そんなとき、「日本戦闘的無神論者同盟」という共産主義の影響を受けた団体と出会い、東京などで軍国主義を批判するビラ配りをしていました。
――34(昭和9)年1月20日、特高に逮捕された。
特高が夜遅く、東京・浅草の下宿先に十手のようなものを持って来ました。同じ下宿の人に案内されて。逮捕の理由は聞かされず、令状も見せられません。妻と一緒に警察署へ連行されて、「天皇陛下に反対するやつだから、誤って殺しても、おれ(取調官)は罪にならない」と言われ、拷問も受けました。
腰掛けているイスに手錠で固定され、動けない。そのまま太い木の棒で、太ももを繰り返し殴られる。ロウソクの炎で鼻をあぶられたこともありました。
――西川さんの鼻には、今も黒ずんだ痕が残る。
取り調べでは、ちゃんとした調書を取られることはなく、なぜ、罪に問われるのかも分からないまま起訴されました。勾留期間は約11カ月。治安維持法違反の罪で懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けました。
■理不尽、あきらめた時代
――判決後、大阪へ。兄が営む製粉会社で働き始めた後の40(昭和15)年、再び逮捕される。太平洋戦争が始まる前年だった。
同じ頃、共産主義グループの中心メンバーが刑期を終えていました。そのメンバーらと私が組織を作ると思ったのか、東京の特高が大阪までついてきたようでした。組織は作っていませんでしたが、友人にもらった勉強会のビラを持っていたとして逮捕されました。
大阪の特高には拷問されませんでしたが、留置場は不潔でした。便所はなく、房に開いた穴で用を足しました。判決は懲役2年の実刑。42(昭和17)年に刑務所を出た時、社会はどんな理不尽なことでも「戦争だからしゃあない」という、あきらめるしかない時代になっていました。
――姉の長男(当時24)が出征。30代半ばの西川さんにも召集令状が届く。
出征することは名誉なことで、涙を見せてはいけないという空気。長男を見送った姉は1人で泣いていました。私は三重県内の連隊へ。長い勾留生活で体力が落ち、心臓も弱っていました。「医者から走るなと言われている」と上官に言うと、家に帰されました。
45(昭和20)年の8月14日、大阪の淀屋橋で「広島と長崎に新型爆弾が投下され、もう勝ち目はない。天皇陛下に戦争を終わらせるように訴えよう」というビラを拾いました。翌日、電車内での将校の話から戦争が終わったと知りました。もう空襲はないと、ほっとした一方、「これから日本はどうなるのか」という不安が大きくなりました。
■かつての日本に似てきた
――終戦から2カ月後の45年10月に治安維持法が廃止され、国民主権、基本的人権、戦争放棄をうたい、表現の自由などを保障する憲法が47年5月に施行された。
平和な世界になる、と安心しました。ところが、朝鮮戦争(50年6月〜53年7月)が始まる。それを機に警察予備隊が作られ、自衛隊になってしまった。
――自衛隊が他国とともに海外で戦う集団的自衛権の行使について、歴代の内閣は「憲法9条に反する」として認めてこなかった。安倍政権はこの解釈を変えて、新たな安全保障法制の関連法案成立をめざす。
安倍晋三首相は真剣に平和を願っているのでしょうか。「広島原爆の日」の6日、式典で「非核三原則」に触れませんでした。ありえないと思います。
治安維持法の被害者に謝罪や賠償を求める運動に携わってきましたが、特定秘密保護法がつくられ、今度は安保法案。どこか、戦争をしたかつての日本に似てきたような気がします。この70年間で、こんなに心配な気分で終戦の日を迎えるのは初めてです。
でも、希望はあります。今は「戦争はダメだ」と声を上げることができる。学生や若い母親たちもデモ行進をしています。106年間生きてきた証しとして、二度と戦争の時代に戻らないよう、これからも機会があれば体験を語っていきたい。(聞き手・増谷文生)
◇
〈治安維持法〉 共産主義者のほか、日本の植民地支配や戦争に反対する文化人らの活動を取り締まった法律。1925(大正14)年に施行され、厳罰化する法改正が繰り返され、逮捕者は数十万人に上ったと言われている。終戦後の45年10月に廃止。
〈満州事変〉 1931(昭和6)年9月に満州(現・中国東北部)の奉天(現・瀋陽)郊外で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。「中国軍の犯行」とでっち上げ、戦闘は満州全土に拡大していった。
〈特定秘密保護法〉 防衛相や外相ら行政機関の長が安全保障に関わる防衛や外交など4分野の情報を「特定秘密」に指定。これを漏らした公務員や民間業者に最高懲役10年の罰則を科す法律。拡大解釈され、「知る権利」を妨げるとの指摘もある中、昨年12月に施行された。
出典:朝日新聞デジタル 8月12日
安全保障関連法案など現状ををどうとらえるのか、大阪で存命の106歳、西川治郎さんのインタビューがある。
■激しい拷問を受けた経験
――西川さんは、白樺の人々が我孫子にきた1914年の5年前(1909)に、今の三重県南伊勢町に生まれた。
8人きょうだいの6番目に生まれました。三男で、13歳のときに丁稚(でっち)奉公に出た大阪の商店主がクリスチャン。15歳で洗礼を受け、「将来は牧師になりたい」と思っていました。
――洗礼の翌年の25(大正14)年、治安維持法が施行。軍部が国政に影響を及ぼすようになり、31(昭和6)年には満州事変が勃発する。
中国への侵略戦争を容認してしまい、世の中がおかしくなっていると思いました。だが、特高(特別高等警察)に逮捕・拷問されるのが怖くて、公の場で「戦争反対」なんて言える雰囲気じゃありませんでした。そんなとき、「日本戦闘的無神論者同盟」という共産主義の影響を受けた団体と出会い、東京などで軍国主義を批判するビラ配りをしていました。
――34(昭和9)年1月20日、特高に逮捕された。
特高が夜遅く、東京・浅草の下宿先に十手のようなものを持って来ました。同じ下宿の人に案内されて。逮捕の理由は聞かされず、令状も見せられません。妻と一緒に警察署へ連行されて、「天皇陛下に反対するやつだから、誤って殺しても、おれ(取調官)は罪にならない」と言われ、拷問も受けました。
腰掛けているイスに手錠で固定され、動けない。そのまま太い木の棒で、太ももを繰り返し殴られる。ロウソクの炎で鼻をあぶられたこともありました。
――西川さんの鼻には、今も黒ずんだ痕が残る。
取り調べでは、ちゃんとした調書を取られることはなく、なぜ、罪に問われるのかも分からないまま起訴されました。勾留期間は約11カ月。治安維持法違反の罪で懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けました。
■理不尽、あきらめた時代
――判決後、大阪へ。兄が営む製粉会社で働き始めた後の40(昭和15)年、再び逮捕される。太平洋戦争が始まる前年だった。
同じ頃、共産主義グループの中心メンバーが刑期を終えていました。そのメンバーらと私が組織を作ると思ったのか、東京の特高が大阪までついてきたようでした。組織は作っていませんでしたが、友人にもらった勉強会のビラを持っていたとして逮捕されました。
大阪の特高には拷問されませんでしたが、留置場は不潔でした。便所はなく、房に開いた穴で用を足しました。判決は懲役2年の実刑。42(昭和17)年に刑務所を出た時、社会はどんな理不尽なことでも「戦争だからしゃあない」という、あきらめるしかない時代になっていました。
――姉の長男(当時24)が出征。30代半ばの西川さんにも召集令状が届く。
出征することは名誉なことで、涙を見せてはいけないという空気。長男を見送った姉は1人で泣いていました。私は三重県内の連隊へ。長い勾留生活で体力が落ち、心臓も弱っていました。「医者から走るなと言われている」と上官に言うと、家に帰されました。
45(昭和20)年の8月14日、大阪の淀屋橋で「広島と長崎に新型爆弾が投下され、もう勝ち目はない。天皇陛下に戦争を終わらせるように訴えよう」というビラを拾いました。翌日、電車内での将校の話から戦争が終わったと知りました。もう空襲はないと、ほっとした一方、「これから日本はどうなるのか」という不安が大きくなりました。
■かつての日本に似てきた
――終戦から2カ月後の45年10月に治安維持法が廃止され、国民主権、基本的人権、戦争放棄をうたい、表現の自由などを保障する憲法が47年5月に施行された。
平和な世界になる、と安心しました。ところが、朝鮮戦争(50年6月〜53年7月)が始まる。それを機に警察予備隊が作られ、自衛隊になってしまった。
――自衛隊が他国とともに海外で戦う集団的自衛権の行使について、歴代の内閣は「憲法9条に反する」として認めてこなかった。安倍政権はこの解釈を変えて、新たな安全保障法制の関連法案成立をめざす。
安倍晋三首相は真剣に平和を願っているのでしょうか。「広島原爆の日」の6日、式典で「非核三原則」に触れませんでした。ありえないと思います。
治安維持法の被害者に謝罪や賠償を求める運動に携わってきましたが、特定秘密保護法がつくられ、今度は安保法案。どこか、戦争をしたかつての日本に似てきたような気がします。この70年間で、こんなに心配な気分で終戦の日を迎えるのは初めてです。
でも、希望はあります。今は「戦争はダメだ」と声を上げることができる。学生や若い母親たちもデモ行進をしています。106年間生きてきた証しとして、二度と戦争の時代に戻らないよう、これからも機会があれば体験を語っていきたい。(聞き手・増谷文生)
◇
〈治安維持法〉 共産主義者のほか、日本の植民地支配や戦争に反対する文化人らの活動を取り締まった法律。1925(大正14)年に施行され、厳罰化する法改正が繰り返され、逮捕者は数十万人に上ったと言われている。終戦後の45年10月に廃止。
〈満州事変〉 1931(昭和6)年9月に満州(現・中国東北部)の奉天(現・瀋陽)郊外で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。「中国軍の犯行」とでっち上げ、戦闘は満州全土に拡大していった。
〈特定秘密保護法〉 防衛相や外相ら行政機関の長が安全保障に関わる防衛や外交など4分野の情報を「特定秘密」に指定。これを漏らした公務員や民間業者に最高懲役10年の罰則を科す法律。拡大解釈され、「知る権利」を妨げるとの指摘もある中、昨年12月に施行された。
出典:朝日新聞デジタル 8月12日
2015年08月11日
強制連行の真偽が問われた朝日・従軍慰安婦問題、その後の一年
韓国の朴槿恵大統領(63)の実妹、朴槿令(クンリョン、61)氏が7月30日に日本から帰国した際に、ソウルの金浦空港で韓国メディアの取材に答えた。
聯合ニュースによると、槿令氏は「天皇が頭を下げているのに、なぜ(日本の)首相が替わるたびに謝れと言うのか」と韓国の対応を批判。「日本の神社参拝は子孫が先祖を訪ねていくものであり、100年前の先祖が悪いことをしたから子孫が参拝をしないというのは人の道にもとる」と日本人の靖国神社参拝を擁護、「韓国がそれに関与しようとするのは内政干渉である」と主張した。「日本は韓国の経済発展の基になることをたくさんしてくれたのに、被害意識だけ抱いていては国益にならない」と主張した。「北東アジアの平和実現のために日本は親しくつきあわなければならない隣国であり、解放前の“親日”と解放後の“親日”では概念が違う」と強調した。
また、慰安婦問題については、「元慰安婦をはじめ苦痛を受けた方々に対しては、韓国国民が国内で面倒を見なければならない」と述べた。
日韓の重要課題になっている従軍慰安婦の問題を最初に報じたとされる元朝日記者、植村隆氏が同日に産経新聞のインタビューに応じ、次のように話した。
平成3年8月11日付朝日朝刊社会面(大阪本社版)で、元韓国人慰安婦だと初めて名乗り出た金学順(キム・ハクスン)氏(記事では匿名)の証言を署名入りで韓国メディアに先んじて報じ、その後の問題を錯誤させた人物だ。
昨年春に退社し、現在は非常勤講師を務めるが、記事をめぐって大学や家族らへの脅迫が続いたため今年1月、過去に記事を批判してきた西岡氏らを名誉毀損で訴える事になった。
「事実は金さん本人が女子挺身隊の名で連行されたのではないのに、『女子挺身隊』と『連行』という言葉の持つ一般的なイメージから、強制的に連行されたという印象を与える」「安易かつ不用意な記載であり、読者の誤解を招く」と、平成3年8月11日の植村氏の記事に始まった日韓の慰安婦問題の誤解について、昨年来の朝日新聞内部の調査から謝罪し、朝日の第三者委報告書はこう断じた。
植村氏は記事で「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」のうちの一人だと金氏を紹介した。今回の産経新聞の取材に対し、植村氏はこの記事は韓国挺身隊問題対策協議会で一度だけ聞かせてもらったテープを基に同会から背景説明などを受けて書いたと、事実関係を説明した。しかし、テープについて「僕は持っていない」と語った。そのテープを聞いた時点では、女性の名前は知らされなかったという。「女子挺身隊」という言葉が出てきたかどうかに関しては、今では「定かじゃない」と答えた。
その後、この問題は記事が出た直後、金氏の経歴をめぐる異なる事実関係が明らかになって、複雑化し
た。金氏は、3日後の14日になると実名を明かしてソウルで記者会見を開いた。翌15日、韓国紙ハンギョレは「母親によって14歳の時に平壌のキーセン(妓生)の検番に売られ、検番の養父に連れられていった」と報じた。金氏らが12月に東京地裁に起こした賠償訴訟の訴状も、金氏の経歴に関し「養父に連れられて中国へ渡った」とあり、「挺身隊の名で連行された」とは記載していない。しかし、韓国内の日本への怒号の叫びは大きくなっていった。一時期、日本男性の間では、韓国に旅行に行くといえばキーセン・ツアーだと思われるくらいに横行して、世界的にもひんしゅくを買って、学会などの指摘がでるほど、途上国問題や南北格差の実態があった。
こうした実態もあってからか、朝日新聞では戦争責任を追うことになる。戦前は、朝日も戦争や植民地を美化した報道をしていた。戦後は植民地支配に対する反省と謝罪、おわび、そういう気持ちが朝日のジャーナリズムの柱の一つとなっていた。大阪は在日コリアンが多いため、植村氏はそのど真ん中に住んでいて、在日コリアンの人権問題を担当した流れで慰安婦問題を取材した。朝日新聞がやってきた侵略戦争の反省を伝えようという作業の一つだった。早い段階で(現代史家の)秦郁彦さんから、主だった二人の主張に対して疑問が呈された。今回に至るまでに訂正するまでに時間がかかったことで、日韓関係に大きな誤解のしこりが出来た。
「朝日新聞の用語解説によれば『朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる』で、西岡力・東京基督教大学教授の4年の論文で数についての批判されたからね。秦教授は2万数千人と見積っていたからだ、じゃあ2万人だったら問題ないのかということですよね。数の問題は僕が答えるべき話ではないですが。」金さんの件で、話が表に噴出したが、金さんについては連行といっても、親から身売りされたのが実態だった。それを実際に強制連行された女性たちは、表に顔を出して主張してはいなかったということで、事実無根ではないということだ。戦争という事態において、朝鮮戦争において韓国政府が女性たちを慰安婦として送っていたからだ。ロシアしかり、米国しかり、戦場、大災害の被災地で女性を貶める状況が作られやすいのは国を限った事ではない。そこを変えなくてはいけないと政治家は言わないのだ。旧来の政治家は、女性たちを要求し、もしくは、あてがう事で交渉を有利にしてきた歴史の裏事実だ。
朝日は昨年8月の検証記事において、金氏が挺身隊の名で連行されたかどうかについては見解を示さなかった。その後、「この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません」との「おことわり」をデータベース上に追記。事実上、誤報を認めた。
植村氏は第三者委の指摘について「強制的に連行されたような印象を与えるということだが、印象ではなく『強制連行』(という表現)で伝えている他メディアがあることにも触れてほしかった」と語った。「植村が捏造記者じゃないことが報告書からも分かる。そこを分かってもらえるよう強調したい」とした。
朝日の第三者委報告書は同じ年に、植村氏が金氏について書いたもう一つの署名記事も取り上げた。12月25日付朝日新聞大阪本社版の「日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」の記事だ。
この記事は1カ月前の11月25日、植村氏が高木健一弁護士らによる金氏へのヒアリングに同行した際に録音したテープを基に書いたものだが、金氏が12月6日に起こした賠償訴訟の訴状にも記載されたキーセン歴が書かれていなかった。
独立検証委は「金さんは、当時に吉田清治がフィクションを交えて主張していた女子挺身隊の名での強制連行された被害者であるかのようなイメージ(錯覚)を作り出したように、大きな役割を果たした」との見解を示す。
一方で、植村氏の韓国人の義母は当時、金氏らを原告とする賠償訴訟を支援した太平洋戦争犠牲者遺族会の幹部だった。植村氏は、挺身隊=慰安婦強制連行の裁判を支援する義理のお母さんの関係者という立場で、原告に関する記事を載せることについて逡巡はなかったのかという質問に、「結婚する前からずっと、この問題を取材してきた。韓国人の家族がいるために書いたわけじゃない」と述べた。
日韓国交正常化五十周年、日本の敗戦の日は韓国の独立記念日(光復節)とされる。新しい時代を歩み出す努力をつづけることから始まるのだ。
参照;
産経新聞 8月4日
産経デジタル 2014/7/15 韓国政府による米軍慰安婦から怒りの声
聯合ニュースによると、槿令氏は「天皇が頭を下げているのに、なぜ(日本の)首相が替わるたびに謝れと言うのか」と韓国の対応を批判。「日本の神社参拝は子孫が先祖を訪ねていくものであり、100年前の先祖が悪いことをしたから子孫が参拝をしないというのは人の道にもとる」と日本人の靖国神社参拝を擁護、「韓国がそれに関与しようとするのは内政干渉である」と主張した。「日本は韓国の経済発展の基になることをたくさんしてくれたのに、被害意識だけ抱いていては国益にならない」と主張した。「北東アジアの平和実現のために日本は親しくつきあわなければならない隣国であり、解放前の“親日”と解放後の“親日”では概念が違う」と強調した。
また、慰安婦問題については、「元慰安婦をはじめ苦痛を受けた方々に対しては、韓国国民が国内で面倒を見なければならない」と述べた。
日韓の重要課題になっている従軍慰安婦の問題を最初に報じたとされる元朝日記者、植村隆氏が同日に産経新聞のインタビューに応じ、次のように話した。
平成3年8月11日付朝日朝刊社会面(大阪本社版)で、元韓国人慰安婦だと初めて名乗り出た金学順(キム・ハクスン)氏(記事では匿名)の証言を署名入りで韓国メディアに先んじて報じ、その後の問題を錯誤させた人物だ。
昨年春に退社し、現在は非常勤講師を務めるが、記事をめぐって大学や家族らへの脅迫が続いたため今年1月、過去に記事を批判してきた西岡氏らを名誉毀損で訴える事になった。
「事実は金さん本人が女子挺身隊の名で連行されたのではないのに、『女子挺身隊』と『連行』という言葉の持つ一般的なイメージから、強制的に連行されたという印象を与える」「安易かつ不用意な記載であり、読者の誤解を招く」と、平成3年8月11日の植村氏の記事に始まった日韓の慰安婦問題の誤解について、昨年来の朝日新聞内部の調査から謝罪し、朝日の第三者委報告書はこう断じた。
植村氏は記事で「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」のうちの一人だと金氏を紹介した。今回の産経新聞の取材に対し、植村氏はこの記事は韓国挺身隊問題対策協議会で一度だけ聞かせてもらったテープを基に同会から背景説明などを受けて書いたと、事実関係を説明した。しかし、テープについて「僕は持っていない」と語った。そのテープを聞いた時点では、女性の名前は知らされなかったという。「女子挺身隊」という言葉が出てきたかどうかに関しては、今では「定かじゃない」と答えた。
その後、この問題は記事が出た直後、金氏の経歴をめぐる異なる事実関係が明らかになって、複雑化し
た。金氏は、3日後の14日になると実名を明かしてソウルで記者会見を開いた。翌15日、韓国紙ハンギョレは「母親によって14歳の時に平壌のキーセン(妓生)の検番に売られ、検番の養父に連れられていった」と報じた。金氏らが12月に東京地裁に起こした賠償訴訟の訴状も、金氏の経歴に関し「養父に連れられて中国へ渡った」とあり、「挺身隊の名で連行された」とは記載していない。しかし、韓国内の日本への怒号の叫びは大きくなっていった。一時期、日本男性の間では、韓国に旅行に行くといえばキーセン・ツアーだと思われるくらいに横行して、世界的にもひんしゅくを買って、学会などの指摘がでるほど、途上国問題や南北格差の実態があった。
こうした実態もあってからか、朝日新聞では戦争責任を追うことになる。戦前は、朝日も戦争や植民地を美化した報道をしていた。戦後は植民地支配に対する反省と謝罪、おわび、そういう気持ちが朝日のジャーナリズムの柱の一つとなっていた。大阪は在日コリアンが多いため、植村氏はそのど真ん中に住んでいて、在日コリアンの人権問題を担当した流れで慰安婦問題を取材した。朝日新聞がやってきた侵略戦争の反省を伝えようという作業の一つだった。早い段階で(現代史家の)秦郁彦さんから、主だった二人の主張に対して疑問が呈された。今回に至るまでに訂正するまでに時間がかかったことで、日韓関係に大きな誤解のしこりが出来た。
「朝日新聞の用語解説によれば『朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる』で、西岡力・東京基督教大学教授の4年の論文で数についての批判されたからね。秦教授は2万数千人と見積っていたからだ、じゃあ2万人だったら問題ないのかということですよね。数の問題は僕が答えるべき話ではないですが。」金さんの件で、話が表に噴出したが、金さんについては連行といっても、親から身売りされたのが実態だった。それを実際に強制連行された女性たちは、表に顔を出して主張してはいなかったということで、事実無根ではないということだ。戦争という事態において、朝鮮戦争において韓国政府が女性たちを慰安婦として送っていたからだ。ロシアしかり、米国しかり、戦場、大災害の被災地で女性を貶める状況が作られやすいのは国を限った事ではない。そこを変えなくてはいけないと政治家は言わないのだ。旧来の政治家は、女性たちを要求し、もしくは、あてがう事で交渉を有利にしてきた歴史の裏事実だ。
朝日は昨年8月の検証記事において、金氏が挺身隊の名で連行されたかどうかについては見解を示さなかった。その後、「この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません」との「おことわり」をデータベース上に追記。事実上、誤報を認めた。
植村氏は第三者委の指摘について「強制的に連行されたような印象を与えるということだが、印象ではなく『強制連行』(という表現)で伝えている他メディアがあることにも触れてほしかった」と語った。「植村が捏造記者じゃないことが報告書からも分かる。そこを分かってもらえるよう強調したい」とした。
朝日の第三者委報告書は同じ年に、植村氏が金氏について書いたもう一つの署名記事も取り上げた。12月25日付朝日新聞大阪本社版の「日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」の記事だ。
この記事は1カ月前の11月25日、植村氏が高木健一弁護士らによる金氏へのヒアリングに同行した際に録音したテープを基に書いたものだが、金氏が12月6日に起こした賠償訴訟の訴状にも記載されたキーセン歴が書かれていなかった。
独立検証委は「金さんは、当時に吉田清治がフィクションを交えて主張していた女子挺身隊の名での強制連行された被害者であるかのようなイメージ(錯覚)を作り出したように、大きな役割を果たした」との見解を示す。
一方で、植村氏の韓国人の義母は当時、金氏らを原告とする賠償訴訟を支援した太平洋戦争犠牲者遺族会の幹部だった。植村氏は、挺身隊=慰安婦強制連行の裁判を支援する義理のお母さんの関係者という立場で、原告に関する記事を載せることについて逡巡はなかったのかという質問に、「結婚する前からずっと、この問題を取材してきた。韓国人の家族がいるために書いたわけじゃない」と述べた。
日韓国交正常化五十周年、日本の敗戦の日は韓国の独立記念日(光復節)とされる。新しい時代を歩み出す努力をつづけることから始まるのだ。
参照;
産経新聞 8月4日
産経デジタル 2014/7/15 韓国政府による米軍慰安婦から怒りの声
2015年08月10日
相次ぐ解釈変更、禁止されていた弾薬提供が解禁か!
中谷防衛相は国会での答弁において「弾薬は消耗品だから武器ではない」との解釈をしていことも明らかになり、憲法違反の「武力行使との一体化」定義をますます曖昧にずらしていこうとしているようです。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/255863
さらに、武藤貴也議員のように核兵器使用に信念を燃やしてきた自民党議員は、2014年4月22日、『月刊日本』のインタビューに答え、「わが国は核武装するしかない」と公言しているのです。次に、記事の中からの発言を紹介します。
「日本は自力で国を守れるように自主核武装を急ぐべきなのです。日本の核武装反対論は、論理ではなく感情的なものです。かつて広島、長崎に原爆を落とされた国として核兵器を許さないという心情的レベルで反核運動が展開されてきたのです。しかし、中国の台頭、アメリカの衰退という国際情勢の変化に対応して、いまこそ日本の核武装について、政治家が冷静な議論を開始する必要があると思っています。核武装のコストについては様々な試算がありますが、私は安上がりな兵器だと考えています。何より、核の抑止力によって戦争を抑止することができます。核武装国家同士は戦争できないからです」
※武藤貴也「わが国は核武装するしかない」(月刊日本、2014年4月22日
【URL】http://bit.ly/1eNxlcy)
「核武装こそ、戦争抑止力」というのは、あの田母神俊雄氏の核武装論と同じ主張です。しかし、米ソ間で核兵器による相互確証破壊が機能していたのは冷戦下で、ともに第二次大戦の戦勝国であったことが、政治的にも可能な論拠にしていたのです。日本は、今なお米軍が駐留し、事実上の「占領」状況が継続していると言ってもいいのかもしれません。そこでは米国が、在日米軍の存在を、日本が軍事的に自立できないように押え込むための「ビンのふた」との認識になっているのが現状認識です。「戦後レジームからの脱却」という日本の軍事力を警戒しているのが米国ですから、後方支援の指示に従えるかどうかが見極めたいのではないでしょうか。武藤議員のような核保有して抑止力になるなどと考えても、結局は米国の「許可」なくできることではなく、つまるところ彼の国の都合によって日本がこまめに働くという役割を担わされる事態も含まれてきそうです。
そのような考え方を良しとしている若手の自民党議員が信奉しているのが、改憲草案で、その中に緊急事態宣言を総理が発令した際には、国民は基本的人権や自由が限りなく抑制され、政府の命令に従わなければならない、という条項が盛り込まれています。いったんそうした状況になった場合、政府の対応や姿勢を批判したら最悪逮捕、抗議や集会を開いたら最悪逮捕、という治安維持法もどきに移行可能でもあるわけです。国民のための憲法が、なし崩しにならないとも限りません。
日本会議に所属するとされる武藤議員など象徴されるように、先の戦争を政治家が「侵略ではなかった可能性」があるかのような言動をすることで、日本が戦後70年かけて培ってきた信頼をどれだけ傷をつけているか考えも至らないのでしょう。それこそ、明治維新後の日本は、明白に朝鮮や中国をはじめとするアジア諸国への侵略を繰り返し、そのことで多くの各国に多くの被害を与えてきたが、自衛のための戦争ならば免罪符を与えられると決めている。その戦争を拡大していったことに対する惨禍に「痛切な反省」と「おわび」の表明がするのが戦後日本社会のベースであり、その理念が具体化したものが日本国憲法に他ないから、戦争に加担してはならないのです。
前述の武藤議員は30代の若手、自身のブログに「基本的人権こそが日本精神を破壊した主犯」「日本国憲法を支える三原則(国民主権・基本的人権の尊重・平和主義)は、戦後もたらされた「欧米の思想」であり、「日本精神」を破壊するものとして問題だと考えている」などとも書き込んでいます。日本が過去に世界戦争の火蓋を切ったことを、命を捨てて勇猛果敢に散ったのごとく讃えているように「日本精神」を尊重し、とにかく「日本精神」が重要で、「侵略戦争」と「基本的人権の否定」はとるに足らない事のようです。
こうした発言が、戦後の国会で後から後から出てくる国会議員の舌禍事件が中韓、アジアでの不信感につながって、国益を損なっていました。未来の日本を危惧する若者グループSEALDsが、ラップを取りいれても、政党や政治団体・組織とは組まないでオカシナ法制を安全とはいいきれないと声を出しています。スマホで連携する新しい政治思潮です。その姿勢に感化され、かつては鉢巻、ヘルメットの集団に先導された世代がOLDs、MIDDLEsと名称して連携し始めました。まずは、「おばあちゃんの原宿」として有名な 巣鴨駅北口 でも集会がもたれるようになってきた!
皆様もペットボトル持参で、でぬかりなく熱中症対策を怠りなく、手賀沼を散歩しながらでも、そして、千代田線直通の国会議事堂前にでも、うちわに片手に、「NO Wars(戦争はいらない)」と張り付けて、ウチワであおぎながらアピール、国会デモに参列してはどうでしょう。小さな意思表示が「私たちの民主主義」を確かなものにするのではないでしょうか。 60日ルールで、国会はスルーしてしまう公算は強いですが、諦めないで国民の声を伝える夏です!
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/255863
さらに、武藤貴也議員のように核兵器使用に信念を燃やしてきた自民党議員は、2014年4月22日、『月刊日本』のインタビューに答え、「わが国は核武装するしかない」と公言しているのです。次に、記事の中からの発言を紹介します。
「日本は自力で国を守れるように自主核武装を急ぐべきなのです。日本の核武装反対論は、論理ではなく感情的なものです。かつて広島、長崎に原爆を落とされた国として核兵器を許さないという心情的レベルで反核運動が展開されてきたのです。しかし、中国の台頭、アメリカの衰退という国際情勢の変化に対応して、いまこそ日本の核武装について、政治家が冷静な議論を開始する必要があると思っています。核武装のコストについては様々な試算がありますが、私は安上がりな兵器だと考えています。何より、核の抑止力によって戦争を抑止することができます。核武装国家同士は戦争できないからです」
※武藤貴也「わが国は核武装するしかない」(月刊日本、2014年4月22日
【URL】http://bit.ly/1eNxlcy)
「核武装こそ、戦争抑止力」というのは、あの田母神俊雄氏の核武装論と同じ主張です。しかし、米ソ間で核兵器による相互確証破壊が機能していたのは冷戦下で、ともに第二次大戦の戦勝国であったことが、政治的にも可能な論拠にしていたのです。日本は、今なお米軍が駐留し、事実上の「占領」状況が継続していると言ってもいいのかもしれません。そこでは米国が、在日米軍の存在を、日本が軍事的に自立できないように押え込むための「ビンのふた」との認識になっているのが現状認識です。「戦後レジームからの脱却」という日本の軍事力を警戒しているのが米国ですから、後方支援の指示に従えるかどうかが見極めたいのではないでしょうか。武藤議員のような核保有して抑止力になるなどと考えても、結局は米国の「許可」なくできることではなく、つまるところ彼の国の都合によって日本がこまめに働くという役割を担わされる事態も含まれてきそうです。
そのような考え方を良しとしている若手の自民党議員が信奉しているのが、改憲草案で、その中に緊急事態宣言を総理が発令した際には、国民は基本的人権や自由が限りなく抑制され、政府の命令に従わなければならない、という条項が盛り込まれています。いったんそうした状況になった場合、政府の対応や姿勢を批判したら最悪逮捕、抗議や集会を開いたら最悪逮捕、という治安維持法もどきに移行可能でもあるわけです。国民のための憲法が、なし崩しにならないとも限りません。
日本会議に所属するとされる武藤議員など象徴されるように、先の戦争を政治家が「侵略ではなかった可能性」があるかのような言動をすることで、日本が戦後70年かけて培ってきた信頼をどれだけ傷をつけているか考えも至らないのでしょう。それこそ、明治維新後の日本は、明白に朝鮮や中国をはじめとするアジア諸国への侵略を繰り返し、そのことで多くの各国に多くの被害を与えてきたが、自衛のための戦争ならば免罪符を与えられると決めている。その戦争を拡大していったことに対する惨禍に「痛切な反省」と「おわび」の表明がするのが戦後日本社会のベースであり、その理念が具体化したものが日本国憲法に他ないから、戦争に加担してはならないのです。
前述の武藤議員は30代の若手、自身のブログに「基本的人権こそが日本精神を破壊した主犯」「日本国憲法を支える三原則(国民主権・基本的人権の尊重・平和主義)は、戦後もたらされた「欧米の思想」であり、「日本精神」を破壊するものとして問題だと考えている」などとも書き込んでいます。日本が過去に世界戦争の火蓋を切ったことを、命を捨てて勇猛果敢に散ったのごとく讃えているように「日本精神」を尊重し、とにかく「日本精神」が重要で、「侵略戦争」と「基本的人権の否定」はとるに足らない事のようです。
こうした発言が、戦後の国会で後から後から出てくる国会議員の舌禍事件が中韓、アジアでの不信感につながって、国益を損なっていました。未来の日本を危惧する若者グループSEALDsが、ラップを取りいれても、政党や政治団体・組織とは組まないでオカシナ法制を安全とはいいきれないと声を出しています。スマホで連携する新しい政治思潮です。その姿勢に感化され、かつては鉢巻、ヘルメットの集団に先導された世代がOLDs、MIDDLEsと名称して連携し始めました。まずは、「おばあちゃんの原宿」として有名な 巣鴨駅北口 でも集会がもたれるようになってきた!
皆様もペットボトル持参で、でぬかりなく熱中症対策を怠りなく、手賀沼を散歩しながらでも、そして、千代田線直通の国会議事堂前にでも、うちわに片手に、「NO Wars(戦争はいらない)」と張り付けて、ウチワであおぎながらアピール、国会デモに参列してはどうでしょう。小さな意思表示が「私たちの民主主義」を確かなものにするのではないでしょうか。 60日ルールで、国会はスルーしてしまう公算は強いですが、諦めないで国民の声を伝える夏です!
2015年08月09日
『魔女の宅急便』の原作者の戦争体験
長崎では、8日、平和公園では平和祈念式典で原爆犠牲者に捧げる「献水」用の採水が行われ、小学生から高校生の代表3人が水を汲みあげた。被爆70周年の平和祈念式典は9日午前10時35分から行われる。昨年、安倍総理は平和記念式典でのスピーチを一昨年の「コピペ」で済ませたと指摘もされて、平和と軍事のの力の入れ具合のアンバランスは富に大きくなっている。中谷元・防衛相が安保法案で核兵器の運搬が可能であることを認め、広島原爆投下の日の朝刊には、「原爆70年」の見出しとともに、「核兵器輸送排除せず」との見出しが踊りました。長崎市の田上市長は平和宣言で安全保障関連法案に言及し、政府に対し国会での慎重な審議を求める。
あまりに凄惨な戦中・戦後の日々を過ごして、言葉にもできないまま亡くなった人も多い。そうした苦い経験が後世に伝えられない事によって、国に命をささげるという尊い行為のように戦争を美化して若者を教育された当時の若年世代が逆に賛美や懐古の想いを強くして潔しと、突き進むだけに陥らないようにしていただきたい。
作家の角野栄子さん(80)は宮崎駿の「魔女の宅急便」の原作者として知られる。角野さんの戦争体験をもとにした新しい物語「トンネルの森 1945」を書いた。主にファンタジーを手がけてきたが、戦争を題材にしたのは初めてで、戦時中の経験や、作品に込めたという。次はインタビュー記事から:
――なぜ戦争を描いたのですか。
母のことや、昔移民として暮らしたブラジルのことは書いたけど、まだ戦争のことは書いていないなと思ったんです。戦争の話というと大人の解釈が入りがちですが、終戦当時私は10歳でしたから、10歳の子どもの目を通した戦争だけを書こうと考えました。良い悪いの判断は読者に委ねて、私が経験したことの中に物語を入れていこうと。
――子どもから見た戦争ですね。
戦争と言っても、子どもの場合は日常が苦しくなる。ただ、疎開ではちょっと違う世界に行くんですよ。そこをどう、子どもなりに折り合いをつけて生きるかということです。私は1944年の秋に山形県に集団疎開をして、一冬過ごしました。その後、千葉県に。トンネルのような森の近くに疎開したんです。
東京大空襲では父のいた深川の家も焼けました。父はかろうじて助かりましたが、集団疎開先では、先生はそういう話はしなかった。でも、漠然と不安は感じるんです。家は焼けるし、近しい人が亡くなった子もいるし、そういうことは誰が言わなくても感じる。食べ物もないし。
覚えているのは、終戦の日、疎開先の友だちの家で白いご飯をごちそうになってしまったのね。私が何か人にもらうと、母は半襟や足袋を持ってお礼に行かなくちゃいけない。あの日、家に帰る途中で空襲があったような気がするんですけど、私は道端にあった大八車の下に入って、避難したのか、家に帰りたくなかったのか……。どっちもですね。日本が大変な日に、私は「どうしよう」って。
――疎開前は、楽しみな気持ちもあったそうですね。
私は、自分のいるところから遠くに行きたいという思いが強い子でした。深く考えないで期待したのね、変化を。だから物語も好きなんです。何が起きるだろう、主人公の運命はどう変わっていくだろうって。
自分で書くときも、主人公と自分はたいてい重なっているんですよ。「ラスト ラン」の74歳の女の人にも、「魔女の宅急便」のキキにも。
読者にも自由に物語の世界を歩いてほしい。こう読んでとか、人はこうあるべきとか、今回も書かなかったつもり。戦争から70年経ち、戦争に対する思いはいっぱいあるけど、10歳の私にはなかったのですから。
――ご自身は、戦争をどう受けとめていますか。
戦争はもうこりごりだと、経験した人は誰もが思っていると思います。物語にも書きましたが、例えば防空演習に参加しないと「あの人は協力しない」なんて言われた。
これからの時代を、そうやって一つの考えに組み込まれて生きていくのは嫌だなと思う。日本の人って意外と、今の暮らしの中でも、「同じじゃないと嫌だ」ってところがあるじゃないですか。子どもたちも、同じじゃないと仲間に入れないとか、同じ番組を見ないと話が伝わらないとか、あるでしょう?
でも、一人一人が自分のことを受けとめて、引きずられない自分というものを持つ人が増えてほしいと思います。私は、物語を書くことで、子どもたちに期待しているんです。(聞き手・伊藤舞虹)
◇
《あらすじ》
太平洋戦争が始まり、幼くして母を亡くした少女イコは、まだなじめない父の再婚相手と、生まれたばかりの弟と3人で千葉県の小さな村に疎開した。村の学校では、家の近くの暗い森で脱走兵が自殺したとうわさに。慣れない田舎で、イコは孤独と飢えに必死で耐えていたが、ある日父のいる東京が空襲で焼け野原になってしまう。
17日、角川書店から出版予定。1200円(税別)。
出典:
朝日新聞デジタル 7月6日
あまりに凄惨な戦中・戦後の日々を過ごして、言葉にもできないまま亡くなった人も多い。そうした苦い経験が後世に伝えられない事によって、国に命をささげるという尊い行為のように戦争を美化して若者を教育された当時の若年世代が逆に賛美や懐古の想いを強くして潔しと、突き進むだけに陥らないようにしていただきたい。
作家の角野栄子さん(80)は宮崎駿の「魔女の宅急便」の原作者として知られる。角野さんの戦争体験をもとにした新しい物語「トンネルの森 1945」を書いた。主にファンタジーを手がけてきたが、戦争を題材にしたのは初めてで、戦時中の経験や、作品に込めたという。次はインタビュー記事から:
――なぜ戦争を描いたのですか。
母のことや、昔移民として暮らしたブラジルのことは書いたけど、まだ戦争のことは書いていないなと思ったんです。戦争の話というと大人の解釈が入りがちですが、終戦当時私は10歳でしたから、10歳の子どもの目を通した戦争だけを書こうと考えました。良い悪いの判断は読者に委ねて、私が経験したことの中に物語を入れていこうと。
――子どもから見た戦争ですね。
戦争と言っても、子どもの場合は日常が苦しくなる。ただ、疎開ではちょっと違う世界に行くんですよ。そこをどう、子どもなりに折り合いをつけて生きるかということです。私は1944年の秋に山形県に集団疎開をして、一冬過ごしました。その後、千葉県に。トンネルのような森の近くに疎開したんです。
東京大空襲では父のいた深川の家も焼けました。父はかろうじて助かりましたが、集団疎開先では、先生はそういう話はしなかった。でも、漠然と不安は感じるんです。家は焼けるし、近しい人が亡くなった子もいるし、そういうことは誰が言わなくても感じる。食べ物もないし。
覚えているのは、終戦の日、疎開先の友だちの家で白いご飯をごちそうになってしまったのね。私が何か人にもらうと、母は半襟や足袋を持ってお礼に行かなくちゃいけない。あの日、家に帰る途中で空襲があったような気がするんですけど、私は道端にあった大八車の下に入って、避難したのか、家に帰りたくなかったのか……。どっちもですね。日本が大変な日に、私は「どうしよう」って。
――疎開前は、楽しみな気持ちもあったそうですね。
私は、自分のいるところから遠くに行きたいという思いが強い子でした。深く考えないで期待したのね、変化を。だから物語も好きなんです。何が起きるだろう、主人公の運命はどう変わっていくだろうって。
自分で書くときも、主人公と自分はたいてい重なっているんですよ。「ラスト ラン」の74歳の女の人にも、「魔女の宅急便」のキキにも。
読者にも自由に物語の世界を歩いてほしい。こう読んでとか、人はこうあるべきとか、今回も書かなかったつもり。戦争から70年経ち、戦争に対する思いはいっぱいあるけど、10歳の私にはなかったのですから。
――ご自身は、戦争をどう受けとめていますか。
戦争はもうこりごりだと、経験した人は誰もが思っていると思います。物語にも書きましたが、例えば防空演習に参加しないと「あの人は協力しない」なんて言われた。
これからの時代を、そうやって一つの考えに組み込まれて生きていくのは嫌だなと思う。日本の人って意外と、今の暮らしの中でも、「同じじゃないと嫌だ」ってところがあるじゃないですか。子どもたちも、同じじゃないと仲間に入れないとか、同じ番組を見ないと話が伝わらないとか、あるでしょう?
でも、一人一人が自分のことを受けとめて、引きずられない自分というものを持つ人が増えてほしいと思います。私は、物語を書くことで、子どもたちに期待しているんです。(聞き手・伊藤舞虹)
◇
《あらすじ》
太平洋戦争が始まり、幼くして母を亡くした少女イコは、まだなじめない父の再婚相手と、生まれたばかりの弟と3人で千葉県の小さな村に疎開した。村の学校では、家の近くの暗い森で脱走兵が自殺したとうわさに。慣れない田舎で、イコは孤独と飢えに必死で耐えていたが、ある日父のいる東京が空襲で焼け野原になってしまう。
17日、角川書店から出版予定。1200円(税別)。
出典:
朝日新聞デジタル 7月6日
2015年08月08日
官邸での攻防
あついのは気温だけではありません。国会前も熱い!
毎週金曜日の夕刻、恒例となったSEALDsによる国会前抗議行動が行われました。8月最初の金曜日は、東京大学大学院教授で社会学者の市野川容孝氏らがスピーチ。先週、渋谷でデモを行った高校生も参加し、夏休みの中盤で大きな盛り上がりを見せました。
中曽根康弘元総理も、昨日、読売新聞への寄稿の中で、「侵略戦争だった」と声明を出しています。戦争を経験した世代にとっては、「日本が侵略戦争を行った」というのは、当然の共通認識なのです。
閣議にサインをしないとの後藤田正晴の断言に、時の首相・中曽根は、自説を覆し、掃海艇派遣の意図を諦めたというロングインタビューの動画がありました。当時にも、今と同じに防衛の機密情報が米国に漏れていることが明るみに出て、それは占領期に警察および自衛組織などの日本の情報がすべて米国に把握できるようになったままに運営されていた経過からで、後藤田はそれを知ると「日本は米国から独立できていない」と嘆いて、日本の実情から日米安保の同盟関係を強めるについても中曽根総理に、米国に同歩調を強めないように進言し、後に中曽根も善い判断だったと述懐しているシーンがある。
今回の高校を含んだ学生たちが官邸前に主張するのも後藤田官房長官の懸念と同じNO!なのだと思います。歴史の貴重な一コマを動画みることが出来る私たちは、戦争のない日本の未来に心からの声を上げなくてはいけないのです。
安倍総理が尊敬する祖父の岸信介元総理は、下記の動画にあるように、過去の日本の戦争について「侵略だった」と明言しています。
長崎に原爆が投下された8月9日、そして敗戦を期した8月15日です。
安倍総理は広島市で行われた平和記念式典で、「非核三原則」に触れませんでした。中谷元防衛相(元自衛隊幕僚)が国会で、安全保障関連法案について、核弾頭の輸送も「法文上は排除されない」と答弁した直後だっただけに、安倍政権による戦争と核兵器に対する認識が如実に表れたと言えそうだ。
戦後の新憲法は、戦争をしないとの英霊たちからの「切なる遺言」です。
お盆のこの時期に、襟を正してほしいです。
毎週金曜日の夕刻、恒例となったSEALDsによる国会前抗議行動が行われました。8月最初の金曜日は、東京大学大学院教授で社会学者の市野川容孝氏らがスピーチ。先週、渋谷でデモを行った高校生も参加し、夏休みの中盤で大きな盛り上がりを見せました。
中曽根康弘元総理も、昨日、読売新聞への寄稿の中で、「侵略戦争だった」と声明を出しています。戦争を経験した世代にとっては、「日本が侵略戦争を行った」というのは、当然の共通認識なのです。
閣議にサインをしないとの後藤田正晴の断言に、時の首相・中曽根は、自説を覆し、掃海艇派遣の意図を諦めたというロングインタビューの動画がありました。当時にも、今と同じに防衛の機密情報が米国に漏れていることが明るみに出て、それは占領期に警察および自衛組織などの日本の情報がすべて米国に把握できるようになったままに運営されていた経過からで、後藤田はそれを知ると「日本は米国から独立できていない」と嘆いて、日本の実情から日米安保の同盟関係を強めるについても中曽根総理に、米国に同歩調を強めないように進言し、後に中曽根も善い判断だったと述懐しているシーンがある。
今回の高校を含んだ学生たちが官邸前に主張するのも後藤田官房長官の懸念と同じNO!なのだと思います。歴史の貴重な一コマを動画みることが出来る私たちは、戦争のない日本の未来に心からの声を上げなくてはいけないのです。
安倍総理が尊敬する祖父の岸信介元総理は、下記の動画にあるように、過去の日本の戦争について「侵略だった」と明言しています。
長崎に原爆が投下された8月9日、そして敗戦を期した8月15日です。
安倍総理は広島市で行われた平和記念式典で、「非核三原則」に触れませんでした。中谷元防衛相(元自衛隊幕僚)が国会で、安全保障関連法案について、核弾頭の輸送も「法文上は排除されない」と答弁した直後だっただけに、安倍政権による戦争と核兵器に対する認識が如実に表れたと言えそうだ。
戦後の新憲法は、戦争をしないとの英霊たちからの「切なる遺言」です。
お盆のこの時期に、襟を正してほしいです。
2015年08月07日
閣議決定であった村山談話をどう引き継ぐか、70年周年の節目
戦後50年の「村山談話」が発表された直後の1995年8月、談話が政府の公式見解かどうかをめぐり複数の国から疑問が出ていたことが、朝日新聞が外務省への情報公開請求で得た文書や外交記録でわかった。日本政府は閣議決定した談話であり、政府の公式な見解だと強調。各国に理解を求めていた。安倍晋三首相が近く出す戦後70年の談話(安倍談話)でも、その内容に加えて閣議決定の有無が焦点となっている。
当時の文書によると、8月15日の村山談話の発表を受けて、外務省は各国政府の反応をまとめた。同省総合外交政策局は翌16日、各国首脳らの発言などから「総じていえば、過去の植民地支配と侵略に対し、深い反省とおわびの気持ちが率直に述べられたことを評価した」と分析した。
ただ、一部の国には異なる反応もあった。
豪州では、21日に当時の長谷川和年駐豪大使がエバンス外相と面会。外相は「おわびが総理個人としての気持ちか内閣全体としてなのかについては、若干の微妙な問題がある」と指摘した。大使は内閣として決定した点を念押ししたが、外相は「内閣は総理個人の発言として承認したのではないか」と返した。
インドネシアでは24日、日本大使館職員と接触した大統領補佐官が「首相が一人称で語っていることから政府の立場ではないとの見方がある」と言及。職員は「談話は閣議決定を経て初めて発表されたものであり、政府の見解だ。一人称なのは政府を代表して総理が述べたからであり、通常のこと」と説明した。野坂浩賢官房長官も23日、中国共産党機関紙の人民日報のインタビューに対し、「村山談話は内閣の決定を経ている」と強調した。
村山談話が閣議決定された背景には、当時の自社さ連立政権内での歴史認識の隔たりがある。6月の戦後50年国会決議が自民党慎重派の欠席などで不調に終わり、社会党出身の村山富市首相は談話作成を決意。閣議決定で政府の公式見解とすることにこだわった。
安倍首相は戦後70年の安倍談話について、いったん閣議決定を見送る方向で調整していた。村山談話の表現に縛られず、連立を組む公明党との事前調整を避ける狙いだったが、首相周辺には最近になって村山談話より格が下がる「個人の見解」となることに異論も出て、閣議決定案が再浮上。萩生田光一・自民党総裁特別補佐は2日の民放番組で「(閣議決定を)した方がいい」と語った。
一方、中国と韓国が注目するのは、安倍首相が村山談話をどこまで引き継ぐかだ。中国の国営新華社通信は2日、「安倍談話が普遍的なものになるためには、侵略の歴史を徹底的に反省することが重要だ」とする記事を配信。韓国の朴槿恵(パククネ)大統領は3日、民主党の岡田克也代表と会談し、安倍談話が「歴代談話の歴史認識を再確認する」内容になるよう期待を示した。
《村山談話》 自社さ連立政権の村山富市首相が戦後50年を機に発表した。歴史認識について「国策を誤り」「植民地支配と侵略」「痛切な反省」「心からのおわび」を明記したほか、歴史研究の支援や各国との交流拡大などをうたった。その後の政権も踏襲し、日本政府の基本路線になっている。
出典:朝日新聞(冨名腰隆)8月5日
当時の文書によると、8月15日の村山談話の発表を受けて、外務省は各国政府の反応をまとめた。同省総合外交政策局は翌16日、各国首脳らの発言などから「総じていえば、過去の植民地支配と侵略に対し、深い反省とおわびの気持ちが率直に述べられたことを評価した」と分析した。
ただ、一部の国には異なる反応もあった。
豪州では、21日に当時の長谷川和年駐豪大使がエバンス外相と面会。外相は「おわびが総理個人としての気持ちか内閣全体としてなのかについては、若干の微妙な問題がある」と指摘した。大使は内閣として決定した点を念押ししたが、外相は「内閣は総理個人の発言として承認したのではないか」と返した。
インドネシアでは24日、日本大使館職員と接触した大統領補佐官が「首相が一人称で語っていることから政府の立場ではないとの見方がある」と言及。職員は「談話は閣議決定を経て初めて発表されたものであり、政府の見解だ。一人称なのは政府を代表して総理が述べたからであり、通常のこと」と説明した。野坂浩賢官房長官も23日、中国共産党機関紙の人民日報のインタビューに対し、「村山談話は内閣の決定を経ている」と強調した。
村山談話が閣議決定された背景には、当時の自社さ連立政権内での歴史認識の隔たりがある。6月の戦後50年国会決議が自民党慎重派の欠席などで不調に終わり、社会党出身の村山富市首相は談話作成を決意。閣議決定で政府の公式見解とすることにこだわった。
安倍首相は戦後70年の安倍談話について、いったん閣議決定を見送る方向で調整していた。村山談話の表現に縛られず、連立を組む公明党との事前調整を避ける狙いだったが、首相周辺には最近になって村山談話より格が下がる「個人の見解」となることに異論も出て、閣議決定案が再浮上。萩生田光一・自民党総裁特別補佐は2日の民放番組で「(閣議決定を)した方がいい」と語った。
一方、中国と韓国が注目するのは、安倍首相が村山談話をどこまで引き継ぐかだ。中国の国営新華社通信は2日、「安倍談話が普遍的なものになるためには、侵略の歴史を徹底的に反省することが重要だ」とする記事を配信。韓国の朴槿恵(パククネ)大統領は3日、民主党の岡田克也代表と会談し、安倍談話が「歴代談話の歴史認識を再確認する」内容になるよう期待を示した。
《村山談話》 自社さ連立政権の村山富市首相が戦後50年を機に発表した。歴史認識について「国策を誤り」「植民地支配と侵略」「痛切な反省」「心からのおわび」を明記したほか、歴史研究の支援や各国との交流拡大などをうたった。その後の政権も踏襲し、日本政府の基本路線になっている。
出典:朝日新聞(冨名腰隆)8月5日
2015年08月06日
チェルノブイリの最近の映像
Postcards from Pripyat, Chernobyl from Danny Cooke on Vimeo.
2014年11月23日に放映されたCBSニュースの特別番組『60ミニッツ』の制作の際に、チェルノブイリを訪ねたボブ・サイモン特派員の映像レポートである。
チェルノブイリは、仕事として行った最も興味深く、かつ危険な場所のうちの1つである。1986年(記者はその翌年に生れた)に起こったこの原発事故は、私達がイタリアに住んでいた時に私の家族を含む多くの人々にも影響があった。核の塵雲は西にいた私達にも及んだからだ。イタリアの警察は歩き回り、地域で生産されたものを急きょ廃棄するよう対処した。私の母は、我々のためにできる限り安全な粉ミルクを購入するために必死になったという。
それは数百マイル向こうのウクライナ市民にどれほどの悩みを起こしただろうか、避難することを強制された市民はそのうちの数十万人にもなっており、それがどれほど恐ろしかったであろうか私の想像を超える。
私の滞在の間に、多くの驚異的な人々やガイドYevgenに会った。私達は、一緒に、チェルノブイリおよびプリピャチに近い、廃墟となった都市を探しながら数日を費やした。時間が止まったような、まだ過去の思い出があるこの場所について、非常に気がかりながらも、何か良い兆候があったらと カメラと線量計geigerカウンターによって防御しながら、探検した。
。。。。。。。。。。
様々な国の人のコメントも読める(英語、ロシア語など)ようになっている。上記の内容は、英文だったので抄訳(kaizu Nina)した。
今日は広島への原爆投下から70年目、平和記念式典には過去最多の100カ国と欧州連合(EU)代表部の代表が参列した。歴代の首相が平和記念式典で触れてきた「非核三原則」。安倍晋三首相が被爆70年の節目にそのことに言及しなかったことに対して、参列した被爆者たちからは戸惑いや憤りの声が上がった。
2015年08月05日
千の風になって(沖縄バージョン)
沖縄戦のことを思い浮かべると 三線(さんし)の響きを聞きながら戦争の歴史を思うと深い。
外国語のように聞こえるから不思議だ。
先月5日、沖縄県の琉球大学や名桜大学の学長を務めた東江康治(あがりえやすはる)さんが、肝臓がんのため那覇市内の病院で死去した。86歳だった。
太平洋戦争末期の沖縄戦で鉄血勤皇隊として動員され、米軍の攻撃で右胸を撃ち抜かれたが、一命を取り留めた。当時、自身と同様に米国生まれの兄が米兵として沖縄に入り、敵味方に分かれた兄弟としても知られた。戦後、米政府の援助で米国に留学。教育心理学が専門で、1984〜90年に琉球大学長。同県名護市の名桜大の設立に携わり、94〜00年に初代学長を務めた。平和論の講座を設けるなど平和教育に力を入れた。05年に瑞宝重光章を受章した。
この兄弟の実はTVドラマになった。助監督が、2時間のドラマですべてを描こうとすれば、きれいごとになる。ぼくたちは「切り口」だけをきちんと作ればいい。あとは見た人がどう感じるかだ、と。
子どもが生まれたとき、日本が世界中に戦禍をひろげた戦争のことをどう伝えられるか、日本の一般人の多くの被害と共に加害者であったことを考えなくてはならない。」
戦後70年。そう聞くと、那覇市で暮らす祖父の世代は「生き残っているのが申し訳ない」などという事がしばしばだった。そうした方の手記があったので、紹介してみたい。
◇
1945年3月末、祖父のふるさと、慶良間(けらま)諸島・慶留間(げるま)島に米軍が上陸した。当時15歳だった祖父はそこで三つ上の姉の首をしめかかった。ヤシの葉をひも代わりに自分の首をしめもした。米軍に捕まる前に死ななければいけない、と。
沖縄戦の体験を一度だけ話してくれた祖父。この70年、どんな思いで過ごしてきたんだろう。ずっと罪悪感、傷を抱えたまま。どれだけ苦しんできたんだろう。祖父を通じて感じ取れる痛みが、わたしが唯一感じ取れる戦争の事実。その痛みがわたしにとっての沖縄戦なんだと思う
那覇市で生まれ、高校卒業まで過ごした。戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」や、たくさんの女学生が亡くなった「ひめゆりの塔」など、本島南部の戦跡には小さいころから親に連れられて行きた。
学校でも沖縄戦のことは身近でした。6月23日の慰霊の日が近づくと、校内で写真展がある。「白旗の少女」や、ぼろぼろの着物をきた老婆がガマからでてくる姿。遺体が折り重なった写真。本当に衝撃で、夜になるのが怖くなってしまうほどだった。
でも、近くで暮らす祖父の戦争体験は知りませんでした。学校で沖縄戦のことを知り、祖父にも聞きたかったけど、切り出せなかった。家庭で戦争の話がでそうになると、祖父はきまって席を外し、どこかへいってしまう。そんな姿を見て、口に出してはいけない話題なんだ、と感じた。
初めて体験を聞く機会がおとずれたのは上京して7年ほどたった2007年。沖縄戦の集団自決をめぐる歴史教科書の記述が問題になっているときだった。ニュース番組のリポーターをしていて、ディレクターの何げない提案をうけて祖父に話を聞かせてほしいと頼むと、引き受けてくれた。
祖父のふるさと、慶留間島に初めて渡り、15歳のときの体験を聞きました。
3月26日に島に米軍が上陸。山へ逃げ、壕に入ろうとすると3人の住民が倒れていた。「早く死ななければいけない」。そう思った祖父は姉と2人、「自決」を決め、姉の首をしめた。自分の首は、ヤシの葉をヒモ代わりにしてしめ、木にくくりつけて首をつろうともした。でも、2人とも死にきれなかった。
米軍の捕虜になれば、目はえぐられ、耳をそぎ落とされる。捕まる前に死を選ばなければいけない――そう信じ込んでいた、と。その後、出会った住民に、みんなが生きていることを知らされ、正気に戻っていったそうです。
それから60年以上たって起きた教科書問題。沖縄戦の事実が書きかえられようとしている、という危機感から祖父は話すことを決めたそうです。そして「生き残っていることが申し訳ない」と涙を流しました。
命のつながりを初めて実感する思いでした。祖父が生き残ってくれたからこそ、わたしの親がいて、わたしがいる。沖縄では「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」とよくいうけれど、本当にそうなんだなと。
祖父の体験を初めて聞いてから7年。沖縄に帰るたびに耳が遠くなっていく祖父をみると、聞き逃したことがないか、話しておきたいことはないか、と焦る気持ちがあります。
先祖が眠るお墓に親族であつまるシーミー(清明祭)にでた今年4月も、祖父の顔をじっと見つめた。いまなら聞けるかなあ。やっぱり聞けないなあ。実際、おばが戦争の話をきりだすと、祖父は黙り込んでしまった。それでも、祖父の話は必ずもう一度聞こうと思っている。
生き残ったことへの後悔について。これからの日本に対して、私たちの世代に対して。祖父はいま何を望むのか。このままお別れしてしまったらすごく後悔すると思う。こんどは取材ではなく、自分のためにビデオを手にもって向き合いたい。子どもや孫ができたとき、それがすごく力強いメッセージになると思うから。祖父が教えてくれたことを伝えていくことなら、わたしにもきっとできる
:::::::::::::
「千の風になって」の沖縄バージョンです。
沖縄の40代以上の方なら、ほとんど理解できるらしいが、普通に聞いたら外国語のようだ。
それでも、方言の良さは伝わってくる、アクセス件数は50万回に近い。
奄美の言葉も島一つ違うと、隣の島と年寄り同士で意思疎通が不可能、だったりするらしい。
薩摩語も独立した言語じゃないけれど、暗号代わりに使われた位に標準語と違うのだとか。
沖縄の人々が捨て石となって、当時を耐え忍んだことを忘れてはならない。
「さとうきび畑」も沖縄戦の惨さを歌にしたものだが。、んな書き込みがあった・・・・
「私は平和主義ですけれど、日本が蹂躙され、奴隷にされるくらいなら、戦わないというほどお人好しではありません。その意味で私は軍国主義者です・・・・」などとは、現代の掲示板での書き込みだ
>この歌は誤った歴史認識を基に作られた駄作の何物でも無い。
>「むかし海のむこうからいくさがやってきた?」
むろん丹念に過去を遡り、歴史の教訓として「正確に学ばなければ」なりません。
大日本帝国だけが、日本の盾になって沖縄の人々に自死を迫ったのか?
米兵が女子供構わず皆殺しにした事も事実だ。
「鬼畜米英」と言い、そんな言葉に騙された当時の日本人を愚かだったと言えば言える
しかし、サイパンで日本軍が玉砕後バンザイクリフで自決された方々の資料を見れば
女子供構わず皆殺し・夫の前で強姦など本当にあった。
「死んだほうがマシだ」と追い詰められ、飛び降りていったのもまた悲しい事実だろう。
ソ連参戦後も満州国から逃げてきた圧倒的多数の女性が強姦されたり、自殺したりした。
特攻、ひめゆり隊など、沖縄戦で死された方々の望みは
日本人が奴隷的な扱いを受けず、正義を貫く為に自らの命を捧げました。
ヤマトンチュー(本州住民)の意向に翻弄され続けたウチナンチュウ(沖縄住民)は、方言を捨て、言語を標準語に統一する強制される教育がされた、まっとう本省から扱われるようになるため、戦争に積極的に協力するよう学校から地域から一致していた。土人扱いされていたのも、今では考えられないが、差別意識は沖縄の人へも向けられていた。朝鮮人、台湾人、中国人と、どれほど違うか、日本人であろうとした沖縄の人々。
当時の言葉は、歌のさわりをきいても相当なものだから、言葉を矯正するために、日本人として認められる努力は痛ましいほどだったろう。
柳宗悦が沖縄言語論争に声を上げた経緯を調べてみると、当時の日本人の驕りというのも半端ではなかった。それは、一等国となるための必死の目標だったから、当時の人からすれば、見下す文化、人種もあったわけだった。反省する必要があるのは、もちろん日本だけではいけない、帝国主義の悪夢に酔いしれていた列強と言われた国々が、どう総括してきたか、それを学術的に証明した欧米人がいるとは聞いたことはない。
でも、今の若者たちには救いがある。
大人たちのカラクリを見抜く知恵と愛は持ち得る賢さ、分断されてきた言葉を統合するITの手段を使えるようになっているからだ。
自分の家族の為に戦うために銃を向けられるのは、憎しみを増幅される教育を受けるからだ、恐怖は無知から起こるという。虐殺の起きたカンボジア、ミャンマー、ベトナムなどの戦争を考えてきて、21世紀にミサイルが日本海の周り落ちてくるから、迎撃するなどなどを言い出す人たちに、何発を東京を外して撃ってきて、その場合に千葉に落とすとか想定してみて、そういう事態を防ぐために抑止力をもつのだという。
ほんとだろうか、そういうことで拉致被害者が返ってくるのだろうか、もっと21世紀の外交力、教育、芸術、学術交流などを駆使すべきだろうに。絶対に、そんなことで反映した国はないというのは、歴史が証明している。日本が300年の平和を黒船に破られるまで、世界に類をみない太平の世に大衆文化が醸成した。それが、日本民芸館を設立する柳宗悦が認めた「民の美」だということができる。
そして、西洋をまねて戦争で狂った時代に進んでみて、何を得たのか、どれほどのものを破壊して失ったのだろうか、戦争をするだけの資源を持つことがない国は、豊かな海と緑なす山河を与えられて、災害の危機に力を合わせて助け合っていくことを学んできた。それを戦争に向けるときには神(お上)の命だといってきたのだから、それ以上の言い訳が出てこない以上、もう絶対に政治家によって、後方支援などとごまかされていけないないのではないか。
憲法解釈に手を貸して、この国の願いを変えようとする政治家は国民の為にというが、自分が戦争の指揮をしそこなった人の子孫として、政治家に姿を変えている人もいるいるだからだ。自分たちがある知恵を使えば、玉よりも届くことを実証するのが21世紀の人類の務めだ。抑止力というまがいモノにごまかされちゃいけない。暑いけど、沖縄はもっと暑かった。
外国語のように聞こえるから不思議だ。
先月5日、沖縄県の琉球大学や名桜大学の学長を務めた東江康治(あがりえやすはる)さんが、肝臓がんのため那覇市内の病院で死去した。86歳だった。
太平洋戦争末期の沖縄戦で鉄血勤皇隊として動員され、米軍の攻撃で右胸を撃ち抜かれたが、一命を取り留めた。当時、自身と同様に米国生まれの兄が米兵として沖縄に入り、敵味方に分かれた兄弟としても知られた。戦後、米政府の援助で米国に留学。教育心理学が専門で、1984〜90年に琉球大学長。同県名護市の名桜大の設立に携わり、94〜00年に初代学長を務めた。平和論の講座を設けるなど平和教育に力を入れた。05年に瑞宝重光章を受章した。
この兄弟の実はTVドラマになった。助監督が、2時間のドラマですべてを描こうとすれば、きれいごとになる。ぼくたちは「切り口」だけをきちんと作ればいい。あとは見た人がどう感じるかだ、と。
子どもが生まれたとき、日本が世界中に戦禍をひろげた戦争のことをどう伝えられるか、日本の一般人の多くの被害と共に加害者であったことを考えなくてはならない。」
戦後70年。そう聞くと、那覇市で暮らす祖父の世代は「生き残っているのが申し訳ない」などという事がしばしばだった。そうした方の手記があったので、紹介してみたい。
◇
1945年3月末、祖父のふるさと、慶良間(けらま)諸島・慶留間(げるま)島に米軍が上陸した。当時15歳だった祖父はそこで三つ上の姉の首をしめかかった。ヤシの葉をひも代わりに自分の首をしめもした。米軍に捕まる前に死ななければいけない、と。
沖縄戦の体験を一度だけ話してくれた祖父。この70年、どんな思いで過ごしてきたんだろう。ずっと罪悪感、傷を抱えたまま。どれだけ苦しんできたんだろう。祖父を通じて感じ取れる痛みが、わたしが唯一感じ取れる戦争の事実。その痛みがわたしにとっての沖縄戦なんだと思う
那覇市で生まれ、高校卒業まで過ごした。戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」や、たくさんの女学生が亡くなった「ひめゆりの塔」など、本島南部の戦跡には小さいころから親に連れられて行きた。
学校でも沖縄戦のことは身近でした。6月23日の慰霊の日が近づくと、校内で写真展がある。「白旗の少女」や、ぼろぼろの着物をきた老婆がガマからでてくる姿。遺体が折り重なった写真。本当に衝撃で、夜になるのが怖くなってしまうほどだった。
でも、近くで暮らす祖父の戦争体験は知りませんでした。学校で沖縄戦のことを知り、祖父にも聞きたかったけど、切り出せなかった。家庭で戦争の話がでそうになると、祖父はきまって席を外し、どこかへいってしまう。そんな姿を見て、口に出してはいけない話題なんだ、と感じた。
初めて体験を聞く機会がおとずれたのは上京して7年ほどたった2007年。沖縄戦の集団自決をめぐる歴史教科書の記述が問題になっているときだった。ニュース番組のリポーターをしていて、ディレクターの何げない提案をうけて祖父に話を聞かせてほしいと頼むと、引き受けてくれた。
祖父のふるさと、慶留間島に初めて渡り、15歳のときの体験を聞きました。
3月26日に島に米軍が上陸。山へ逃げ、壕に入ろうとすると3人の住民が倒れていた。「早く死ななければいけない」。そう思った祖父は姉と2人、「自決」を決め、姉の首をしめた。自分の首は、ヤシの葉をヒモ代わりにしてしめ、木にくくりつけて首をつろうともした。でも、2人とも死にきれなかった。
米軍の捕虜になれば、目はえぐられ、耳をそぎ落とされる。捕まる前に死を選ばなければいけない――そう信じ込んでいた、と。その後、出会った住民に、みんなが生きていることを知らされ、正気に戻っていったそうです。
それから60年以上たって起きた教科書問題。沖縄戦の事実が書きかえられようとしている、という危機感から祖父は話すことを決めたそうです。そして「生き残っていることが申し訳ない」と涙を流しました。
命のつながりを初めて実感する思いでした。祖父が生き残ってくれたからこそ、わたしの親がいて、わたしがいる。沖縄では「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」とよくいうけれど、本当にそうなんだなと。
祖父の体験を初めて聞いてから7年。沖縄に帰るたびに耳が遠くなっていく祖父をみると、聞き逃したことがないか、話しておきたいことはないか、と焦る気持ちがあります。
先祖が眠るお墓に親族であつまるシーミー(清明祭)にでた今年4月も、祖父の顔をじっと見つめた。いまなら聞けるかなあ。やっぱり聞けないなあ。実際、おばが戦争の話をきりだすと、祖父は黙り込んでしまった。それでも、祖父の話は必ずもう一度聞こうと思っている。
生き残ったことへの後悔について。これからの日本に対して、私たちの世代に対して。祖父はいま何を望むのか。このままお別れしてしまったらすごく後悔すると思う。こんどは取材ではなく、自分のためにビデオを手にもって向き合いたい。子どもや孫ができたとき、それがすごく力強いメッセージになると思うから。祖父が教えてくれたことを伝えていくことなら、わたしにもきっとできる
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「千の風になって」の沖縄バージョンです。
沖縄の40代以上の方なら、ほとんど理解できるらしいが、普通に聞いたら外国語のようだ。
それでも、方言の良さは伝わってくる、アクセス件数は50万回に近い。
奄美の言葉も島一つ違うと、隣の島と年寄り同士で意思疎通が不可能、だったりするらしい。
薩摩語も独立した言語じゃないけれど、暗号代わりに使われた位に標準語と違うのだとか。
沖縄の人々が捨て石となって、当時を耐え忍んだことを忘れてはならない。
「さとうきび畑」も沖縄戦の惨さを歌にしたものだが。、んな書き込みがあった・・・・
「私は平和主義ですけれど、日本が蹂躙され、奴隷にされるくらいなら、戦わないというほどお人好しではありません。その意味で私は軍国主義者です・・・・」などとは、現代の掲示板での書き込みだ
>この歌は誤った歴史認識を基に作られた駄作の何物でも無い。
>「むかし海のむこうからいくさがやってきた?」
むろん丹念に過去を遡り、歴史の教訓として「正確に学ばなければ」なりません。
大日本帝国だけが、日本の盾になって沖縄の人々に自死を迫ったのか?
米兵が女子供構わず皆殺しにした事も事実だ。
「鬼畜米英」と言い、そんな言葉に騙された当時の日本人を愚かだったと言えば言える
しかし、サイパンで日本軍が玉砕後バンザイクリフで自決された方々の資料を見れば
女子供構わず皆殺し・夫の前で強姦など本当にあった。
「死んだほうがマシだ」と追い詰められ、飛び降りていったのもまた悲しい事実だろう。
ソ連参戦後も満州国から逃げてきた圧倒的多数の女性が強姦されたり、自殺したりした。
特攻、ひめゆり隊など、沖縄戦で死された方々の望みは
日本人が奴隷的な扱いを受けず、正義を貫く為に自らの命を捧げました。
ヤマトンチュー(本州住民)の意向に翻弄され続けたウチナンチュウ(沖縄住民)は、方言を捨て、言語を標準語に統一する強制される教育がされた、まっとう本省から扱われるようになるため、戦争に積極的に協力するよう学校から地域から一致していた。土人扱いされていたのも、今では考えられないが、差別意識は沖縄の人へも向けられていた。朝鮮人、台湾人、中国人と、どれほど違うか、日本人であろうとした沖縄の人々。
当時の言葉は、歌のさわりをきいても相当なものだから、言葉を矯正するために、日本人として認められる努力は痛ましいほどだったろう。
柳宗悦が沖縄言語論争に声を上げた経緯を調べてみると、当時の日本人の驕りというのも半端ではなかった。それは、一等国となるための必死の目標だったから、当時の人からすれば、見下す文化、人種もあったわけだった。反省する必要があるのは、もちろん日本だけではいけない、帝国主義の悪夢に酔いしれていた列強と言われた国々が、どう総括してきたか、それを学術的に証明した欧米人がいるとは聞いたことはない。
でも、今の若者たちには救いがある。
大人たちのカラクリを見抜く知恵と愛は持ち得る賢さ、分断されてきた言葉を統合するITの手段を使えるようになっているからだ。
自分の家族の為に戦うために銃を向けられるのは、憎しみを増幅される教育を受けるからだ、恐怖は無知から起こるという。虐殺の起きたカンボジア、ミャンマー、ベトナムなどの戦争を考えてきて、21世紀にミサイルが日本海の周り落ちてくるから、迎撃するなどなどを言い出す人たちに、何発を東京を外して撃ってきて、その場合に千葉に落とすとか想定してみて、そういう事態を防ぐために抑止力をもつのだという。
ほんとだろうか、そういうことで拉致被害者が返ってくるのだろうか、もっと21世紀の外交力、教育、芸術、学術交流などを駆使すべきだろうに。絶対に、そんなことで反映した国はないというのは、歴史が証明している。日本が300年の平和を黒船に破られるまで、世界に類をみない太平の世に大衆文化が醸成した。それが、日本民芸館を設立する柳宗悦が認めた「民の美」だということができる。
そして、西洋をまねて戦争で狂った時代に進んでみて、何を得たのか、どれほどのものを破壊して失ったのだろうか、戦争をするだけの資源を持つことがない国は、豊かな海と緑なす山河を与えられて、災害の危機に力を合わせて助け合っていくことを学んできた。それを戦争に向けるときには神(お上)の命だといってきたのだから、それ以上の言い訳が出てこない以上、もう絶対に政治家によって、後方支援などとごまかされていけないないのではないか。
憲法解釈に手を貸して、この国の願いを変えようとする政治家は国民の為にというが、自分が戦争の指揮をしそこなった人の子孫として、政治家に姿を変えている人もいるいるだからだ。自分たちがある知恵を使えば、玉よりも届くことを実証するのが21世紀の人類の務めだ。抑止力というまがいモノにごまかされちゃいけない。暑いけど、沖縄はもっと暑かった。
2015年08月04日
集団的自衛権で戦争をも援護する国にならない為に、 歴史をかき消さない平和教育をする憲法にしてこそ
戦後日本はGHQ、強大な先進国・米国の下に、国民の総懺悔という言葉によって、国民が戦争の責任を問うべき時期をもうやむやに逃れてしまった。国民には正確な情報を付して、戦争に向かわない国民を「非国民」だとして、とにかく戦争に向かわせた。そうした情勢を仕組んだ中枢の人々の中から先般逃れをして、戦後の政財界の黒幕となった人たちの影響力は計り知れない。どこの国も、往々にして時の権力者はは国民よりは国家(国体)を重んじる危険性を孕んでいる。戦後は、国民の多くの犠牲を無にしないように、平和国家の道を選択したはずだ。国民の叡智を刻み込む平和教育こそしなくてはならなかったが、今の状況をみているととても、そうは思えない。審議している中に、それこそ70年の平和の証に平和教育を構築して推進していくべきなのだが、刀がいつでも抜けるように準備することを先回しするような審議の明け暮れた。抜けてはならないはずは、刀の振り方ではなくて、日本人としての和を貴ぶ生き方であるべきなのに、望めない状況だ。
神々しい勅語も歴史だが、君が世とは、21世紀の今は、私たちが世界の人々と平和に生きる権利をどう伝え続けることが出来てこそなのだ。知る人ぞ知るとなってしまった、戦中戦後の不都合な真実までも、きちんと戦後21世紀に伝えて、集団の自衛権を書き加えるだけでは、大本営の発表の時代の中で多くの命を犠牲したことが無駄になってしまうと思われる。事実の継承、反省(学術的にも裏付けのある総括)が21世紀の未来が過つことなく続くのだ。
下記は、沖縄での取材記事から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◇戦世(いくさゆ)を生きて
戸棚にしまっている10枚の便箋。そこに、田頭(たがみ)澄子さん(80)=那覇市=の沖縄戦が詰まっている。
《どこからか「天皇陛下万歳」という声がして、周囲を見渡したら斧や鎌で切り付けて子どものうなり声や泣き声やら、騒然というか、地獄というか、今でも表現ができません》
田頭さんは、沖縄本島から西へ約30キロの離島、渡嘉敷島の出身。70年前、「集団自決」の場にいた。渡嘉敷村史には「300余人」が犠牲になったと記されている。
便箋の手紙を書いたのは8年前。戦時中は4歳で、記憶がおぼろげな妹にあてたものだ。
*
米軍が渡嘉敷島に上陸した翌日、1945年3月28日の夕方だった。
家族が避難していた壕に、防衛隊員だった父が飛び込んできた。「命令が出た。早く行かないと」。砲弾の音が響いていた。9歳の田頭さんと両親、祖母、兄弟ら8人。日没後、大雨の山中を夜通し歩いた。日本軍の陣地に近い谷にたどり着くと、多くの住民が集まっていた。
祖母が、着物の帯で一人ひとりの体を結んでいく。「あっちに行ってもみんな一緒だから、大丈夫だよ」。これから死ぬのかと思ったが、不思議と怖くなかった。
近くに幼なじみの「愛ちゃん」の家族がいた。父親がナタを振り上げていた。
《奥さんを先に殺し、次々に子どもたちを殺し、愛ちゃんが「父ちゃん、殺さないで」と泣き叫ぶ姿が今でも忘れられません》
色白で、まつげが長く、お人形のようにかわいかった愛ちゃん。父親は、本島から赴任していた医師で、かすり傷でも笑って手当てしてくれる優しいおじさんだった。
田頭さんの父は、軍から手投げ弾を渡されていた。それが不発だったため、一家は生き残り、現場を後にした。
《血だらけの人が水をさがして泣き叫んでいるのを見捨てて、死人の山をかきわけて命がけで逃げました》
*
戦後、19歳で島を離れ、長く那覇に住む。洋裁の仕立ての仕事をしていた市場では沖縄戦の話が出ることもあったが、互いの傷を刺激し合うようで苦しかった。しだいに自分の出身地すら言わないようになった。
2007年、集団自決について「日本軍が強制した」という高校教科書の記述が教科書検定で削除され、検定意見の撤回を求めて沖縄から怒りの声が上がった。「島で何があったの」と妹に聞かれ、一気に体験を記した。「記憶に強烈に焼き付いていた。でも、あまりに残酷で書けないこともあった」
*
一昨年、夫を亡くし、今春、高層の那覇市営住宅に移った。旧海軍司令部壕の跡の近く。日がな過ごす部屋の窓から壕の跡を眺めると、思いは戦時に向かう。
カツオ漁が盛んな、のどかな離島が、戦争一色に染まった。「捕虜になれば男も女も殺される」と言われ、信じた。「小さい島で軍と一心同体になり、おかしくなってしまった」
それにしても、なぜ、あれほどの地獄になってしまったのか。70年たった今も、疑問は頭の中をぐるぐると巡っている。
<「集団自決」をめぐる教科書の記述>
2006年度の高校日本史の教科書検定で、沖縄戦の「集団自決」について「日本軍の強制」の表現が、文部科学省の検定意見により削除されたことが07年に明らかになり、沖縄から強い反発が起きた。教科書会社の訂正申請を文科省が認めるという形で、「軍の関与」などによって住民が自決に追い込まれたとする記述が復活した。
出典:
2015/6/20 朝日新聞デジタル
神々しい勅語も歴史だが、君が世とは、21世紀の今は、私たちが世界の人々と平和に生きる権利をどう伝え続けることが出来てこそなのだ。知る人ぞ知るとなってしまった、戦中戦後の不都合な真実までも、きちんと戦後21世紀に伝えて、集団の自衛権を書き加えるだけでは、大本営の発表の時代の中で多くの命を犠牲したことが無駄になってしまうと思われる。事実の継承、反省(学術的にも裏付けのある総括)が21世紀の未来が過つことなく続くのだ。
下記は、沖縄での取材記事から
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◇戦世(いくさゆ)を生きて
戸棚にしまっている10枚の便箋。そこに、田頭(たがみ)澄子さん(80)=那覇市=の沖縄戦が詰まっている。
《どこからか「天皇陛下万歳」という声がして、周囲を見渡したら斧や鎌で切り付けて子どものうなり声や泣き声やら、騒然というか、地獄というか、今でも表現ができません》
田頭さんは、沖縄本島から西へ約30キロの離島、渡嘉敷島の出身。70年前、「集団自決」の場にいた。渡嘉敷村史には「300余人」が犠牲になったと記されている。
便箋の手紙を書いたのは8年前。戦時中は4歳で、記憶がおぼろげな妹にあてたものだ。
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米軍が渡嘉敷島に上陸した翌日、1945年3月28日の夕方だった。
家族が避難していた壕に、防衛隊員だった父が飛び込んできた。「命令が出た。早く行かないと」。砲弾の音が響いていた。9歳の田頭さんと両親、祖母、兄弟ら8人。日没後、大雨の山中を夜通し歩いた。日本軍の陣地に近い谷にたどり着くと、多くの住民が集まっていた。
祖母が、着物の帯で一人ひとりの体を結んでいく。「あっちに行ってもみんな一緒だから、大丈夫だよ」。これから死ぬのかと思ったが、不思議と怖くなかった。
近くに幼なじみの「愛ちゃん」の家族がいた。父親がナタを振り上げていた。
《奥さんを先に殺し、次々に子どもたちを殺し、愛ちゃんが「父ちゃん、殺さないで」と泣き叫ぶ姿が今でも忘れられません》
色白で、まつげが長く、お人形のようにかわいかった愛ちゃん。父親は、本島から赴任していた医師で、かすり傷でも笑って手当てしてくれる優しいおじさんだった。
田頭さんの父は、軍から手投げ弾を渡されていた。それが不発だったため、一家は生き残り、現場を後にした。
《血だらけの人が水をさがして泣き叫んでいるのを見捨てて、死人の山をかきわけて命がけで逃げました》
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戦後、19歳で島を離れ、長く那覇に住む。洋裁の仕立ての仕事をしていた市場では沖縄戦の話が出ることもあったが、互いの傷を刺激し合うようで苦しかった。しだいに自分の出身地すら言わないようになった。
2007年、集団自決について「日本軍が強制した」という高校教科書の記述が教科書検定で削除され、検定意見の撤回を求めて沖縄から怒りの声が上がった。「島で何があったの」と妹に聞かれ、一気に体験を記した。「記憶に強烈に焼き付いていた。でも、あまりに残酷で書けないこともあった」
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一昨年、夫を亡くし、今春、高層の那覇市営住宅に移った。旧海軍司令部壕の跡の近く。日がな過ごす部屋の窓から壕の跡を眺めると、思いは戦時に向かう。
カツオ漁が盛んな、のどかな離島が、戦争一色に染まった。「捕虜になれば男も女も殺される」と言われ、信じた。「小さい島で軍と一心同体になり、おかしくなってしまった」
それにしても、なぜ、あれほどの地獄になってしまったのか。70年たった今も、疑問は頭の中をぐるぐると巡っている。
<「集団自決」をめぐる教科書の記述>
2006年度の高校日本史の教科書検定で、沖縄戦の「集団自決」について「日本軍の強制」の表現が、文部科学省の検定意見により削除されたことが07年に明らかになり、沖縄から強い反発が起きた。教科書会社の訂正申請を文科省が認めるという形で、「軍の関与」などによって住民が自決に追い込まれたとする記述が復活した。
出典:
2015/6/20 朝日新聞デジタル
2015年08月03日
安保法案審議で安倍首相の集団的自衛権行使、不都合な真実
イランのナザルアハリ駐日大使は23日、東京都内の日本記者クラブで記者会見し、衆議院を通過した安全保障関連法案の審議で安倍晋三首相が集団的自衛権を行使できる事例としてホルムズ海峡の機雷掃海を例示したことに対し、「イランを想定しているなら、全く根拠のないこと」と述べ、イランが機雷を敷設するなどして同海峡を封鎖する可能性を否定した。
ナザルアハリ大使は「イランは有数の原油輸出国。(核開発疑惑を巡る)制裁で輸出額が半減し、これから輸出を増やそうとしているのに、なぜ海峡を封鎖する必要があるのか」と強調。2013年11月に岸田文雄外相とイランのザリフ外相が共同声明で確認したペルシャ湾での「航行の自由」に触れ、「日本との関係で航路の安全を確保することはイランの責務だ」と述べた。
また、イランの核問題の解決に向けて主要6カ国(米英仏露中独)とイランが最終合意した「包括的共同行動計画」を受け、イランでのビジネス参入を狙って積極的な動きを見せる欧米やトルコ、中国や韓国などに比べて「日本の民間セクターは出遅れている」と指摘。そのうえで「イランは日本と同じ地震多発国。自然災害への知見を備えた日本には原子力発電所の保全や安全対策の面での貢献を期待している」と述べた。
出典:7月19日
毎日新聞【高橋宗男】
ナザルアハリ大使は「イランは有数の原油輸出国。(核開発疑惑を巡る)制裁で輸出額が半減し、これから輸出を増やそうとしているのに、なぜ海峡を封鎖する必要があるのか」と強調。2013年11月に岸田文雄外相とイランのザリフ外相が共同声明で確認したペルシャ湾での「航行の自由」に触れ、「日本との関係で航路の安全を確保することはイランの責務だ」と述べた。
また、イランの核問題の解決に向けて主要6カ国(米英仏露中独)とイランが最終合意した「包括的共同行動計画」を受け、イランでのビジネス参入を狙って積極的な動きを見せる欧米やトルコ、中国や韓国などに比べて「日本の民間セクターは出遅れている」と指摘。そのうえで「イランは日本と同じ地震多発国。自然災害への知見を備えた日本には原子力発電所の保全や安全対策の面での貢献を期待している」と述べた。
出典:7月19日
毎日新聞【高橋宗男】
2015年08月02日
No pasaran「ノーパッサラン」
「皆様へ 今日(2日)渋谷で高校生デモがありました。2000〜3000人集まったようです。」とメールで
上記のURLを知らせてくれた人がいた。制服の高校生たちは「ノーパッサラン」と叫んでいる。その言葉の意味を検索してみると、次のような事だった。
*************
1930年代、スペインで(というよりヨーロッパで)ファシストの勢力が強くなって来た頃、スペインは左翼系の共和国でしたが、フランコ将軍は政府の政策に反対し1936年スペイン領モロッコで反乱を起こしました。共和国軍は世界から義勇軍を受け入れフランコに対抗しましたが、ドイツがフランコを支援したこともあり、1937年3月共和国政府は崩壊しました。”No pasaran (ファシストは絶対認めない、許さない、通さない等の意、英語ならThe fascists shall not pass)この言葉は内戦最中の36年7月に、Dolores Ibarruri(女性政治家)がラジオ演説の締めくくりの言葉。
*************
このところ、特に女子学生が頑張っているのが目につく。最近の国会前デモ、若い世代のデモはラップのリズムに合わせて軽快だ。
「民主主義って何だ!」
「民主主義ってこれだ!」
英語が、何度も滑らかにコールされることもある。
”Tell me what democracy looks like!”
”This is what democracy looks like!”
31日、学生と学者たちが、安保法制について抗議の声をあげた。柳宗悦研究でお世話になっている女性教授から、メールで集会に参加するよう促すメールを頂いたこともあって、ご近所の女性と出かけた。
そこでは、高校生も国民に初のアピールをするとの告知もされた。
特定秘密保護法の審議のころより、学生たちの中から、自然に声が上がり出していた。
それを辿れば、3.11のころより、祝島で原発建設に疑問を持つ若者が動き出して、経産省前でステージをつくり、スピーチして、それはいろいろな団体、グループが引き継いで穏やかに続いてきた。
行動することで、非難されることがあるけれど、諦めない。言いたいことを主張する!
女子学生が「NO!」と言わなくてはならない事はNo!と主張すると言っている。
暑い暑いこの夏、40年前自分は何をしていか、思い返すと熱くなって、私も国会デモへ行ったという訳だ。
デモの流れの中で隣り合わせた女性は、勤め帰りだといっていた。
「民主主義ってなんだ」、「君たちはブロイラーのようになるな」「太った豚になるな」などと私たちを煽った先生たちがいた。自分で考えなさいと言った担任の実家は牧師だった、倫理社会の先生の顔なども思い出した。
学園紛争で教員室封鎖、ハンガーストライキ、我が高校の門前ではアジびら配りの姿がよくあった。
そして、夏が過ぎると、制服廃止になっていたが、だれも何も言わなくなった。受験だ、就職だという言葉がよぎったのかもしれない。三無主義と言われる世代は、でもずーっと考えさせられた。そして、気づけば、終身雇用も、結婚という永久就職の保証もない時代になっていた。
今、制服の高校生まで動員(あの頃も大学の先輩たちが、頻繁に出入りしていたように)するようになって、何かが変化しかかっている。大正の大人(有権者)がモノを言わなくなり、そして、これまであまりモノ言わなかった女性がこれをどう受け止めるか、聞いてみたい。出しゃばらない、言わない事が処世術でいて「亭主元気で外がいい」とうそぶいていたけれど、夫たち以上に長生きするのが女性だから、社会が果たして負担できるかどうか、モノ言わないまま決めてもらので、文句を言わないというのだろうか。十代は、二十代は声を上げ始めた。多数じゃない、皆がやっていないから、というので大丈夫なのか・・・。
こうしたデモは、ほとんど報道されることがない。最近は、それでも誰かがYOUTUBEにアップする。それをツイッターやメールで転送がされてくる。かつて、高校生が勉強以外考えなくていいとか、デモに行くことは良くないと戒められていたけれど、すでに日本以外ではとうにそのくらいのことは自己責任で行動し、18歳になる責任をもって、考えたいのだ。
そして、百年前には花の都パリなどと言われたフランスなどは、デモが多発するため、公共交通が遅れるのが常習だとか、機能劣化の様子を漏れ聞いた。たばこも税金をかけて拾うなどしないから、街角に散乱している。
はっきりしているは、美しい日本の行方をつくるのは、今を生きる私たちでしかない。
2015年08月01日
全国デモに学生と先生が、まずは一歩を歩み出した
全国のデモ行進情報
↑クリックすると、各地のデモ行進の情報が並んでいます
今私たちが知りたいことを、バライティー番組スタイルで情報を提供してくれて、Youtubeで視聴できます。TV番組「正義のミカタ」で、安保法制について質問するジャニーズジュニアに対して、
森本敏郎教授(元防衛長官)がユーモア交じりに、納得して頂けたでしょうかと応じている
大人(女・子供は関係ないと言っていた男性中心の世代)だけでなく、子供(18歳未満)も含めて、まっとうな未来の選択を考えて、世界に姿勢を示そうという建設的な国になろうとしている、だからデモにいこう、投票にもいこう、民主主義は自分たちの汗で作ろうということを確認し合って、政府に国民の意思を伝える、お任せにしないことだろう。
↑クリックすると、各地のデモ行進の情報が並んでいます
今私たちが知りたいことを、バライティー番組スタイルで情報を提供してくれて、Youtubeで視聴できます。TV番組「正義のミカタ」で、安保法制について質問するジャニーズジュニアに対して、
森本敏郎教授(元防衛長官)がユーモア交じりに、納得して頂けたでしょうかと応じている
大人(女・子供は関係ないと言っていた男性中心の世代)だけでなく、子供(18歳未満)も含めて、まっとうな未来の選択を考えて、世界に姿勢を示そうという建設的な国になろうとしている、だからデモにいこう、投票にもいこう、民主主義は自分たちの汗で作ろうということを確認し合って、政府に国民の意思を伝える、お任せにしないことだろう。